いよいよ俺は決戦の場に向かう。
職員室へ向かう廊下は、やけに長く感じた。
正直、今でも逃げたい。
職員室に行きたくない。
しかし、退学者が退学手続きから逃げてどうする。
落ち着け、山内春樹。
俺は職員室の前で足を止めた。
ノックする手が、少し震えている。
情けない。
ただの扉だ。
開けた先にいるのは教師であって、怪物じゃない。
でも、その先には俺がこの学校から正式に切り離されるための話が待っている。
怖いものは怖い。
俺は一度だけ息を吐き、扉を叩いた。
「失礼します」
職員室の中は、いつもと変わらなかった。
教師たちが机に向かい、書類を整理し、端末を操作している。
俺が入ってきても、何人かがちらりと見るだけだった。
退学者一人に、長く視線を向ける必要はない。
そう言われているようで、胸の奥が少し痛んだ。
「山内。こっちだ」
茶柱先生の声がした。
職員室の奥の面談スペース。
そこに先生が座っていた。
「座れ」
先生に促され、俺は椅子に腰を下ろした。
いつもの黒いスーツ。整った姿勢。冷静な目。
そこに同情らしいものは見えない。
いや、あったらあったで困るかもしれない。
今の俺は、優しくされたら普通に泣く自信がある。
先生は、机の上にいくつかの書類を置いた。
「退学後の手続きについては、保護者への連絡、荷物の整理、必要書類の確認。それらは順次進める」
「……はい」
自分でも驚くくらい、声が小さかった。
「それとは別に、今後の進路について話しておく」
「進路……ですか」
その言葉が妙に遠く聞こえた。
退学になったばかりの俺に、進路。
いや、考えなきゃいけないのはわかっている。
わかっているけど、今の俺の頭の中は、まだ教室で止まっていた。
批判票の一位。
残念ながらお前だ。
山内春樹。
その声が、耳の奥で何度も鳴っている。
「山内」
「はいっ」
「聞いているか」
「き、聞いてます」
「ならいい」
いや、今完全に聞いてなかった。
すみません。聞いてるふりだけは一人前です。
先生は、そんな俺の内心など見透かしているように、淡々と続けた。
「お前は、この学校では学力面でも運動面でも高い評価を得ていたとは言いがたい」
「……はい」
それはまあ、そうだ。
わざわざ言われなくても知っている。
この学校の中で俺は優秀じゃなかった。どころか、かなり下の方だったと思う。
健のやつみたいに運動で突出しているわけでもない。
平田みたいに人望があるわけでもない。
堀北みたいに頭がいいわけでもない。
綾小路みたいに、暗躍できるやつでもない。
「だが」
茶柱先生の声が、そこで少しだけ変わった。
「外の学校の基準で見れば、話は別だ」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「外の学校?」
「そうだ」
先生は書類を一枚、俺の方へ滑らせた。
そこには、いくつかの学校名らしきものが並んでいた。
偏差値。編入時期。必要書類。試験内容。面接の有無。
俺は目で追ったが、すぐには理解が追いつかなくなった。
「待ってください。俺、退学ですよね?」
「そうだ」
「それで……他の学校にすぐに入れるんですか?」
自分で言っていて、かなり情けない質問だった。
でも本気でわからなかった。
退学になったら、人生終わり。
少なくとも、高校生活は完全に終わり。
そんなふうに思い込んでいた。
茶柱先生は、表情を変えずに言った。
「退学したからといって、道が閉ざされるわけではない。お前の場合、高度育成高等学校に一年間在籍していた実績がある」
「実績……」
「この学校は特殊だ。故に外から見れば、入学できた時点で一定の学力や適性を認められている。そして一年間、退学せずに在籍した。その事実も、外部の学校では評価材料になる」
「でも俺、退学になったんですけど」
「それも事実だ」
即答だった。
うん、知ってた。
少しはオブラートに包んでほしかった。俺のメンタルは今、紙より薄い。
「だからといって、お前が外部で完全に底辺ということにはならない」
茶柱先生は、俺をまっすぐ見た。
「この学校の基準で見れば、お前は実力不足だった。だが外の中堅程度の全日制高校なら、現時点で編入を狙えるだろう」
「編入か……」
その言葉に、俺は思わず固まった。
通信制とか、定時制とか、そういう選択肢を言われると思っていた。
いや、それが悪いという意味じゃない。
ただ、今の俺には、普通の高校生活なんてもう無理だと思っていた。
制服を着て、朝から学校へ行って、教室に座って、授業を受ける。
そんな当たり前みたいなものが、もう俺には残っていないと思っていた。
「もちろん、お前が望めばもっと上の学校を選択することもできる」
茶柱先生は意外なことを言ってきた。
「選択権は全てお前にあるということだ。チャンスは平等に与えられる。つかみ取れるかは実力次第だがな」
「そうですか……」
そんな言い方をされるとは思っていなかった。
「……俺にやれると思いますか」
「さあ」
「そこは少しくらい励ましてくれてもよくないですか?」
思わず口から出た。
言ってから、しまったと思った。
でも茶柱先生は怒らなかった。
「ひとつ言っておくと、お前が優秀だから選択肢があるのではない。この学校に入学し、一年間在籍したから、最低限の選択肢が残っているというだけだ」
厳しい。
けれど、不思議と突き放されている感じはしなかった。
ただ、現実をそのまま突きつける。
お前はこの学校では実力不足だった。
でも外で完全に終わったわけではない。
そう言われている気がした。
「新しい学校……」
俺は書類に視線を落とした。
そこにある学校名は、どれも俺が今まで真剣に考えたことのない場所だった。
当たり前だ。俺はこの学校にいるつもりだった。
卒業までここにいるつもりだった。
なのに今、別の学校へ行く話をしている。
「学校側としても、退学者を放置するわけではない」
茶柱先生が言った。
「進路に関する支援は行う。候補校の提示、必要書類の準備、成績証明などだ。更には志望校が家から通えない場合などには物件の紹介や家賃の補助や学生寮の紹介なども行なっている」
「……そこまでしてくれるんですか」
「ただし、無条件ではない」
その言葉で、少しだけ背筋が伸びた。
「条件があるんですか」
「当然だ」
茶柱先生は、机の上に別の書類を置いた。
今度の書類は、さっきの学校リストとは違う。
文字が細かい。形式ばった文章。署名欄。
俺は内容を目で追い、途中で息が詰まった。
守秘義務。
在学中に知り得た学校の制度、試験内容、生徒の個人情報、運営に関する情報を、外部に漏らしてはならない。
そういう意味の文章が並んでいた。
「お前は退学する。だが、高育に在籍していた事実は消えない」
茶柱先生の声は静かだった。
「この学校で知ったことを、外で不用意に話すことは許されない」
「……それは、わかってます」
「本当にわかっているか?」
顔を上げると、茶柱先生の目が俺を見ていた。
冷たいというより、試すような目だった。
「退学直後の人間は不安定になる。自分を正当化したくなる者もいる。前の学校を悪く言うことで、自分を保とうとする者もいる。あるいは、珍しい話として他人に話したくなる者もいる」
「……」
全部、心当たりがありそうで嫌だった。
俺ならやりかねない。
いや、何も言われなければ絶対やっていた気がする。
「高育ってやばい学校でさ」
「ポイント制度ってのがあって」
「試験で退学者が出て」
「俺、実はすごい学校にいたんだぜ」
そんなふうに、見栄を張る材料にしたかもしれない。
「クラスメイトを守って退学した」
そんなことを武勇伝のように語ってしまうかもしれない。
茶柱先生は続ける。
「お前には進路支援を行う。ただし、それは守秘義務を守ることが前提だ」
「……守らなかったら?」
「支援は打ち切る。場合によっては、その後の進路にも影響する可能性がある」
「……脅しですか?」
「脅しではない。警告だ」
胃が重くなった。
でも、理不尽だとは思わなかった。
この学校は特殊だ。
一年間いただけでも、普通の高校では知り得ないことを見ている。
ポイント制度。特別試験。クラス競争。退学者が出る仕組み。
そして、そこにいた生徒たち。
国が運営している学校の秘密。
軽く話していいものじゃない。
「山内」
「はい」
「お前がこれから外に出れば、この学校のことを聞かれる場面もあるだろう」
「……はい」
「その時、お前は話せることと話せないことを区別しなければならない」
「話せること……」
「一般的な学校生活、学習面、寮生活に関する差し支えない範囲なら問題ない。だが、学校独自の制度や試験の詳細、在校生の個人名、評価の仕組み、退学に至る過程を外部に話すことは避けろ」
俺は小さく頷いた。
「聞かれたら、どう答えればいいんですか」
茶柱先生は少しだけ考えるように間を置いた。
「競争の激しい学校だったが、自分ついていけなかった。詳しいことは話せない。そう答えればいい」
「……それだけでいいんですか」
「それ以上話す必要はない」
それだけ。
競争の激しい学校だった。
自分はついていけなかった。
詳しいことは話せない。
簡単な言葉だ。
俺がここで過ごした一年を、そのくらい短く畳まなきゃいけない。
「まあ、なるべく聞かれないよう隠していくのも手だが…」
そこで言葉を挟んだ。
「先生」
「なんだ」
「俺って、外でやっていけますかね」
聞いてから、情けなくなった。
何を聞いてるんだ俺は。
茶柱先生が「大丈夫だ」なんて言うタイプじゃないのは知っている。
案の定、茶柱先生はすぐには答えなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙の間、俺は自分の手を見ていた。
机の下で、指先が少し震えている。
正直怖い。
怖いもんは怖いだろ。
強がっても仕方ない。
「やっていけるかどうかは、お前次第だ」
茶柱先生は言った。
予想通りの冷たい答え。
でも、その後に続きがあった。
「ただし、外の学校ではこの学校と同じ基準で実力を測られるわけではない」
「……」
「お前がここで下位だったことは事実だ。だが、それがお前のすべてではない。外では外の評価がある。そこでも失敗するか、やり直すかは、お前のこれからの行動で決まる」
「俺の、これから……」
「そうだ」
茶柱先生は、書類の一番下を指で示した。
「この学校を出た後も、実力を示さずに逃げ続けるなら同じことを繰り返す。だが、少なくとも今は、学校側から与えられた多くの選択肢がある」
俺は書類を見た。
新しい学校
編入試験。
守秘義務。
どれも重い。
しかし、俺の人生がここで完全に終わったわけじゃない。
そう思った瞬間、心が少し軽くなった。
安心じゃない。
でも、真っ暗だと思っていた場所に、少し光が差した
「……先生」
「なんだ」
「俺、希望が持てました」
「早いな」
「昔から切り替えは早いんで」
茶柱先生は表情を変えなかった。
けれど、ほんの少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
「手続きには保護者の同意も必要になる。候補校については、後日改めて説明する」
「はい」
「それまでに、お前自身も考えておけ。編入するなら、早めに決めなければ選択肢も狭くなっていくからな」
「……わかりました」
「改めてお前は退学になる」
胸がまた少し重くなる。
「だが、それをどう扱うかはお前次第だ」
「どう扱うか……」
「過去の失敗として終わらせるのか。言い訳に使うのか。あるいは、次に同じことをしないための材料にするのか」
茶柱先生の言葉は、妙に逃げ場がなかった。
俺は、今まで失敗を糧にする力が足りなかった気がする。
よく言えば切り替えが早いが同じような失敗をする可能性が高くなる。
ここでは一度刻み込もう。
退学。
その事実を。
「……同じような失敗は、もうしたくないです」
口から出た声は、小さかった。
でも、それはたぶん、本音だった。
「そうか」
先生は短く答えた。
俺は慌てて視線を落とした。
「……ありがとうございます」
小さくそう言うと、先生は少しだけ目を細めた。
「礼を言うのはまだ早い」
「え?」
「お前が外で同じ失敗を繰り返さなかった時に言え」
「……厳しいですね」
「教師だからな」
そう言って、先生は書類をまとめた。
面談は終わりに近づいていた。
「山内」
立ち上がろうとした俺を、先生が呼び止めた。
「はい」
「最後に一つだけ言っておく」
先生は、いつも通りの無表情で俺を見た。
「お前はこの学校を去る。だが、この一年が完全に無意味だったわけではない」
「……」
「ここで失ったものもあるだろう。だが、見たもの、知ったもの、学んだものもあるはずだ」
胸の奥が、また少しだけ痛んだ。
俺が高育で学んだもの。
そんなもの、あるのか。
そう思いかけて、ふと止まる。
大切な友人
ポイントの使い方。
証拠を残すこと。
ルールの穴。
人に流される怖さ。
自分の馬鹿さ。
色々と思い出した。
それは楽しいことだけじゃなかった。
辛いこともあった。
でも、何も残らなかったわけじゃない。
「それを外でどう使うかは、お前次第だ」
「……はい」
今度は、さっきより少しだけはっきり返事ができた。
俺は書類を受け取り、面談室を出た。
廊下は静かだった。
窓の外から、どこかのクラスの声が微かに聞こえる。
俺が少し前まで当たり前にいた場所の音だ。
もう戻れない。
その事実は変わらない。
でも、完全に終わったわけでもない。
俺は手元の書類を見た。
全日制高校への編入候補。
守秘義務に関する確認書。
保護者説明の予定。
現実の紙束。
夢も希望もない。
でも、現実だからこそ、まだ掴める。
「……新しい学校、か」
口に出すと、少しだけ変な感じがした。
俺がまた普通の学校に行く。
普通の教室に入る。
普通に授業を受ける。
普通。
その言葉が、今はやけに遠くて、少しだけ眩しかった。
「まあ……やるしかねえよな」
誰に言うでもなく呟く。
廊下の先に、寮へ続く道が見える。
荷物をまとめなきゃいけない。
自分が何を持ってきて、何を置いていくのか。
それを一つずつ確認しなきゃいけない。
この学校での一年は、全部なかったことにはならない。
持てるものだけ持っていく。
書類を握る手に、少しだけ力を込めた。
退学者になった。
でも、まだ終わってはいない。
そう思えたことが、今の俺には少しだけ救いだった。