俺は自室に戻ると、扉を閉めて、その場でしばらく立ち尽くした。
机。
ベッド。
棚。
制服。
教科書。
使いかけのノート。
「……まず、荷物か」
口に出してみる。
俺は小さく息を吐いて、棚の前にしゃがんだ。
教科書をまとめる。
使いかけのノートを重ねる。
制服を見て、少しだけ手が止まる。
適当に置いていた小物を、段ボールに入れる。
荷物整理は、思ったより早く進んだ。
いや、正確には、丁寧に整理する気力がなかった。
持っていくもの。
置いていくもの。
捨てるもの。
本当は一つ一つに思い出があるのかもしれない。
でも、今それを全部確認していたら、たぶん動けなくなる。
だから、サクサク詰めた。
荷物整理が終わりに差し掛かった時、部屋に備え付けられた連絡端末が短く鳴った。
心臓が跳ねた。
この学校では、基本的に外部との私的な連絡は禁止されている。
入学してからずっとそうだった。
外の世界とは、切り離される。
この学校の中で生活し、この学校の中で競い、この学校の中で完結する。
それが当たり前になっていた。
けれど退学手続き中の生徒に限り、保護者への連絡だけは学校側の管理下で許可されるらしい。
きっと監視されてて、余計なことを言ったら電話を切られるんだろうな。
端末の画面には、職員室からの通知が表示されていた。
『保護者より連絡あり。指定回線での通話を許可する』
その下に、母さんの名前があった。
「……来た」
来てしまった。
学校から連絡が行っているのだから、来るに決まっている。
俺は端末の前で、しばらく固まった。
出たくない。
めちゃくちゃ出たくない。
何コールか鳴った後に、意を決して通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『春樹?』
母さんの声だった。
いつもより少し硬い。
怒っているというより、何を言えばいいのかわからない声だった。
その時点で、胃がぎゅっと縮んだ。
「うん」
『学校から連絡があったんだけど……本当なの?』
何が、とは言わなかった。
言わなくてもわかる。
「……本当」
声が掠れた。
『退学って』
「うん」
短く答えることしかできなかった。
電話の向こうで、母さんが息を呑む気配がした。
『何があったの?』
来た。
本当だったら、一番答えなきゃいけない質問。
頭の中に特別試験という単語がよぎる。
そこまで考えて、次の単語が浮かび上がる。
守秘義務。
「……詳しいことは、言えない」
口にした瞬間、自分でも冷たい言い方だと思った。
母さんに対して、詳しいことは言えない。
最悪だ。
でも、言えないものは言えない。
『言えないって……学校からも、詳しい説明は限られるって言われたけど、本当に何も?』
「全部は、無理」
『春樹』
母さんの声が少し震えた。
責めているわけではない。
でも、苦しそうだった。
俺は、思わず言い訳したくなった。
俺だけが悪いわけじゃない。
そう言いたくなった。
だって、そうだろ。
俺一人で全部が決まったわけじゃない。
クラスの空気もあった。
試験の仕組みもあった。
周りのやつらだって――。
なにかを言いかけて、止まった。
言った瞬間、前に進めなくなる気がした。
もちろん、全部俺だけが悪いわけではないのかもしれない。
でも、それを今ここで親にぶつけて、何になる。
守秘義務に触れるかもしれない。
何より、俺が自分の失敗から逃げる言葉になる。
喉が詰まる。
「……いや、ごめん」
少し間を置いてから、俺は言った。
「失敗しちゃってさ」
電話の向こうが静かになった。
「詳しいことは言えない。だから学校からの説明を待ってもらいたいな」
言葉にすると、胸が痛かった。
『……これから、どうするの?』
母さんの声は、まだ硬かった。
俺は机の上の書類を見た。
「それも学校から説明があると思うんだけど、進路の候補を出してくれてる」
『進路?』
「うん。退学になったから編入することになる」
『すぐに?』
母さんの声に、少し驚きが混じった。
無理もない。
俺もさっきまで驚いていた。
「詳しくはこの後になると思う。俺もまだわかってない部分もあるし」
『……そうなの』
電話の向こうで、母さんが小さく息を吐く気配がした。
『お父さんにも話すことになるわ』
「……うん」
胃がまた重くなる。
父さん。
絶対、何か言われる。
怒られるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
冷静に今後のことを聞かれるかもしれない。
どれも怖い。
「父さん、怒ってる?」
『怒っているというより……驚いていると思う』
「そっか」
驚いている。
それもそうだ。
自分の息子が意気揚々と学校に入って、一年で退学になった。
そりゃ驚く。
『春樹』
「うん」
『今は、全部を電話で話さなくていい。でも、これからどうするかは一緒に考えないといけない』
「……うん」
『学校の先生から電話があって、後日説明があるって聞いてる。そこで必要な書類や今後の確認をするって』
「……」
『あなたも、色々と考えておきなさい』
その言葉は、叱責というより、頼みに近かった。
「……しっかり考えておくよ」
俺は言った。
「今度は、ちゃんと」
電話の向こうで、母さんが少しだけ息を吐いた。
『帰ってきたら、ちゃんと話しましょう』
「うん」
『ご飯、食べられそう?』
その一言で、急に胸が詰まった。
「……たぶん」
『無理はしないで。でも、何か少しは食べなさい』
「うん」
『また連絡するから』
「うん。ごめん」
自然と口から出た。
『……うん』
母さんは、それだけ言って電話を切った。
通話が終わる。
部屋が静かになった。
俺は端末の前から離れ、ベッドに座り込んだ。
「……きっつ」
予想していたより何か言われることはなかった。
でも、予想していたよりきつかった。
母さんの「ご飯食べなさい」が、一番刺さった。
俺は、何をしているんだろう。
親に心配されて。
そして何より。
「詳しいことは話せない、か」
口に出してみる。
これから何度も使う言葉になるのかもしれない。
新しい学校で聞かれても。
親に聞かれても。
誰かに興味本位で聞かれても。
何年経とうと。
俺は全部を話せない。
これを一生背負うことになるのか。
過去に退学した人たちも、こんな思いを背負って今も生きてるんだろうか。
ふとそんなことを思った。
俺は端末から目を逸らし、段ボールの中身を軽く整えた。
荷物整理は、今日のところはこれでいい。
とりあえず何か適当に食べて今日は寝るか。
そう思ったところで、胸が少しだけ軽くなった。
ーーーーーーーーーーー
数日後。
俺は両親と一緒に、学校の外部応接棟にある面談室にいた。
この学校は、外部との接触を厳しく制限している学校だ。
だから保護者といえど、自由に校内へ入れるわけではない。
父さんと母さんが通されたのは、校舎や寮から少し離れた、来客対応用の区画だった。
受付で身分確認を受け、職員に案内され、指定された場所以外には立ち入れない。
教室も、寮も、生徒たちの生活圏も見えない。
退学手続きと進路説明のためだけに用意された、学校の内側でありながら、ぎりぎり外側みたいな場所。
そこに、父さんと母さんが並んで座っていた。
この数日の間に荷物をまとめ終えて、学校側とは何度か話をした。
今の自分の学力で現実的に狙える学校を受けたいこと。
そして、できれば地元から少し離れた場所の学校に行きたいこと。
それはもう、茶柱先生にも伝えてある。
だから今日の面談は、俺がどの道を選ぶかを一から決める場ではない。
親に退学の説明をする場。
これからどう動くかを、家族も含めて確認する場だ。
父さんは腕を組んで、目の前の書類をじっと見ている。
怒鳴るタイプではない。
けれど、黙っている分だけ空気が重い。
母さんは膝の上で手を重ねていた。
電話の時よりは落ち着いているように見えるが、目元にはまだ不安が残っている。
向かい側には、茶柱先生と、スーツ姿の男性が座っていた。
四十代くらいだろうか。
細身で、眼鏡をかけている。
教師というより、役所か相談窓口の人間に近い雰囲気だった。
きっちり整えられた髪と、折り目のついたスーツ。
声は落ち着いているが、書類を扱う手つきには迷いがない。
こういう大人が出てくると、俺の退学が本当に「手続き」として進んでいるのだと実感してしまう。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
男が、父さんと母さんに向かって頭を下げた。
「高度育成高等学校の委託を受け、退学後の進路支援を担当しております」
そう言って、男は名刺を差し出した。
外部の進路支援機関。
そんなものがあるのか。
どうやらこの学校の先生が全部やるわけではないらしい。
ただ、考えてみれば当然かもしれない。
退学後の編入先探し、住居の紹介、保護者との確認、書類の手続き。
そういう実務を、担任一人で全部抱えるわけがない。
もちろん、実際は外部というわけでもないのだろう。
学校と守秘義務契約を結んだ、認定された支援機関。
きっと学校と同じく、国が運営している機関なのだろう。
「山内春樹くんの退学後の手続き、および今後の進路支援についてご説明いたします」
支援員の男性は、そう言って資料を開いた。
「まず、本校退学に関する正式な手続きですが、必要書類の提出、寮からの退去準備、学籍に関する処理を順次進めます」
父さんが小さく頷いた。
母さんは、時々俺の方を見る。
その視線が痛い。
「また、本校では退学する生徒に対して、一定の進路支援を行っています。候補校の提示、成績証明、編入試験の補助、必要書類の準備、さらには編入時の面談の免除、場合によっては住居や寮に関する情報提供などです」
母さんが少し驚いたように顔を上げた。
「そこまでしていただけるんですか」
「はい。ただし、すべての進路が保証されるわけではありません。受け入れ先の判断、編入試験、時期や欠員状況によって変わります」
支援員の男性は、淡々と説明した。
高育側が用意した外部機関というだけあって、説明はかなり事務的だった。
「山内くん本人からは、すでに編入を希望する高校を確認しています」
父さんと母さんの視線が、同時に俺へ向いた。
俺は小さく頷いた。
「通信制や定時制などの選択肢もありますが、本人の希望としては、現在の学力に見合い、かつ早期に編入できる可能性がある全日制高校を優先したい、とのことでした」
支援員の男性が続ける。
俺が言ったことだ。
間違ってはいない。
以前の俺だったら狙える一番高いところを狙っただろうが、
今は上を狙いすぎるのは少し怖い。
父さんが俺を見た。
「春樹」
「……はい」
なぜ敬語になった、俺。
父さんの声は静かだった。
「それは、お前が自分で決めたのか」
「……うん」
俺は膝の上で拳を握った。
手のひらに汗がにじむ。
「先生に言われたからじゃなくて。母さんに電話で聞かれたからでもなくて」
言葉が一度止まる。
喉が渇く。
でも、ここで黙ったら、また誰かに委ねることになる。
それは嫌だった。
「俺が、そうしたいと思った」
面談室が静かになる。
父さんは少しだけ目を細めてから、短く言った。
「わかった」
たったそれだけだった。
でも、その一言で、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「ただし」
来た。
ですよね。
そんな簡単に終わるわけないですよね。
父さんは俺をまっすぐ見た。
「自分で決めたなら、途中で投げ出すな」
「……うん」
「怖いのはわかる。だが、怖いからやらない、では何も変わらない」
「……はい」
また敬語になった。
もう今日は許してほしい。
母さんが小さく息を吐いた。
「春樹がそう決めたなら、私たちもできることはするわ」
「……ありがとう」
言葉が小さくなった。
今はそれ以上言葉が出なかった。
そこで支援員の男性が、別の資料を机の上に置いた。
「加えて、山内くんからはもう一点、希望を聞いています」
「もう一点?」
母さんが不安そうに俺を見る。
父さんも視線をこちらに向けた。
「ご実家から少し離れた学校を希望したい、という話です」
支援員の男性の言葉に、母さんが目を見開いた。
「地元から離れた学校……?」
「はい。山内くんはそのように希望を出しております。その場合、本校から物件紹介、家賃補助、学生寮の情報提供など、必要な支援を検討できます」
母さんは俺を見た。
「春樹、一人暮らしをするつもりなの?」
声には驚きと心配が混ざっていた。
まあ、そうなる。
退学しました。
しかも地元から離れた場所で一人暮らししたいです。
親からしたらびっくりだろう。
「……できれば」
俺は小さく答えた。
母さんの表情が不安に染まる。
父さんは黙ったまま俺を見ていた。
その沈黙が怖い。
でも、言わなきゃいけない。
「地元に戻るのが嫌っていうか……いや、嫌なんだけど」
言い直しながら、自分で情けなくなる。
「俺、高育に受かった時、地元の友達にちょっと話しちゃってて」
父さんの眉がわずかに動いた。
母さんも「あ……」という顔をした。
そう。
本当は入学前に、合格後にあまり多くの人に話さないように言われていた。
もちろん入学前で、契約で縛られた強制力のあるものではなかった。
けれど、言わない方が良かったのだろう。
それなのに俺は、嬉しくて、自慢するように、一部の友達に言ってしまった。
「俺、高育受かったんだぜ」
たぶん、そんな感じだった。
「その……俺が地元に戻ったら、絶対聞かれると思うんだよ」
俺は膝の上で拳を握った。
「高校はどうしたの、とか。なんで戻ってきたの、とか」
想像するだけで胃が重くなる。
地元の友達が悪いわけじゃない。
普通に気になるだろう。
あれだけ浮かれて話していたやつが、一年で戻ってきたら、そりゃ聞く。
むしろ聞かない方が不自然だ。
でも、俺は答えられない。
守秘義務がある。
特別試験のことも、クラスのことも、友達のことも、詳しくは言えない。
詳しいことは言えない。
でも退学した。
それだけを言うことになる。
「そのたびに誤魔化すの、正直しんどい」
でも、それだけじゃない。
「あと……心機一転したい」
俺は言った。
声は小さかった。
でも、言い切った。
「地元に戻って、どうしたのって聞かれて、それを誤魔化してるうちに、たぶん俺また変な見栄張ると思う」
昔の俺なら、絶対にやる。
「まあ色々あってさ」とか。
「俺から出たみたいなもんだし」とか。
「合わなかっただけ」とか。
そうやって、また自分を大きく見せようとする。
「だから、地元から少し離れた場所で、もう一回ちゃんとやり直したい」
面談室が静かになった。
父さんはしばらく黙っていた。
母さんも何も言わなかった。
支援員の男性は、俺たち家族の会話に余計な口を挟まないようにしている。
茶柱先生だけが、いつもの無表情で俺を見ていた。
やめてください。
その目、地味に怖いです。
父さんが静かに口を開いた。
「逃げたいから、離れたいのか」
「……それもある」
嘘はつかなかった。
「でも、逃げるだけじゃなくて、やり直したいとも思ってる」
父さんは俺をじっと見ていた。
そして、短く言った。
「一人暮らしは楽じゃないぞ」
「……わかってる」
本当にわかっているかと言われたら、たぶんわかっていない。
料理。
洗濯。
掃除。
家計。
学校。
勉強。
新しい人間関係。
色々あるのだろう。
「たぶん、わかってないところもある」
だから、正直に付け足した。
「でも、やってみたい」
母さんが少し困ったように眉を下げた。
「春樹、生活のこともあるのよ。体調を崩した時とか、ご飯とか、学校だけじゃないの」
「うん」
「今まで家でもそんなに一人で何でもやってたわけじゃないでしょう」
「それは……はい」
そこは否定できない。
山内春樹、家事能力に自信なし。
ここで「余裕だし」とか言ったら、昔の俺だ。
危ない危ない。
「できるとは言い切れない。でも、できるようにする」
俺は母さんを見た。
「最初から全部上手くできるとは思ってない。でも、今のまま地元に戻るよりは、そっちの方が俺にはいい気がする」
母さんは、何か言いたそうに唇を開きかけた。
けれど、すぐには言わなかった。
代わりに、父さんが支援員の男性を見る。
「支援というのは、具体的にはどの程度ですか」
「候補校周辺の学生向け物件の紹介、初期費用の一部補助、家賃補助の申請、または提携している学生寮の情報提供が可能です。ただし、すべて条件があります。学校側と保護者の同意、本人の進路決定、生活上の確認が必要です」
「生活上の確認?」
「一人暮らしをする場合、本人が最低限の生活管理をできるか、保護者の支援体制はどうするか、緊急時の連絡先をどうするか、そういった点です」
「そうですか」
父さんはしばらく俺を見ていた。
そして、深く息を吐いた。
「わかった」
二度目の「わかった」だった。
けれど、今度の方が重かった。
「ただし、一人暮らしをするなら条件がある」
「条件?」
「金の管理、生活の管理、学校への出席。全部、定期的にこちらで確認する」
「……はい」
「それから、困った時に黙って抱え込むな」
その言葉に、少し驚いた。
父さんは続ける。
「離れた場所に行くなら、余計にそうだ。お前は見栄を張るところがある。できないことをできると言うな」
うっ。
親にもバレている。
まあ、そりゃそうか。
「……気をつける」
「気をつけるだけじゃ足りない。連絡しろ」
「はい」
また敬語。
もう今日は本当に許してほしい。
母さんが静かに言った。
「私は、心配よ」
「……うん」
「でも、春樹がちゃんと考えて決めたなら、反対だけするのも違うと思う」
母さんはそう言って、少しだけ目を伏せた。
「ただ、ご飯はちゃんと食べなさい」
「そこ?」
思わず言ってしまった。
母さんが少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
「大事なことよ」
「……うん。大事です」
確かに大事だ。
支援員の男性が資料を整えた。
「では、地元から離れた全日制高校を第一候補として、編入試験の申し込みを進めます。候補校周辺の住居支援についても、並行して資料を用意します」
「試験日は、一週間後です。会場は、こちらで指定する外部施設になります」
「外部施設……ですか?」
思わず聞き返してしまった。
高育の中で受けるわけじゃないのか。
支援員の男性は静かに頷いた。
「はい。高度育成高等学校の内部施設ではなく、本校と契約している進路支援機関が管理する施設で実施します。編入先との調整、試験会場の確保、必要書類の確認はこちらで行います」
なるほど。
考えてみれば、その方が自然なのかもしれない。
退学が決まった人間を、いつまでも高育の中に置いておく方が不自然だ。
この学校は、外との接触を遮断する学校だ。
なら、外へ出ることが決まった人間は、できるだけ早く外へ移される。
そういうことなのだろう。
それにしても。
「一週間後……」
俺の声が裏返った。
早くないですか。
退学して、荷物整理して、親に説明して、地元から離れる話までして、次は一週間後に編入試験?
人生の展開、急すぎない?
もう少し、こう、助走とかないんですか。
「退学後の編入は、のんびり構えていられるものではない」
茶柱先生が言った。
「時期を逃せば、選択肢は狭くなる」
「ですよね……」
説明はその後も続いた。
退学手続き。
寮からの退去予定。
編入試験の申し込み。
成績証明。
保護者同意。
守秘義務の確認。
住居支援の資料。
委託機関を通した今後の連絡方法。
俺は正直、半分くらいしか頭に入っていなかった。
でも、父さんと母さんが真剣に聞いているのを見て、逃げるわけにはいかないと思った。
俺だけの問題ではない。
そういう当たり前のことを、今さら思い知る。
面談が終わる頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
支援員の男性が最後に言った。
「では、編入試験の申し込みはこちらで進めます。山内くんは、試験日までに学校側が用意する資料を元に勉強を行ってください。住居については、候補校周辺の物件資料を後日ご用意します」
「はい」
「試験会場については、後日、保護者の方を通じて正式にご連絡します。高育内ではなく、委託機関が指定する外部施設になります」
「……はい」
俺には頷くしかなかった。
面談室を出ると、廊下は静かだった。
父さんと母さんは、職員に案内されて外部応接棟の出口へ向かう。
校舎の奥には進めない。
寮にも行けない。
生徒たちの生活圏には、最後まで触れられない。
その徹底した線引きに、父さんと母さんもこの学校の異様さを少しは感じただろうか。
俺はその後ろを、書類を抱えて歩いていた。
その時、茶柱先生の声がした。
「山内。お前は少し残れ」
「……え?」
思わず足が止まる。
父さんと母さんも振り返った。
「退寮についての最終確認がある。保護者の方には、先に出口でお待ちいただきます」
茶柱先生がそう言うと、案内役の職員が父さんと母さんに軽く頭を下げた。
母さんは少し不安そうに俺を見る。
「春樹、大丈夫?」
「うん。たぶん」
父さんは俺を見て、短く言った。
「しっかり聞いてこい」
「……うん」
父さんと母さんは職員に案内され、そのまま外部応接棟の出口へ向かっていった。
二人の背中が角を曲がって見えなくなる。
「来い」
茶柱先生に促され、俺はもう一度、面談室の方へ戻った。
部屋には、さっきまでの空気がまだ残っていた。
父さんと母さんが座っていた椅子。
机の上に整えられた書類。
外部支援員の男性はすでに退室している。
今ここにいるのは、俺と茶柱先生だけだった。
「退寮について説明する」
茶柱先生は、余計な前置きなしに言った。
「はい」
俺は椅子に座り直す。
「退学が決まった生徒は、原則として数日以内に退寮する」
その言葉に、胸が少し重くなった。
数日以内。
わかっていた。
わかっていたけど、改めて言われると動揺してしまう。
「本来であれば、退学決定後すぐに退寮準備に入る。お前の場合も、保護者対応と初期の進路支援が終わった以上、長く校内に留める理由はない」
「……じゃあ、俺は」
「本日中に退寮する」
短く言われた。
胸の奥が、ずんと沈んだ。
「荷物はまとめてあるな」
「……はい。一応」
「手持ちで運べないものは、学校側の指定業者を通して実家へ送る。必要なものだけを持って、保護者と共に一度実家へ戻れ」
「実家に……」
思わず繰り返す。
「試験は一週間後、委託機関が指定する外部施設で行う」
茶柱先生は続けた。
「この学校の内部施設ではない。退学後の進路支援は、ここから先、委託機関を通して進められる」
「……この学校はは、もう直接は関わらないんですか?」
「必要な範囲では関わる。成績証明、守秘義務の確認、編入先への最低限の説明、書類の発行。それらは学校側が行う」
茶柱先生は、机の上の書類を指で軽く叩いた。
「だが、お前はもうこの学校の生徒ではない。校内に残り続けることはできない」
わかっている。
理屈では、わかっている。
でも、さっきまで普通に自分の部屋で荷物を詰めていた。
寮の廊下を歩いていた。
それなのに、今日中に出ていく。
退学者になったという事実が、今さら形になって迫ってきた。
「試験の対策資料は、今日渡す。実家に戻ってから、それを進めろ」
「はい」
「本来は面接が必要だか、面接については学校側が調整している。退学理由や在学中の詳細を、外部で必要以上に確認されるのは望ましくない。お前は学力試験に集中しろ」
「面接、ないんですよね」
「ああ」
正直、かなり助かった。そう思った。
けれど、安心しきる前に、茶柱先生は続けた。
「ただし、学力試験に落ちれば受け入れはない」
ですよね。
そんなに甘くないですよね。
「しかし編入試験は、こちらで用意した対策資料をきちんとやれば必ず対応できる範囲だ」
「きちんとやれば、ですか」
「ああ」
茶柱先生は、俺をまっすぐ見た。
「この意味がわかるか」
つまり同じような問題が出ると言うことか。
「……わかりました」
俺は書類を握る手に力を込めた。
「やります」
茶柱先生は短く頷いた。
「退寮時に鍵を返却する。制服や学校備品については、指定されたものを返却しろ。私物は持ち帰るか発送する」
「……はい」
鍵。
その言葉で、自室のドアが頭に浮かんだ。
何度も開け閉めした、あの部屋の鍵。
入学した時は、少し誇らしかった。
高育の寮の自分の部屋。
それが、今日返すものになる。
「山内」
「はい」
「ここを出れば、この学校の名前はお前を守らない」
「……」
「だが、この学校で見たものや、学んだものまで無意味になるわけではない」
思わず顔を上げた。
茶柱先生はいつもの無表情だった。
でも、その言葉だけは、少しだけ違って聞こえた。
「外でどう使うかは、お前次第だ」
「……はい」
俺は頷いた。
「なら戻れ。保護者を待たせている。退寮の準備を済ませろ」
「はい」
俺は席を立った。
面談室を出る前に、ふと振り返る。
茶柱先生はすでに書類へ視線を落としていた。
いつも通りだ。
この人にとっては、俺が一人退学しても、手続きの一つなのかもしれない。
でも最後に色々と言葉は残してくれた。
それだけで十分だ。
外部応接棟の出口へ向かうと、父さんと母さんが待っていた。
母さんがすぐにこちらを見る。
「大丈夫だった?」
「うん。今日、退寮するって」
母さんの表情が少し揺れた。
「今日……?」
「荷物は送ってくれるって。必要なものだけ持って、いったん実家に戻る」
「そう……」
母さんは少し安心したような、余計に不安になったような顔をした。
父さんが短く聞いた。
「試験は?」
「一週間後。委託機関が指定する外部施設で受けるらしい」
「そうか」
父さんは短く頷いた。
そして言った。
「その一週間、無駄にするな」
「……うん」
その後、俺は寮へ戻った。
職員の案内付きだった。
もう、自由に歩いているわけではない。
同じ廊下なのに、まるで立ち入りを許可された外部の人間みたいだった。
部屋に戻ると、段ボールがそのまま置かれていた。
朝まで、ここは俺の部屋だった。
いや、今朝までどころか、ついさっきまでそう思っていた。
でも、もう違う。
ここは、俺が退去する部屋だ。
仕上げに服を詰める。
細かい私物をまとめる。
返却するものを分ける。
発送する段ボールに封をする。
作業は思ったより早く終わった。
最後に部屋を見回した。
机。
ベッド。
棚。
最初に来た時も、こんな感じだった気がする。
あの時は、ここから何かが始まると思っていた。
今は、ここで何かが終わろうとしている。
「……短かったな」
一年。
長いようで、短かった。
短いようで、長かった。
職員に促され、俺は部屋を出た。
扉を閉める。
鍵を手のひらに乗せる。
小さな金属の鍵だった。
軽いはずなのに、妙に重い。
外部応接棟へ戻る途中、俺は何度か振り返りそうになった。
でも、振り返っても何も変わらない。
だから、前を向いた。
出口近くで、茶柱先生が待っていた。
「鍵を」
「……はい」
俺は鍵を差し出した。
手から離れる瞬間、少しだけ指先が冷えた。
これで、本当に戻れない。
茶柱先生は鍵を受け取り、短く言った。
「退寮手続きは完了だ」
その一言で、胸の奥が沈んだ。
退寮手続きは完了。
「山内」
「はい」
「同じ失敗を繰り返すな」
最後まで厳しい。
でも、その方が茶柱先生らしい。
「……はい」
俺は頷いた。
父さんと母さんが少し離れた場所で待っている。
その向こうには、外部応接棟の出口。
その先には、校門。
さらにその先には、実家へ戻る道がある。
地元へ戻る。
一時的に。
その後、委託機関の指定する施設で編入試験を受ける。
受かれば、地元から離れた全日制高校へ。
住む場所も、知らない街も、そこから決まっていく。
不安は多い。
でも、少しだけ楽しみでもある。
俺は父さんと母さんの方へ歩き出した。
この学校には、もう戻れない。
そして、少し離れた場所へ行く。
知らない学校。
知らない街。
初めての一人暮らし。
その前に、まずは実家。
そして、一週間後の編入試験。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いた。
声は小さかった。
でも、足は止まらなかった。
ついに学校から出ました。