山内春樹、退学後の世界を生きる   作:ナスカン

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第一話 退学者

 

 

その瞬間、教室の空気が変わった。

 

 

いや、変わったというより、俺だけが空気の外に弾き出された。

 

 

「批判票の一位は残念ながらお前だ。山内春樹」

 

 

その言葉を聞いた瞬間、何かが耳の奥で割れた気がした。

 

退学者。

 

誰が?

 

俺が?

 

冗談だろ。

 

だって、Aクラスから賞賛票が入る筈だ

 

綾小路の間違いじゃないのか?

 

「……は?」

 

口から出た声は、自分でも情けないくらい間抜けだった。

 

クラスの視線がこちらに集まるのを感じる。

 

関わりたくない。

 

巻き込まれたくない。

 

そんな空気が、教室の中に薄く広がっていた。

 

喉が渇く。

 

手のひらが汗ばむ。

 

心臓だけがうるさい。

 

 

「なんで?なんで?なんでだよ!!」

 

 

椅子が床をこすって、嫌な音を立てる。

 

 

「おかしいだろ!」

 

 

そう叫んだつもりだった。

 

 

しかしそこで何かが頭をよぎり言葉が出なくなった。

 

 

山内春樹。

 

 

学力も低い。

能力も低い。

なのに口だけは達者。

調子に乗る。

嘘をつく。

自分を大きく見せたがる。

都合が悪くなると、周りのせいにする。

 

 

 

そんな言葉が、どこからか頭の中に浮かんだ。

 

 

誰の声だ。

 

俺の声か。

 

それとも――。

 

一瞬、視界が揺れた。

 

教室の蛍光灯が白くにじむ。

 

頭の奥で、知らない記憶の欠片がざらりと擦れた。

 

夜の道路。

 

ブレーキ音。

 

誰かの叫び。

 

白く飛ぶ視界。

 

――結局俺の人生何もなかったな。

 

知らない男の後悔が、胸の奥に沈んでいく。

 

「……っ」

 

俺は息を呑んだ。

 

何だ、今のは。

 

何を思い出した?

 

いや、今はそれどころじゃない。

 

俺は退学になる。

 

それだけで頭がいっぱいだった。

 

「俺は……」

 

何か言おうとした。

 

けれど、続きが出てこなかった。

 

俺は何を言うつもりだったんだ。

 

俺は悪くない?

 

坂柳ちゃんと契約したことか?

 

こんな試験無効だと訴えることか?、

 

どれも言いたかった。

 

でも、そのどれを言っても、状況は変わらない気がした。

 

これは決まっていることだ。

 

決まったことを、俺がどれだけ喚いても変わらない。

 

何故か強くそう感じてる俺がいる。

 

周りを見渡す。

 

高円寺が何も言ってこない。

 

俺が大人しいからか?

 

次に、綾小路清隆が目に入った。

 

あいつはいつも通りだった。

 

表情は薄く、感情が読めない。

 

俺が退学になっても、教室がざわついても、ほとんど変わらない。

 

その顔を見た瞬間、背筋がぞわりと冷えた。

 

なぜだ。

 

俺はあいつを見て、何を思い出しかけた?

 

綾小路。

 

綾小路清隆。

 

その名前を頭の中で繰り返した瞬間、知らないはずの警鐘が鳴った。

 

触るな。

 

関わるな。

 

あいつは、敵う存在じゃない。

 

意味のわからない恐怖だった。

 

綾小路はただ、静かにこっちを見ているだけだ。

 

 

なのに、俺の身体は本能的に距離を取ろうとしていた。

 

「……くそ」

 

俺は小さく呟いた。

 

何なんだよ、これは。

 

退学が決まっただけでも頭がおかしくなりそうなのに、変な記憶まで混ざってくる。

 

誰かの人生。

 

誰かの後悔。

 

そして、この世界を知っているような感覚。

 

気持ち悪い。

 

吐きそうだった。

 

「山内春樹」

 

今度は、教師の声がした。

 

茶柱佐枝。

 

このクラスの担任。

 

いつものように冷静で、鋭い目をしている。

 

長い黒髪を後ろでまとめ、スーツ姿で教壇に立つその姿は、どこまでも教師らしい。

けれど今の俺には、処刑を読み上げる役人みたいに見えた。

 

「この決定は覆らない」

 

茶柱先生の声は静かだった。

 

感情はほとんどない。

 

「お前には、この後に必要な手続きがある。職員室へ来い」

 

「……手続き?」

 

俺は笑いそうになった。

 

退学にも手続きがあるのか。

 

いや、あるに決まっている。

 

人間一人を学校から追い出すのにも、きっと書類がいる。

 

「何だよ、それ……」

 

何か言い返したかった。

 

でも、もう叫ぶ気力がなかった。

 

俺は椅子に座り直すこともできず、立ったまま拳を握る。

 

誰かが俺を見ている。

 

誰かが目を逸らしている。

 

誰かが、早く終わってほしいと思っている。

 

わかる。

 

わかってしまう。

 

昔の俺なら、自分が逆の立場なら、同じようにしたかもしれない。

 

面倒ごとに関わりたくない。

自分が助かればいい。

あいつが退学なら、それでいい。

 

そう考えたかもしれない。

 

だから、誰かを責める資格もない。

 

でも、納得できるわけがない。

 

俺は鞄を掴んだ。

 

机の中に残っていたものを乱暴に詰め込む。

 

ノート。

筆箱。

教科書。

使いかけのプリント。

 

最後に、机の中から一枚の紙が出てきた。

 

授業中に書いたくだらない落書き。

 

自分でも覚えていないような文字と、意味のない線。

 

俺はそれを見て、しばらく動けなかった。

 

俺はここで何をしていたんだ。

 

何を積み上げていたんだ。

 

結局、何もしていなかったんじゃないのか。

 

胸の奥で、また知らない男の声がした。

 

――俺の人生結局何もなかったな。

 

「うるせえよ……」

 

俺は小さく呟き、紙を鞄に突っ込んだ。

 

教室を出る前に、もう一度だけ振り返る。

 

そこには、俺の席があった。

 

さっきまで俺がいた場所。

 

でも、もう俺の席ではない。

 

教室という場所は残る。

 

クラスも続く。

 

明日も授業はある。

 

試験もある。

 

誰かが笑って、誰かが争って、誰かが勝って、誰かが負ける。

 

でも、そこに俺はいない。

 

その事実が、ようやく身体の奥に落ちてきた。

 

退学。

 

俺は本当に、この学校から消える。

 

「……」

 

何か言ってやろうと思った。

 

最後くらい、でかいことを言ってやろうと思った。

 

お前ら見返してやる。

 

俺は終わってない。

 

後悔するなよ。

 

そんな台詞が喉まで出かけた。

 

けれど、飲み込んだ。

 

今の俺がそれを言っても、ただの負け惜しみだ。

 

また、自分を大きく見せるための嘘になる。

 

俺は鞄を肩にかけた。

 

少し重い。

 

 

茶柱先生が先に教室を出る。

 

俺はその後を追った。

 

ドアの前で、足が止まった。

 

教室の中から、誰かの小さな息遣いが聞こえた気がした。

 

振り返らない。

 

振り返ったら、また何か言いたくなる。

 

俺は前を向いた。

 

廊下に出る。

 

扉が背後で閉まる。

 

その音が、やけに大きく響いた。

 

高育の廊下は、いつも通り綺麗だった。

 

磨かれた床。

整った掲示物。

静かな空調音。

窓の外に見える校庭。

 

何も変わらない。

 

俺だけが変わった。

 

いや、俺だけが落ちた。

 

茶柱先生は少し先で立ち止まり、こちらを見た。

 

「行くぞ」

 

「……はい」

 

返事をした瞬間、自分でも驚いた。

 

さっきまで叫んでいたのに、今は妙に声が小さい。

 

茶柱先生は何も言わない。

 

そのまま歩き出す。

 

俺もついていく。

 

一歩。

 

また一歩。

 

教室から離れるたびに、胸の奥が空洞になっていく。

 

高育での俺は、ここで終わった。

 

山内春樹という生徒は、ここで退場だ。

 

でも。

 

廊下の窓に映った自分の顔を、俺は横目で見る。

 

情けない顔だった。

 

目は赤く、口元は歪み、今にも何かにすがりつきそうな顔。

 

それでも、まだ立っていた。

 

退学者になった。

 

でも、まだ歩いている。

 

その事実だけが、今の俺に残っていた。

 

頭の奥で、またあの白い記憶がちらつく。

 

ブレーキ音。

白い視界。

最後の後悔。

 

何もやらないまま終わった人生。

 

そして今、また終わりかけている人生。

 

「……ふざけんな」

 

俺は誰にも聞こえないくらい小さく呟いた。

 

茶柱先生が振り返ることはなかった。

 

だから、俺はもう一度だけ呟いた。

 

「これで終わってたまるかよ」

 

それは強がりだった。

 

負け惜しみだった。

 

何の根拠もない言葉だった。

 

でも、さっき教室で言おうとした見栄とは、少しだけ違った。

 

誰かに聞かせるためじゃない。

 

自分を大きく見せるためでもない。

 

ただ、今ここで歩くために必要な言葉だった。

 

職員室へ向かう廊下は、思ったより長かった。

 

俺はその長い廊下を、退学者として歩いた。

 

山内春樹。

 

高育を退学する男。

 

嘘つきで、軽率で、見栄っ張りで、どうしようもない男。

 

それでも、まだ終わっていない。

 

終わらせるかどうかは、ここからだ。

 

そう思わなければ、足が止まりそうだった。

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