唐突な閉所空間に、恵は狼の掌印を組みながら身構えた。周囲をぐるりと見回すと、ブレザー姿の女学生を確認することができた。
「
後ろ姿だけをそのまま見れば、人間に見えた。しかし恵は呪術師、呪力視でなくとも多少の呪力の違いは見て分かる。そして、これは呪霊が
──精神干渉してくるタイプか。どう炙りだす。
恵が持ち前の頭脳を活かして分析する、わずかな間。女学生の幻影は徐に振り向き、恵に顔を向けた。顔のない顔、目のある位置から涙らしきものが流れている。
「ねェ、どうシて……?」
語り掛けてくる幻影に、恵は一歩退いて間合いを作った。
「ドうして、いジめるノ……?」
──怨念が核になった呪霊か、厄介だな。こういう場合、返答次第でマーキングの是非が変わる可能性が高い。下手に答えるのは論外、かと言って本体も見えない。一言で、確実に、本体を炙りだせ。
恵は幻影を一瞥した後、もう一度周囲を見渡す。目に呪力を流して呪力視を行ってみるが、やはり本体は見つからない。
「……価値観の問題だろ」
「かチ、感?」
幻影が首を傾げた。明確な会話能力を示している。物理的に首がなかったゴーストライダーと違い、この呪霊にはもっと高度な知性が窺える。
──知能は高い。その分ゴーストライダーみたいな攻撃力はないか。被害範囲、被呪者の数、結界、全てが本体に引き算として作用している。
「他人と関わる上での最低限のルール。『私はあなたを殺しません、だからあなたも私を殺さないでください』だ。それが俺の価値観」
呪霊は聞く姿勢を維持している。恵はそのまま、呪霊に主導権を渡さないために語り続けた。
「殺しを何に置き換えてもいい。要は相手の尊厳を脅かさない線引き。互いの実在を成す過程。それが俺の言うルールで、価値観だ」
呪霊は沈黙している。答えになっているようでなっていない、つまり相手は恵を呪えない、呪うための条件が不足しているのだ。
──よし、これでいい。呪霊の行動パターンに合理性を求めすぎてはいけない。相手の
不意に、呪霊が見せる幻影が揺らいだ。背が伸び、髪が伸び、それをポニーテールでまとめた黒髪の女子。顔つきだけで分かる、優しい女性。それを見て、恵は目を見開いた。
「津美紀……?」
その幻影は恵の姉、
「恵。もう喧嘩しないって言ったよね」
その幻影は、唐突に流暢に話し出した。そして、その言葉に恵は再び目を見開く。
──惑わされるな!これは幻影、俺の記憶!
恵は頭を振って動揺を振り払いつつも、湧き上がる感情を御しきれないでいた。
──悪人が嫌いだ。更地みてぇな想像力と感受性で、一丁前に息をしやがる。
──善人が苦手だ。そんな悪人を許してしまう。
小一の時、俺の父親と津美紀の母親、それぞれの片親がくっ付いて──蒸発した。
それでも津美紀は俺に笑顔を見せた。遠ざけても近寄ってきた。津美紀は典型的な善人だ。親の話もしねぇで、俺の面倒ばかり見てて、周りの面倒ばかり見てた。
白髪の怪しい男が言ってた。
「君のお父さんさぁ、
聞いてもいねえのにべらべら喋りやがる。親父のことはどうでもいい、コイツの方がムカつく。
「恵君はさぁ、君のお父さんが禪院家に対してとっておいた、
蒸発資金の謎が解けた。俺は禪院家とやらに売られたらしい。そして、コイツのこのデリカシーのなさが、その時一番ムカついた。
「それで君のお父さんさ、僕が──」
「どうでもいい」
心底、どうでもいい。顔すら覚えてない父親のことなんて。
「そこに行けば、津美紀は幸せになれるのか」
「ない。百パーない。それは断言できる」
妙にドスの効いた声で言われて、当時の俺はたじろいだ。まだ小一だぞ、なんつう声で脅しやがる。けど、そんな俺を見てその男は、満足そうに笑いやがった。
「オッケー。後は任せなさい」
ふっと空気が軽くなるみたいに軽薄な声色に戻って、乱暴に頭を撫でられた。ガキ扱いしやがって、そう思った。
それから、俺が将来呪術師として働くことを担保に、その男──五条先生が俺の後見人になって、俺と津美紀のへ資金的援助を高専から取り付けた。
俺が中三に上がって間もなくして、津美紀が呪われた。正体不明、出自不明、全国に同じような被呪者がいるらしい。
「誰かを呪う暇があったら、大切な人のことを考えていたいの」
津美紀はいつも、笑って綺麗事を吐いて。
「人を許せないのは悪い事じゃないよ。それも恵の優しさでしょ?」
俺の性根すら肯定する。
「だから──お前は津美紀じゃない!!」
恵の呪力が膨れ上がる。領域を軋ませるほどの呪圧、幻影にひび割れが走る。
「津美紀は人を呪わない、だからお前は津美紀じゃない!!」
幻影が
「玉犬・
影から玉犬が飛び出す。爪による攻撃の急襲──呪霊は既に、恵の目の前にいた。
「は……?」
顔面を強く殴られ、体ごと吹き飛ぶ。教室の壁を突き破って廊下に放り出されて、廊下の壁に激しく背中を強打した恵は、肺の空気を一気に押し出されて息を漏らし、ずるりと沈み込んだ。
「……ずっと引っ掛かってた」
恵は気絶こそしなかったが、頭部から血が滴っている。頭の傷は想像以上に血が止まらず、それがかえって冷静にさせた。
──呪霊の行動パターンに合理性を求めすぎてはいけない。それでも、引っ掛かっていた。最初の被害報告は六月。六月……虎杖が初めて
「……ここまで、か」
出血が止まらず朦朧としていく意識の中、彼は両の拳をこすりつけるような掌印を組んだ。
「
拳に呪力が圧縮される、異質な雰囲気。玉犬・渾すら凌ぐ速度の呪霊が一歩後ずさる。
──少し未来の、強く
恵の脳裏に、不意の悟の言葉が過る。優太の入院中、彼へ過度な負担をかけたことを反省した恵が、悟に組手を申し出た時の言葉だ。
──最悪
悟の言葉が、恵の思考を切り替えさせた。刹那、時が遅くなるのを恵は感じた。
──あの時、宮城島はどっちだった。
それは優太にも分からないだろう。吐血を飲み込んでまで詠唱をしていた彼は、果たしてどちらだったか。結果的に生きていたが、それを語る彼ではない。
──あいつは土壇場で、死ぬかもしれない場面で、鳴弦を虎杖にパスした。あれは、
時間の流れが戻る。同時に、恵は不敵な笑みを浮かべて、掌印を解いた。
「やめだ!」
後ずさった呪霊が、首を傾げる。それほどに、恵の呪力は不安定でいて、今、凪いでいる。不自然、呪霊がまだ対話できる状態なら、そう評しただろう。
「影の
恵は震える脚に力を込めて、なんとか立ち上がる。そうだ、あの男も同じだった。震えながら、それでも立ち上がって、血を吐いていた。
「呪力を練った傍から押し出していけ。イメージしろ、
恵が焦点の合わない目でなんとか前を見据えつつ、掌印を組む。どの式神のものでもない、握った手を合わせて人差し指と中指を組む印。
「
それは、呪術の極致にして、奥義。恵の影が、相手の領域を
──
「玉犬・
「おぉ、いた。ってボロボロじゃん」
「好みの女性のタイプを聞いたところ、『興味ない』と一蹴したそうです」
次回:カノン-漆-