翌日。
いつも通り教室へ入ると、俺は自然と通路を挟んだ斜め前の席に目を向けた。
「おはよう、美琴」
声をかけると、美琴はゆっくり顔を上げた。
「……おはよう、春樹くん」
昨日電話で話したばかりだからか、いつもより少しだけ視線が合う時間が長かった気がする。
「昨日はありがとな。かなり助かった」
「ううん。役に立ったならよかった」
美琴はそう言って、ほんの少しだけ目元を緩めた。
昨日聞いた真鍋と相沢の話は、俺にとってかなり大きかった。
高育にいた頃の印象だけでは見えなかったもの。
相沢の執着の正体。
その全部が分かったわけじゃないが、色々と知ることができた。
「それで、情報料の件なんだけどさ」
「……情報料?」
「昨日言ってただろ。何か奢ってって」
「本当にいいの?」
「もちろん」
そう言うと、美琴は少しだけ目を瞬かせた。
「何がいい? 甘いものとか?」
「甘いもの……」
美琴は少し考えるように視線を落とした。
「ケーキとか?」
「いいな。駅前に喫茶店あったよな。あそこでもいいし、他に行きたいところあるなら合わせるけど」
「……春樹くん、意外とちゃんと考えてくれるんだね」
「意外とは余計だろ」
「ごめん」
美琴は小さく笑った。
その笑い方が少し柔らかくて、俺は何となく視線を逸らす。
「まあ、バイトがない日なら付き合えるからさ。決まったら教えてくれ」
「うん。考えておく」
駅前の喫茶店以外にも目ぼしい店ないか調べてみるか。
そう思い携帯を取り出した。
「おーい」
その瞬間、後ろから妙に楽しそうな声が飛んできた。
振り返らなくても分かる。
颯太だ。
「朝から何ですかね、その空気は」
「何の空気だよ」
「いやいや。ケーキ? 喫茶店? 行きたいところ? これはもうデートの相談では?」
「違う。美琴に少し助けられたから、その礼だよ」
「なんであれ、女の子と喫茶店行くなら、それはもうデートだろ。なあ春樹くん」
「そんなことないだろ」
そう言い返したものの、頭の中に喫茶店で向かい合って座る美琴の姿が一瞬だけ浮かぶ。
……いや、だから違うって。
ただお礼をするだけだ。
自分で自分に言い聞かせるように小さく首を振る。
すると颯太は、その反応を見逃さなかった。
「お、今ちょっと想像しただろ」
「してねぇよ」
「否定が一拍遅かったな」
「気のせいだろ」
俺がぶっきらぼうに返すと、颯太はニヤニヤしたまま肩をすくめた。
「まあいいや。礼って言うなら、俺にも何か奢ってくれよ」
「なんでだよ」
「いつもお世話してやってるだろ」
「覚えがないんだが」
「あるだろ。転校初日から学校案内してやったし、購買も教えてやったし、授業中に上の空の時も助けてやっただろ」
「それは……まあ、助かったけど」
「ほら見ろ」
「でも最近は俺の方が宿題とか見せてやってる気がする」
柳は一瞬言葉に詰まる。
「……そ、それとこれとは話が別だ」
「お前なぁ」
颯太は机に片手を置きながら、にやっと笑った。
「じゃあ今日の放課後、奢りじゃなくてもいいからどっか行こうぜ」
「どっか?」
「俺と放課後デートだ」
「普通に遊びに行くって言えよ。気持ち悪いな」
「ひどくね?」
「言い方が悪い」
颯太は大げさに傷ついたことをアピールをしていたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「で、どうよ。ゲーセンでもカラオケでも、飯でもいいけど」
「悪い。今日はバイトがあるから無理だ」
「あー、そっか。お前バイトか」
颯太はあちゃーと言いながら片手で顔を抑える
しかし、すぐに颯太が少しだけ真面目な顔になった。
「山内、お前最近ずっと忙しいのな。無理してないか?」
「平気だよ」
「ほんとか?」
「ほんとほんと。バイトも慣れてきたし」
進支会のことや真鍋のことまでは言えない。
けれど、颯太が忙しいのを察して心配しているのは分かった。
だから俺は、できるだけ心配させないよう、軽く笑ってみせた。
「ならいいけどよ。まあ、落ち着いたらゆっくり飯でも行こうぜ」
「おう」
そう言って、俺たちはそれぞれ席についた。
放課後。
授業を終えた俺は、そのままバイト先の本屋へ向かった。
制服から店のエプロンに着替え、レジ周りの整理をしてから、棚の補充へ回る。
夕方の本屋は、学校帰りの学生や会社帰りの客でそれなりに人が多い。
売り場を回りながら、俺は手元のリストを確認する。
今日は新しく入った問題集を参考書コーナーに並べることになっていた。
箱を参考書コーナーに運ぶためにカートに乗せた。
その時だった。
「あの、すみません」
背後から声をかけられた。
「はい、何でしょうか――」
振り返った瞬間、言葉が止まった。
向こうも同じだった。
真鍋志保が、こちらを見ていた。
そして、露骨に顔をしかめる。
「……げっ」
「話しかけといて「げっ」はないだろ」
「なんであんたがここにいるのよ」
「見ての通りバイトだよ」
俺は自分のエプロンを軽くつまんで見せる。
真鍋は信じられないものを見るような目で俺を見た。
「まさか、こんなところでバイトしてるとは思わなかった」
「俺も、まさかお前が来るとは思わなかったよ」
「……帰る」
真鍋は即座に踵を返そうとする。
「いや待てって。何か本探してるんだろ。この辺に本屋はここしかないだろ」
「……」
「他の本屋行くの大変だし、ここで探した方がいいんじゃないか?」
真鍋は足を止めた。
しばらく無言でこちらを睨む。
俺が何も言わずに待っていると、真鍋は諦めたように小さく息を吐いた。
「……参考書コーナー」
参考書コーナーか。あそこなら人も全然来ないし真鍋と少し話せるかもな。
「了解。案内するぜ」
俺は棚の間を抜けて、参考書コーナーへ案内する。
真鍋は少し距離を取りながらついてきた。
棚に並んだ本へ視線を移す。
俺はその近くで、さっきの補充作業を再開した。
すると、真鍋が横目でこちらを見る。
「私の近くにいないで、仕事に戻りなさいよ」
「いや、見ての通り、元々この辺で本並べる予定だったんだよ」
「……チッ」
分かりやすく舌打ちされた。
「俺は真面目に仕事してるだけなのになー」
「うるさい」
そう言いながらも、真鍋は棚の本を一冊手に取った。
表紙を見て、裏返し、少しだけ中身を確認する。
「それにしても、何探してるんだ?」
答えてくれるかは分からない。
けれど、何も話さなければそれまでだ。
とりあえず話題を振ってみる。
「転入試験用に問題集」
返事が返ってきた。
思わず少し驚く。
「今度受けるから、少しやっておきたいの」
「もう学校決まったのか?」
「ある程度はね」
「そうなのか」
「ある程度、学校を移る時期が決まっているなら、進支会で用意した試験を受けるらしいの。それで合格をもらえば、その結果で向こうの学校の試験をパスできるって説明されたのよ」
「へえ〜」
思わず感心してしまう。
すると、真鍋が呆れたようにこちらを見た。
「あんた、進支会の人間なのに知らないの?」
「いやー、俺はお手伝いしてただけなんで」
「ほんと気の抜けるやつね」
「よく言われるぜ」
「褒め言葉じゃないわよ」
「わかってるよ」
真鍋はもう一度棚に視線を戻した。
その横顔は、昨日公園で見た時より少しだけ落ち着いて見えた。
俺は手元の本を棚に差し込みながら、少しだけ声を落とした。
「なあ、真鍋」
「何」
「俺、もうすぐバイト終わるんだけどさ。少し話さないか?」
「嫌」
「即答かよ」
「当然でしょ」
真鍋は本から目を離さない。
予想通りではある。
けれど、ここで引いたら何も変わらない。
「別にいいだろ。前も言ったけど、俺たち同じ退学者なんだし」
「それが何?」
「転校したら、もうこういったことを話せる奴もいなくなるかもしれないだろ」
「……」
真鍋の指が、本のページをめくる途中で止まった。
少しだけ間が空く。
俺は続けた。
「それに、柚原さんの話もしたいしな」
その瞬間、真鍋の肩がぴくりと揺れた。
さっきまでの面倒くさそうな表情が消える。
「……菜月のこと?」
「ああ」
「なんで、あの子が」
「昨日、公園で会った。相沢たちが帰ったあと、俺に声をかけてきた」
真鍋は何も言わない。
ただ、握っていた問題集の端に力が入った。
俺はその様子を見て、小さく肩をすくめる。
「それにしても菜月ねぇ」
「……何が言いたいの」
「俺、今まで一度も柚原さんの名前は言ってない」
「……」
「名字しか出してないのに、お前はさっき『菜月』って言った」
真鍋の目が、わずかに細くなる。
「それが何?」
「柚原さんから聞いた。前に話しかけた時、お前は人違いだって言ったらしいな」
「……」
「でも、本当は覚えてたんだろ。あの子のこと」
真鍋はすぐには答えなかった。
ただ、こちらを見る目だけが鋭くなる。
「……うまく聞き出したつもり?」
「別に。たまたまだ」
真鍋の視線が刺さる。
けれど俺は逸らさなかった。
「一つだけ分かったことがある」
「……」
ここへ来るまでに聞いた話が、頭の中で少しずつ繋がっていた。
柚原さんが話してくれた、小学校の頃の真鍋。
困っている子を放っておけず、自分から前に出て助けようとしていたこと。
美琴から聞いた、中学時代の真鍋。
グループの中心に立ち、仲間を守ろうとしていたこと。
どちらの話にも共通していたのは、真鍋が誰かを見捨てるような人間ではなかった、ということだ。
そんな真鍋が、柚原さんに対して人違いだと言って突き放した。
嫌いになったから。
忘れていたから。
いや、理由は別にあるはずだ。
「お前、柚原さんを騒動に巻き込みたくなくて、わざと距離を置いたんじゃないのか」
「何のこと?」
真鍋は即座に否定した。
けれど、その返事は少し早すぎた。
図星を突かれた人間は、考える前に否定することがある。
俺自身にも、覚えがあった。
「違うなら、それでもいい。でもさ──」
俺は、できるだけ声を荒げないように続けた。
「あの子は、お前を助けたいと思ってる。だから昨日、俺にまで声をかけてきた」
「……」
「このまま何も分からないままだと、柚原さんはたぶん動くぞ。相沢たちに直接何か言うかもしれないし、学校に相談しようとするかもしれない」
真鍋の表情が、わずかに曇った。
怒ったわけじゃない。
面倒くさそうにしたわけでもない。
一瞬だけ、本当に困ったような顔をした。
「……あの子には関係ない」
「そう思ってるのは、お前だけだ」
「……」
「柚原さんはもう関係者だ。少なくとも本人は、そのつもりだと思う」
真鍋は黙ったまま、視線を落とした。
言い返す言葉を探しているようにも見えた。
けれど、出てこない。
たぶん真鍋も分かっている。
柚原さんはもう、見て見ぬふりができる場所にはいない。
「でも、お前にも言えない事情があるんだろ」
「……」
「高育のこともある。簡単に説明できないことも多い。下手に話せば、守秘義務に触れるかもしれない」
真鍋の指先が、わずかに動いた。
問題集の端を握る力が強くなる。
「それに、柚原さんと直接会ってるところを相沢たちに見られたら、今度はあの子が目をつけられるかもしれない」
「……」
「そういう不安があるから、お前はあの子を遠ざけたんじゃないのか」
真鍋は答えなかった。
でも、否定もしなかった。
それだけで十分だった。
少なくとも、俺の言葉は的外れではない。
「だったら、まず俺に話してみないか」
「……信用しろってこと?」
「そこまでは言わない」
俺は首を振った。
ここで信用しろなんて言えるほど、俺たちはまだ近くない。
だから、別の言い方を選んだ。
「ただ、俺なら柚原さんに直接会っても不自然じゃない。昨日、もう話してるからな」
「……」
「お前が直接言えないなら、俺から伝える。余計なことは言わない。お前が柚原さんを巻き込みたくないと思ってることだけでも伝えられる」
少しだけ間を置く。
「だから、俺を使ってみたらどうだ」
真鍋は黙ったまま俺を見る。
その沈黙を破ったのは、真鍋だった。
「……なんで、そこまでするの」
「ん?」
「元々、あんたとは知り合いでもなかったでしょ」
少しだけ考えてから、俺は口を開いた。
「俺はさ、退学してからずっと思ってたんだ」
「自分は何もできないまま終わったんだって」
「……」
「学校を追い出されるとさ、思った以上にきついんだよ。周りは普通に進んでるのに、自分だけそこから外されたみたいで」
あの時の感覚は、今でも覚えている。
自分の居場所はなくなったような感覚。
「誰かに話したくても、何を話せばいいのか分からない。分かってほしくても、分かってもらえる気がしない」
俺は真鍋を見る。
「そういう気持ちが、少しは分かるつもりだ」
「……」
「だから、お前のことも放っておけなかった」
少しだけ息を吐く。
「何より、今ここでお前を放っておいたら、本当に俺は何もできないまま終わった人間になっていく気がした」
「だから関わってる」
「それが、お前の助けになるかは分からないけどな」
真鍋は小さく笑った。
「……アンタ、ほんと面倒くさいわね」
「お前な」
「褒めてるのよ。一応」
「今のどこに褒め要素があったんだよ」
「少なくとも、嘘っぽくはなかったから」
思わず苦笑が漏れる。
真鍋は何かを考えるように視線を落とす。
長い沈黙。
やがて小さく口を開いた。
「……バイト、いつ終わるの?」
「あと二十分くらい」
「長い」
「客の都合でバイトは終われないんだよ」
「使えないわね」
「そこは仕方ないだろ」
真鍋はため息をつき、棚から問題集を一冊手に取った。
「これ、買うから」
「毎度ありがとうございます」
「急に店員ぶらないでよ」
「いや、店員だからな」
レジへ向かう真鍋の後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
正直話す機会が来るとは思ってなった。
でも、ここにきてチャンスが来た。
そこから、バイトが終わるまでの二十分が、やけに長く感じた。
服を着替え、店の裏口を出る。
建物の横には、真鍋が壁にもたれて待っていた。
買ったばかりの問題集が入った袋を片手に提げている。
「本当に待ってたんだな」
「帰ってもよかったんだけど」
「でも待っててくれたんだろ。ありがとな」
「うるさい」
真鍋は顔を逸らす。
その反応を見て、少しだけ安心した。
「で、どこ行く?」
「人が少ないところ」
「この時間なら駅前の喫茶店とかいいんじゃないか?」
「……それでいい」
そういって歩き出すと、真鍋は俺の少し後ろをついてきた。