山内春樹、退学後の世界を生きる   作:ナスカン

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第九話 予期せぬ出会い

 

 

編入してから、二ヶ月が経った。

 

最初の頃は、教室に入るだけで少しだけ肩に力が入っていた。

 

誰がどんなやつなのか。

 

どのグループがどういう空気なのか。

 

どこまで踏み込んでいいのか。

 

そういうことを、いちいち考えながら過ごしていた気がする。

 

けど、人間というのは慣れる生き物らしい。

 

「おー、山内。昨日の課題やった?」

 

「やったぜ。まあ、出さないと後が面倒だしな」

 

「じゃあ見せて」

 

「俺の努力をそんな軽く借りようとするな」

 

「友達だろ」

 

「友達って言えば何でも通ると思うなよ」

 

「困った時は助け合いだろ」

 

「お前の場合、困る前から俺を当てにしてるだろ」

 

「バレたか」

 

「隠す気もなかっただろ」

 

そんなふうに、クラスの男子とも普通に話すようになった。

 

柳とは相変わらずよく一緒にいる。

 

というか、気づけば一番話す相手になっていた。

 

休み時間にくだらない話をして、昼は一緒に購買へ行って、たまに放課後も途中まで帰る。

 

高育にいた頃の寛治や健とは、少し違う。

 

でも、こいつと話していると、ふとあいつらのことを思い出す時がある。

 

くだらないことで笑って。

 

大して意味のない話をして。

 

けど、それが妙に楽で。

 

そういう時間が、俺にとっては思っていたより大事だったらしい。

 

他のクラスにも、少しずつ知り合いができた。

 

体育で一緒になったやつ。

 

購買で何度か並んだやつ。

 

柳の知り合いから流れで話すようになったやつ。

 

高育にいた頃ほど特殊な空気はない。

 

誰もがポイントを気にしているわけでもなければ、クラス同士がいつも睨み合っているわけでもない。

 

もちろん、普通の学校なりの面倒くささはある。

 

グループの距離感とか、噂話とか、教師の当たり外れとか。

 

黒崎さんとも、以前よりは話すようになった。

 

とはいえ、劇的に仲良くなったわけではない。

 

教室で何気ない会話をする。

 

たまに帰り道が同じになって、一緒に歩く。

 

そのくらいだ。

 

あの日以来、黒崎さんは高育の話にも、退学者の話にも触れてこなかった。

 

進支会の名前も出してこない。

 

俺も、あえて聞かなかった。

 

黒崎さんが踏み込まないようにしているなら、俺も踏み込まない。

 

その方がいい気がした。

 

「山内くん、次の小テスト範囲分かる?」

 

「たぶん、教科書の五十二ページから六十ページ」

 

「たぶん?」

 

「柳情報だから信用度は五割くらい」

 

「じゃあ、確認した方がいいね」

 

「柳、信用されてないぞ」

 

「俺に責任を押しつけるな」

 

そんな会話をするくらいには、黒崎さんも俺たちのやり取りに慣れてきた。

 

柳は相変わらず、俺と黒崎さんのことを見てはニヤニヤする。

 

「山内、最近いい感じじゃん」

 

「何がだよ」

 

「黒崎さんと普通に話してるだろ」

 

「クラスメイトと普通に話して何が悪い」

 

「いやー、最初は『一目惚れじゃない』とか言ってたのにな」

 

「まだ言ってんのか、それ」

 

「擦れるネタは擦る」

 

「最低だな」

 

そんな感じで、二ヶ月は過ぎていった。

 

そして、その二ヶ月の間に一つ変わったことがある。

 

俺はバイトを始めた。

 

場所は、学校から電車で二駅行った街にある本屋だ。

 

柳が言っていた通り、その辺りは駅前が少し栄えていた。

 

飲食店もあるし、コンビニも多いし、塾や雑貨屋もある。

 

そして、噂の女子校もある。

 

最初にバイト先を探しに来た時、柳はやたらとその情報を強調していた。

 

「山内、ここ重要な地域だからな」

 

「何が重要なんだよ」

 

「女子校がある」

 

「お前、それしか言ってないぞ」

 

「それが大事なんだろ」

 

「否定はしないけど」

 

「やっぱりな」

 

結果的に、女子校目当てで選んだわけではない。

 

本屋のバイトなら、飲食よりは落ち着いて働けそうだった。

 

それに、店長も悪い人ではなさそうだった。

 

時給はそこそこ。

 

シフトも融通が利く。

 

一人暮らしで食費を抑えるためにも、バイトは必要だった。

 

だから、そこで働くことにした。

 

土曜日。

 

その日も俺は昼過ぎからバイトに入っていた。

 

レジに立ち、客が持ってきた本を会計する。

 

ブックカバーをかける。

 

在庫を確認する。

 

棚を整える。

 

最初は覚えることが多くて大変だったが、二ヶ月も経てば少しは慣れてくる。

 

「ありがとうございました」

 

袋を渡し、客が店を出ていく。

 

休日の本屋は、それなりに客が多い。

 

親子連れ。

 

学生。

 

会社員っぽい人。

 

参考書を探す中学生。

 

雑誌を立ち読みするおじさん。

 

街に色々な人が行き交っている環境。

 

こういう場所に立っていると、自分が本当にあの学校を出たんだと実感することがある。

 

少し寂しいような。

 

少し安心するような。

 

そんなことを考えながら棚を整えていると、入口の自動ドアが開いた。

 

「いらっしゃいませ」

 

いつもの調子で声を出す。

 

そして、顔を上げた瞬間、俺は固まった。

 

黒い髪。

 

落ち着いた歩き方。

 

少し周囲と距離を置くような雰囲気。

 

黒崎美琴さんだった。

 

「……黒崎さん?」

 

思わず名前を呼ぶと、黒崎さんもこちらに気づいた。

 

「山内くん?」

 

目が合う。

 

しばらく、お互いに妙な顔で見つめ合った。

 

先に口を開いたのは黒崎さんだった。

 

「ここで働いてたんだ」

 

「ああ。二ヶ月くらい前から」

 

「知らなかった」

 

「言ってなかったからな」

 

「本屋さん、似合うね」

 

「本当か?」

 

「うん。意外と」

 

「今、意外とって言ったよな」

 

「言った」

 

「そこは隠せよ」

 

黒崎さんは少しだけ笑った。

 

学校で見る時より、私服の黒崎さんは少し印象が違った。

 

派手ではない。

 

白っぽいブラウスに、落ち着いた色のスカート。

 

それだけなのに、妙に目を引く。

 

制服の時よりも、少し柔らかく見える。

 

俺は一瞬だけ見とれかけて、慌てて視線をそらした。

 

仕事中だ。

 

変に見ていたら、さすがにまずい。

 

「黒崎さんは、本買いに来たのか?」

 

「うん。参考書を見に」

 

「真面目だな」

 

「山内くんも買った方がいいかも」

 

「急に刺してくるな」

 

「小テスト、危なかったでしょ」

 

「柳よりはマシだった」

 

「比べる相手が柳くんなの?」

 

「それは……確かに低い争いだな」

 

黒崎さんは棚の方へ歩いていく。

 

俺は店員として、少しだけ距離を取りながらついていった。

 

「探してる本あるなら案内するけど」

 

「大丈夫。だいたい分かるから」

 

「そっか」

 

そこで会話が途切れる。

 

俺は仕事に戻ろうとした。

 

すると、黒崎さんが本棚の前でふと振り返った。

 

「山内くん」

 

「ん?」

 

「この辺でバイトしてるんだね」

 

「ああ。学校の近くだと募集少なかったからさ。柳に二駅先ならあるって聞いて」

 

「柳くんが?」

 

「そう。あと、この近くに女子校があるって、やたら力説された」

 

そう言った瞬間、黒崎さんの目が少しだけ細くなった。

 

「へえ」

 

「なんだよ、その反応」

 

「山内くんは、この近くの女子校の女の子が目当てなのかなって」

 

「違う違う違う」

 

俺は反射的に否定した。

 

少し声が大きくなって、近くの客がちらっとこちらを見る。

 

俺は慌てて声を落とした。

 

「いや、違うから。普通にバイト先探してただけだから」

 

「本当に?」

 

「本当だって。確かに柳から聞いた時、ちょっとだけ興味は持ったけど」

 

「持ったんだ」

 

「男なら多少はね」

 

「正直だね」

 

「嘘ついても仕方ないだろ」

 

黒崎さんは口元に手を当てて、小さく笑った。

 

からかわれている。

 

いつもの静かな黒崎さんからは少し意外だった。

 

「でも、安心した」

 

「何が?」

 

「変に隠さないところ」

 

「それ褒めてる?」

 

「たぶん」

 

「たぶんなのか」

 

黒崎さんは参考書を一冊手に取った。

 

表紙を見て、少し中を確認する。

 

その横顔を見ながら、俺はふと思った。

 

「黒崎さん、この辺よく来るの?」

 

「うん」

 

「学校帰りに?」

 

「休日が多いかな」

 

「へえ。家、近いのか?」

 

聞いた後で、少し踏み込みすぎたかと思った。

 

けど、黒崎さんは特に嫌そうな顔はしなかった。

 

「この辺」

 

「あ、そうなんだ」

 

「山内くんのバイト先が近所だったのは、少し驚いた」

 

「俺もびっくりした」

 

家が近いことにもだが、学校では、どちらかというと壁を作っているように見える。

 

でも、今は少しだけ違う。

 

教室では見せない表情を見た気がして、そんな部分にも俺は驚いた。

 

「それにしても、山内くん」

 

「何?」

 

「接客、ちゃんとしてるんだね」

 

「どういう意味だよ」

 

「もっと適当なのかと思ってた」

 

「俺をなんだと思ってるんだ」

 

「明るいけど、少し勢いで生きてそうな人」

 

「否定しきれないのが悔しい」

 

「でも、ちゃんと働いてるのはすごいと思う」

 

その言い方は、茶化している感じではなかった。

 

俺は少し照れくさくなって、頭をかきそうになる。

 

けど、仕事中なので我慢した。

 

「まあ、一人暮らしだしな。食費とか考えると、バイトしないときついんだよ」

 

「大変?」

 

「それなりに。でも、悪くないよ」

 

高育では、ポイントで生活が管理されていた。

 

今は現金で、時給で、給料日に少しだけ増える通帳の数字を見る生活だ。

 

大変ではある。

 

けど、ポイントよりもダイレクトに、自分で働いていた分がそのまま成果になるのは嬉しい。

 

「山内くん、変わったね」

 

黒崎さんがぽつりと言った。

 

「え?」

 

「最初に会った時より、少し落ち着いた気がする」

 

「そうか?」

 

「うん」

 

「まあ、最初は編入初日だったからな。余裕なかったし」

 

「今は?」

 

「今もそんなに余裕あるわけじゃないけど、前よりはマシかな」

 

俺がそう答えると、黒崎さんは小さく頷いた。

 

「そっか」

 

その後、黒崎さんは参考書と文庫本を一冊ずつ持ってレジへ来た。

 

俺は会計をして、ブックカバーをかけるか確認する。

 

「カバー、つける?」

 

「文庫本だけお願い」

 

「了解」

 

作業をしながら、ふと時計を見る。

 

俺のシフトが終わるまで、あと十分ほどだった。

 

「黒崎さん、この後すぐ帰るのか?」

 

「うん。そのつもり」

 

「俺、あと十分くらいで上がりなんだけど」

 

言ってから、少し迷った。

 

変な意味に聞こえないか。

 

いや、普通に帰り道が同じなら一緒に帰るだけだ。

 

「よかったら、途中まで一緒に帰るか?」

 

黒崎さんは少しだけ目を瞬かせた。

 

「いいの?」

 

「俺は別に。シフト終わるだけだし」

 

「でも、待たせることになるよ」

 

「十分くらいだろ。逆に待ってもらう方だし」

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

「おう」

 

黒崎さんは店内の端で本を見ながら待ってくれた。

 

俺はその間に残りの仕事を片づけ、店長に挨拶して裏へ下がる。

 

エプロンを外し、私服の上に軽く上着を羽織る。

 

バックヤードの鏡で一応髪を確認した。

 

別に気にしているわけじゃない。

 

接客業としての身だしなみだ。

 

そう自分に言い訳しながら店に戻ると、黒崎さんが入口近くで待っていた。

 

「悪い、待たせた」

 

「ううん」

 

「じゃあ、帰るか」

 

二人で本屋を出る。

 

「黒崎さん、家この辺なんだよな」

 

「うん。駅の向こう側」

 

「あ、じゃあ駅までは一緒だな」

 

「そうだね」

 

駅前の通りを抜けながら、俺たちは並んで歩いた。

 

夕方の駅周辺は、買い物帰りの人や学生でそれなりに賑わっている。

 

ここまでは、別に不自然でも何でもない。

 

同じ方向に帰るクラスメイト。

 

それくらいの距離感だ。

 

やがて駅前の横断歩道が見えてきた。

 

黒崎さんは、その先へ視線を向ける。

 

「私の家、駅を越えた先だから」

 

「そっか。じゃあ、そこまで送るよ」

 

そう言うと、黒崎さんは少しだけ迷うように視線を落とした。

 

「でも、山内くんはここから電車で帰るんでしょ?」

 

「まあな」

 

「だったら、駅までで大丈夫だよ」

 

「いや、ここまで来たし。あと少しくらいなら」

 

「駅の向こうだから、少し遠回りになるよ」

 

「大した距離じゃないだろ」

 

「……」

 

黒崎さんは少し困ったような顔をした。

 

たぶん、気を遣っている。

 

俺も一瞬、押しすぎかと思った。

 

けど、夕方とはいえ、女の子を一人で帰らせるのも何となく気が引ける。

 

それに、駅前で「じゃあここで」と別れるのも、少しだけ中途半端な気がした。

 

「嫌なら無理には言わないけどさ」

 

俺は少しだけ言い方を変えた。

 

「黒崎さんには、前に高育のこととか気を遣ってもらったし。これくらいは別にいいよ」

 

「それ、理由になる?」

 

「俺の中ではなる」

 

「山内くんって、たまに強引だよね」

 

「よく言われる」

 

黒崎さんはそう言って、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、少しだけお願いしようかな」

 

「おう」

 

俺たちは駅前の通りから少し離れた道へ入った。

 

大通りほど人は多くないが、住宅街というほど静かでもない。

 

店やマンションが並んでいて、ところどころに古い家もある。

 

「この辺、住みやすそうだな」

 

俺が何となくそう言うと、黒崎さんは少しだけ周りを見た。

 

「うん。駅も近いし、本屋もあるし」

 

「本屋が基準なのか」

 

「大事でしょ」

 

「まあ、黒崎さんなら分かる気はする」

 

「どういう意味?」

 

「本とか読んでそうな雰囲気あるし」

 

「雰囲気?」

 

黒崎さんが、少しだけ首を傾げる。

 

「落ち着いてるというか、静かというか」

 

そこまで言ってから、俺は少し言葉に迷った。

 

下手なことを言うと、失礼になりそうな気がしたからだ。

 

すると、黒崎さんが先に口を開いた。

 

「鉄壁、とか?」

 

「……え?」

 

思わず足が止まりそうになる。

 

「聞いたことあるよ」

 

「いや、本人に届いてたのかよ」

 

「直接言われたわけじゃないけど、何となく」

 

黒崎さんは特に傷ついた様子もなく、淡々と言った。

 

だから余計に、俺の方が少し焦る。

 

「いや、悪口ってわけじゃなくてだな」

 

「分かってる」

 

「ほんとか?」

 

「うん。話しかけにくいって思われてるのは、自分でも分かってるから」

 

その言い方に、少しだけ引っかかった。

 

自分で分かっている。

 

でも、それを直したいと思っているのかは分からない。

 

たぶん黒崎さんにとって、その距離は必要なものなんだろう。

 

「俺は、別に話しかけにくいとは思わないけどな」

 

そう言うと、黒崎さんは俺の方を見た。

 

「初日にいきなり購買の混み具合を聞いてきたもんね」

 

「あれは忘れてくれ」

 

「忘れない」

 

「そこは忘れてくれてもよくないか?」

 

「無理」

 

「黒崎さん、意外と意地悪だな」

 

黒崎さんは小さく笑った。

 

その顔を見て、俺は少しだけ肩の力が抜ける。

 

そんな会話をしながら、俺たちは並んで歩いた。

 

学校からの帰り道とは違う。

 

制服ではなく、私服で。

 

教室ではなく、街の中で。

 

それだけで、黒崎さんとの距離感が少し違って感じた。

 

やがて、黒崎さんは一軒の家の前で足を止めた。

 

大きすぎるわけではないが、落ち着いた雰囲気のある家だった。

 

門灯がつき始めていて、玄関先に柔らかい光が落ちている。

 

「ここ?」

 

「うん。送ってくれてありがとう」

 

「いや、全然」

 

「遠回りさせちゃったね」

 

「気にすんなって」

 

俺がそう言って帰ろうとした時だった。

 

玄関の扉が開いた。

 

中から、一人の男が出てきた。

 

二十代後半くらいだろうか。

 

落ち着いた雰囲気の男だった。

 

柔らかい表情をしているが、どこか隙がない。

 

黒崎さんと同じ黒い髪。

 

目元も少し似ている。

 

その男は俺と黒崎さんを見て、少しだけ目を細めた。

 

「ああ、美琴。帰ってきてたんだね」

 

「兄さん。帰ってたの!?」

 

兄さん。

 

つまり、この人が黒崎さんの兄。

 

退学者や編入者を支援する仕事をしているという、あの兄か。

 

男は俺に視線を向ける。

 

そして、穏やかに笑った。

 

「妹を送ってくれてありがとう」

 

「あ、いえ。たまたま帰りが一緒になっただけなので」

 

「それでも助かったよ。最近は暗くなるのも早いからね」

 

「いえ、本当に大したことはしてないです」

 

黒崎兄は、柔らかい口調でそう言った。

 

けど、俺はなぜか少しだけ身構えた。

 

別に敵意があるわけじゃない。

 

でも、何となく見られている感じがする。

 

評価されているような。

 

測られているような。

 

そんな感覚があった。

 

まさか。

 

この人、シスコンか?

 

妹を送ってきた男を見て、警戒しているんじゃないか?

 

そう考えた瞬間、俺の背中に変な汗が浮かんだ。

 

まずい。

 

誤解は早めに解いた方がいい。

 

「いや、その、妹さんとは別にそういうのじゃなくてですね」

 

俺が慌てて言うと、黒崎さんが横で目を瞬かせた。

 

「山内くん?」

 

「いや、違うんだ。これは別に変な意味じゃなくて」

 

「何を言ってるの?」

 

「俺にも分からなくなってきた」

 

黒崎兄は、そんな俺を見て、少しだけ楽しそうに笑った。

 

「面白いね君。安心していいよ。別に妹に近づくなと警告するつもりはない」

 

「あ、そうなんですか」

 

「今のところはね」

 

「今のところ」

 

さらっと怖いことを言われた。

 

やっぱりシスコンなのでは。

 

そう思った時、黒崎兄の目がほんの少しだけ変わった。

 

柔らかい笑みはそのまま。

 

けれど、空気が一段だけ冷えた気がした。

 

「それより、山内春樹くん」

 

「へっ?」

 

自分の名前を呼ばれて、俺は顔を上げる。

 

「いや、一年Cクラス退学者の山内春樹くん。君とは、ぜひ一度話がしたくてね」

 

息が止まった。

 

黒崎さんも、わずかに表情を変えた。

 

一年Cクラス。

 

退学者。

 

山内春樹。

 

この人は今、はっきりそう言った。

 

高育のことを知っているだけじゃない。

 

俺がどのクラスにいて、退学した人間だということまで知っている。

 

「……なんで、それを」

 

喉の奥が少し乾く。

 

聞きたいことはいくつもあった。

 

どこで知った。

 

誰から聞いた。

 

何の目的で調べた。

 

この人はどこまで知っている。

 

進支会は俺のことをどこまで把握している。

 

だが、黒崎兄は俺の言葉を遮るように、静かに人差し指を立てた。

 

「ここでは誰が聞いているか分からないからね」

 

その言葉に、俺は周囲を見た。

 

住宅街の道。

 

通り過ぎる人は少ない。

 

誰かが聞き耳を立てているようには見えない。

 

でも、この人はそう言った。

 

誰が聞いているか分からない。

 

つまり、ここで話すつもりはないということだ。

 

彼ははポケットから一枚のカードを取り出した。

 

名刺のようなものだった。

 

そこには、見覚えのある名前が印字されていた。

 

進路移行者支援協会。

 

進支会。

 

その下に、住所と連絡先が書かれている。

 

「気になるなら、ここに来てくれ」

 

黒崎兄は穏やかな声で言った。

 

俺はカードを受け取る。

 

紙は薄いのに、妙に重く感じた。

 

「……俺に、何の用ですか」

 

そう聞くと、黒崎兄は少しだけ笑った。

 

「それは、来てくれた時に話すよ」

 

答えになっていない。

 

けど、これ以上ここで聞いても無駄だと分かった。

 

黒崎さんは、兄と俺の間を見ていた。

 

何か言いたそうにしている。

 

けれど、言葉にはしなかった。

 

「美琴、先に入っていなさい」

 

黒崎兄がそう言うと、黒崎さんは一瞬だけ迷った。

 

「兄さん」

 

「大丈夫。少し挨拶をしただけだよ」

 

その声は優しい。

 

けど、逆らわせない響きがあった。

 

黒崎さんは俺を見る。

 

その目には、少しだけ不安が混じっていた。

 

「山内くん」

 

「大丈夫だよ」

 

俺はそう答えた。

 

本当に大丈夫かは分からない。

 

でも、ここで黒崎さんを不安にさせるのも違う気がした。

 

黒崎さんは小さく頷き、家の中へ入っていった。

 

玄関の扉が閉まる。

 

俺と黒崎兄だけが、門の前に残された。

 

「妹とは仲良くしてくれているみたいだね」

 

「普通にクラスメイトとして、ですけど」

 

「うん。それでいい」

 

黒崎兄は穏やかに言った。

 

「今日は引き止めて悪かったね」

 

「……いえ」

 

「来るかどうかは君が決めていい。ただ」

 

黒崎兄は、俺が手にしたカードへ一度視線を落とした。

 

それから、穏やかな声で続ける。

 

「君は気になっているはずだ」

 

「……何をですか」

 

「なぜ私が、君の名前を知っているのか。なぜ君が高度育成高等学校の一年Cクラスにいて、退学になったことまで知っているのか」

 

その言葉に、胸の奥がざわついた。

 

まさに、それを聞きたかった。

 

けれど、ここで聞いていい話ではない。

 

そう言われたばかりだ。

 

俺は高育から出た。

 

学校名を知られること自体は、たぶん問題ない。

 

でも、一年Cクラス退学者。

 

そこまで知られているとなると、話は別だ。

 

誰が知っている。

 

どこから漏れた。

 

進支会は、俺のことをどこまで把握している。

 

黒崎さんは、それを知っていたのか。

 

考えようとするほど、頭の中に疑問が増えていく。

 

黒崎兄は、それを見透かしたように笑った。

 

「その答えが欲しいなら、そこに来てくれ」

 

「……」

 

「少なくとも、ここで立ち話をするよりは、きちんと話せる」

 

俺は手の中のカードを見た。

 

進路移行者支援協会。

 

進支会。

 

その名前が、さっきよりもずっと重く見える。

 

「また会おう、山内くん」

 

それだけ言って、黒崎兄は家の中へ戻っていった。

 

玄関の扉が閉まる。

 

俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

手元には、進支会のカード。

 

黒崎さんの兄。

 

進路移行者支援協会。

 

そして、俺の高育時代の情報。

 

頭がパンクしそうだ。

 

「……なんだよ、これ」

 

ただの休日のバイト帰りだったはずだ。

 

黒崎さんと偶然会って、少しからかわれて、一緒に帰った。

 

それだけで終わるはずだった。

 

なのに、最後に出てきたのは、穏やかな顔で俺の過去を言い当てる男だった。

 

俺はカードをポケットにしまう。

 

駅へ向かって歩き出す。

 

夕方の空は、もうほとんど夜に変わっていた。

 

普通の学校。

 

普通の生活。

 

普通のバイト。

 

そういうものに、ようやく慣れてきたと思っていた。

 

でも、どうやら俺の周りには、まだ普通ではないものが残っているらしい。

 

進支会。

 

黒崎兄。

 

一年Cクラス退学者、山内春樹。

 

その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「……行くしか、ないよな」

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