私、黒崎美琴は人のことが見えすぎることがある。
相手の表情。
視線。
声の調子。
ほんの少しの沈黙。
そういうものから、相手の気持ちをなんとなく察してしまう時がある。
もちろん、全部が正しいわけではない。
私は人の心が読めるわけじゃない。
ただ、少しだけ気づきやすいだけだ。
昔は、それが悪いことだとは思っていなかった。
むしろ、役に立つことの方が多かった。
友達が本当は困っていることに、少しだけ早く気づけたり。
何かと気が利く子だとよく言われた。
そのおかげで、友達付き合いもそれなりにうまくいっていたと思う。
少なくとも、私はそう思っていた。
でも、兄が退学になって家に戻ってきた時。
私は、初めてそれを間違えた。
兄の表情が、前と違って見えた。
声の調子も、笑い方も、沈黙の長さも。
何もかもが、少しずつ違っていた。
だから私は、力になりたいと思った。
何があったのか知りたいと思った。
兄が抱えているものに、少しでも触れたいと思った。
けれど、踏み込みすぎた。
気づいたことを口にして。
聞かれたくなかったことを聞いて。
助けたいと思って伸ばした手で、兄を傷つけてしまった。
それから私は、気になっても踏み込まないようにしている。
必要以上に近づかない。
その方が、きっと誰も傷つけないから。
だから普段の私は、教室でもあまり人と関わらない。
話しかけられれば答える。
でも、自分から誰かの輪に入ることは少ない。
冷たいつもりはない。
ただ、余計なことを言うくらいなら、黙っていた方がいいと思っている。
その結果、少し話しかけづらい人になっている自覚はある。
それでも、それが一番楽だった。
少なくとも、そう思っていた。
今日までは。
その日、クラスに転校生が来た。
名前は山内春樹くん。
担任の村瀬先生に連れられて教室へ入ってきた時、最初に思ったのは、緊張している、だった。
途中から知らないクラスに入るのだから、それは当然だと思う。
もし私が同じ立場だったら、たぶん何も言えない。
教室中の視線を浴びながら黒板の前に立って、初対面の人たちに向かって自己紹介をする。
考えただけで、少し息が詰まる。
だから、山内くんが緊張していること自体はおかしくない。
おかしくない。
……はずなのだけど。
彼の様子は、ただ緊張しているだけとは少し違って見えた。
教室を見回す視線が、一か所に留まらない。
前の席、後ろの席、窓際、廊下側。
誰がどこにいるのかを、落ち着かないなりに確かめているように見えた。
もちろん、本当にそうかは分からない。
ただ、周りの反応をかなり気にしている人なのかもしれない。
そんなふうに思った。
「山内春樹です」
黒板の前に立った山内くんは、少しだけ声を張った。
その声は、思ったより明るかった。
「昨日の夜、自己紹介を考えてたら一時間経ってました」
教室が少し静かになる。
私は彼に視線を向けた。
これは、何か言うつもりだ。
たぶん、普通に終わらせる気がない。
大丈夫だろうか。
初日から変なことを言って、空気が固まったらどうするのだろう。
私が心配することではない。
ないのだけど、少し心配になる。
「その結果、特に面白いことは思いつきませんでした」
数人が笑った。
柳くんも笑っていた。
村瀬先生も、少しだけ口元を緩めたように見えた。
山内くんは、ほんの少し安心した顔をした。
たぶん、今のは狙っていたのだと思う。
大きな笑いを取りにいくほど大胆ではない。
けれど、ただ真面目に自己紹介をして終わるのも、少し違うと思ったのだろう。
自分を少し下げて、相手が笑いやすい隙を作る。
そうやって、固まりかけていた空気を少しだけ柔らかくした。
自分を少し下げる形で、場を柔らかくするタイプなのかな。
私は、こういう時にすぐ笑える人が少し羨ましい。
つまらない自己紹介だと言いたいわけではない。
むしろ、少し面白かった。
でも、笑っていいのか迷ってしまう。
笑ったことで相手がどう受け取るか。
笑わなかったことで相手がどう感じるか。
そんなことを考えているうちに、だいたい表情が動かない。
たぶん今の私は、いつも通りの顔をしている。
少し面白いと思っているのに。
自分でも、損な顔だと思う。
「なので今日は、正直さで勝負します。趣味はゲームと漫画です。仲良くしてくれると助かります。よろしくお願いします」
最後はちゃんと頭を下げた。
教室の空気は悪くなかった。
途中から入ってきた生徒としては、かなり無難な着地だと思う。
山内くんの席は、私の斜め前だった。
隣ではない。
けれど、近い。
少し顔を上げれば、彼の横顔や手元が自然に視界へ入るくらいの距離。
彼が席に着く時、椅子を少し引きすぎて音が鳴った。
山内くんは何でもない顔をしていたけれど、耳が少し赤くなっていた。
恥ずかしかったのかな。
わかりやすい。
そういうところを見ると、少し安心する。
何を考えているのか分からない人よりは、距離を測りやすいから。
一限目の授業態度は、思っていたものと違っていた。
山内くんは、コソコソ話したり、露骨に退屈そうにしたりはしなかった。
静かに先生の話を聞く。
板書を写す。
ページが分からない時は、話しかけずに周りの様子を見て確認している。
少し意外だった。
自己紹介でウケを狙うようタイプの人は、授業中に私語を挟む人が多いイメージがある。
編入初日だからなのか、それとも真面目なのか。
ただ、初日とはいえ、不思議な部分もある。
先生がくだらない雑談を挟んだ時も何故か真剣に聞いている様子だった。
他の生徒が笑ったする様な、そんな大した話でもないのに。
オンとオフがしっかりしたタイプなのかもしれない。
そんなことを思った。
二限目終わりの休み時間。
山内くんが、前の学校について少しだけ聞かれているのが聞こえた。
詳しい話ではない。
どこから来たのか、くらいの話。
山内くんは、すぐには答えなかった。
ほんの一拍。
それから、東京の全寮制の高校だった、と答えていた。
その言葉を聞いた瞬間、私は少しだけ手を止めた。
東京。
全寮制。
途中編入。
そして、学校名をはっきり言わない。
条件だけなら、思い当たる学校がある。
高度育成高等学校。
兄が、昔通っていた学校。
胸の奥が、少し重くなる。
高育から来た編入生なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しざわついた。
もしそうなら、彼は兄のように何か抱えている可能性がある。
何もないままここへ来たとは思えなかった。
少し心配になった。
聞いてみたい。
けれど、今は周りに人が多すぎる。
隠していることかもしれないし、こんな場所で踏み込むべきじゃない。
確かめるなら、人が少ないところで。
少なくとも、今はその時じゃない。
昼休みになると、教室の空気が一気に緩んだ。
弁当を出す人。
購買へ向かう人。
友達同士で席を寄せる人。
いつもの光景。
山内くんは少し周りを見てから、柳くんと話し始めた。
たぶん、昼食の相談。
柳くんが購買の場所を教えているのが聞こえた。
山内くんは財布を確認している。
弁当ではないらしい。
転校初日だから、そこまで準備できなかったのかもしれない。
私は、そのまま自分の弁当に視線を落とした。
……はずだったのだが。
その時、山内くんが少しだけこちらに来た。
正確には、私の方に身体を少し向けた。
「購買って、この時間混む?」
一瞬、返事に困った。
……私に聞いているのだろうか。
たぶん、私に聞いている。
山内くんの視線が、こちらに向いているから。
でも、なぜ私なのだろう。
柳くんがいる。
今まさに柳くんが購買の話をしていた。
場所を知っているなら、混雑具合も柳くんに聞けばいいのではないだろうか。
というか、柳くんの方が絶対に詳しい。
私は基本的にお弁当派である。
山内くんは、聞いたあとで少しだけ固まっていた。
たぶん、自分でも思ったのだと思う。
なんで今、この子に聞いたんだろう、と。
勢いで声をかけてしまって、引っ込みがつかなくなった。
そんな感じだろうか。
少しだけ、笑いそうになる。
転校初日。
知らない教室。
知らない相手。
その中で、なぜか私に購買の混雑状況を聞いてしまう。
変な人。
でもこのまま何も答えないのはちょっと気まずい。
「この時間なら混むと思う。早く行った方がいいんじゃない?」
「あ、だよな。ありがとう」
山内くんは素直に頷いた。
ほっとしたようにも見えた。
本当に、それだけだった。
街中で声をかけてくる人たちとも違う。
他に目的はなかったようだ。
しかし、その短いやり取りの中で、もう一つ気になることがあった。
話している時、山内くんの視線が一瞬だけ迷った。
私の顔を見ていたはずなのに、ほんの少しだけ下がって、すぐに戻る。
本当に一瞬だった。
今のは何だろう。
無意識なのか。
判断が難しい。
ただ、戻した時の山内くんの顔が少しだけ固まっていたので、本人もまずいと思ったのかもしれない。
私は表情を変えなかった。
変えなかったけれど、心の中で小さくため息をついた。
山内くん。
隠し事は苦手みたい。
山内くんが柳くんの方へ戻ると、柳くんがにやにやしていた。
何か言われている。
山内くんが慌てている。
聞こえた単語から察するに、からかわれているのだと思う。
山内くんは、反応が大きい。
からかうと、ちゃんと返ってくる。
柳くんのようなタイプとは相性が良さそうだった。
私は、そういうやり取りを少し離れたところから見るのは嫌いではない。
誰かと誰かがくだらないことで笑っているのを見ると、教室の空気が少し柔らかくなる。
少しだけ、羨ましいとも思う。
彼を見ていると私との違いを感じる。
私なら、浮かないために黙る。
目立たないようにして、必要な時だけ最低限答える。
自分から笑いを取りにいこうとはしない。
でも山内くんは、たぶん逆だ。
浮かないために、話す。
少し笑われても、自分の場所を作ろうとする。
そのやり方が正しいのかは分からない。
でも、私にはできないことだと思った。
それが、少しだけ眩しく感じた。
そう思ってしまったことに、自分で少し驚いた。
帰り際、山内くんが席を立つ前に、ふとこちらを見た。
一瞬だけ目が合う。
山内くんは軽く会釈した。
だから私も小さく会釈を返した。
本当に、それだけ。
前の学校は、東京の全寮制高校。
それが兄のいた学校なのかは、まだ分からない。
今のところは、ただの編入生。
少し変だけど。
でも、嫌ではなかった。
話しかけづらいはずの私に、いきなり話しかけてきた。
面白い人。
少し気になる。
私は不思議とそんなことを考えていた。