放課後の教室には、まだ少しだけ人が残っていた。
部活へ行く準備をしているやつ。
友達と机を囲んで話しているやつ。
スマホを見ながら、帰るタイミングを探しているやつ。
いつも通りの放課後。
そんな中、俺と黒崎さんは並んで廊下を歩いていた。
向かう先は、屋上。
別に告白イベントとか、青春っぽい何かが始まるわけではない。
階段を上がり、屋上へ続く扉を開ける。
少し強めの風が、頬を撫でた。
空は夕方に近づき始めていて、校庭からは部活の掛け声が聞こえてくる。
俺はフェンスの近くに立った。
黒崎さんも隣に来て、しばらく校庭を見下ろす。
すぐには何も聞いてこなかった。
少し時間が経ってようやく話が始まった。
「昨日、兄と何があったの?」
やがて、黒崎さんが静かに口を開いた。
俺は少しだけ息を吐く。
「進支会のことを聞いた」
「うん」
「退学者とか、編入者の支援をしてるって話。それと、高育を出た人間が外でどうなるかって話も」
そこまで言って、少し言葉が止まった。
「それから、俺に協力してほしいって言われた」
黒崎さんの視線が、わずかにこちらへ向く。
「協力?」
「退学者に話を聞いたり、同じ立場に近いやつとして関わってほしいって感じだった」
「山内くんに?」
「ああ」
「どうして山内くんなんだろう」
「俺が、失敗した側の気持ちをまだ覚えてる人間だからだとさ」
俺はフェンスに手をかけた。
金網越しに見る校庭は、どこか遠く感じる。
「強いやつとか、立派なやつには話せないこともある。けど、俺みたいに退学して、外に出て、まだ立て直してる途中のやつだからこそ、話せる相手がいるかもしれないって」
口にすると、昨日の会話がまた頭の中に蘇る。
黒崎悠斗の穏やかな声。
それなのに、どこかこちらを試すような空気。
優しいのに、油断できない。
あの人は、そういう人だった。
「それで、山内くんは手伝うの?」
「断った」
「そうなんだ」
「少なくとも、その場では」
「その場では?」
黒崎さんが、少し首を傾ける。
「断ったのに、今も気になってる」
「……」
「変だろ。無理だって思ったし、実際無理だと思う。俺はまだ自分の生活だけで精一杯だ。誰かを支援するとか、人の相談に乗るとか、そんな立派なことができる人間じゃない」
言葉が少し早くなる。
自分でも、言い訳みたいだと思った。
でも、一度出てきた言葉は止まらなかった。
「なのに、昨日からずっと頭に残ってる」
そこまで言うと、場が静かになった。
放課後の喧騒まで、少し遠くなったように感じる。
「気になってるってことは」
黒崎さんの声が、風の中で静かに届いた。
「本当は、やりたいってことなんじゃないの?」
胸の奥を、まっすぐ突かれた気がした。
俺は思わず黙る。
やりたい。
その言葉は、しっくりくるようで、少し違う気もした。
「……まあ、やりたいって言うより」
俺は視線を落とした。
フェンスを掴む手に、少しだけ力が入る。
「放っておけない、が正しいかもしれない」
「放っておけない?」
「ああ」
退学を宣言された時のことを思い出す。
あの教室。
冷たい空気。
向けられる視線。
そこが、もう自分の席ではなくなった場所。
あの時、俺は本気で思った。
終わった、と。
「退学を宣言された時、正直、人生が終わるような感覚があった。明日どうなるかも、次の学校があるのかも分からなかった。ただ、自分の席がなくなったんだって、それだけは分かった」
「……うん」
黒崎さんは頷いた。
「今の俺は、たまたま運がよかったんだと思う。親も動いてくれたし、次の学校も見つかった。柳みたいな奴もいて、黒崎さんとも話せるようになった」
でも。
俺は小さく息を吐く。
「一歩間違えたら、俺も同じだったかもしれない」
黒崎さんの視線が、静かにこちらへ向く。
「誰にも話せないまま、平気なふりだけして、新しい場所でも躓いて……そうなっててもおかしくなかった。退学になっただけでもきついのに、その後まで上手くいかないって、さすがに辛すぎるだろ」
「……」
「だから、俺の他にもそんな奴がいるなら。退学になって、そこから人生を立て直そうとしてる奴がいるなら。そいつの役に立てる可能性が少しでもあるって言うなら、協力してやりたい気持ちは確かにある」
そこまで言って、俺は苦笑した。
「……気持ちだけはね」
「気持ちだけ?」
「だって、俺は特別じゃない」
その言葉は、自然に出た。
昔からずっと胸の奥にあった言葉だった。
見ないふりをしてきた。
笑って誤魔化してきた。
深く考えないようにしてきた。
でも、消えたわけじゃない。
「人の人生を変えるなんて、特別なやつしかできないだろ。頭がいいとか、人望があるとか、誰かに信じてもらえるだけの積み重ねがあるとか」
俺はフェンス越しに、遠くの校庭を見る。
「俺には、そういうのがない」
そんなことを考えてしまう。
「特別じゃないから」
黒崎さんが口を開いた。
静かな声だった。
「誰かを助けられないとは決まってないと思う」
「……」
「特別な人だけが、誰かの人生を変えるわけじゃないよ」
俺は顔を上げる。
黒崎さんは、まっすぐ俺を見ていた。
「もちろん、特別な人の方が多くの人に影響を与えれると思う。でも、特別じゃないから何もできないって決めつけるのは、少し違う気がする」
「……」
「今の山内くんは、できないんじゃなくて、怖いんだと思う」
その言葉が、胸に落ちた。
「退学になって、いろいろと怖くなってるんだと思う。何かを選ぶことも、誰かに関わることも、取り返しのつかない失敗をするかもしれないから」
「……そうかもな」
否定できなかった。
昔の俺は、もっと軽かった。
深く考えず、勢いで動くことができた。
けど、一度取り返しのつかない大きな失敗をした。
だから今は、何もかも怖くなっているのかもしれない。
自分が、誰かの人生に関わることが。
間違えたらどうする。
軽率に口を出して、余計に傷つけたらどうする。
そもそも相手が、話し合いを拒否してる状況みたいだし。
何もできないんじゃないか。
その時にまた、自分は無力だと思い知らされるんじゃないか。
心のどこかでそう思っていたのかもしれない。
そんなことを考えていると黒崎さんが言葉を続ける。
「私も、人と関わるのが怖くなったことがあるよ」
黒崎さんの声が、少しだけ柔らかくなる。
「兄が変わってしまってから」
「お兄さんが?」
「うん」
黒崎さんは視線を校庭へ戻した。
「兄は、昔はもっと普通だった。穏やかで、優しくて、少し抜けてて。困っている人がいたら、放っておけない人だった」
「……それは今と印象が違うな」
俺がそう返すと、黒崎さんは小さく頷いた。
「やっぱりそう思うよね」
その声は少しだけ沈んでいた。
「退学してから、少しずつ変わっていったんだ」
「退学してから?」
「うん」
「兄も、山内くんと同じ高度育成高等学校を退学した人だから」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
風の音が、一瞬だけ遠くなる。
「黒崎さんの兄さんが?」
「うん」
「高育の……退学者?」
黒崎さんは、静かに頷いた。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
黒崎悠斗。
進支会の会長。
退学者を支援している人。
その人が、支援する側になる前は、俺と同じ退学した側だった。
「知らなかったの?」
「聞いてない」
俺は素直に首を横に振った。
「あの人、そんなこと一言も……いや、言ってないよな?」
昨日の会話を思い返す。
高育。
退学者。
支援。
いろいろ話した。
けど、黒崎悠斗本人が自分も退学者だと明言した記憶はない。
「兄らしいと思う」
「……話さなかったことが?」
「うん。自分のことは、あまり話したがらない人だから」
「……そうだったのか」
胸の中に、昨日の違和感が別の形で沈んでいく。
あの人の言葉が妙に重かった理由。
高育を外から眺めているだけの人間ではなかったから。
同じ場所から、外に出された人間だったから。
「兄が家に戻ってきた時、最初はまだ、私の知っている兄だった。疲れていて、無理に笑っている感じはあったけど、それでも優しかった」
「……」
「でも、前の学校のことはほとんど話さなかった。これからどうするのか聞いても、曖昧に笑うだけで」
黒崎さんの指が、制服の袖を軽く掴む。
「それでも私は、時間が経てば元に戻ると思ってた。兄は強い人だと思っていたから。きっと自分で立ち直るって」
「……」
「でも、ある時から本当に変わってしまった」
「……そんなに違ったのか?」
黒崎さんは少しだけ考えるように目を伏せた。
「人と話す時の目が、前と違って見えたの。相手を心配しているのに、同時に何かを探っているようにも見えて……それが少し怖かった」
昨日、俺が感じたもの。
黒崎悠斗の穏やかな声の奥にあった、妙な鋭さ。
あれは、たぶん気のせいじゃなかった。
黒崎さんは、それをずっと近くで見てきたのだろう。
「でも、それ以上に怖かったのは、人を傷つけてしまうこと」
「傷つける?」
「うん」
黒崎さんは、ゆっくり頷いた。
「兄が変わっていくのを見て、最初は何とかしたいと思った。何かあったのか聞いたり、無理してないか聞いたり、私なりに声はかけた」
「……」
「でも、兄はいつも笑って、大丈夫だって言うだけだった」
その声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、少しだけ苦さが混じっていた。
「それでも気になって、もう少し踏み込もうとしたことがある。何を抱えているのか、ちゃんと聞こうとした」
「……」
「でも、その時の兄の顔を見て、何も言えなくなった」
「顔?」
「怒っていたわけじゃない。責められたわけでもない。ただ、すごく苦しそうだった」
黒崎さんは、フェンスの向こうへ視線を向けた。
「私、心配して聞いたつもりだった。でも、兄には触れられたくないところを無理に触られたみたいに感じたのかもしれない」
風が吹く。
黒崎さんの髪が、頬にかかった。
「そのあと、兄はいつも通り笑っていた。でも、前より少しだけ距離ができた気がした」
「……」
「それが怖かった」
黒崎さんは、小さく息を吐いた。
「相手のことを思って踏み込んだつもりだった。でも、それで兄を傷つけてしまったのかもしれない。そう思ったら、分からなくなったの」
「分からなくなった?」
「うん」
黒崎さんは、少しだけ目を伏せた。
「誰かを心配することが、正しいことなのか。どこまで聞いていいのか。どこから先は踏み込みすぎなのか。そういう距離の取り方が、分からなくなった」
「……」
「相手を思った言葉が、相手のためになるとは限らない。助けたいと思ってかけた言葉が、相手にとっては触れられたくない場所を抉ることもある」
黒崎さんの指が、制服の袖を軽く掴む。
「そう思ったら、人とどう関わればいいのか、自信がなくなった」
「……だから、距離を置くようになったのか」
「うん」
黒崎さんは静かに頷いた。
「深く知ろうとしなければ、相手の痛いところに触れることもない。踏み込みすぎて傷つけることもない。そう思って、自分からは近づかなくなった」
「……傷つけたくなかったから?」
「うん。傷つけたくなかったし、自分がまた間違えるのも怖かった。だから人との関わりも長い間、最低限にしていた」
静かな告白だった。
黒崎さんはいつも落ち着いていた。
少し近寄りがたいくらいに。
でも、それは強さだけじゃなかったのかもしれない。
怖かったから。
誰かを傷つけたくなかったからかもしれない。
「そんな時に山内くんが編入してきた」
黒崎さんは、ゆっくり俺を見る。
「実は山内くんが編入して来た時最初から気になってたんだ」
「最初から?」
「最初から」
意外すぎて、返事が遅れた。
俺は思わず自分を指差す。
「いや、俺、そんなに最初から目立ってたか?」
「目立ってたよ」
「え、どこが?」
「自己紹介を考えていたら一時間経って、結局何も思いつかなかったって」
「あれかよ」
「正直、少し変な人だなと思った」
「変な人って」
「でも、嫌な感じじゃなかった」
黒崎さんは少しだけ口元を緩める。
「それに、編入生だったから。途中からこの学校に入ってきた人だったから、少し気になった」
「ああ……」
「その時は、ただの編入生として気になっただけ。でも、その後東京の全寮制の学校って聞いて。そこから予想がついたんだ、山内くんが、高度育成高等学校から来たって」
「……それで、あの時聞いてきたんだな」
「うん。今思うと、失礼だったと思う。兄を理解したい気持ちもあって、山内くんに近づいたから」
「……正直最初は警戒したけどな」
「ごめん」
「いや、まあ……そのおかげで黒崎さんと知り合えたからいいけど」
「そういうところ」
「何がだよ」
「変なところ」
黒崎さんは小さく笑った。
「でも、本当に安心したの」
「安心?」
「うん。もっと暗くなっていたり、ずっと前の学校のことを引きずっていたり、周りを警戒していたりするのかと思ってた。でも、山内くんは違った」
黒崎さんの目が、少しだけ柔らかくなる。
「山内くんは重いものを抱えているはずなのに、軽く見える不思議な人だった」
「……そうか?」
「うん」
黒崎さんは頷く。
「編入してきたばかりなのに、自己紹介で空気を柔らかくしようとしてた。すぐに柳くんと仲良くなって、別のクラスにもたくさん友達を作ってた」
「それは自然とそうなってたというか」
黒崎さんの声が、少しずつ真剣さを帯びる。
「慣れない学校で、慣れない一人暮らしで、退学したことを抱えたまま、それでも一生懸命に頑張ってた」
その言葉に、胸の奥が少しだけ詰まった。
俺自身、そんなふうに見られていたとは思っていなかった。
「……一生懸命って言われると、なんか微妙に恥ずかしいな」
「恥ずかしいことじゃないよ」
「いや、まあ、そうなんだけどさ」
黒崎さんは小さく笑った。
「私は兄を見てから、高育を退学したら、人は変わってしまうんだって思ってた。しかも、怖い方向に」
「……」
「でも、山内くんを見ていたら、それだけじゃないのかもしれないって思えた。退学しても、失敗しても、慣れない場所で大変でも、前を向いて頑張っていけるんだって」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「人と関わることは、怖いことだけじゃないんだって思えた」
黒崎さんの瞳が、まっすぐこちらを向く。
「山内くん、初日に話しかけてくれたでしょ」
「あの、購買の混み具合を聞いたやつか。でもあれ、今思うと意味不明だっただろ」
「うん。正直なところ意味不明だった」
「やっぱりそう思われてたのか…」
少し凹んだ様子を見せると、黒崎さんは小さく笑った。
「でも、ああいう話しかけ方だったから、私にはよかったのかもしれない」
黒崎さんは少しだけ視線を落としてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「私、クラスでは少し話しかけづらかったでしょ」
「……否定はしない」
「それは、みんなが悪かったわけじゃないの。私がそうしてたから」
「そうしてた?」
「話しかけられれば答える。でも、自分からは続けない。相手のこともあまり聞かない。踏み込みすぎないようにしていたつもりだったけど、たぶん、相手からすれば壁を作っているように見えたと思う」
「……」
「だから、周りが距離を取ったんじゃなくて、私が先に距離を取ってたの」
黒崎さんの言葉は、静かだった。
誰かを責める響きはない。
ただ、自分がそうしてきたことを、今になって認めているような声だった。
「でも、山内くんはそこをあまり気にしなかった。転校初日にいきなり距離を詰めてきた」
「いや、気にしなかったっていうか、知らなかっただけというか」
実際はそんな大げさなことをした覚えもない。
最初は、たまたま声を掛けたくなったから話しかけただけだ。
「よく考えると、単に俺が空気を読めてなかっただけじゃないか?」
「そうかもしれない」
「そこは否定してくれよ」
「でも、その空気の読めなさに助けられたのも本当だから」
「やっぱり褒めてないだろ」
「褒めてるよ」
黒崎さんは、もう一度小さく笑った。
「それに、山内くんと柳くんのやり取りは、聞いていて面白かった」
「……面白かった?」
「うん。山内くんが変なことを言って、柳くんがそれに乗って、教室が少しだけ騒がしくなって。私も笑いそうになることがあった」
黒崎さんは小さく笑った。
「そういうのを見てると、誰かと話して、笑って、また話したいって思う。そういう普通の人と関わる楽しさを、思い出せたのかもしれない」
「……」
「だから私も、少しずつだけど、自分から人と話すようになった。柳くんとも話すようになったし、クラスの子とも前より話せるようになった」
「……そうだったのか」
「うん」
黒崎さんはそこで一度、言葉を切った。
「それに、兄のことも」
「黒崎悠斗さんのこと?」
「うん。兄に踏み込もうとして失敗したと思ってから、私はもう近づかない方がいいんだって決めてしまった。でも、山内くんを見ていて思ったの。一度の失敗で諦めなくていいんだって」
「……」
「人と関わることは怖い。でも、それだけじゃない。誰かと話して楽しいと思えることもある。だったら、兄とのことも、怖いだけで終わらせたくないって思った」
黒崎さんの瞳は、まだ少し揺れていた。
「怖くなくなったわけじゃないよ。今でも怖い。また兄を傷つけるかもしれないって思うし、何を聞けばいいのかも、どこまで踏み込んでいいのかも、まだ分からない」
けれど、黒崎さんの瞳は逃げていなかった。
「でも、怖いから距離を置くだけじゃなくて、今度はちゃんと向き合いたいって思えた。兄が何を抱えているのか。何が変わってしまったのか。もう一度、自分の目で見たいって」
「それも、俺を見て?」
「うん」
即答だった。
俺は返事に困る。
そんなつもりはなかった。
なんとなく黒崎さんに話しかけただけだし、
普通の学校生活を取り戻そうとしていただけだ。
それが誰かを変えるなんて、思ってもみなかった。
「そんなわけだから、私は山内くんには勝手に感謝してる」
「俺的には、そんなつもりなかったんだけどな」
「うん。分かってる」
黒崎さんは、すぐには続けなかった。
風が、屋上のフェンスを小さく鳴らす。
その音に紛れるように、黒崎さんは一度だけ息を吸った。
「それでも感謝してる。だから、伝えるね」
そう言って、黒崎さんはこちらを見る。
いつもの落ち着いた目だった。
けれど、その奥に、ほんの少しだけ揺れがあった。
迷っているようで。
怖がっているようで。
それでも、逃げないと決めたような目だった。
「さっき、山内くん言ったよね。特別じゃないからできないって」
「ああ」
「誰かを助けられる人って、最初から特別な人だけじゃないと思う」
黒崎さんは、そこで少しだけ目を伏せた。
「できることなんて少なくても、ちゃんと見てくれる人がいるだけで、前に進めることもあるから」
「……」
「でも、それだけじゃ山内くんが納得できないなら」
黒崎さんの指先が、制服の袖を小さく掴んだ。
ほんの少し、白くなるくらいに。
それでも、彼女は顔を上げた。
「山内くんは、こんな私を少し前に進ませてくれた人だから」
声は静かだった。
震えそうになる言葉を、必死にまっすぐ届けようとしている声だった。
黒崎さんは、少しだけ照れたように視線を逸らした。
けれど、すぐにまた俺を見る。
その頬が、夕方の光のせいだけじゃなく、わずかに赤く見えた。
「私にとっては、特別な人だよ」
言葉が、胸の奥に落ちた。
軽い言葉じゃなかった。
お世辞でも、ただの励ましでもない。
黒崎さんは本気で言っている。
俺に届くように。
俺が自分を誤魔化せなくなるくらい、まっすぐに。
だから、俺はすぐには何も言えなかった。
「……それじゃ、理由にならない?」
そう聞いた黒崎さんの声は、少しだけ不安そうだった。
けれど、その目は逸らされていなかった。
黒崎さんはそう言って、少しだけ不安そうに俺を見る。
いつもの落ち着いた表情とは違う。
自分で言った言葉に、自分で照れているような、そんな顔だった。
ずるいだろ、と思った。
そんな顔をされたら、何も言い返せない。
「……」
特別。
俺は、ずっと別の意味で考えていた。
勉強ができるとか。
運動ができるとか。
人を引っ張れるとか。
誰もが認める才能があるとか。
そういうものがなければ、特別じゃないと思っていた。
でも。
誰か一人にとって、前に進むきっかけになったのなら。
その人にとっては、特別なのかもしれない。
意味は違う。
俺が欲しがっていたものとは、少し違う。
でも、そういう特別もあるのかもしれない。
俺は小さく息を吐いた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えていく。
「そこまで言われて、まだ悩んでたら」
「うん?」
「男が廃るな」
黒崎さんが少し目を瞬かせた。
それから、ふっと笑う。
「最近はあまり聞かない言葉だね」
「うるさい。今ちょっと格好つけたかったんだよ」
軽口が自然に出た。
昨日からずっと詰まっていたものが、ようやく少しだけ動いた気がした。
俺はフェンスから手を離す。
校庭の方を見る。
転んだ生徒が、すぐに立ち上がってまた走り出していた。
大したことじゃない光景。
でも、今は妙に目に残った。
「特別なら、頑張んないとな」
口にした瞬間、自分で少し照れた。
黒崎さんがこちらを見る。
「友達としてだからね」
「そこ強調しなくてもよくない?」
「大事なところだから」
「いや、別に変な意味で言ったわけじゃないし」
「変な意味って?」
「そういうとこだけ拾うのやめてくれ」
黒崎さんが小さく笑う。
その笑い方が、前より少し自然に見えた。
「でも」
黒崎さんは少しだけ真面目な顔に戻った。
「本当に、無理はしないでね」
「ああ」
「兄のことも、退学者に関わるのも、一筋縄ではいかないと思う」
「分かってる」
そんなやり取りをしながら、少しずつ空気が軽くなっていく。
まだ答えが全部出たわけじゃない。
俺が本当に誰かの役に立てるのかも分からない。
進支会に関わることが正しいのかも分からない。
黒崎悠斗という人を、どこまで信用していいのかも分からない。
それに、あの人が高育の退学者だったことも、まだうまく飲み込めていない。
でも、少なくとも一つだけ分かった。
俺は、放っておきたくない。
その気持ちを、もう見ないふりはしない。
「黒崎さん」
「美琴」
「えっ?」
思わず間抜けな声が出た。
黒崎さんは、少しだけ視線を逸らす。
「黒崎さんじゃ、兄と同じで分かりづらいから。名前でいいよ」
「……名前?」
「うん。私も名前で呼ぶから」
黒崎さんは静かに頷いた。
名前で呼ぶだけ。
ただそれだけのはずなのに、妙に胸が落ち着かない。
「じゃあ……美琴さん」
「さんはいらない」
「いや、いきなり呼び捨ては難易度高くないか?」
「名前でいいって言った」
「それ、呼び捨て指定だったのかよ」
美琴は少しだけ首を傾げる。
「嫌?」
「嫌じゃないけどさ」
むしろ、嫌じゃないから困る。
俺は一度だけ視線を逸らして、小さく息を吐いた。
「……美琴」
口にした瞬間、思ったより照れくさかった。
名前を呼ぶだけ。
ただそれだけのはずなのに、胸の奥が変にざわつく。
美琴は静かに頷いた。
「うん。春樹くん」
「……名前で呼ばれるとドキッとするな」
「自分も呼んだのに?」
「呼んだけどさ」
美琴は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺も少し笑う。
「俺、もう一回お兄さんと話してみる」
「うん」
「あの人が高育の退学者だったことも含めて、ちゃんと聞きたい。俺にできることがあるのかも、もう一回確認する」
「友達として応援してる」
「やっぱりそこ強調するんだな」
「見てたからわかるけど、春樹くんって、そういう勘違いとかしやすいタイプでしょ」
「うっ」
鋭い。
さすが、黒崎悠斗の妹と言ったところか。
いや、そこで兄を引き合いに出すのは失礼かもしれない。
「……今は、そういうことにしておくね」
美琴が、小さな声で何かを呟いた。
「何か言った?」
「なんでもないよ。行こう」
美琴はそう言って、屋上の扉へ向かって歩き出した。
俺も、その後を追う。
階段へ続く扉の前で、もう一度だけ振り返った。
校庭では、誰かが転んで、また立ち上がっていた。
俺も、たぶん同じだ。
一度転んだ。
情けないくらい盛大に。
でも、まだ立てる。
なら、同じように転んだ誰かに、手を差し出すくらいはできるかもしれない。
特別じゃない俺でも。
誰かにとっては、少しだけ特別になれるのなら。
「行くか、美琴」
「うん。春樹くん」
二人分の足音が、階段に響く。
その音は、少しだけ軽い音だった。
ようやくスタートライン