編入してから、二ヶ月が経った。
最初の頃は、教室に入るだけで少しだけ肩に力が入っていた。
誰がどんなやつなのか。
どのグループがどういう空気なのか。
どこまで踏み込んでいいのか。
そういうことを、いちいち考えながら過ごしていた気がする。
けど、人間というのは慣れる生き物らしい。
「おー、山内。昨日の課題やった?」
「やったぜ。まあ、出さないと後が面倒だしな」
「じゃあ見せて」
「俺の努力をそんな軽く借りようとするな」
「友達だろ」
「友達って言えば何でも通ると思うなよ」
「困った時は助け合いだろ」
「お前の場合、困る前から俺を当てにしてるだろ」
「バレたか」
「隠す気もなかっただろ」
そんなふうに、クラスの男子とも普通に話すようになった。
柳とは相変わらずよく一緒にいる。
というか、気づけば一番話す相手になっていた。
休み時間にくだらない話をして、昼は一緒に購買へ行って、たまに放課後も途中まで帰る。
高育にいた頃の寛治や健とは、少し違う。
でも、こいつと話していると、ふとあいつらのことを思い出す時がある。
くだらないことで笑って。
大して意味のない話をして。
けど、それが妙に楽で。
そういう時間が、俺にとっては思っていたより大事だったらしい。
他のクラスにも、少しずつ知り合いができた。
体育で一緒になったやつ。
購買で何度か並んだやつ。
柳の知り合いから流れで話すようになったやつ。
高育にいた頃ほど特殊な空気はない。
誰もがポイントを気にしているわけでもなければ、クラス同士がいつも睨み合っているわけでもない。
もちろん、普通の学校なりの面倒くささはある。
グループの距離感とか、噂話とか、教師の当たり外れとか。
黒崎さんとも、以前よりは話すようになった。
とはいえ、劇的に仲良くなったわけではない。
教室で何気ない会話をする。
たまに帰り道が同じになって、一緒に歩く。
そのくらいだ。
あの日以来、黒崎さんは高育の話にも、退学者の話にも触れてこなかった。
進支会の名前も出してこない。
俺も、あえて聞かなかった。
黒崎さんが踏み込まないようにしているなら、俺も踏み込まない。
その方がいい気がした。
「山内くん、次の小テスト範囲分かる?」
「たぶん、教科書の五十二ページから六十ページ」
「たぶん?」
「柳情報だから信用度は五割くらい」
「じゃあ、確認した方がいいね」
「柳、信用されてないぞ」
「俺に責任を押しつけるな」
そんな会話をするくらいには、黒崎さんも俺たちのやり取りに慣れてきた。
柳は相変わらず、俺と黒崎さんのことを見てはニヤニヤする。
「山内、最近いい感じじゃん」
「何がだよ」
「黒崎さんと普通に話してるだろ」
「クラスメイトと普通に話して何が悪い」
「いやー、最初は『一目惚れじゃない』とか言ってたのにな」
「まだ言ってんのか、それ」
「擦れるネタは擦る」
「最低だな」
そんな感じで、二ヶ月は過ぎていった。
そして、その二ヶ月の間に一つ変わったことがある。
俺はバイトを始めた。
場所は、学校から電車で二駅行った街にある本屋だ。
柳が言っていた通り、その辺りは駅前が少し栄えていた。
飲食店もあるし、コンビニも多いし、塾や雑貨屋もある。
そして、噂の女子校もある。
最初にバイト先を探しに来た時、柳はやたらとその情報を強調していた。
「山内、ここ重要な地域だからな」
「何が重要なんだよ」
「女子校がある」
「お前、それしか言ってないぞ」
「それが大事なんだろ」
「否定はしないけど」
「やっぱりな」
結果的に、女子校目当てで選んだわけではない。
本屋のバイトなら、飲食よりは落ち着いて働けそうだった。
それに、店長も悪い人ではなさそうだった。
時給はそこそこ。
シフトも融通が利く。
一人暮らしで食費を抑えるためにも、バイトは必要だった。
だから、そこで働くことにした。
土曜日。
その日も俺は昼過ぎからバイトに入っていた。
レジに立ち、客が持ってきた本を会計する。
ブックカバーをかける。
在庫を確認する。
棚を整える。
最初は覚えることが多くて大変だったが、二ヶ月も経てば少しは慣れてくる。
「ありがとうございました」
袋を渡し、客が店を出ていく。
休日の本屋は、それなりに客が多い。
親子連れ。
学生。
会社員っぽい人。
参考書を探す中学生。
雑誌を立ち読みするおじさん。
街に色々な人が行き交っている環境。
こういう場所に立っていると、自分が本当にあの学校を出たんだと実感することがある。
少し寂しいような。
少し安心するような。
そんなことを考えながら棚を整えていると、入口の自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
いつもの調子で声を出す。
そして、顔を上げた瞬間、俺は固まった。
黒い髪。
落ち着いた歩き方。
少し周囲と距離を置くような雰囲気。
黒崎美琴さんだった。
「……黒崎さん?」
思わず名前を呼ぶと、黒崎さんもこちらに気づいた。
「山内くん?」
目が合う。
しばらく、お互いに妙な顔で見つめ合った。
先に口を開いたのは黒崎さんだった。
「ここで働いてたんだ」
「ああ。二ヶ月くらい前から」
「知らなかった」
「言ってなかったからな」
「本屋さん、似合うね」
「本当か?」
「うん。意外と」
「今、意外とって言ったよな」
「言った」
「そこは隠せよ」
黒崎さんは少しだけ笑った。
学校で見る時より、私服の黒崎さんは少し印象が違った。
派手ではない。
白っぽいブラウスに、落ち着いた色のスカート。
それだけなのに、妙に目を引く。
制服の時よりも、少し柔らかく見える。
俺は一瞬だけ見とれかけて、慌てて視線をそらした。
仕事中だ。
変に見ていたら、さすがにまずい。
「黒崎さんは、本買いに来たのか?」
「うん。参考書を見に」
「真面目だな」
「山内くんも買った方がいいかも」
「急に刺してくるな」
「小テスト、危なかったでしょ」
「柳よりはマシだった」
「比べる相手が柳くんなの?」
「それは……確かに低い争いだな」
黒崎さんは棚の方へ歩いていく。
俺は店員として、少しだけ距離を取りながらついていった。
「探してる本あるなら案内するけど」
「大丈夫。だいたい分かるから」
「そっか」
そこで会話が途切れる。
俺は仕事に戻ろうとした。
すると、黒崎さんが本棚の前でふと振り返った。
「山内くん」
「ん?」
「この辺でバイトしてるんだね」
「ああ。学校の近くだと募集少なかったからさ。柳に二駅先ならあるって聞いて」
「柳くんが?」
「そう。あと、この近くに女子校があるって、やたら力説された」
そう言った瞬間、黒崎さんの目が少しだけ細くなった。
「へえ」
「なんだよ、その反応」
「山内くんは、この近くの女子校の女の子が目当てなのかなって」
「違う違う違う」
俺は反射的に否定した。
少し声が大きくなって、近くの客がちらっとこちらを見る。
俺は慌てて声を落とした。
「いや、違うから。普通にバイト先探してただけだから」
「本当に?」
「本当だって。確かに柳から聞いた時、ちょっとだけ興味は持ったけど」
「持ったんだ」
「男なら多少はね」
「正直だね」
「嘘ついても仕方ないだろ」
黒崎さんは口元に手を当てて、小さく笑った。
からかわれている。
いつもの静かな黒崎さんからは少し意外だった。
「でも、安心した」
「何が?」
「変に隠さないところ」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
黒崎さんは参考書を一冊手に取った。
表紙を見て、少し中を確認する。
その横顔を見ながら、俺はふと思った。
「黒崎さん、この辺よく来るの?」
「うん」
「学校帰りに?」
「休日が多いかな」
「へえ。家、近いのか?」
聞いた後で、少し踏み込みすぎたかと思った。
けど、黒崎さんは特に嫌そうな顔はしなかった。
「この辺」
「あ、そうなんだ」
「山内くんのバイト先が近所だったのは、少し驚いた」
「俺もびっくりした」
家が近いことにもだが、学校では、どちらかというと壁を作っているように見える。
でも、今は少しだけ違う。
教室では見せない表情を見た気がして、そんな部分にも俺は驚いた。
「それにしても、山内くん」
「何?」
「接客、ちゃんとしてるんだね」
「どういう意味だよ」
「もっと適当なのかと思ってた」
「俺をなんだと思ってるんだ」
「明るいけど、少し勢いで生きてそうな人」
「否定しきれないのが悔しい」
「でも、ちゃんと働いてるのはすごいと思う」
その言い方は、茶化している感じではなかった。
俺は少し照れくさくなって、頭をかきそうになる。
けど、仕事中なので我慢した。
「まあ、一人暮らしだしな。食費とか考えると、バイトしないときついんだよ」
「大変?」
「それなりに。でも、悪くないよ」
高育では、ポイントで生活が管理されていた。
今は現金で、時給で、給料日に少しだけ増える通帳の数字を見る生活だ。
大変ではある。
けど、ポイントよりもダイレクトに、自分で働いていた分がそのまま成果になるのは嬉しい。
「山内くん、変わったね」
黒崎さんがぽつりと言った。
「え?」
「最初に会った時より、少し落ち着いた気がする」
「そうか?」
「うん」
「まあ、最初は編入初日だったからな。余裕なかったし」
「今は?」
「今もそんなに余裕あるわけじゃないけど、前よりはマシかな」
俺がそう答えると、黒崎さんは小さく頷いた。
「そっか」
その後、黒崎さんは参考書と文庫本を一冊ずつ持ってレジへ来た。
俺は会計をして、ブックカバーをかけるか確認する。
「カバー、つける?」
「文庫本だけお願い」
「了解」
作業をしながら、ふと時計を見る。
俺のシフトが終わるまで、あと十分ほどだった。
「黒崎さん、この後すぐ帰るのか?」
「うん。そのつもり」
「俺、あと十分くらいで上がりなんだけど」
言ってから、少し迷った。
変な意味に聞こえないか。
いや、普通に帰り道が同じなら一緒に帰るだけだ。
「よかったら、途中まで一緒に帰るか?」
黒崎さんは少しだけ目を瞬かせた。
「いいの?」
「俺は別に。シフト終わるだけだし」
「でも、待たせることになるよ」
「十分くらいだろ。逆に待ってもらう方だし」
「……じゃあ、少しだけ」
「おう」
黒崎さんは店内の端で本を見ながら待ってくれた。
俺はその間に残りの仕事を片づけ、店長に挨拶して裏へ下がる。
エプロンを外し、私服の上に軽く上着を羽織る。
バックヤードの鏡で一応髪を確認した。
別に気にしているわけじゃない。
接客業としての身だしなみだ。
そう自分に言い訳しながら店に戻ると、黒崎さんが入口近くで待っていた。
「悪い、待たせた」
「ううん」
「じゃあ、帰るか」
二人で本屋を出る。
「黒崎さん、家この辺なんだよな」
「うん。駅の向こう側」
「あ、じゃあ駅までは一緒だな」
「そうだね」
駅前の通りを抜けながら、俺たちは並んで歩いた。
夕方の駅周辺は、買い物帰りの人や学生でそれなりに賑わっている。
ここまでは、別に不自然でも何でもない。
同じ方向に帰るクラスメイト。
それくらいの距離感だ。
やがて駅前の横断歩道が見えてきた。
黒崎さんは、その先へ視線を向ける。
「私の家、駅を越えた先だから」
「そっか。じゃあ、そこまで送るよ」
そう言うと、黒崎さんは少しだけ迷うように視線を落とした。
「でも、山内くんはここから電車で帰るんでしょ?」
「まあな」
「だったら、駅までで大丈夫だよ」
「いや、ここまで来たし。あと少しくらいなら」
「駅の向こうだから、少し遠回りになるよ」
「大した距離じゃないだろ」
「……」
黒崎さんは少し困ったような顔をした。
たぶん、気を遣っている。
俺も一瞬、押しすぎかと思った。
けど、夕方とはいえ、女の子を一人で帰らせるのも何となく気が引ける。
それに、駅前で「じゃあここで」と別れるのも、少しだけ中途半端な気がした。
「嫌なら無理には言わないけどさ」
俺は少しだけ言い方を変えた。
「黒崎さんには、前に高育のこととか気を遣ってもらったし。これくらいは別にいいよ」
「それ、理由になる?」
「俺の中ではなる」
「山内くんって、たまに強引だよね」
「よく言われる」
黒崎さんはそう言って、少しだけ笑った。
「じゃあ、少しだけお願いしようかな」
「おう」
俺たちは駅前の通りから少し離れた道へ入った。
大通りほど人は多くないが、住宅街というほど静かでもない。
店やマンションが並んでいて、ところどころに古い家もある。
「この辺、住みやすそうだな」
俺が何となくそう言うと、黒崎さんは少しだけ周りを見た。
「うん。駅も近いし、本屋もあるし」
「本屋が基準なのか」
「大事でしょ」
「まあ、黒崎さんなら分かる気はする」
「どういう意味?」
「本とか読んでそうな雰囲気あるし」
「雰囲気?」
黒崎さんが、少しだけ首を傾げる。
「落ち着いてるというか、静かというか」
そこまで言ってから、俺は少し言葉に迷った。
下手なことを言うと、失礼になりそうな気がしたからだ。
すると、黒崎さんが先に口を開いた。
「鉄壁、とか?」
「……え?」
思わず足が止まりそうになる。
「聞いたことあるよ」
「いや、本人に届いてたのかよ」
「直接言われたわけじゃないけど、何となく」
黒崎さんは特に傷ついた様子もなく、淡々と言った。
だから余計に、俺の方が少し焦る。
「いや、悪口ってわけじゃなくてだな」
「分かってる」
「ほんとか?」
「うん。話しかけにくいって思われてるのは、自分でも分かってるから」
その言い方に、少しだけ引っかかった。
自分で分かっている。
でも、それを直したいと思っているのかは分からない。
たぶん黒崎さんにとって、その距離は必要なものなんだろう。
「俺は、別に話しかけにくいとは思わないけどな」
そう言うと、黒崎さんは俺の方を見た。
「初日にいきなり購買の混み具合を聞いてきたもんね」
「あれは忘れてくれ」
「忘れない」
「そこは忘れてくれてもよくないか?」
「無理」
「黒崎さん、意外と意地悪だな」
黒崎さんは小さく笑った。
その顔を見て、俺は少しだけ肩の力が抜ける。
そんな会話をしながら、俺たちは並んで歩いた。
学校からの帰り道とは違う。
制服ではなく、私服で。
教室ではなく、街の中で。
それだけで、黒崎さんとの距離感が少し違って感じた。
やがて、黒崎さんは一軒の家の前で足を止めた。
大きすぎるわけではないが、落ち着いた雰囲気のある家だった。
門灯がつき始めていて、玄関先に柔らかい光が落ちている。
「ここ?」
「うん。送ってくれてありがとう」
「いや、全然」
「遠回りさせちゃったね」
「気にすんなって」
俺がそう言って帰ろうとした時だった。
玄関の扉が開いた。
中から、一人の男が出てきた。
二十代後半くらいだろうか。
落ち着いた雰囲気の男だった。
柔らかい表情をしているが、どこか隙がない。
黒崎さんと同じ黒い髪。
目元も少し似ている。
その男は俺と黒崎さんを見て、少しだけ目を細めた。
「ああ、美琴。帰ってきてたんだね」
「兄さん。帰ってたの!?」
兄さん。
つまり、この人が黒崎さんの兄。
退学者や編入者を支援する仕事をしているという、あの兄か。
男は俺に視線を向ける。
そして、穏やかに笑った。
「妹を送ってくれてありがとう」
「あ、いえ。たまたま帰りが一緒になっただけなので」
「それでも助かったよ。最近は暗くなるのも早いからね」
「いえ、本当に大したことはしてないです」
黒崎兄は、柔らかい口調でそう言った。
けど、俺はなぜか少しだけ身構えた。
別に敵意があるわけじゃない。
でも、何となく見られている感じがする。
評価されているような。
測られているような。
そんな感覚があった。
まさか。
この人、シスコンか?
妹を送ってきた男を見て、警戒しているんじゃないか?
そう考えた瞬間、俺の背中に変な汗が浮かんだ。
まずい。
誤解は早めに解いた方がいい。
「いや、その、妹さんとは別にそういうのじゃなくてですね」
俺が慌てて言うと、黒崎さんが横で目を瞬かせた。
「山内くん?」
「いや、違うんだ。これは別に変な意味じゃなくて」
「何を言ってるの?」
「俺にも分からなくなってきた」
黒崎兄は、そんな俺を見て、少しだけ楽しそうに笑った。
「面白いね君。安心していいよ。別に妹に近づくなと警告するつもりはない」
「あ、そうなんですか」
「今のところはね」
「今のところ」
さらっと怖いことを言われた。
やっぱりシスコンなのでは。
そう思った時、黒崎兄の目がほんの少しだけ変わった。
柔らかい笑みはそのまま。
けれど、空気が一段だけ冷えた気がした。
「それより、山内春樹くん」
「へっ?」
自分の名前を呼ばれて、俺は顔を上げる。
「いや、一年Cクラス退学者の山内春樹くん。君とは、ぜひ一度話がしたくてね」
息が止まった。
黒崎さんも、わずかに表情を変えた。
一年Cクラス。
退学者。
山内春樹。
この人は今、はっきりそう言った。
高育のことを知っているだけじゃない。
俺がどのクラスにいて、退学した人間だということまで知っている。
「……なんで、それを」
喉の奥が少し乾く。
聞きたいことはいくつもあった。
どこで知った。
誰から聞いた。
何の目的で調べた。
この人はどこまで知っている。
進支会は俺のことをどこまで把握している。
だが、黒崎兄は俺の言葉を遮るように、静かに人差し指を立てた。
「ここでは誰が聞いているか分からないからね」
その言葉に、俺は周囲を見た。
住宅街の道。
通り過ぎる人は少ない。
誰かが聞き耳を立てているようには見えない。
でも、この人はそう言った。
誰が聞いているか分からない。
つまり、ここで話すつもりはないということだ。
彼ははポケットから一枚のカードを取り出した。
名刺のようなものだった。
そこには、見覚えのある名前が印字されていた。
進路移行者支援協会。
進支会。
その下に、住所と連絡先が書かれている。
「気になるなら、ここに来てくれ」
黒崎兄は穏やかな声で言った。
俺はカードを受け取る。
紙は薄いのに、妙に重く感じた。
「……俺に、何の用ですか」
そう聞くと、黒崎兄は少しだけ笑った。
「それは、来てくれた時に話すよ」
答えになっていない。
けど、これ以上ここで聞いても無駄だと分かった。
黒崎さんは、兄と俺の間を見ていた。
何か言いたそうにしている。
けれど、言葉にはしなかった。
「美琴、先に入っていなさい」
黒崎兄がそう言うと、黒崎さんは一瞬だけ迷った。
「兄さん」
「大丈夫。少し挨拶をしただけだよ」
その声は優しい。
けど、逆らわせない響きがあった。
黒崎さんは俺を見る。
その目には、少しだけ不安が混じっていた。
「山内くん」
「大丈夫だよ」
俺はそう答えた。
本当に大丈夫かは分からない。
でも、ここで黒崎さんを不安にさせるのも違う気がした。
黒崎さんは小さく頷き、家の中へ入っていった。
玄関の扉が閉まる。
俺と黒崎兄だけが、門の前に残された。
「妹とは仲良くしてくれているみたいだね」
「普通にクラスメイトとして、ですけど」
「うん。それでいい」
黒崎兄は穏やかに言った。
「今日は引き止めて悪かったね」
「……いえ」
「来るかどうかは君が決めていい。ただ」
黒崎兄は、俺が手にしたカードへ一度視線を落とした。
それから、穏やかな声で続ける。
「君は気になっているはずだ」
「……何をですか」
「なぜ私が、君の名前を知っているのか。なぜ君が高度育成高等学校の一年Cクラスにいて、退学になったことまで知っているのか」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
まさに、それを聞きたかった。
けれど、ここで聞いていい話ではない。
そう言われたばかりだ。
俺は高育から出た。
学校名を知られること自体は、たぶん問題ない。
でも、一年Cクラス退学者。
そこまで知られているとなると、話は別だ。
誰が知っている。
どこから漏れた。
進支会は、俺のことをどこまで把握している。
黒崎さんは、それを知っていたのか。
考えようとするほど、頭の中に疑問が増えていく。
黒崎兄は、それを見透かしたように笑った。
「その答えが欲しいなら、そこに来てくれ」
「……」
「少なくとも、ここで立ち話をするよりは、きちんと話せる」
俺は手の中のカードを見た。
進路移行者支援協会。
進支会。
その名前が、さっきよりもずっと重く見える。
「また会おう、山内くん」
それだけ言って、黒崎兄は家の中へ戻っていった。
玄関の扉が閉まる。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
手元には、進支会のカード。
黒崎さんの兄。
進路移行者支援協会。
そして、俺の高育時代の情報。
頭がパンクしそうだ。
「……なんだよ、これ」
ただの休日のバイト帰りだったはずだ。
黒崎さんと偶然会って、少しからかわれて、一緒に帰った。
それだけで終わるはずだった。
なのに、最後に出てきたのは、穏やかな顔で俺の過去を言い当てる男だった。
俺はカードをポケットにしまう。
駅へ向かって歩き出す。
夕方の空は、もうほとんど夜に変わっていた。
普通の学校。
普通の生活。
普通のバイト。
そういうものに、ようやく慣れてきたと思っていた。
でも、どうやら俺の周りには、まだ普通ではないものが残っているらしい。
進支会。
黒崎兄。
一年Cクラス退学者、山内春樹。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
俺は小さく息を吐いた。
「……行くしか、ないよな」