「僕たちの活動に協力をしてくれないか」
黒崎さんの口から出た言葉を、俺はすぐには理解できなかった。
協力。
今までの話の流れなら、定期的に相談に来てほしいとか、困ったことがあれば連絡してほしいとか、そういう話になると思っていた。
けれど、今の言葉は少し違う。
「……協力?」
「そうだ」
「俺が、進支会にですか?」
「うん」
冗談を言っている顔ではなかった。
俺は膝の上に置いていた手に、少しだけ力を入れる。
「いや、ちょっと待ってください」
「うん」
「何で俺なんですか」
何よりそこが疑問だった。
「俺、そんなに能力高くありませんよ」
自分で口にして、少しだけ胸が痛んだ。
昔の俺なら、俺の隠された力に気づくとは見る目がありますね、くらいの軽口は何も考えずに言っていた気がする。
思い当たるとすれば、一つしかない。
「高育出身だから、ですか?」
「それもある」
静かな頷きが返ってくる。
「高育のことを相談する相手として、高育を知っていることは大きい。あの学校で何が行われているのか。そこで生徒がどんな空気の中にいるのか。退学をどう受け止めるのか。それは、情報があろうと外から想像するだけでは分からない」
「でも、高育出身者なら他にもいるんじゃないですか」
「いるね」
「だったら、俺じゃなくても」
「ただ、君のようなケースは珍しい」
「俺みたいなケース?」
「Dクラスで入学をして、高育を退学して、短い期間で編入先に移り、そこで普通の学生生活を始められている」
「それって、そんなに珍しいんですか」
「珍しいよ」
迷いのない返答だった。
「高育を退学した生徒の多くは、退学した後もそれぞれ別の壁にぶつかる。たとえば、試験の中で裏切りに遭った者は、外の学校に移ってからも簡単に人を信じられなくなることがある」
「……」
「それに、高育のことは何でも話せるわけじゃない。守秘義務がある以上、前の学校で何があったのか、自分がどうして退学したのか、詳しく説明できない生徒もいる」
「……それは、まあ」
視線が自然と落ちた。
高育のことを全部話せない。
それは、俺にも分かる。
「結果として、隠し事を抱えたまま新しい環境に入ることになる。周りからすれば、途中から入ってきた少し事情のある生徒だ。でも本人は、その事情を上手く説明できない。そうして、距離の取り方が分からなくなり、孤立してしまうこともある」
返す言葉が見つからなかった。
「もちろん、それが弱さだと言いたいわけじゃない。高育という環境は、それだけ特殊なんだ。外に出たからといって、すぐに普通の学生に戻れるわけじゃない」
そこで少し間が空いた。
「だからこそ、先に進んでいる人間の存在は大きい」
「先に進んでいる人間……」
「自分と同じように高育を出た人間がいる。その人間が、新しい学校で周りと話し、生活を立て直し、普通の学生としてやっている。それを知るだけで、安心できる者はいる」
「……先人、みたいなものですか」
黒崎さんは小さく頷いた。
「そうだね。君は、本人が思っている以上に、後から来る誰かにとって分かりやすい道標になり得る」
そんなことを言われても、すぐには飲み込めなかった。
俺はただ、自分のことで精一杯だった。
新しい学校に行くのも、クラスで浮かないようにするのも、柳と話すのも、全部、自分がやりたくてやっていることだ。
誰かの希望になるためじゃない。
「それに、君には人と距離を詰める力がある」
「……俺にですか?」
「コミュニケーションを取るの、得意だよね」
「いや、そんな大げさなものじゃないですよ。適当に喋ってるだけですよ」
「その適当に喋る、というのが簡単じゃない」
黒崎さんの表情が少しだけ緩む。
「相手に構えさせすぎず、軽く話しかけられる。空気が重くなりすぎる前に場を緩くする。自分を大きく見せようとしながらも、完全には隠しきれない弱さがある」
「それ、褒めてます?」
「もちろん、褒めているさ」
返事に困った。
褒められているようで、分析されているようでもある。
素直に喜べない。
「強い人間は、弱っている相手にとって眩しすぎることがある」
黒崎さんの目が、まっすぐこちらを見ていた。
「正しいことを言える人間はいる。立派な言葉をかけられる人間もいる。けれど、それだけでは届かない相手もいる。自分と同じように迷って、失敗して、格好悪いところを持っている人間の言葉だから、届くこともある」
「……俺に、そういう役をやれってことですか」
「今すぐにできるとは思ってないさ」
「でも、いずれはそうなって欲しいってことですよね」
否定は返ってこなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
俺はソファの背もたれに体を預ける。
頭の中が、少し重い。
言っていることは分かる。
俺みたいなやつだから、話せる相手もいる。
それは、完全に間違いではないのかもしれない。
でも。
「黒崎さん」
「うん」
「俺、まだ支援される側だと思うんですけど」
それが一番正直な気持ちだった。
「俺はまだ、新しい学校で何かを成し遂げたわけじゃありません。自分の生活だって、ちゃんと安定してるか分からない。高育のことだって、整理できてるわけじゃない」
口にすると、なんとも情けない。
けれど、ここで格好つけても仕方がない。
「そんな俺が、誰かを支援する側に回るのは、まだ無理です」
黒崎さんは、何も言わなかった。
怒った様子はない。
失望した様子もない。
むしろ、最初からそう返ってくることを分かっていたように見えた。
「そう言うと思っていたよ」
「……なら、なんで誘ったんですか」
「君の答えを聞きたかった」
「試したんですか」
「まあ少しね」
「そういうところ、結構感じ悪いですよ」
「自覚はある」
悪びれた様子もない。
俺は小さく息を吐いた。
「今日は無理強いをするつもりはない」
テーブルの横に置かれていた封筒が、黒崎さんの手に取られる。
白い封筒だった。
少し厚みがある。
中には何枚かの資料が入っているように見えた。
「ただ、一つだけ頼みを聞いてくれないかな」
「……今の流れで頼み事ですか」
「うん」
「断ったばかりなんですけど」
「今度は協力ではなくて頼み事だよ」
「言い方を変えただけじゃないですか」
「そうとも言える」
封筒が、テーブルの上に置かれる。
「この資料を、ある学校の生徒に届けてほしい」
「資料?」
「次の学校に関する資料だ。編入先の候補、手続きの流れ、必要な支援についてまとめてある」
「それを、なんで俺が」
「その生徒が、君と同じ高育の退学者だからだ」
その瞬間、体の動きが止まった。
同じ高育の退学者。
それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。
「……誰なんですか」
「今は、名前を出さないでおくよ」
「なんでですか?」
「君が引き受けるかどうかを、相手の名前で決めてほしくないからだ」
「……それ、ずるくないですか」
「ずるいね」
あまりにもあっさり認められて、顔をしかめるしかなかった。
「でも、必要なことでもある。君がその生徒を知っている可能性はある。逆に、まったく知らない可能性もある。好意的に思っているかもしれないし、そうではないかもしれない」
「だったら、なおさら教えるべきじゃないですか」
「普通ならね」
黒崎さんの指が、封筒の端に軽く触れる。
「けれど今回は、君がその子をどう思っているかよりも、君が同じ退学者として、その子に資料を届けることをどう考えるかを知りたい」
俺は封筒を見る。
白い封筒。
名前も知らない誰かに届ける資料。
その中身が本当に次の学校に関するものなのかも、俺には分からない。
伝えられたのは一つの事実だけ。
同じ高育の退学者。
その一言だけが、心に引っかかった。
「その生徒は、新しい学校に編入するための資料や援助は求めている」
声が少しだけ低くなる。
「けれど、肝心なことを話してくれない」
「肝心なこと?」
「なぜ今の環境から離れようとしているのか。何があったのか。誰に困らされているのか。それとも、自分自身の問題なのか。そこを話してくれない」
「……」
「進支会としては、資料を渡すことはできる。学校の候補を出すこともできる。必要なら手続きの支援もできる。けれど、理由が分からなければ、本当にその選択が本人のためになるのか判断できない」
黒崎さんの視線が、封筒から俺に戻る。
「ただ逃げたいだけなのか。それとも、逃げなければならない状況なのか。誰かに追い詰められているのか。本人が何かを隠しているのか。それが分からない」
「それを俺に聞けってことですか」
「聞き出せ、とは言わない」
「でも、話を聞いてほしいんですよね」
「できればね」
否定はない。
「もちろん、無理に踏み込んでほしいわけではない。資料を届けてくれるだけでいい。もし自然に話を聞くことができたら、聞いてくれるとなお助かる。けれど、そこまでは求めない」
「届けるだけでいいって言いながら、結局そこが目的じゃないですか」
「そうだね」
「認めるんですか」
「嘘をついても仕方がない」
遠慮がないな、この人。
「そもそも、協会の人が行けばいいじゃないですか。支援の専門家なんでしょう」
「職員とは何度か面談を行っている。しかし話してくれる気配はないんだ」
黒崎さんの声は落ち着いていた。
「資料は求める。援助も拒まない。けれど、自分の事情については話さない。こちらが踏み込もうとすると、すぐに距離を取る」
「……警戒されてるってことですか」
「そうだね」
「なら、俺が行っても警戒されるんじゃないですか」
「されるかもしれない」
「じゃあ駄目じゃないですか」
「でも、君なら違う形で接触できるかもしれない」
「違う形?」
「協会の職員ではなく、直近で高育を退学した生徒として」
その言葉に、黙るしかなかった。
同じ高育を退学した生徒。
進支会の職員には話せないことでも。
学校の先生には話せないことでも。
家族には話せないことでも。
同じように高育を出た人間になら、少しくらい話せることがあるのかもしれない。
いや、あるかもしれないだけだ。
そんな曖昧な可能性で、俺を動かそうとしている。
「山内くんなら、あるいはと思った」
「あるいは?」
「その子が自分から何かを話すかもしれない」
「……俺を買いかぶりすぎです」
「そんなことはないと思うけどね」
「いや、そんな立派な人間じゃないですし」
「立派じゃないから、いいんだよ」
不意に、言葉を挟まれる。
「強い正義感で相手を救おうとする人間は、時に相手を追い詰める。正しい答えを持っている人間は、答えを出せない人間を焦らせる。だけど君は、どちらでもないだろ」
「……本当に褒めてます?」
「褒めている」
「それ、半分くらい失礼ですからね」
黒崎さんは少しだけ笑った。
「そういうところだよ」
「何がですか」
「君が」
返事ができなかった。
言い返したいことはある。
でも、今の反応まで計算されていたようで、余計に悔しい。
「もちろん、ただでとは言わない。報酬は出すよ」
「報酬?」
「金銭でもいい。必要なら、君の学校生活に関する相談でもいい。進路でも、勉強でも、生活面でも構わない」
「……それ、普通に支援じゃないんですか」
「それに加えて、僕にできることなら何でも一つ叶えよう」
思わず顔を上げた。
「何でもって、軽く言いすぎじゃないですか」
「もちろん、法に触れることや、誰かを傷つけることはできない。でも、僕に可能な範囲なら力になる」
「なんでそこまでしてくれるんですか」
ほとんど反射的に聞いていた。
資料を届ける。
たったそれだけのことのはずだ。
でも、本当はそれだけじゃない。
その生徒が話さない理由。
進支会が踏み込めない事情。
俺なら、あるいはという期待。
そこまでして俺に動いてほしい理由が、分からない。
「もちろん、悩める生徒をそのままにしたくないという思いもあるが」
そこで一度、言葉が切れた。
静かな間。
「なにより」
黒崎さんの目が、こちらを見ていた。
「僕にとって、君はとても興味深い対象だからね」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
興味深い対象。
その言い方は、支援対象でも、協力者でも、後輩でもなかった。
まるで、観察しているものに向ける言葉だった。
俺は、テーブルの上の封筒を見る。
白い封筒。
名前も知らない、高育の退学者への資料。
受け取れば、たぶん何かが始まる。
受け取らなければ、ここで終わる。
いや、本当に終わるかどうかは分からない。
黒崎さんという人間は、俺が断ったからといって、簡単に諦めるようには見えなかった。
「……すみません」
ゆっくり口を開く。
「今日は、受け取れません」
「理由を聞いても?」
「分からないからです」
「何が?」
「黒崎さんのことも、進支会のことも、その生徒のことも。それに、俺が何のために動くのかも。頼まれたから動くには、話が重すぎます」
黒崎さんは黙っていた。
だから、続けた。
「それに、俺はまだ、誰かを助けられるような人間じゃありません」
その言葉は、さっきよりも少しだけ苦かった。
「自分のことで精一杯です。相手が困ってるなら、それは気になります。でも、だからって今すぐ俺が関わるって決めるのは、違う気がします」
「そうか」
封筒から手が離れる。
「分かった。今日は受け取らなくていい」
「……いいんですか」
「無理に持たせても意味がないからね」
「怒らないんですか」
「怒る理由がない」
「俺、断りましたけど」
「君の選択を尊重するよ」
そう言われると、またやりにくい。
責められた方が、まだ楽だったかもしれない。
「ただ、もし気が変わったら、連絡してほしい」
「気が変わったら、ですか」
「うん。君が自分で考えて、それでも動いていいと思ったなら」
黒崎さんは、テーブルの上に置いた封筒を引き寄せなかった。
まるで、俺がいつでも手を伸ばせるように。
「その生徒には時間がない。次の学校を選ぶなら、手続きの期限もある。けれど、理由が分からないまま進めれば、また同じことを繰り返すかもしれない」
「……」
「だから、いつまでも待てるわけではない。でも、君にとっても大事な判断になる。だから、今日この場で無理に決めなくていい」
それから、連絡先の書かれたメモが差し出された。
俺はそれを受け取ると、すぐに立ち上がった。
この部屋に長くいると、考えがまとまらなくなる。
目の前の人間が善人なのか、利用しようとしているのか、それともその両方なのか。
判断できない。
ただ一つ分かるのは、この人の話に乗れば、俺の退学後の生活は今より面倒になるということだった。
「今日は帰ります」
「うん。来てくれてありがとう」
「……まだ協力するとは言ってません」
「分かっているよ」
軽く頭を下げて、応接室を出る。
廊下は来た時と同じように静かだった。
エレベーターで下へ降り、広いロビーに戻る。
受付の女性が丁寧に頭を下げてきたので、俺もぎこちなく会釈した。
外に出ると、朝より少し日が高くなっていた。
ビルのガラスに、空の色が反射している。
俺は振り返って、その建物を見上げた。
全国規模の支援団体。
高育と繋がりを持つ組織。
黒崎美琴の兄が代表を務める場所。
そして、俺に協力を求めた場所。
「……何なんだよ、ほんと」
呟いても、答えは返ってこない。
財布の中には、昨日もらったカードが入ったままだ。
受け取らなかった封筒。
名前も知らない、高育の退学者。
資料や援助は求めているのに、理由は話さない生徒。
黒崎さんの言葉。
――山内くんなら、あるいはと思った。
――僕にとって、君は興味深い対象だからね。
どちらの言葉も、どうしても頭から離れなかった。
俺は大きく息を吐いて、駅へ向かって歩き出す。
断った。
確かに、今日は断った。
でも、胸の奥に残った引っかかりは、断っただけでは消えてくれなかった。