屍人─シビト─ この世界では、死んだ人間が戻ってくる   作:一般ゾンビ兵

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初めまして!

今回からオリジナルゾンビ小説を書かせてもらいます『一般ゾンビ兵』と申します!

ウォーキング・デッドを見て、私もダークでリアルなゾンビ小説を書きたいと思い、執筆を始める事にしました!

拙い文章ではありますが、是非よければお楽しみください!

感想や評価も是非お待ちしております!


第一話 世界が終わった、その日に

 深夜の九州自動車道は黒い雨に沈んでいた。フロントガラスを叩きつける雨粒を大型トラックのワイパーが単調なリズムで弾き飛ばしていく。

 

 

 深夜二時。対向車すら滅多にすれ違わないこの時間帯は、”古賀壮真(こがそうま)”にとって唯一息がつける空間だった。

 

 

 ハンドルを握る壮真の顔はメーターパネルの淡い緑色の光に照らされている。無精髭が伸びた顎、目の下に張り付いた濃い隈。二十七歳という年齢以上にその横顔はひどく疲弊し、生気を失っていた。

 

 

 カーステレオは点けていない。エンジンの低い唸り声とタイヤが濡れたアスファルトを噛む音だけが狭い車内を満たしている。人と関わらなくて済む。誰の命を背負うこともなく、ただ決められた荷物を決められた場所へ運ぶだけ。今の壮真にとってこの孤独な鉄の箱の中だけが世界から逃げ込める唯一のシェルターだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『お兄ちゃんのせいじゃないってわかってる……でも、どうしても顔を見れないの』

 

 

 

 

 

 

 ふいに雨音に混じって「あの日」の記憶が蘇る。

 

 

 泣き崩れる少女の声。それは彼がこの世でたった一人残された大切な家族の声だった。

 

 

『うるせえ! 俺に関わるな! ほっといてくれ!!』

 

 

 自分が吐き捨てた取り返しのつかない暴言。

 

 

 壮真は無意識のうちにハンドルを握る手に力を込めた。革のカバーが軋む音がする。

 

 

 三年前。彼はまだ誇りを持って制服を着ていた。誰かを守れると信じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、現実は違った。

 

 

 守ると誓った約束は最悪の結末とともに砕け散った。手の中に残ったのは冷たい鉄の重みと、引き金を引いた瞬間のあのひどく乾いた破裂音だけ。

 

 

 そして、飛び散った赤黒い飛沫の記憶が今も壮真の脳裏にこびりついて離れない。

 

 

「……くそっ」

 

 

 壮真は小さく悪態をつき、右手をハンドルから離した。

 

 

 指先が微かに震えている。どれだけ時間が経とうと、どれだけ遠くへ逃げようと、あの日の感触を思い出すだけで身体が勝手に拒絶反応を示す。

 

 

 彼は震える手を太ももに押し当て、深く、重い溜息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

 視界の端、中央分離帯の向こう側——対向車線に異常な光の束が現れた。本来ならすれ違うはずのヘッドライトがありえない角度でこちらを向いている。

 

 

「な……っ!」

 

 

 大型のトレーラーだった。

 

 

 対向車線を走っていたはずのその巨体がコントロールを失ったように蛇行し、水しぶきを上げながら中央分離帯のガードレールを突き破ってきたのだ。

 

 

 ブレーキペダルを床が抜けるほど踏み込む。けたたましいスキール音が夜の闇を引き裂き、トラックの巨体が激しく横滑りする。

 

 

 迫り来るトレーラーの運転席が一瞬だけヘッドライトに照らし出された。運転手はハンドルに突っ伏しており、その首筋は不自然に赤く染まっているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 避ける間など、なかった。凄まじい衝撃音と共に世界がひっくり返る。

 

 

 フロントガラスが粉々に砕け散り、無数のガラス片が雨と一緒に車内へ雪崩れ込んできた。金属がひしゃげる絶叫のような音が鼓膜を突き破り、壮真の体はシートベルトに激しく締め付けられる。天地が逆転し、強烈なGが全身の骨を軋ませた。視界が激しく明滅し、やがて、すべてを塗り潰すような深い闇が押し寄せてくる。

 

 

(……(しおり)

 

 

 最後に脳裏をよぎったのは、突き放してしまった妹の泣き顔だった。

 

 

 それを最後に、壮真の意識は完全に途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。深い泥の底のような暗闇の中からゆっくりと意識が浮上してくる。

 

 

 最初に感じたのはひどい喉の渇きだった。まるで砂を飲み込んだかのように喉の奥がカラカラに干からびている。

 

 

 重く張り付いた瞼を微かな力を振り絞って押し上げる。視界は白く濁り、水の中にいるようにぼやけていた。何度か瞬きを繰り返すと焦点が少しずつ合ってくる。

 

 

 目に映ったのは、無機質で殺風景な見知らぬ白い天井だった。

 

 

「……」

 

 

 声を出そうとしたが、掠れた空気の音が漏れただけだった。全身の筋肉が鉛のように重く、指先一つ動かすのにもひどい労力がいる。鈍い痛みが体のあちこちで脈打っていた。

 

 

 ゆっくりと首を巡らせ、周囲を見渡す。

 

 

 狭い個室のようだ。窓には薄いカーテンが引かれ、隙間から灰色の光が差し込んでいる。

 

 

 ふと、右腕に引きつるような違和感を覚えた。視線を落とすと、青白い皮膚に透明なチューブがテープで固定されている。チューブの先を辿るとベッドの脇に立つ金属製のスタンドとそこに吊るされた空の点滴パックに繋がっていた。

 

 

 心電図のモニターらしき機材もベッドサイドに置かれているが、電源が入っていないのか画面は真っ暗なままだ。

 

 

(……病院、か)

 

 

 鈍く霞んでいた頭がその事実を認識したことで少しずつクリアになっていく。なぜ自分はこんなところに寝かされているのか。記憶の糸をたぐり寄せるように壮真は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 ──雨の音。ワイパーの規則的な動き。

 ──対向車線を越えてガードレールを突き破ってきた巨大なヘッドライト。

 ──ハンドルに突っ伏した首筋の赤い運転手。

 ──そして鼓膜を破るような金属の絶叫と、天地がひっくり返る衝撃。

 

 

 

 

 

 

「……そうだ。俺はトレーラーと……」

 

 

 乾いた唇から掠れた声がこぼれ落ちた。

 

 

 あの深夜の九州自動車道で自分は正面衝突の事故に遭ったのだ。トラックのフロントガラスが砕け散り、闇に飲み込まれる直前の光景が鮮明なフラッシュバックとなって脳裏に蘇る。

 

 

 あれほどの事故だった。即死していてもおかしくなかったはずだ。

 

 

 だが、自分はこうして生きている。病院のベッドの上で確かに呼吸をしている。

 

 

 壮真は左手をゆっくりと持ち上げ、顔に触れた。額にはガーゼが貼られているが致命的な傷はないようだ。意識が完全に覚醒していくにつれ、体の痛みよりもある「違和感」が壮真の神経を逆撫でし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あまりにも静かすぎる。

 

 

 病院という場所が本来静粛を保つべき空間であることは壮真にも分かっている。だが、これはそういう次元の静けさではなかった。

 

 

 廊下を行き交う看護師のゴム底の足音も、遠くで響く院内アナウンスも、他の病室からの微かな話し声すら一切聞こえない。それどころか空調のモーター音や建物の外から聞こえてくるはずの車の走行音さえもがすっぽりと抜け落ちている。

 

 

 まるで、この病室だけが世界から切り離され、真空の箱の中に閉じ込められてしまったかのような圧倒的で不気味な静寂だった。

 

 

 壮真は再びベッドサイドに置かれた心電図のモニターに視線を向けた。

 

 

 やはり画面は真っ暗なままだ。医療の知識などない壮真だが、重傷を負って運び込まれたはずの患者のバイタルを管理する機械が完全に沈黙しているのはどう考えても不自然に思えた。こういうものは常に緑色の波形が表示され、規則正しい電子音を鳴らし続けているものではないのか。

 

 

 よく見ればモニターの電源ランプすら点灯していない。

 

 

(誰か、いないのか……?)

 

 

 状況を確認しなければならない。壮真は鉛のように重い首を動かし、ベッドの周囲を探った。

 

 

 やがてシーツの端にコードの伸びたナースコールのスイッチが転がっているのを見つける。壮真は力が入らない左腕をゆっくりと動かし、その白いプラスチックの塊を握りしめた。

 

 

 親指に力を込め、赤いボタンを押し込む。

 

 

 カチリ、と物理的なスイッチが沈み込む乾いた音だけが静かな病室に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 待てど暮らせど、何の反応もない。本来ならスピーカー越しに「どうしましたか」と看護師の声が返ってくるか、あるいは廊下を慌ただしく駆けつけてくる足音が聞こえるはずだ。

 

 

 しかし、ドアの向こう側は死んだように静まり返ったままだ。

 

 

 一分、三分、五分……。

 

 

 時間だけがただ残酷なほど静かに過ぎていく。聞こえるのは自分の浅い呼吸音と微かに脈打つ心臓の音だけ。

 

 

 壮真はゆっくりと顔を巡らせ、カーテンの隙間から差し込む光を見つめた。

 

 

 曇っているのか少し薄暗いが、その光の強さや色合いは明らかに昼間のものだ。太陽が昇り、本来なら病院が最も慌ただしく稼働しているはずの時間帯。外来患者の話し声でごった返し、医師や看護師が足早に廊下を行き交っているはずの真昼間なのだ。

 

 

 それなのに、この静寂はどうだ。夜間や休日だから人がいない、というような生易しい空気ではない。人が「いない」のではなく、まるでこの空間から人間の存在そのものが「消滅」してしまったかのような底知れない虚無感。

 

 

 この静寂の裏側にはもっと決定的な取り返しのつかない『異常事態』が潜んでいる。壮真の元警察官としての本能が警鐘を鳴らす。

 

 

「………よし」

 

 

 このままベッドの上で待っていても誰も来ない。壮真はとにかくこの部屋から出ることを決意した。

 

 

 まずは右腕に繋がれたままの点滴のチューブだ。壮真は左手で固定用のテープを乱暴に剥がし、皮膚に刺さった針をゆっくりと引き抜いた。微かに血が滲んだが気にする余裕はない。

 

 

 ベッドの柵を強く握りしめ、軋む体を無理やり起こす。足の裏が冷たいリノリウムの床に触れた瞬間全身の筋肉が悲鳴を上げ、膝がガクンと折れそうになった。数週間、あるいは数ヶ月寝たきりだったのかもしれない。足に全く力が入らない。

 

 

「……くそっ」

 

 

 壮真は壁に手をつき、荒い息を吐きながらたどたどしい足取りでドアへと向かった。一歩踏み出すごとに体が鉛のように重く感じる。それでも胸の奥で警鐘を鳴らし続ける本能に急かされるように壮真は冷たい金属のドアノブに手をかけた。

 

 

 ゆっくりと、ドアを押し開ける。

 

 

 蝶番が微かに軋む音を立て、廊下の空気が病室へと流れ込んできた。

 

 

 その瞬間、鼻腔を突いたのは消毒液の匂いではなく、鉄錆と……何かが腐ったようなひどく淀んだ異臭だった。

 

 

「……なんだこれ」

 

 

 廊下に広がる光景を目の当たりにし、壮真は絶句した。そこは彼が知る「病院」の姿ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天井の蛍光灯はすべて消え失せ、薄暗い廊下にはひっくり返ったストレッチャーや車椅子、散乱したカルテの束が無残に転がっている。点滴のスタンドがへし折れ、割れたガラス瓶の破片が床に散らばっていた。まるで巨大な竜巻が院内を通り抜けたかのような惨状だ。

 

 

 だが、壮真の目を最も釘付けにしたのはそれらの散乱物ではなかった。薄暗い廊下の壁や床のあちこちに赤黒く変色した『染み』がこびりついていたのだ。

 

 

 それは明らかに大量の血液が乾燥した痕だった。何者かが血を流しながら壁伝いに逃げたような手形。そして床には何か重い肉の塊を引きずったような生々しい血の軌跡が廊下の奥の暗がりへと続いている。

 

 

「一体ここで何が起きたんだ」

 

 

 壮真は壁に背中を預けたまま呆然と呟いた。

 

 

 暴動か? テロか? 

 

 

 いや、それにしては静かすぎる。警察や自衛隊が突入した形跡もない。ただ人々がパニックに陥り、何かから逃げ惑い、そして……凄惨な暴力が吹き荒れた痕跡だけがそこには残されていた。

 

 

 頭の整理が全く追いつかない。自分が眠っていた間にこの病院で、いや、この世界で何が起きたというのか。

 

 

 壮真は乾いた唾を飲み込み、薄暗く、死の匂いが充満する廊下の奥をじっと見つめた。

 

 

 だが、じっとしていては何も分からない。壮真はとにかく誰か事情を知る人間を探すために歩き出すことを決めた。

 

 

「誰か……いませんか……」

 

 

 掠れた声を絞り出してみたが、その音は薄暗い廊下に虚しく吸い込まれ何の反響も生み出さなかった。

 

 

 足取りはまだひどくおぼつかない。一歩足を踏み出すたびに膝が笑い、体が横に傾きそうになる。壮真は冷たい壁に右手を押し当て、その摩擦を頼りに体を支えながらずるり、ずるりとすり足で前へ進んだ。

 

 

 手のひらに伝わる壁の感触はところどころでひどくザラついていた。見なくてもわかる。それは乾燥してこびりついた血液の痕だ。壮真はその感触に微かな悪寒を覚えながらも歩みを止めることはできなかった。

 

 

 廊下の両側にはいくつもの病室が並んでいる。どの部屋もドアが開け放たれており、中を覗き込むとやはりベッドのシーツは乱れ、医療器具が散乱していた。

 

 

 しかし、肝心の「患者」の姿はどこにもない。

 

 

 ナースステーションの前を通り過ぎる。カウンターの上にはカルテやバインダーが散乱し、電話の受話器がだらりとコードを伸ばして宙吊りになっていた。カウンターの内側にもやはり人の姿はない。

 

 

「おい……嘘だろ……」

 

 

 壮真の口から震えるような呟きが漏れた。

 

 

 これだけ巨大な病院だ。医師、看護師、患者、見舞い客。本来なら何百、何千という人間がこの建物の中にいたはずなのだ。

 

 

 それなのにいくら進んでも、角を曲がっても、生きた人間の気配が全く感じられない。話し声も、足音も、衣擦れの音すらしない。あるのはただ圧倒的な静寂と、鼻の奥にこびりつくような死の匂いだけ。

 

 

 まるで、神隠しにでも遭ったかのようにすべての人間がこの空間から蒸発してしまったかのようだった。

 

 

(みんなどこへ行った……? 避難したのか? だとしたらなぜ俺だけが取り残されている?)

 

 

 壁を伝う壮真の手にじわりと冷や汗が滲む。

 

 

 誰もいない。誰も助けに来ない。

 

 

 自分がどれほどの期間眠っていたのかもわからないままこの血塗られた無人の廃墟に取り残されているという事実。壮真の胸の奥で得体の知れない不安がどす黒いインクのようにじわじわと広がっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ガタン。

 

 

 

 

 不意に、死んだような静寂を破る物音が響いた。廊下のずっと奥、薄暗い曲がり角の先からだ。何か硬いものが床に落ちたような、あるいはぶつかったような鈍い音。

 

 

 壮真は弾かれたように顔を上げた。

 

 

「……誰か、いるのか?」

 

 

 壁から手を離し、ふらつく足に無理やり力を込めて音のした方へと急ぐ。角を曲がると、少し開けた待合ホールのような場所に出た。

 

 

 そこに、人影があった。

 

 

 薄暗がりの中窓から差し込む灰色の光を背に受けて、背中を向けたまま力なく突っ立っている白衣姿の人物。

 

 

(人が……いた!)

 

 

 壮真の胸に張り詰めていた糸がふっと緩むような強烈な安堵感が広がった。孤独と得体の知れない恐怖に押し潰されそうになっていた彼にとって、その背中はまさに希望そのものだった。誰でもいい、事情を知る人間がいればこの異常な状況もきっと説明がつくはずだ。

 

 

「すいません! あの、俺は……」

 

 

 壮真は安堵の息を吐きながら無防備にその背中へと近づき声をかけた。その声に反応し、白衣の人物がゆっくりとひどくぎこちない動作で振り返る。

 

 

「ここで一体何が──」

 

 

 言葉は最後まで続かなかった。振り返った『それ』の顔を見た瞬間、壮真の全身の毛穴が粟立ち、今までに経験したことのない芯から凍りつくような悪寒が背筋を駆け上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、もはや人間と呼べる代物ではなかった。

 

 

 

 

 顔面の右半分が獣に食い破られたかのようにごっそりと崩落していたのだ。引き裂かれた皮膚の隙間からは赤黒く変色した筋肉の繊維と白濁した頬骨が剥き出しになり、残された左目も生気を完全に失ったビー玉のように白く濁りきっている。

 

 

 千切れた顎の肉はだらりと垂れ下がり、そこからどす黒い液体が絶え間なく床へと滴り落ちていた。

 

 

(なんだこいつは……!?)

 

 

 壮真の脳が激しく混乱し、警鐘を鳴らす。

 

 

 これほどの致命傷を負ってなぜ平然と立っていられるのか。なぜ痛みで泣き叫ぶこともなく呼吸すらしていないように見えるのか。医学的な常識も生物としての(ことわり)も、目の前の存在はすべてが破綻している。

 

 

「アァ……ァァ……」

 

 

 喉の奥で血の塊が潰れるような低く濁ったうめき声。

 

 

 次の瞬間、顔面を崩壊させた『それ』は、生気のない瞳で壮真を真っ直ぐに捉え、両腕を不自然に突き出しながら飢えた獣のように襲いかかってきた。

 

 

「うわっ……!」

 

 

 腐肉の匂いを纏った『それ』の冷たく硬い両手が壮真の両肩をガッチリと掴んだ。ただでさえ足元がおぼつかない壮真はその異常な突進の力に耐えきれず、バランスを崩して仰向けに床へと倒れ込んだ。背中と後頭部を冷たい床に打ち付け、肺から空気が絞り出される。

 

 

「くそっ、離れろ……!」

 

 

 壮真は咄嗟に両腕を突き出し、のしかかってくる『それ』の胸ぐらを押し返そうとした。

 

 

 しかし、数週間の昏睡で衰えきった筋肉には悲しいほど力が入らない。対する相手は人間のリミッターが外れたかのような異常な腕力で壮真の抵抗をじりじりと押し潰してくる。

 

 

「アァ……ガァァ……ッ!」

 

 

 至近距離に迫る崩壊した顔面。千切れた顎から滴り落ちるどす黒い液体が壮真の頬や首筋にポタポタと垂れ落ちた。吐き気を催すほどの強烈な腐臭が鼻腔を犯す。

 

 

『それ』はまるで飢えた獣が獲物の肉を貪ろうとするかのように血まみれの歯をカチカチと鳴らしながら壮真の喉元へと食らいつこうとしていた。

 

 

(噛まれる……!)

 

 

 壮真は必死にもがきながら血走った目で周囲を見渡した。視界の端、床に銀色に光るものが見えた。医療用のステンレスバサミだ。

 

 

 あれがあれば目に突き立てて引き剥がせるかもしれない。壮真は右手を伸ばそうとしたが、ほんの少しでも押し返す力を緩めればその瞬間に喉笛を食い破られる。両手で相手の肩を抑え込むだけで精一杯であと数十センチの距離にあるハサミにどうしても手が届かない。

 

 

 腕の筋肉が限界を迎え震え始めた。迫り来る濁った瞳。死の恐怖が壮真の脳髄を支配しかけたその時だった。

 

 

 

 

 ──ドゴォッ!! 

 

 

 

 

 凄まじい打撃音が響き、『それ』の頭部が真横に激しく弾き飛ばされた。のしかかっていた重みが急に消え、バランスを崩した『それ』が壮真の上から床へと転げ落ちる。

 

 

「え……?」

 

 

 壮真が驚いて見上げると、そこには荒い息を吐きながら清掃用モップの太い柄を野球のバットのように握りしめている人物が立っていた。

 

 

 乱れた白衣。ひどく顔色の悪い若い女性看護師だった。

 

 

「こっち!」

 

 

 女性看護師は切羽詰まった声で叫ぶと、床にへたり込んでいる壮真の腕を力強く引っ張った。壮真はその力に引かれるようにしてよろめきながら立ち上がる。

 

 

 そして、無意識に床へ転がった『それ』の方へ視線を向け──息を呑んだ。

 

 

(嘘だろ……)

 

 

 大の大人がモップの柄をフルスイングして頭部を殴りつけたのだ。普通なら脳震盪を起こして気絶するか、最悪首の骨が折れていてもおかしくない衝撃だったはずだ。

 

 

 しかし、『それ』は痛がる素振りすら見せず、折れ曲がった首を不気味な角度で傾けながら再び床に手をついて平然と起き上がろうとしていたのだ。

 

 

「早く!!」

 

 

 呆然とする壮真の腕を看護師が再び強く引いた。彼女は壮真をすぐ隣にあった病室へと引きずり込むと、間一髪で重いドアをバタンと閉め、内側から鍵のサムターンを勢いよく回した。

 

 

 カチャリ、と鍵が掛かった直後、病室に一瞬だけ重い静寂が落ちた。しかし次の瞬間、背後のドアが外側からバンバン! と乱暴に叩き鳴らされた。

 

 

 壮真は肩を震わせ、反射的にドアに背中を押し当てた。外にいる『それ』が力任せにドアを叩いているのだ。人間の拳とは思えない硬く鈍い音が等間隔で響き続ける。

 

 

 壮真は体重をかけてドアを押さえ込むようにしながらずるずると壁を滑り落ち、床にドカッと座り込んだ。荒い息が喉の奥でヒューヒューと鳴っている。

 

 

 ふと視線を上げると、壮真を助けてくれた若い女性看護師は疲れ切った様子で病室のベッドの端に力なく腰を下ろしていた。手から滑り落ちたモップの柄がカランと乾いた音を立てて床に転がる。彼女は肩で息をしながらうつむいたまま動こうとしない。

 

 

 薄暗い病室の中で壮真は彼女の姿を改めて観察した。

 

 

 白衣は汚れ、髪は乱れ、ひどく憔悴しきっている。だが壮真の目を最も惹きつけたのは彼女の首元だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 乱れた襟元から覗く白い肌の一部が不自然に赤黒く変色し、軽く抉れているように見えたのだ。まるで獣の牙が深く食い込んだかのような生々しい傷跡。

 

 

(あいつに噛まれたのか?)

 

 

 先ほどの『それ』の異常な姿と自分に食らいつこうとした血まみれの歯が脳裏をよぎる。

 

 

 壮真は乾いた唾を飲み込み、恐る恐る口を開いた。

 

 

「あの……首元のそれ、大丈夫ですか……?」

 

 

 掠れた声で問うと、看護師はゆっくりと顔を上げた。痛みに顔を歪めるでもなく、助けを求めるでもない。ただすべてを諦めきったようなひどく虚ろで静かな表情だった。

 

 

「……大丈夫」

 

 

 抑揚のない声で短くそう答えると、彼女は再びうつむき自分の膝の上に視線を落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それ以上、言葉は続かなかった。

 

 

 背後のドアからは相変わらずバンバンと無機質な打撃音が響き続けている。病室の中には重く息苦しい沈黙だけが横たわっていた。

 

 

 壮真の頭の中では無数の疑問符が嵐のように渦巻いている。なぜ病院がこんな惨状になっているのか。なぜ人が消えたのか。

 

 

 そして何より──先ほど自分を襲ってきた顔の半分がない『あれ』は一体何なのか。

 

 

 数分間の無言の末、ついに限界を迎えた壮真は沈黙を破った。

 

 

「教えてくれませんか。さっきのあいつは……一体なんだったんですか?」

 

 

「……あなた知らないの?」

 

 

 信じられないものを見るような看護師の視線を受け、壮真は静かに頷いた。

 

 

 背後のドアを叩く鈍い音は未だに一定のリズムで響き続けている。壮真は乾いた唇を舌で舐め、掠れた声で口を開いた。

 

 

「……はい。俺、深夜の高速道路で衝突事故に遭って……どうやら長い間昏睡状態にあったらしいんです。さっき目が覚めたばかりで、外に出たらこんな状況になっていて……」

 

 

 壮真がそう説明すると看護師の目から驚きの色がスッと引き、代わりに合点ががいったような、どこか哀れむような光が宿った。

 

 

「ああ……あの患者さんね」

 

 

 彼女は小さく息を吐き、ベッドのシーツを弱々しく握りしめた。

 

 

「深夜に救急搬送されてきた身元不明のトラック運転手……。全身ガラスまみれで酷い状態で運ばれてきたから覚えてるわよ。ずっと意識が戻らなくて個室で人工呼吸器に繋がれていた……」

 

 

「俺が運ばれてからどれくらい経つんですか?」

 

 

「そうね……あれから一か月は経ったかしら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一か月

 

 

 

 

 その言葉の重みに壮真は息を呑んだ。自分が意識の底を漂っている間に三十日もの時間が過ぎ去っていたのだ。その間世界は自分を置き去りにして回り続け、そして──こんな地獄のような姿に変わり果ててしまったというのか。

 

 

 壮真が呆然としていると、看護師は自嘲するような力ない笑みを浮かべた。

 

 

「浦島太郎ねあなた。……でも、ある意味では幸せだったのかもしれないわ。この一か月間、世界がどうやって壊れていくのかを見ずに済んだんだから」

 

 

 彼女はそう言ってゆっくりと視線を上げた。その瞳の奥には壮真には想像もつかないほどの絶望と凄惨な記憶が焼き付いているようだった。

 

 

「さっきのがなんだったのか、だったわね」

 

 

 看護師は静かにそう切り出すと、背後のドアを叩き続ける『それ』の音に耳を傾けながらゆっくりと語り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

「あれが何なのか……正直私にも詳しいことは分からないわ」

 

 

 看護師は薄暗い虚空を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

 

 

「あなたがここに運ばれてきてから大体一週間後くらいだったかしら。最初はただの異常な救急搬送の増加だと思ってた。全身を噛みちぎられたような酷い怪我の患者が次々と運び込まれてきて……暴動か、それとも未知の狂犬病か何かが流行っているのかって病院中がパニックになったわ」

 

 

 彼女は両手で自分の腕を抱きしめ、微かに身震いをした。

 

 

「でも、本当の地獄はそこからだった。治療の甲斐なく亡くなったはずの患者たちが……突然起き上がり始めたのよ。心肺停止を確認して霊安室に運ぼうとしていた遺体が突然目を開けて、隣にいたお医者さんや私たちの首筋に食らいついたの」

 

 

「死んだ人間が、生き返ったって言うんですか……?」

 

 

 壮真の問いに、彼女は力なく首を横に振った。

 

 

「生き返ったんじゃないわ。あれはもう人間じゃない。ただ動く肉の塊よ。……そして一番恐ろしいのはあれに『噛まれた人間』が高熱を出して死んで、数時間後にはあれと同じ存在になってしまうってこと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 噛まれたら同じ化け物になる。

 

 

 

 

 その言葉を聞いて壮真はハッとして彼女の首元を見た。乱れた襟元から覗く赤黒く抉れた生々しい噛み跡。彼女が先ほど「大丈夫」と答えたのは傷が浅いからではない。自分がもう助からない運命にあることを完全に受け入れてしまっているからだ。

 

 

「警察や自衛隊は……? これだけ大きな病院ならすぐに救助が来たはずじゃ……」

 

 

 壮真がすがるような思いで尋ねると、看護師の唇の端が自嘲するように歪んだ。

 

 

「来たわよ。武装した隊員たちが装甲車に乗ってね。でも彼らも事態を全く制御できなかった。銃で撃ってもあれは止まらないの。それに数が多すぎたわ」

 

 

 彼女の瞳に深い憎悪と悲哀の色が混じる。

 

 

「結局、彼らは病院を『放棄』したのよ。政府の役人や一部の偉い人たち、それから自分たちの家族だけをヘリや装甲車に乗せて……残りの私たち医療スタッフや動けない患者たちはこの病院ごと見捨てられたわ。外から頑丈なバリケードで封鎖されてね。……ここは巨大な棺桶になったのよ」

 

 

 見捨てられた。その事実が壮真の胸に重くのしかかる。かつて自分も警察官として市民を守る側にいた。だからこそ現場の人間がどれほどの絶望の中でその決断を下したのか、そして見捨てられた側がどれほどの地獄を味わったのかが痛いほどに想像できた。

 

 

「……それから三週間。私はスタッフルームや空き部屋を転々としながら残っていたカロリーメイトや点滴の水を飲んで隠れ続けていたわ。でも、三日前にどうしても水が尽きて外に出た時に……元婦長だったあれにやられたの」

 

 

 彼女は自分の首元の傷を愛おしむようにそっと撫でた。

 

 

「ねえ、覚えておいて。あれは音と匂いにはすごく敏感よ。さっきみたいにドアを叩く音にも他の奴らが集まってくるかもしれない。それと……」

 

 

 看護師はそこで言葉を区切り、真っ直ぐに壮真の目を見た。

 

 

「あれを完全に止めるには脳を壊すしかないわ。頭を叩き割るか突き刺すかしないと、手足を切り落としても這いずって向かってくる。……普通の人間にはなかなかできることじゃないけどね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脳を壊す。

 

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、壮真の脳裏に『パーンッ!』という乾いた銃声がフラッシュバックした。

 

 

 

 

 三年前、自分の手で撃ち抜いた犯人の頭、飛び散る血。

 

 

 壮真の呼吸が急激に浅くなり、膝の上に置いた両手がガタガタと微かに震え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……大丈夫?」

 

 

 

 不意に投げかけられたその声に壮真はハッと我に返った。

 

 

 顔を上げると看護師が心配そうな、しかしどこか見透かしたような瞳でこちらを覗き込んでいた。その一言で呪縛のようにまとわりついていた過去の幻影がスッと霧散し、ガタガタと震えていた両手の震えがピタリと止まる。

 

 

「……はい。大丈夫です」

 

 

 壮真は深く息を吸い込み、自分に言い聞かせるように答えた。彼女はそれ以上深くは追及せず、ゆっくりとベッドから立ち上がった。

 

 

そして、部屋の隅に置かれていた小さなビニール袋を手に取ると壮真の目の前へと差し出した。

 

 

「これ、持っていって」

 

 

 袋の中には未開封のミネラルウォーターのペットボトルが二本と、カロリーメイトやチョコレートなどの菓子がいくつか入っていた。この極限状態においてそれは文字通り命を繋ぐための貴重な財産だ。

 

 

「こんな貴重なもの……」

 

 

「私にはもう必要のない物だから貴方にあげるわ」

 

 

 看護師の言葉はあまりにも静かで残酷なほどに透き通っていた。自分が間もなく人間ではなくなることを彼女は完全に受け入れているのだ。その事実を前にして壮真はなんと言っていいか分からず、ただ無言のままその重い袋を両手で受け取った。

 

 

 続いて彼女は先ほど床に落とした清掃用モップの柄を拾い上げ、壮真の胸元へと押し付けた。

 

 

「これであいつらを押しのけて逃げ延びなさい。頭を壊せないなら足や胴体を突いて距離を取るのよ」

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 壮真はモップの太い柄をしっかりと握りしめた。木の感触が少しだけ心に落ち着きを取り戻させる。

 

 

 しかし、同時に強烈な疑問と不安が壮真の胸をよぎった。

 

 

「看護師さんはどうするんですか?」

 

 

 壮真が問うと、彼女はふっと憑き物が落ちたような軽い笑みを浮かべた。

 

 

「林……私の名前は林 祐奈(はやしゆうな)よ」

 

 

「……」

 

 

 死の淵に立たされた極限状態の中で、彼女が見せた初めての人間らしい柔らかな表情だった。

 

 

 壮真もつられて、無精髭の生えた口元に微かな笑みを浮かべた。

 

 

「じゃあ林さん。……林さんはどうするんですか?」

 

 

 壮真が改めて問い直すと、林は背後のドアへと視線を向けた。そこからは未だにバンバンと執拗にドアを叩く鈍い音が響き続けている。

 

 

「私が今ドアの前にいるあいつを取り押さえるわ。その隙に貴方は走って逃げて」

 

 

「なっ……それは危ない! いくらなんでも無茶です!」

 

 

 壮真は思わず声を荒らげた。いくら彼女が覚悟を決めているとはいえ、あんな化け物の前に丸腰で飛び出していくなど自殺行為以外の何物でもない。

 

 

「もう手遅れよ」

 

 

 林は自分の首元の傷を指差し、静かに、しかし毅然とした声で言った。

 

 

「どうせ私も高熱を出して死んで、あれと同じ化け物になる。……だったらまだ人間の心があるうちに自分の意志で終わりたいの」

 

 

 彼女の瞳には一切の迷いがなかった。

 

 

 壮真が言葉を失っていると林は一歩近づき、壮真の腕にそっと手を添えた。その手はすでに感染のせいかひどく熱を持っていた。

 

 

「お願い。最後くらい……看護師らしく患者を守らせて」

 

 

 

 

 

 

 それは、死に行く者が残した決して譲ることのできない最後の矜持だった。

 

 

ドアを叩く音がまるで死神のカウントダウンのように病室に響き渡る中、壮真はその熱い手の感触と彼女の悲痛な願いをただ黙って受け止めることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 




お読みいただきありがとうございました!

壮真は無事病院から脱出できるのでしょうか?

TWD(ウォーキング・デッド)を見たことが…?

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