一夜明けて、早朝五時半。まだ太陽がこっそり頭を出している程度の時間から、グラウンドで一人、緩慢でいながらハッキリとした型を連続で流していくジャージ姿の優太がいた。湿った空気が時折優太の髪をなびかせるが、優太はそれは些末な事と言いたげに緩慢な動き──
カンフーや空手のような空を裂く派手さはない。しかし優太の一挙一動はまるで風を生み出し、河を流すような力強さがある。後ろに重心を置く虚歩と、前に重心を置く弓歩が流れるように繰り返されて歩いているので、なるほどグラウンドが最適だとよくわかる。
套路の最中、弓歩から、虚歩へと後退しながら手のひらを前に差し出す動き途中、優太の手のひらから緋色の呪力が膜の形で拡がったのを見て、優太は目を見開いた。套路を中断して手のひらの呪力の膜に触れてみると、ゲル状の弾性があることがわかる。
「温かいし、プルプルしてる。呪力特性が形になるって……そんな話、五条先生から聞いてないぞ?」
そう言いつつ、優太はこのゲル状に固まった呪力を全身に纏うように意識してみる。普通、呪力というものは多少体の外へ漏れるものなのだが、優太の場合丹田に自動的に蓄えられてしまう。その丹田から呪力を引き出し、全身を覆うイメージ。それは存外簡単にできた上で、優太は妙な感覚を覚えた。
「サポーター?緩衝材みたいな感覚だな」
首を傾げながら、左腕に右手でしっぺをしてみる。左腕に通るはずのダメージは、呪力の膜が衝撃を受け流して触られたことだけが肌感で伝わってくる。しっぺした右手にも、ただ触れた感覚だけが伝わり、叩いた時特有の少し指先がヒリつく感覚は伝わってこない。
優太はこの呪力の膜を纏ったまま、中断した套路を再開してみる。元々淀みなく洗練された動きだったそれは、呪力の膜の影響でさらに安定し、ただでさえ少なかったふらつきや微妙な震えがなくなっている。
漏出した呪力が体を支えたり、呪力による身体強化が術師の体をイメージ通りに動かすことはない。つまりこれは、漏出呪力や呪力強化ではないと言うことになる。優太は套路を終えて、左の手のひらに右の拳を合わせて胸の前に添える動作──
「術式……になるのかな。後で伏黒に聞いてみよ」
ここで悟の名前が挙がらなかったのは、優太が悟を信用していないからではない。あの神出鬼没の白髪目隠しを捕まえるのが難しいので、博識な恵に聞いてみようという消去法だった。
自主練習を終えてシャワールームで汗を流し、朝支度を終えた優太は恵の部屋の扉をノックした。扉の向こうから「開いてる」と短く声が返ってきたので優太は扉を開ける。恵も既に朝支度が終わっていたようで、スマホをいじっている。
「おはよ、ちょっと呪力について聞きたいことあってさ」
「なんだ、朝練でもしてたのか?」
「そんな感じ。ちょっと見てて」
優太はそう言って手のひらを恵に差し出し、ゲル状の呪力の膜を作った。
「これ、プルプルしてて温かいんだよね。俺の呪力特性は温かくて粘り気があるっていう『感覚』はあるんだけど、こうやって形になるのは漏出呪力じゃなくね?って思って」
優太の言葉を聞いて、恵が指先でゲル状の緋色の膜に触れてみる。確かに、程よい弾力があって温かい。
「これ、もっと拡げられるのか」
「うん、全身を覆っても余裕があったし、なんか他人も覆うことができそう」
「できそう……ってことは、やってないけど感覚がわかるのか。それならこいつは術式だ」
「え、そういうもん?」
「呪力操作はイメージが先行しないとできない。だが術式は、使えるようになると基礎的な動かし方は教わらなくても分かるんだ。初めて二足歩行した時の記憶なんてないだろ、それと同じだ」
「あぁ、体に刻まれるってそういうこと」
「五条先生の受け売りか、まぁその通りだな。術式は体に刻まれる、先天的に持とうが後天的に獲得しようがそれは変わらないし、体の一部みたいに機能するから、歩き方みたいになんとなく分かるんだ」
「つまり俺、呪術師……ってこと!?」
優太が目を輝かせて恵を見た。こう見えて十五歳、幼い部分は幼い。
「別に術式がなくても術師はできる。やめろその顔気持ち悪い」
言葉に反して恵の態度に棘はない。顔をぷいっと逸らしつつも、呪力の膜をつつく指先はそのままなのが恵の関心を雄弁に語っていた。
「それで、術式効果はわかったのか?」
「うーん、なんて言えばいいかな。イメージ通りに体を動かせるというか。体の動きをこの膜が調整してくれる感じかな。全身を覆うサポーターみたいな感じ」
「そうか。あとは他人に試してみたり、五条先生に見てもらったりして探るしかないな。俺の玉犬は白黒のスペック差がないから、検証にはちょうどいい」
「まじ、伏黒のワンコ貸してくれるの?」
「ワンコって……」
恵がため息をつく。犬のような忠誠心と狼のような攻撃性を兼ね備えた玉犬を犬か狼かと分類するのは難しいが、少なくとも「ワンコ」と呼べるほど可愛らしいものではない。
「まぁいい。放課後にでも試してみるか」
「助かるー。それじゃ、また後で」
優太は手をヒラっと振って踵を返し、恵の部屋を後にした。どうせあと三十分もしたら校舎で顔を合わせるのだが、予め個人的に相談に来たのは昨日の任務で肩を貸してくれた恵を信頼しての行動なのかもしれない。
「おはよー、優太!」
優太が教室に入るなり、悠仁が屈託のない笑顔で元気に挨拶してきた。優太は苦笑を漏らしながら小さく片手を振った。恵に個人的に話に行ったのは信頼もあるのだろうが、悠仁がいると話が脱線するかもしれないと考えていたようだ。
「おはよ。朝から元気かよ」
「おう!……って優太、それなに?」
優太の手には黄色地に黒文字の缶──マックスコーヒーがあった。知っている人は知っている、甘ったるいだのやたら甘いだのと評される練乳入りのコーヒー飲料だ。優太は手元の缶と悠仁を見比べた。
「え、知らない?東北だったら売ってるでしょ」
「えぇ、どうだったかな。俺コーヒー飲まないから。美味いの?」
「美味いよ。飲んでみる?」
優太は飲みかけのマックスコーヒーを自然と悠仁に差し出す。悠仁も自然に受け取って、一口飲んで顔をしかめて優太に返した。ちょうどそこに野薔薇、続けて恵が教室に入ってくる。
「うっ、あっま!優太こんなもん飲んでんの!?」
「……朝から何してんの」
野薔薇から見れば、朝っぱらから男子二人が一本の缶コーヒーをシェアしている姿だ。悠仁とは別の理由で顔をしかめるのも無理はない。
「宮城島は常時呪力視で脳が疲れやすいから、糖分補給にマックスコーヒーはちょうどいいんだろ。んで、虎杖が興味を示したってところか」
悠仁から返された缶から一口飲んで、優太が頷く。
「と言うより、俺元々甘党だから。でも確かに、呪力視するようになってから甘いもの飲み食いする頻度増えたかも」
「僕と似たような理由だよね。僕も甘いものずっと食べてたら、甘党になってた」
教室の出入り口から顔だけヌッと出して、いつからいたのか悟が補足する。
「そういや先生、いつも目隠しかほどんど見えないサングラスしてるけど。あれってちゃんと見えてんの?」
素朴な疑問を悠仁が呈する。確かに、悟は昼夜問わず真っ黒なサングラスをかけるなり黒い目隠しをしたりしている。
「うん、見えてるよ。正確には呪力だけ見てる感じ。壁とか地面にも呪力の痕跡、
「サーモグラフィみたいってこと?やっぱ私たちとは見てる世界が違うのね」
「野薔薇、正解。そんで優太くんも常時呪力視だから、僕と近い世界を常に見てるわけ。ま、僕ほど正確には見れないんだけどね~」
「六眼と比較するのやめてもらっていいです?」
ケラケラと笑う悟と呆れた口調でツッコミを入れる優太。たった二日で既にお馴染みの光景になりつつあった。
「あぁそれと。放課後の恵との自主練、僕も見に行くから」
「「なんで知ってる」」
優太と恵の声が重なった。六眼はなにも全てを見通す眼ではない。しかし悟がお見通しなのは、六眼を含めた観察眼だろう。
「まぁ、僕最強だからね~」
手をヒラヒラと振って去っていく悟。全く答えになっていなかった。