屋上で美琴と別れたあとも、しばらく頭の中は落ち着かなかった。
アパートへ戻り、制服から着替える。
いつも通りのことをしているはずなのに、考えていることだけはいつも通りじゃなかった。
進支会。
黒崎悠斗。
退学者支援。
そして――。
『私にとっては、特別な人だよ』
思い出した瞬間、思わず枕に顔を埋めた。
「いや、あれは反則だろ……」
誰かにそんなことを言われた経験なんてほとんどない。
ましてや、あんな真っ直ぐな顔で言われたら忘れられるわけがない。
しかも、そのあと普通に名前呼びになった。
思い出すだけで妙に落ち着かない。
だが、照れくささの奥で、一つだけはっきりしたものがあった。
俺は、今回の件を見ないふりはできない。
怖くないわけじゃない。
退学した誰かに関わること。
人の人生に踏み込むかもしれないこと。
俺なんかでいいのか、という気持ちも消えない。
けど、美琴の言葉に背中を押された。
だから、何もしないまま、見なかったことにはしない。
俺はスマホを手に取る。
連絡先を開いて、黒崎悠斗の名前を探した。
画面に表示された名前を見ただけで、少し指が止まる。
あの人は、優しい顔をしている。
穏やかに話す。
けれど、底が見えない。
俺のことも、どこまで見透かしているのか分からない。
深く息を吐いてから、メッセージを打った。
『前にお願いされた話、受けます。俺でよければ協力します』
送信ボタンを押す。
すぐに返事が来るとは思っていなかった。
だが、画面は思ったより早く震えた。
『ありがとう。君ならそう言ってくれると思っていたよ』
「……いや、分かってたみたいに言うなよ」
思わずスマホに向かって呟く。
続けて、もう一通。
『今夜、時間はあるかな。こちらで詳しい話をしたい。場所は進支会で構わないかい?』
今夜。
急だな、と思った。
でも、ここで先延ばしにしたら、また考えすぎる気がした。
『大丈夫です。行きます』
そう返すと、黒崎悠斗から時間の指定が送られてきた。
俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
もう決めた。
決めたはずなのに、胸の奥は落ち着かない。
期待されている。
それが嬉しくもあり、怖くもあった。
ーーーーー
夜の進支会は、昼間に来た時とは少し雰囲気が違っていた。
一階の受付は明るいままだったが、人の出入りは少ない。
相談室の方から聞こえてくる声もなく、建物全体が少し静かだった。
受付の人に名前を伝えると、すぐに上へ通された。
階段を上がるごとに、空気が変わっていく。
一階の柔らかい雰囲気とは違う。
二階、三階を通り過ぎ、四階へ。
部屋の前に立つと、どうしても少し身構えてしまう。
「山内春樹です」
扉の向こうから、穏やかな声が返ってきた。
「どうぞ」
扉を開ける。
黒崎悠斗は、机の前で資料に目を通していた。
顔を上げると、いつものように柔らかく笑う。
「来てくれてありがとう、山内くん」
「いえ。俺が受けるって言ったので」
勧められた椅子に腰を下ろす。
机の上には、いくつかの封筒とファイルが置かれていた。
その中身が、これから俺に関わることなのだと思うと、妙に喉が渇いた。
「まず確認しておきたいことがあります」
「何かな」
「黒崎さんは、高育の退学者なんですよね」
黒崎悠斗の表情は変わらなかった。
ただ、ほんの少しだけ、目の奥の色が静かになった気がした。
「そうだよ。僕は高度育成高校の退学者だ」
改めて聞くと、実感する。
進支会の会長。
退学者を支援する側。
その人間自身が、高育を退学していた。
「美琴から聞いたのかい?」
「はい」
秘密を探り当てたみたいで、少し気まずい気持ちになる。
「気にしないでいいよ。どのみち、今回の件を引き受けてくれるなら、僕が退学者であることは明かすつもりだった」
「……どうしてですか?」
「今回の相談者の担当は、僕だったからね」
その言葉に、思わず眉が動いた。
「担当……?」
「ああ。最初に対応したのは僕だ。面談もした。支援方針も立てようとした。高育の退学者を担当できるのは高育に関わったことがある職員に限定しているからね」
黒崎さんが担当していたのか。それを聞かされて一つ思うことがある。
「黒崎さん、あなたが聞き出せなかったことを、俺に聞き出せると思ってるんですか?」
経験や知識など様々な点でこの人の方が俺より頼りになるだろう。
追い詰められて相談するなら当然頼りになる方を選ぶはずだ。
黒崎悠斗はすぐには答えなかった。
机の上に置かれたファイルに軽く指を添え、少しだけ目を伏せる。
「思っているよ」
「……本気ですか」
「本気だ」
即答だった。
冗談でも、気休めでもない。
そのことが分かったからこそ、逆に困る。
「俺、自分で言うのもなんですけど、そんな聞き上手じゃないですよ」
「知っている」
「知ってるんですか」
「高育にいた頃のデータを見る限り、君はかなり分かりやすい人物だったからね」
黒崎悠斗は、悪びれもせずにそう言った。
俺は少しだけ顔をしかめる。
「君には、誰に対しても物怖じせず話しかけられるところがある。良くも悪くも遠慮なく相手の懐に入っていく」
「悪くもって言いましたよね」
「事実だからね」
まあそう言った部分はあるかもしれないが。
「つまり君は、相手との距離を詰めるのが早い」
黒崎悠斗の声は穏やかだった。
けれど、その内容は妙に具体的だった。
「そして、君は天才でも実力者でもない。少なくとも、高育の中ではそう見られていた」
「……まあ、否定はできませんけど」
「ただ、それは欠点であると同時に、別の場面では強みになる」
「強み?」
「ああ。天才や実力者には、特有の凄みがある。本人が隠していても、周囲はどこかで身構える。言葉の裏を読まれるのではないか。利用されるのではないか。見下されているのではないか。そう思わせてしまうことがある」
俺の頭に、何人かの顔が浮かんだ。
綾小路。
龍園。
坂柳。
一之瀬なんかは少し違うかもしれないが、それでも俺とは明らかに違う何かがあったのだろう。
まあ俺はその辺りあまり感じとることはできなかった訳だが。
「君にはそれがない」
「……それ、褒めてます?」
「褒めているさ」
黒崎悠斗は小さく笑った。
「君と話す相手は、油断しやすい。警戒を解きやすい。こいつになら少しくらい言ってもいいかもしれない。そう思いやすい」
「馬鹿にされてる気もしますけど」
「馬鹿にされることと、情報を引き出せることは、必ずしも矛盾しない」
「嫌な言い方ですね」
「でも、それは重要な資質だよ」
黒崎悠斗はそこで、少しだけ視線を遠くした。
「もし君が高育に残れていたなら、他クラスから油断を誘って情報を引き出す役割ができたかもしれない」
「俺がスパイ役ですか」
「それも可能だね。一回限りではあるが騙された愚か者を演じて相手の懐に入り込んで情報を盗むとかね。まあ僕が想定していた役割は、そこまで大げさではないよ。ただ、雑談の中で相手の本音を拾う。警戒されずに人の輪へ入る。そういう役割だ。」
そんなことを言われるとは思っていなかった。
高育にいた頃の俺は、あまり自分の役割とかを考えてはいなかった。
けれど、黒崎悠斗は違う見方をしている。
「それに、君はクラス内でも別の役割を持てた可能性がある」
「別の役割?」
「孤立しやすい生徒と、周りの生徒をつなぐ役割だ」
「つなぐ……?」
「能力の高い人間は、時に周囲から理解されにくい。考えていることも、見ているものも違う。だから、周りは距離を取る。本人も説明するのを諦める。そうして孤立していく」
思わず黙る。
頭に浮かんだのは、何人かの生徒だった。
あいつらの考えていることは、正直よく分からなかった。
分からなかったから、勝手に決めつけた。
余計なことも言った。
「もちろん、当時の君にそれができたとは言わない」
黒崎さんは静かに続けた。
「けれど、君には相手に話しかける力があった。相手が優秀でも、上の立場でも、必要以上に怯えずに言葉を伝えられる」
「……それ、ただ空気が読めないだけじゃないですか」
「昔は、そうだったかもしれない」
否定されなかった。
「だが、今の君なら違う。無神経に踏み込むのではなく、相手の様子を見ながら声をかけることもできるだろう」
黒崎さんの目が、まっすぐこちらを見る。
「誰も近づけない相手に近づき、誰も言えないことを言う。逆に孤立している者の声を拾って、周囲に届く形にする。君には、そういう役割を担える可能性がある」
「……買いかぶりすぎじゃないですか」
「まあ少し大袈裟にはいったかもしれない。あくまで可能性の話だからね」
あっさり認められて、少し拍子抜けした。
「まあ、ここまでの推論はもう関係ない話だ。君は退学した。今は別の学校にいる。だから、今さら高育で何ができたかを語っても意味はない」
「……」
「けれど、その素質は消えていない。そして、それらは僕にはないものだ」
僕にはない。
その一言だけ、妙に重く聞こえた。
進支会の会長。
高育の退学者。
退学者支援を作り上げた人。
そんな人が、「自分にはない」と言った。
「僕が話すと、相手は構える。進支会の会長として見られる。同じ退学者とはいえ年齢も少し離れた大人だ。」
「……」
「でも君は違う。君は同じ退学者で、同じ学生で、しかも完璧な人間じゃない」
「最後の一言、必要でした?」
「必要だよ。完璧ではないから、相手は自分の弱さを見せやすい」
俺は何も言えなかった。
褒められているのか、欠点を並べられているのか、分からない。
けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。
俺の駄目なところも、失敗したところも、全部込みで使い道がある。
そう言われている気がした。
「期待に応えられるかは分かりません」
口から出た声は、自分で思ったより静かだった。
「でも、やるだけやってみます」
黒崎悠斗は、満足そうに頷いた。
「ありがとう」
「それで、肝心の生徒について、いい加減教えてください」
「ああ。そうだね」
黒崎悠斗は机の上の封筒を一つ取った。
白い封筒。
表には何も書かれていない。
それを俺の前に置く。
「中には、本人の基本情報と、こちらで把握している状況をまとめてある。もちろん、外部に漏らすことは厳禁だ」
「分かってます」
封筒を手に取る。
指先に、少しだけ力が入った。
中の資料を取り出す。
一枚目に書かれた名前を見た瞬間、息が止まった。
見覚えがある。
高育にいた頃、同じ学年にいた女子。
そして、退学した生徒。
資料の上に、はっきりとその名前が記されていた。
真鍋志保。
「……真鍋」
思わず漏れた声に、黒崎悠斗が静かに目を細めた。
「もちろん知っているよね」
俺は資料から目を離せなかった。