山内春樹、退学後の世界を生きる   作:ナスカン

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第11話 頼み事

 

 

「僕たちの活動に協力をしてくれないか」

 

黒崎さんの口から出た言葉を、俺はすぐには理解できなかった。

 

協力。

 

今までの話の流れなら、定期的に相談に来てほしいとか、困ったことがあれば連絡してほしいとか、そういう話になると思っていた。

 

けれど、今の言葉は少し違う。

 

「……協力?」

 

「そうだ」

 

「俺が、進支会にですか?」

 

「うん」

 

冗談を言っている顔ではなかった。

 

俺は膝の上に置いていた手に、少しだけ力を入れる。

 

「いや、ちょっと待ってください」

 

「うん」

 

「何で俺なんですか」

 

何よりそこが疑問だった。

 

「俺、そんなに能力高くありませんよ」

 

自分で口にして、少しだけ胸が痛んだ。

 

昔の俺なら、俺の隠された力に気づくとは見る目がありますね、くらいの軽口は何も考えずに言っていた気がする。

 

思い当たるとすれば、一つしかない。

 

「高育出身だから、ですか?」

 

「それもある」

 

静かな頷きが返ってくる。

 

「高育のことを相談する相手として、高育を知っていることは大きい。あの学校で何が行われているのか。そこで生徒がどんな空気の中にいるのか。退学をどう受け止めるのか。それは、情報があろうと外から想像するだけでは分からない」

 

「でも、高育出身者なら他にもいるんじゃないですか」

 

「いるね」

 

「だったら、俺じゃなくても」

 

「ただ、君のようなケースは珍しい」

 

「俺みたいなケース?」

 

「Dクラスで入学をして、高育を退学して、短い期間で編入先に移り、そこで普通の学生生活を始められている」

 

「それって、そんなに珍しいんですか」

 

「珍しいよ」

 

迷いのない返答だった。

 

「高育を退学した生徒の多くは、退学した後もそれぞれ別の壁にぶつかる。たとえば、試験の中で裏切りに遭った者は、外の学校に移ってからも簡単に人を信じられなくなることがある」

 

「……」

 

「それに、高育のことは何でも話せるわけじゃない。守秘義務がある以上、前の学校で何があったのか、自分がどうして退学したのか、詳しく説明できない生徒もいる」

 

「……それは、まあ」

 

視線が自然と落ちた。

 

高育のことを全部話せない。

 

それは、俺にも分かる。

 

「結果として、隠し事を抱えたまま新しい環境に入ることになる。周りからすれば、途中から入ってきた少し事情のある生徒だ。でも本人は、その事情を上手く説明できない。そうして、距離の取り方が分からなくなり、孤立してしまうこともある」

 

返す言葉が見つからなかった。

 

「もちろん、それが弱さだと言いたいわけじゃない。高育という環境は、それだけ特殊なんだ。外に出たからといって、すぐに普通の学生に戻れるわけじゃない」

 

そこで少し間が空いた。

 

「だからこそ、先に進んでいる人間の存在は大きい」

 

「先に進んでいる人間……」

 

「自分と同じように高育を出た人間がいる。その人間が、新しい学校で周りと話し、生活を立て直し、普通の学生としてやっている。それを知るだけで、安心できる者はいる」

 

「……先人、みたいなものですか」

 

黒崎さんは小さく頷いた。

 

「そうだね。君は、本人が思っている以上に、後から来る誰かにとって分かりやすい道標になり得る」

 

そんなことを言われても、すぐには飲み込めなかった。

 

俺はただ、自分のことで精一杯だった。

 

新しい学校に行くのも、クラスで浮かないようにするのも、柳と話すのも、全部、自分がやりたくてやっていることだ。

 

誰かの希望になるためじゃない。

 

「それに、君には人と距離を詰める力がある」

 

「……俺にですか?」

 

「コミュニケーションを取るの、得意だよね」

 

「いや、そんな大げさなものじゃないですよ。適当に喋ってるだけですよ」

 

「その適当に喋る、というのが簡単じゃない」

 

黒崎さんの表情が少しだけ緩む。

 

「相手に構えさせすぎず、軽く話しかけられる。空気が重くなりすぎる前に場を緩くする。自分を大きく見せようとしながらも、完全には隠しきれない弱さがある」

 

「それ、褒めてます?」

 

「もちろん、褒めているさ」

 

返事に困った。

 

褒められているようで、分析されているようでもある。

 

素直に喜べない。

 

「強い人間は、弱っている相手にとって眩しすぎることがある」

 

黒崎さんの目が、まっすぐこちらを見ていた。

 

「正しいことを言える人間はいる。立派な言葉をかけられる人間もいる。けれど、それだけでは届かない相手もいる。自分と同じように迷って、失敗して、格好悪いところを持っている人間の言葉だから、届くこともある」

 

「……俺に、そういう役をやれってことですか」

 

「今すぐにできるとは思ってないさ」

 

「でも、いずれはそうなって欲しいってことですよね」

 

否定は返ってこなかった。

 

その沈黙だけで、十分だった。

 

俺はソファの背もたれに体を預ける。

 

頭の中が、少し重い。

 

言っていることは分かる。

 

俺みたいなやつだから、話せる相手もいる。

 

それは、完全に間違いではないのかもしれない。

 

でも。

 

「黒崎さん」

 

「うん」

 

「俺、まだ支援される側だと思うんですけど」

 

それが一番正直な気持ちだった。

 

「俺はまだ、新しい学校で何かを成し遂げたわけじゃありません。自分の生活だって、ちゃんと安定してるか分からない。高育のことだって、整理できてるわけじゃない」

 

口にすると、なんとも情けない。

 

けれど、ここで格好つけても仕方がない。

 

「そんな俺が、誰かを支援する側に回るのは、まだ無理です」

 

黒崎さんは、何も言わなかった。

 

怒った様子はない。

 

失望した様子もない。

 

むしろ、最初からそう返ってくることを分かっていたように見えた。

 

「そう言うと思っていたよ」

 

「……なら、なんで誘ったんですか」

 

「君の答えを聞きたかった」

 

「試したんですか」

 

「まあ少しね」

 

「そういうところ、結構感じ悪いですよ」

 

「自覚はある」

 

悪びれた様子もない。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「今日は無理強いをするつもりはない」

 

テーブルの横に置かれていた封筒が、黒崎さんの手に取られる。

 

白い封筒だった。

 

少し厚みがある。

 

中には何枚かの資料が入っているように見えた。

 

「ただ、一つだけ頼みを聞いてくれないかな」

 

「……今の流れで頼み事ですか」

 

「うん」

 

「断ったばかりなんですけど」

 

「今度は協力ではなくて頼み事だよ」

 

「言い方を変えただけじゃないですか」

 

「そうとも言える」

 

封筒が、テーブルの上に置かれる。

 

「この資料を、ある学校の生徒に届けてほしい」

 

「資料?」

 

「次の学校に関する資料だ。編入先の候補、手続きの流れ、必要な支援についてまとめてある」

 

「それを、なんで俺が」

 

「その生徒が、君と同じ高育の退学者だからだ」

 

その瞬間、体の動きが止まった。

 

同じ高育の退学者。

 

それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。

 

「……誰なんですか」

 

「今は、名前を出さないでおくよ」

 

「なんでですか?」

 

「君が引き受けるかどうかを、相手の名前で決めてほしくないからだ」

 

「……それ、ずるくないですか」

 

「ずるいね」

 

あまりにもあっさり認められて、顔をしかめるしかなかった。

 

「でも、必要なことでもある。君がその生徒を知っている可能性はある。逆に、まったく知らない可能性もある。好意的に思っているかもしれないし、そうではないかもしれない」

 

「だったら、なおさら教えるべきじゃないですか」

 

「普通ならね」

 

黒崎さんの指が、封筒の端に軽く触れる。

 

「けれど今回は、君がその子をどう思っているかよりも、君が同じ退学者として、その子に資料を届けることをどう考えるかを知りたい」

 

俺は封筒を見る。

 

白い封筒。

 

名前も知らない誰かに届ける資料。

 

その中身が本当に次の学校に関するものなのかも、俺には分からない。

 

伝えられたのは一つの事実だけ。

 

同じ高育の退学者。

 

その一言だけが、心に引っかかった。

 

「その生徒は、新しい学校に編入するための資料や援助は求めている」

 

声が少しだけ低くなる。

 

「けれど、肝心なことを話してくれない」

 

「肝心なこと?」

 

「なぜ今の環境から離れようとしているのか。何があったのか。誰に困らされているのか。それとも、自分自身の問題なのか。そこを話してくれない」

 

「……」

 

「進支会としては、資料を渡すことはできる。学校の候補を出すこともできる。必要なら手続きの支援もできる。けれど、理由が分からなければ、本当にその選択が本人のためになるのか判断できない」

 

黒崎さんの視線が、封筒から俺に戻る。

 

「ただ逃げたいだけなのか。それとも、逃げなければならない状況なのか。誰かに追い詰められているのか。本人が何かを隠しているのか。それが分からない」

 

「それを俺に聞けってことですか」

 

「聞き出せ、とは言わない」

 

「でも、話を聞いてほしいんですよね」

 

「できればね」

 

否定はない。

 

「もちろん、無理に踏み込んでほしいわけではない。資料を届けてくれるだけでいい。もし自然に話を聞くことができたら、聞いてくれるとなお助かる。けれど、そこまでは求めない」

 

「届けるだけでいいって言いながら、結局そこが目的じゃないですか」

 

「そうだね」

 

「認めるんですか」

 

「嘘をついても仕方がない」

 

遠慮がないな、この人。

 

「そもそも、協会の人が行けばいいじゃないですか。支援の専門家なんでしょう」

 

「職員とは何度か面談を行っている。しかし話してくれる気配はないんだ」

 

黒崎さんの声は落ち着いていた。

 

「資料は求める。援助も拒まない。けれど、自分の事情については話さない。こちらが踏み込もうとすると、すぐに距離を取る」

 

「……警戒されてるってことですか」

 

「そうだね」

 

「なら、俺が行っても警戒されるんじゃないですか」

 

「されるかもしれない」

 

「じゃあ駄目じゃないですか」

 

「でも、君なら違う形で接触できるかもしれない」

 

「違う形?」

 

「協会の職員ではなく、直近で高育を退学した生徒として」

 

その言葉に、黙るしかなかった。

 

同じ高育を退学した生徒。

 

進支会の職員には話せないことでも。

 

学校の先生には話せないことでも。

 

家族には話せないことでも。

 

同じように高育を出た人間になら、少しくらい話せることがあるのかもしれない。

 

いや、あるかもしれないだけだ。

 

そんな曖昧な可能性で、俺を動かそうとしている。

 

「山内くんなら、あるいはと思った」

 

「あるいは?」

 

「その子が自分から何かを話すかもしれない」

 

「……俺を買いかぶりすぎです」

 

「そんなことはないと思うけどね」

 

「いや、そんな立派な人間じゃないですし」

 

「立派じゃないから、いいんだよ」

 

不意に、言葉を挟まれる。

 

「強い正義感で相手を救おうとする人間は、時に相手を追い詰める。正しい答えを持っている人間は、答えを出せない人間を焦らせる。だけど君は、どちらでもないだろ」

 

「……本当に褒めてます?」

 

「褒めている」

 

「それ、半分くらい失礼ですからね」

 

黒崎さんは少しだけ笑った。

 

「そういうところだよ」

 

「何がですか」

 

「君が」

 

返事ができなかった。

 

言い返したいことはある。

 

でも、今の反応まで計算されていたようで、余計に悔しい。

 

「もちろん、ただでとは言わない。報酬は出すよ」

 

「報酬?」

 

「金銭でもいい。必要なら、君の学校生活に関する相談でもいい。進路でも、勉強でも、生活面でも構わない」

 

「……それ、普通に支援じゃないんですか」

 

「それに加えて、僕にできることなら何でも一つ叶えよう」

 

思わず顔を上げた。

 

「何でもって、軽く言いすぎじゃないですか」

 

「もちろん、法に触れることや、誰かを傷つけることはできない。でも、僕に可能な範囲なら力になる」

 

「なんでそこまでしてくれるんですか」

 

ほとんど反射的に聞いていた。

 

資料を届ける。

 

たったそれだけのことのはずだ。

 

でも、本当はそれだけじゃない。

 

その生徒が話さない理由。

 

進支会が踏み込めない事情。

 

俺なら、あるいはという期待。

 

そこまでして俺に動いてほしい理由が、分からない。

 

「もちろん、悩める生徒をそのままにしたくないという思いもあるが」

 

そこで一度、言葉が切れた。

 

静かな間。

 

「なにより」

 

黒崎さんの目が、こちらを見ていた。

 

「僕にとって、君はとても興味深い対象だからね」

 

その瞬間、背中に冷たいものが走った。

 

興味深い対象。

 

その言い方は、支援対象でも、協力者でも、後輩でもなかった。

 

まるで、観察しているものに向ける言葉だった。

 

俺は、テーブルの上の封筒を見る。

 

白い封筒。

 

名前も知らない、高育の退学者への資料。

 

受け取れば、たぶん何かが始まる。

 

受け取らなければ、ここで終わる。

 

いや、本当に終わるかどうかは分からない。

 

黒崎さんという人間は、俺が断ったからといって、簡単に諦めるようには見えなかった。

 

「……すみません」

 

ゆっくり口を開く。

 

「今日は、受け取れません」

 

「理由を聞いても?」

 

「分からないからです」

 

「何が?」

 

「黒崎さんのことも、進支会のことも、その生徒のことも。それに、俺が何のために動くのかも。頼まれたから動くには、話が重すぎます」

 

黒崎さんは黙っていた。

 

だから、続けた。

 

「それに、俺はまだ、誰かを助けられるような人間じゃありません」

 

その言葉は、さっきよりも少しだけ苦かった。

 

「自分のことで精一杯です。相手が困ってるなら、それは気になります。でも、だからって今すぐ俺が関わるって決めるのは、違う気がします」

 

「そうか」

 

封筒から手が離れる。

 

「分かった。今日は受け取らなくていい」

 

「……いいんですか」

 

「無理に持たせても意味がないからね」

 

「怒らないんですか」

 

「怒る理由がない」

 

「俺、断りましたけど」

 

「君の選択を尊重するよ」

 

そう言われると、またやりにくい。

 

責められた方が、まだ楽だったかもしれない。

 

「ただ、もし気が変わったら、連絡してほしい」

 

「気が変わったら、ですか」

 

「うん。君が自分で考えて、それでも動いていいと思ったなら」

 

黒崎さんは、テーブルの上に置いた封筒を引き寄せなかった。

 

まるで、俺がいつでも手を伸ばせるように。

 

「その生徒には時間がない。次の学校を選ぶなら、手続きの期限もある。けれど、理由が分からないまま進めれば、また同じことを繰り返すかもしれない」

 

「……」

 

「だから、いつまでも待てるわけではない。でも、君にとっても大事な判断になる。だから、今日この場で無理に決めなくていい」

 

それから、連絡先の書かれたメモが差し出された。

 

俺はそれを受け取ると、すぐに立ち上がった。

 

この部屋に長くいると、考えがまとまらなくなる。

 

目の前の人間が善人なのか、利用しようとしているのか、それともその両方なのか。

 

判断できない。

 

ただ一つ分かるのは、この人の話に乗れば、俺の退学後の生活は今より面倒になるということだった。

 

「今日は帰ります」

 

「うん。来てくれてありがとう」

 

「……まだ協力するとは言ってません」

 

「分かっているよ」

 

軽く頭を下げて、応接室を出る。

 

廊下は来た時と同じように静かだった。

 

エレベーターで下へ降り、広いロビーに戻る。

 

受付の女性が丁寧に頭を下げてきたので、俺もぎこちなく会釈した。

 

外に出ると、朝より少し日が高くなっていた。

 

ビルのガラスに、空の色が反射している。

 

俺は振り返って、その建物を見上げた。

 

全国規模の支援団体。

 

高育と繋がりを持つ組織。

 

黒崎美琴の兄が代表を務める場所。

 

そして、俺に協力を求めた場所。

 

「……何なんだよ、ほんと」

 

呟いても、答えは返ってこない。

 

財布の中には、昨日もらったカードが入ったままだ。

 

受け取らなかった封筒。

 

名前も知らない、高育の退学者。

 

資料や援助は求めているのに、理由は話さない生徒。

 

黒崎さんの言葉。

 

――山内くんなら、あるいはと思った。

 

――僕にとって、君は興味深い対象だからね。

 

どちらの言葉も、どうしても頭から離れなかった。

 

俺は大きく息を吐いて、駅へ向かって歩き出す。

 

断った。

 

確かに、今日は断った。

 

でも、胸の奥に残った引っかかりは、断っただけでは消えてくれなかった。

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