真鍋のことを話した翌日。
いつも通り教室へ入る。
俺は自然と、通路を挟んだ斜め前の席に目を向けた。
「おはよう、美琴」
言った瞬間、美琴の肩がわずかに揺れた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……おはよう、春樹くん」
いつも通りの落ち着いた声。
けれど、ほんの少しだけ目元が柔らかく見えた。
たぶん気のせいじゃない。
俺は少しだけ気恥ずかしくなって、自分の席へ向かおうとした。
その瞬間。
「おーい、山内くん?」
後ろから、にやけた声がした。
振り返らなくても分かる。
柳だ。
「今、なんて?」
「何がだよ」
「いやいやいや。俺の聞き間違いかなーって思ったんだけどさ」
柳はわざとらしく耳に手を当てる。
「美琴? 春樹? お前ら、いつの間にそんな仲になったんですかね?」
「声がでかい。やめろ」
「いや、これは声もでかくなるだろ。昨日まで黒崎さんだったじゃん」
「色々あったんだよ」
「色々って何だよ。青春か? 屋上か? 放課後か?」
「お前、無駄に勘がいいな」
いや、ほぼ当たってるのが腹立つ。
美琴は前を向いたまま、何も言わない。
けれど、耳が少し赤くなっているように見えた。
「いいよなー。山内は。転校してきてすぐ女の子と名前呼びかよ」
「別にそういうんじゃねえって」
「じゃあ俺のことも名前で呼べよ」
「は?」
思わず変な声が出た。
柳はなぜか真剣な顔をしていた。
「黒崎さんを名前で呼ぶのに、俺は柳のままって寂しくね?」
「お前、その方向で張り合うのかよ」
「友達だろ?」
その一言に、少しだけ言葉が詰まった。
友達。
そう言われると、悪い気はしなかった。
むしろ、かなり嬉しかった。
ただ、それを素直に顔に出すのは負けた気がする。
「……分かったよ、颯太」
「おう、春樹」
「距離の詰め方が急なんだよ」
「お互い様だろ」
颯太は満足そうに笑った。
何でもないやり取り。
けれど、こういうものがあるから、俺はこの学校でどうにかやれているのかもしれない。
ーーーーーーーーー
その日の放課後。
俺は二つ隣の駅に来ていた。
改札を出て、駅前の通りを歩く。
見覚えのある景色が、少しずつ増えていく。
コンビニ。
小さな喫茶店。
通りの向こうに見える本屋の看板。
俺のバイト先がある場所だ。
「……変な偶然もあるもんだな」
真鍋志保が通っている学校は、この近くにある女子校だった。
まさかバイト先の近くに、今回の目的地があるとは思わなかった。
俺はスマホで地図を確認しながら、黒崎さんと話した時のことを思い出す。
『本来なら、こういう話し合いは進支会の相談室で行う。あるいは、個室のある飲食店を借りることもある』
あの人は、机の上に置いた封筒へ視線を落としながら続けた。
『ただ、今回は本人の希望で、駅近くの公園になった。噴水の前だ』
『公園、ですか』
『あまり話すつもりはないのだろうね。人目があって、すぐに立ち去れる場所を選んでいる』
なるほど、と思った。
それにしても。
よく知らない相手。
話す気のない相手。
難易度高いな。
更に、あの人がその時、言っていたことを思い出す。
『もし彼女から話を聞くのであれば、チャンスは二回』
『二回?』
『一度目は、資料を渡す時。二度目は、提出書類を返却してもらう時。この二回の間に何かを聞くことができなければ、彼女は何も言わずに学校を去ることになるだろう』
二回。
少ないな、と思った。
人ひとりが抱えているものを聞き出すには、あまりにも少ない。
俺がそう言うと、黒崎さんは穏やかな顔で言った。
『駄目で元々だ。気楽にやってくれ』
気楽に。
黒崎さんなりの励ましのつもりなんだろうけど、
実際に駅前の景色を歩いて、公園に向かっている今は、全然そんな気分にはなれなかった。
「……気楽にやってくれ、は無理だろ」
スマホの地図を見る。
目的地は、もうすぐそこだった。
公園に入ると、噴水の水音が聞こえてきた。
夕方の公園には、帰り道の学生や親子連れがちらほらいる。
人通りはある。
けれど、騒がしいほどではない。
噴水の前に、一人の女子が立っていた。
真鍋志保。
高育にいた頃と比べて、少し雰囲気が違って見えた。
制服が違うからかもしれない。
けれど、それだけじゃない。
背筋は伸びている。
顔も強気だ。
でも、どこか張り詰めているようにも見えた。
俺が近づくと、真鍋がこちらに気づいた。
目が合う。
次の瞬間、真鍋の顔が露骨に歪んだ。
「……なんであんたが」
「久しぶり、でいいのか?」
「よくない。質問に答えなさいよ」
「いや、その前に確認したいんだけど」
「何よ」
「……もしかして、俺のこと結構知ってる感じ?」
真鍋は一瞬だけ黙った。
それから、嫌そうに目を細める。
「知ってるわよ。女子の間じゃ、クラス関係なくあんたは要注意人物って噂になってたから」
「それは知りたくなかったな……」
自分の行動が原因とはいえ、改めて他人の口から聞くと普通にきつい。
「まあ、心当たりがないとは言わねえけどさ……」
「心当たりあるんじゃない」
「恥ずかしながら……」
即答すると、真鍋は呆れたようにため息を吐いた。
「噂通りバカそうね、あんた」
「ひでえな」
「事実でしょ」
「俺だって傷つくんだからな」
真鍋は腕を組んだまま、俺を上から下まで見る。
品定めされているような視線だった。
「それで? まさか偶然通りかかったとか言うつもり?」
「いや、さすがにそれは無理があるだろ」
「じゃあ何。私に何か用?」
俺は鞄から封筒を取り出した。
真鍋の目が、ほんの少しだけ動く。
「これ、進支会から頼まれた。次の学校に関する資料。直接渡してほしいってさ」
「……なんであんたが?」
「実は進支会の会長と知り合いでさ。俺も退学者だから、同じ立場のやつの方がいいんじゃないかって」
「私はあんたでも話す気にはならないけど」
真鍋は小さく息を吐いた。
呆れているのか、少しだけ気が抜けたのか。
「まあ、あの胡散臭い奴よりはマシね」
「胡散臭い奴って黒崎さんか?あの人会長だぞ」
「力があるのは認めるけど。ああいうタイプが一番信用できないでしょ」
「悪い人ではないと思うけどな」
「あんた、高育で何見てきたわけ? 優しい顔で近づいてくる奴ほど、まず疑うでしょ。あの学校なら」
「耳が痛い話だな」
「間違ってる?」
「……いや、間違ってはない」
「あんたも気をつけなさいよ。助けるふりして、上手いこと利用されてるかもしれないじゃない」
「まあ、利用されてるのかもしれない」
「だったら――」
「でも、俺が何もしない理由にはならないだろ」
「……」
「利用されるのが怖いからって、見ないふりするのは違う気がしたんだよ」
そう言うと、真鍋は少しだけ目を細めた。
「……変なやつ」
「よく言われる」
肩をすくめる。
真鍋は小さく鼻を鳴らしてから、今度は俺の手元へ視線を落とした。
そこにある封筒を見て、眉をひそめる。
「余裕っていうか、話を聞いて放っておけなくなっただけだよ」
「ふーん」
「最初は、同じ退学者が困ってるって聞かされてたからな」
「それで来たわけ?」
「ああ」
「バカじゃないの」
「そこまで言う?」
「だってそうでしょ。知らない相手の事情に首突っ込んで、何かできると思ってるわけ?」
真鍋の声に、少しだけ棘が混じった。
さっきまでの嫌味とは違う。
踏み込むな、と言われているようだった。
それにしても、やっぱり話してはもらえなさそうだな。
……あんまりやりたくないけど、仕方ない。
「なあ」
「何」
「今、学校で上手くいってないんだろ」
真鍋の目が細くなった。
分かってる。
これは嫌われる聞き方だ。
「……あんたさ」
「デリカシーないのは分かってる」
「分かってるなら聞かないでくれる?」
「悪いとは思ってる」
真鍋がため息を吐く。
でも、ここで止まったら何も聞けない。
俺は、人の気持ちを考えて上手く聞き出すのが得意じゃない。
相手が心を開くまで待てるほど、余裕もなかった。
だから。
嫌われてもいいから、踏み込む。
「俺でよければ、話くらい聞くぜ」
「……は?」
「もちろん解決できるとは言わない。そんな力ないしな」
「そこは嘘でも何とかするって言うところじゃないの?」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「ほんと使えないわね、あんた」
「でも、誰かに話せるだけでも違うだろ。特に俺たちみたいな立場だとさ」
真鍋は呆れたように俺を見る。
けれど、さっきまでのように即座に切り捨てる感じではなかった。
「何なの、あんた」
「話を聞きに来た退学者ってとこかな」
「そのまんまじゃない」
「他に言いようがなくてな」
「ほんと、変なやつ」
冷たい言い方だった。
それでも、完全な拒絶ではない。
ほんの少しだけ、会話を続ける余地が残っている。
そう思った、その時だった。
「あれー? 真鍋さんじゃない?」
背後から、妙に間延びした声が聞こえた。
ただ名前を呼んだだけのはずなのに、そこには明らかな棘が混じっている。
真鍋の体が、目に見えて固まった。
ほんの一瞬。
けれど、見逃せる反応じゃなかった。
俺は振り返る。
真鍋と同じ制服を着た女子が三人、こちらへ歩いてきていた。