「これは……私が志保ちゃんの編入を知った時の話です」
少しだけ視線を落とす。
「ゴールデンウィークが明けてすぐのことでした」
その声は、思い出を辿るようにゆっくりとしていた。
◇ ◇ ◇
ゴールデンウィーク明け。
まだ休み明けの空気が教室に残っていた。
昼休みになると、あちこちで連休中の話が飛び交っていた。
どこへ行ったとか。
何を食べたとか。
宿題が終わらなかったとか。
私は友達の話に相槌を打ちながら、お弁当箱を片付けていた。
その時だった。
『ねえ、隣のクラスに編入生が来たらしいよ』
そんな話が、少し離れた席から聞こえてきた。
編入生。
この時期に。
珍しいな、とは思った。
でも、それ以上の関心はなかった。
私とは関係のない話だと思ったから。
『しかも女子だって』
『この時期に?』
『どんな子なんだろう?』
少し楽しそうな声。
少し探るような声。
私は、それを何気なく聞き流そうとした。
でも。
『名前、真鍋志保さんって言うんだって』
その名前を聞いた瞬間、私は思わず立ち上がってしまった。
椅子の脚が床をこすって、思ったより大きな音がした。
近くにいた友達が驚いて私を見る。
「菜月?」
「あ……ご、ごめん」
慌てて座り直した。
でも、心臓は落ち着かなかった。
志保ちゃん。
本当に?
小学校を卒業して以来、一度も会っていない。
連絡も、いつの間にか取らなくなってしまった。
それでも、忘れたことなんて一度もなかった。
私にとって、志保ちゃんは特別な人だった。
放課後。
ホームルームが終わると、私は急いで隣のクラスの教室へ向かった。
廊下を歩きながら、何を言えばいいのか考える。
久しぶり。
覚えてる?
小学校で一緒だった柚原菜月です。
何度も頭の中で練習した。
でも、教室の前まで来ると、急に足が重くなる。
もし忘れられていたらどうしよう。
もし迷惑そうな顔をされたらどうしよう。
そんな考えが浮かんだ。
それでも、ここまで来たのだからと思って、近くにいた生徒に声をかけた。
「あ、あの……真鍋さんって、まだいますか?」
「ああ、真鍋さん? さっき先に帰ったよ」
そう言われてしまった。
「そう……ですか」
少しだけ残念だった。
でも、仕方ない。
また明日の休み時間にでも会いに来よう。
そう思って昇降口へ向かって歩き始めた、その時だった。
「あ……」
廊下の窓の向こう。
中庭を歩いていく志保ちゃんの姿が見えた。
遠目でも分かった。
髪型や雰囲気、何より昔から前髪につけているヘアピン。
記憶の中の志保ちゃんと重なる。
思わず胸が熱くなった。
でも、すぐに違和感を覚える。
「あれ……?」
その方向は校門とは逆だった。
校舎裏へ続く道。
まだ学校に慣れていなくて迷っているのかな。
そんな風に思った。
せっかく見つけたんだから、声くらい掛けよう。
私は急いで階段を下りた。
足音が廊下に響く。
自分でも少し慌てすぎだと思った。
けれど、今声をかけなかったら、また明日まで話せない。
そう思うと、じっとしていられなかった。
けれど。
校舎裏へ着いた瞬間、足が止まった。
「……え?」
志保ちゃんの前には、三人の女子が立っていた。
一人は、少し暗めの朱色の髪色。
あれは相沢さん?
その後ろに二人。
何か話している。
でも、私のいる場所からは少し距離があって、声までは聞こえない。
ただ、楽しい話をしている空気ではなかった。
どうしよう。
今日は帰ったほうがいいのかな。
迷っていると、相沢さんが一歩前に出た。
何かを言っている。
けれど、距離があって、私のところまでははっきり聞こえなかった。
志保ちゃんも何かを返した。
その言葉も、私にはほとんど聞き取れなかった。
ただ、その直後。
相沢さんの表情が、はっきりと変わった。
「……は?」
空気が凍ったように感じた。
次の瞬間、相沢さんは志保ちゃんの制服を掴んでいた。
「ふざけんな!」
大きな怒鳴り声が響く。
私は思わず物陰へ身を隠した。
「相沢! 落ち着いて!」
後ろの一人が慌てて腕を掴む。
「気持ちは分かるけど!」
もう一人も止めに入る。
それでも相沢さんは、息を荒くしたまま志保ちゃんを睨んでいた。
一方で、志保ちゃんは。
怒るでもなく。
言い返すでもなく。
ただ、相沢さんを見ていた。
その顔が、私には驚いているように見えた。
やがて二人に宥められ、相沢さんはゆっくり手を離した。
乱れた制服を、志保ちゃんが無言で直す。
「……じゃあ、せめて教えてよ」
相沢さんの声は、さっきより低かった。
「なんで学校辞めたの?」
志保ちゃんは答えない。
「何があったの?それくらいはいいでしょ」
それでも、志保ちゃんは静かに首を振った。
「……それについては話す気はない」
その一言だけだった。
相沢さんは、何も言わない。
でも、その目だけは志保ちゃんを強く睨みつけていた。
しばらくして。
「……聞きたいことがそれだけなら帰る」
志保ちゃんはそう言って歩き出した。
「ちょ、真鍋!」
取り巻きの一人が呼び止めようとする。
でも。
「いい」
相沢さんが手で制した。
そのまま志保ちゃんの背中を見つめながら、小さく呟く。
「……絶対、聞き出すから」
低い声だった。
私は、隠れたまま動くことができなかった。
志保ちゃんがいなくなって。
相沢さんたちもいなくなって。
校舎裏が静かになっても、しばらくその場から動けなかった。
翌日。
学校では、噂が流れ始めていた。
『退学になったらしいよ』
『男絡みなんじゃない?』
『問題起こしたって聞いた』
『誰かをイジメてたんでしょ?』
『えー怖くない?』
本当かなんて、誰も知らない。
それなのに、噂だけがどんどん広がっていった。
一体何が起きているの?
そんな疑問と不安だけが心の中に広がった。
放課後。
私はもう一度、志保ちゃんに会いに行った。
今度こそ話そうと思った。
廊下で見つけた志保ちゃんは、一人で歩いていた。
「あの……」
私の声に、志保ちゃんが振り向く。
近くで見ると、やっぱり大人っぽくなっていた。
でも、確かに小学生の頃の面影があった。
「志保ちゃん、私のこと覚えてる? 小学校の時、よく一緒にいた柚原菜月――」
一瞬だけ。
志保ちゃんは驚いたような顔をした。
私を覚えてくれていた。
そう思った。
でも、その表情はすぐ消えた。
「……人違いじゃない?」
「え……?」
「私に関わらないで」
冷たい声だった。
そう言うと、志保ちゃんはそのまま歩いて行ってしまった。
私は、何も言えなかった。
追いかけることもできなかった。
すごくショックだった。
小学生の頃の思い出は私だけが、勝手に大事にしていただけだったのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が苦しくなった。
それからしばらくは、ショックで話しかけることもできなかった。
それでも心の中では諦めきれなくて、
もう一度話をしたい。
でも、また拒絶されたらどうしよう。
そんな風に迷っているうちに時間だけが過ぎていく。
そして時間が経つに連れて、噂だけはどんどん大きくなっていった。
それでも、志保ちゃんは何も言わなかった。
他のクラスの子に話を聞くとそのせいで孤立しているみたいだった。
その話を聞いた時、私は小学生の頃のことを思い出した。
あの時、志保ちゃんは私の前に立ってくれた。
今度は私が何かしなきゃいけないんじゃないか。
そう思った。
ちゃんと聞こう。
何があったのか。
忘れられてたとしても関係ない。
そう決めて昼休みに探しに行った時だった。
偶然、志保ちゃんが誰かと電話している声が聞こえた。
「……進支会の……さんですか?」
少しずつ聞こえてきた。志保ちゃんの声だ。
「資料を受け取りについてです。……はい」
少し間が空く。
「場所の再確認なんですけど、今日の夕方、駅近くの公園で大丈夫ですか?」
進支会。
資料。
駅近くの公園。
その言葉を聞いて私は公園へ向かうことを決めた。
◇ ◇ ◇
「……そして今に至る、ってわけか」
「はい」
柚原は小さく頷いた。
「勝手に聞いて、勝手について来て……よくないことだったとは思います。でも、どうしても気になって」
「いや」
俺は首を振る。
「少なくとも、見ないふりをしなかっただけでも十分だと思う」
柚原は驚いたように顔を上げた。
「私、何もできてません」
「それでも、ここまで来たんだろ」
そう言うと、柚原は少しだけ目を伏せた。
俺は腕を組む。
「まあ、その揉め事が発端で、噂を流してるのも、おそらく相沢なんだろうな」
柚原も静かに頷く。
「私も……そう思います」
「でも……」
どうにも引っかかる。
「そこまで怒る理由は何なんだ?」
単に退学理由を知りたいだけなら、あそこまで感情的になるだろうか。
胸ぐらを掴むほど怒るには、もう少し別の何かがある気がした。
俺は少し考えてから柚原を見る。
「柚原さん。他に相沢について分かることはないか?」
「ご、ごめんなさい」
柚原は申し訳なさそうに首を振る。
「相沢さんとは学校でもほとんど関わりがなくて……。他には何も」
一度言葉を切ってから、小さく続けた。
「せめて中学校が一緒だったら、何か分かったかもしれないんですけど……」
「中学校?」
「はい」
柚原は頷く。
「うちの地域、中学校は駅を境に学区が分かれてるんです。私は駅のこっち側で、志保ちゃんと相沢さんは向こう側だったので」
「……学区か」
その言葉で、一つ思い当たることがあった。
駅の向こう側。
真鍋の中学時代。
そして、相沢があそこまで真鍋に執着する理由。
それを知っているかもしれない人物がひとりいた。
「ありがとう、柚原さん」
「え?」
「中学時代のことを知ってるかもしれないやつに心当たりができた」
「そ、そうなんですか?」
「ああ」
俺は立ち上がる。
「俺はそっちを当たってみる。柚原さんは学校で何か動きがあったら教えてくれ」
「……はい!」
今度の返事には迷いがなかった。
俺たちは互いに連絡先を交換する。
そして、それぞれ別々の方向へ歩き始めた。