俺は柚原と名乗った少女に案内され、公園の端にあるベンチへ移動した。
噴水から少し離れただけで、さっきまでの張り詰めた空気が薄くなったように感じる。
とはいえ、完全に安心できるわけではない。
真鍋が去って、相沢たちもいなくなった直後に現れた女子。
偶然と言えば偶然だが、少し出来すぎている気もした。
俺はベンチに腰を下ろす前に、周囲を軽く見回した。
木陰。
遊歩道。
噴水の向こう側。
少なくとも、こちらを見ている人影はない。
それでも完全に安心はできなかった。
「……あの」
隣で、柚原も落ち着かなさそうに視線を泳がせていた。
「誰も、いませんよね……?」
「おそらくな」
「お、おそらくですか……」
柚原は小さく肩を縮める。
俺より、むしろ柚原の方がよほど不安そうだった。
その様子を見ていると、こっちまで必要以上に身構えているのが馬鹿らしくなってくる。
「まあ、今のところは大丈夫そうだな」
「は、はい……」
柚原は安心したように頷いた。
完全に警戒を解いたわけじゃない。
けれど、少なくともこの子が俺を罠にはめようとしているようには見えなかった。
俺はベンチに腰を下ろした。
柚原は少し迷ってから、俺から一人分ほど空けて座る。
両手を膝の上でぎゅっと握っていた。
「改めて聞くけどさ」
「はい」
「真鍋について話したいっていうのは気になる。でも、なんで俺に声をかけたんだ?」
柚原の肩が小さく揺れた。
予想していた質問だったのかもしれない。
それでも、すぐには答えなかった。
「……実は」
柚原は俯いたまま言う。
「さっきのやり取り、少し離れたところから聞いてました」
「聞いてた?」
「はい。ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったんです。でも、志保ちゃんがいるのが見えて……相沢さんたちもいて……」
柚原の声が小さくなる。
「怖くて、出ていけませんでした」
それは責められない。
さっきの空気の中に、自分から入っていくのは簡単じゃない。
俺だって、真鍋が相手じゃなければ口を挟んでいたか分からない。
「それで、俺なら声をかけてもいいと思った?」
「はい」
柚原は小さく頷く。
「あなたが、志保ちゃんのことを庇ってくれたから」
「庇ったってほどじゃないだろ」
「でも、相沢さんに言い返してくれました」
柚原は顔を上げる。
眼鏡の奥の目は、不安そうに揺れていた。
「相沢さんたちがいる前で、志保ちゃんの味方をする人、今までほとんどいなかったんです」
「……味方、か」
その言葉は、少し重かった。
さっき相沢も似たようなことを言っていた。
少し庇っただけでも、真鍋の味方だと思われるかもしれない。
相沢は脅しのように言った。
面倒ごとに巻き込まれると。
まあ実際に柚原が現れたわけだが、俺にとっては好都合だ。
「あなたなら、志保ちゃんの味方になってくれるかもしれないって思ったんです」
「そう言うってことは、君は真鍋の友達だったりするのかな?」
柚原は、一瞬だけ嬉しそうな顔をした。
でも、すぐにその表情は曇る。
「友達……って言いたいです」
「言いたい?」
「はい。でも、今もそう言っていいのか分からなくて」
柚原は膝の上の手に視線を落とした。
「小学校の時は、仲が良かったんです。でも卒業してから、中学校が別々になっちゃって」
「連絡は?」
「最初の頃は少しだけ。でも、だんだん減っていって……」
まあ、よくある話だ。
小学校で仲が良かった相手でも、中学が別になれば自然と距離は空く。
「だから、今でも友達って言っていいのか分からなくて」
「それでも助けたいのか?」
俺がそう言うと、柚原は迷わず頷いた。
「はい」
その返事だけは、さっきまでよりはっきりしていた。
「志保ちゃんは、私を助けてくれた人だから」
「助けてくれた?」
「小学校の頃、私、男子にからかわれてたんです」
柚原は少しだけ笑う。
けれど、それは楽しい記憶を思い出している笑いではなかった。
「眼鏡とか、話し方とか、運動が苦手なところとか。そういうのをからかわれて」
「……」
「最初は、私も笑ってごまかしてたんです。怒ったら余計に酷くなると思って」
分かる気がした。
弱い立場にいる人間ほど、笑ってやり過ごすしかない時がある。
自分が傷ついていることを認めるより、冗談にした方が楽な時がある。
「でも、だんだんエスカレートして」
柚原の手が、膝の上でさらに強く握られる。
「机に落書きされたり、持ち物を隠されたりしました」
「それはからかいでは済まないだろ」
紛れもないイジメだ。
「はい」
柚原は小さく頷いた。
「でも、先生に言う勇気もなくて。友達にも迷惑かけたくなくて」
「そこで真鍋が助けてくれたってわけか?」
「はい」
柚原の表情が、少しだけ柔らかくなった。
「志保ちゃんが、すごく怒ってくれたんです」
「怒った?」
「私の筆箱を隠した男子たちのところに行って、机を叩いて……」
柚原は、当時を思い出すように少し目を伏せた。
「『ねえ。何してんの? 人の物隠して楽しいわけ?』って」
その声は小さかったけれど、柚原の中では今でもはっきり残っているのだろう。
「男子たちは誤魔化そうとしたんです。でも志保ちゃん、全然引かなくて」
『返しなよ。今すぐ』
『いや、知らねーし』
『知らないわけないでしょ。さっきあんたらが持ってくの見たんだけど』
『は? 証拠でもあんのかよ』
『じゃあ先生呼ぶ? その前に返した方がマシだと思うけど』
柚原は、そこで少しだけ笑った。
「それから、志保ちゃん……その男子の机の横に立ったまま、ずっと睨んでたんです。返すまで絶対に動かないって感じで」
「強いな」
「はい。怖いくらいでした」
けれど、柚原の声には怯えよりも懐かしさがあった。
「最後には男子たちが根負けして、私の筆箱を返してくれました」
「それで、イジメは止まったのか?」
「すぐに止まったわけではないです。でも、志保ちゃんがそのあとも何度も間に入ってくれて」
柚原は膝の上の手を少し緩める。
「私に、『次やられたらすぐに言って。黙ってたら、あいつら調子乗るだけだから』って言ってくれて」
柚原が顔を上げる。
「それから休み時間も一緒にいてくれて、帰りも途中まで一緒に帰ってくれて」
柚原の表情が、ほんの少しだけ明るくなる。
「卒業するまで、ずっと仲良くしてくれました」
その声には、今でも消えていない感謝があった。
「だから、志保ちゃんがうちの学校に編入してきたという話を聞いた時、本当に嬉しかったんです」
柚原はそこで言葉を切った。
嬉しかったか。
その言葉の後に続くものは、明るい話ではないと分かる。
「でも、今はこんなことになっちゃって……」
「噂、か」
柚原は静かに頷く。
「はい」
「志保ちゃん、何を言われても否定しないんです」
「否定しない?」
「肯定もしません。でも何も言わないから……」
柚原は唇を噛んだ。
「噂だけが、どんどん広がっていっちゃって」
少しの沈黙。
それから、柚原は恐る恐る尋ねた。
「進支会の方なら……こういう問題も助けてくれるんですよね?」
俺は少し考えてから口を開いた。
「その前に一つ聞いていいか?」
「はい」
「なんで俺を進支会の人間だと思ったんだ?」
「あ……それは」
柚原は慌てたように手を振った。
「今日の昼休みに、志保ちゃんを探していたんです。そしたら、志保ちゃんが誰かと電話していて……」
「電話?」
「はい。聞くつもりはなかったんです。でも、少しだけ聞こえてしまって」
柚原は申し訳なさそうに俯く。
「『進支会』とか、『資料を受け取りたい』とか……あと、『場所の再確認……駅近くの公園で大丈夫ですか』って」
「……なるほど」
つまり、今日俺がここに来ること自体は、その電話で知っていたわけか。
まあ、正確には俺は進支会の職員じゃない。ただ手伝いを頼まれているだけなんだけどな。
「それで気になって、公園に来たのか?」
「はい……。志保ちゃんがもしかしたら、学校を移ろうとしているのかもしれないと思ったら、どうしても気になって」
柚原は膝の上で手を握りしめる。
「そしたら、あなたが志保ちゃんと話していたので……進支会の人なのかなって」
「なるほどな」
話は繋がった。
俺は一度息を吐く。
「結論から言うと今は何もできないと思う」
「え……」
柚原の表情が少し強張る。
「今のところ、本人から何も言われてないからな。本人が助けを求めていない以上、進支会はあまり動けないらしい」
柚原は目に見えて肩を落とした。
「そんな……何とかならないんですか?」
俺は首を横に振る。
「俺はもう一度話してみるつもりだ。それで困っているなら手を貸してやりたい気持ちもある」
それが簡単じゃないことも分かっている。
だから、
「そのために少しでも情報が欲しいんだ」
柚原を見る。
「学校で何が起きてるのか。相沢とのことでも、噂のことでもいい」
一拍置く。
「君が知ってることを教えてくれないか」
柚原は膝の上で握った手に力を込める。
何かを思い出しているようだった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい。私の知っていることでよければ」
そうして柚原は、ぽつりぽつりと語り始めた。