屍人─シビト─ この世界では、死んだ人間が戻ってくる 作:一般ゾンビ兵
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それから数分間、壮真は林から病院内の構造について説明を受けた。
現在地は三階の東病棟。ここから中央階段を下りて一階のロビーを抜ければ正面玄関から外に出られるはずだという。ただし一階には逃げ遅れた人々の成れの果てが大量に徘徊している可能性が高いとも忠告された。
話を聞いているうちに壮真の体に少しずつ変化が表れ始めていた。
数週間の昏睡で抜け落ちていた感覚がアドレナリンの分泌とともに徐々に呼び覚まされていく。まだ万全とは程遠いが、少なくとも自分の足でしっかりと立ち走るだけの力は戻ってきているのを感じた。
(行くしかない)
壮真は深く息を吸い込み、肺の奥まで空気を満たした。そして手にしたモップの柄を力強く握り直し、覚悟を決めたように林へと頷き返した。
「それじゃあいいわね?」
林は静かにそう確認するとドアの前に立った。彼女の横顔にはもはや恐怖も迷いもなかった。あるのは自らの命を燃やし尽くしてでも目の前の患者を逃がすという凄絶なまでの決意だけだ。
バンッ! バンッ!
ドアを叩く音がすぐ目の前で響く。林は鍵のサムターンに手をかけ、一呼吸置いた。
そして勢いよく鍵を開けドアノブを引いた。
「アァ……ガァァッ!」
開け放たれたドアの向こうに顔の半分を失った『あいつ』が立っていた。
獲物の姿を捉え、血まみれの腕を突き出してこようとしたその瞬間──。
「うあああああっ!!」
林が裂帛の気合いとともにあいつの胸元へと勢いよくタックルを敢行した。
「ガッ……!?」
予想外の衝撃を受けたあいつはバランスを崩し、林と絡み合うようにして廊下の床へと激しく倒れ込んだ。鈍い衝突音が響き、あいつの顎から滴っていた黒い血が床に飛び散る。
「早く行って!!」
林は倒れたままあいつの首元に両腕を回し全体重をかけて必死に抑え込んだ。あいつは獣のような唸り声を上げながら林の腕を振りほどこうと暴れ狂う。その血走った歯が林の顔のすぐ数センチのところでカチカチと空を切っていた。
「林さん……!」
壮真の足が床に縫い付けられたように止まった。見過ごせない。今すぐモップの柄であいつを突き飛ばし彼女を助け起こさなければ。警察官としての……いや、人間としての本能がそう叫んでいる。
だが、もう一つの冷酷な現実が壮真の体を縛り付けていた。
──助けたとしても彼女はもう助からない。
首元の噛み跡。すでに感染し熱を発している体。ここで彼女を助け出したところで、数時間後には彼女自身がこの化け物と同じ存在になっているかもしれない。
頭では理解していても心が激しく拒絶する。葛藤で顔を歪め、一歩も動けずにいる壮真の姿をあいつの下敷きになりかけている林の視線が捉えた。彼女は壮真の迷いを完全に見抜いていた。
そして今にも噛みつかれそうになっている極限状態の中で、彼女は残されたすべての命を振り絞るように力強い声で叫んだ。
「早く行きなさい!!」
その声は壮真の鼓膜を、そして魂を激しく震わせた。
ハッと我に返る。彼女の覚悟をこれ以上無駄にしてはならない。
「……ありがとうございました!!」
壮真は血を吐くような思いで叫び、モップの柄を握りしめたまま廊下へと飛び出した。
床で揉み合う二人を飛び越え中央階段の方向へと駆け出す。背後から布が引き裂かれるような嫌な音と獣のようなどす黒い唸り声が聞こえた気がした。
だが、壮真は決して後ろを振り向かなかった。振り向けば足が止まってしまう。彼女の最期を脳裏に焼き付けてしまえば二度と立ち上がれなくなる気がしたからだ。
(生きるんだ。何があっても)
壮真は奥歯を強く噛み締め、薄暗い血塗られた廊下をただひたすらに前だけを見て走り続けた。
薄暗い廊下を無我夢中で駆け抜け、壮真はようやく中央階段の入り口へと辿り着いた。
「ハァッ……ハァッ……!」
防火扉の影に身を滑り込ませた途端、限界を迎えていた肺が悲鳴を上げた。数週間の昏睡状態から目覚めたばかりの体で全力疾走をした代償は大きかった。心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打ち、喉の奥から血の味がせり上がってくる。
壮真は壁に背中を預け、膝に手をつきながら口を大きく開けて貪るように冷たい空気を吸い込んだ。
ヒュー、ヒューという自分の荒い呼吸音だけが静まり返った階段の吹き抜けに反響している。額から流れ落ちた汗が顎を伝って床にポタポタと落ちた。
やがて、数分かけてようやく呼吸が落ち着きを取り戻し始めた頃。ふと、壮真の胸の奥に強烈な衝動が湧き上がってきた。
(林さんは……)
今来た道、三階の薄暗い廊下の奥。自分を逃がすために自らの命を投げ打ってあの化け物を抑え込んだ彼女の姿が脳裏にフラッシュバックする。
今ならまだ間に合うのではないか。戻ってあいつをモップで突き飛ばせば──。
壮真は無意識のうちに来た道を振り返ろうと首を動かしかけた。
だが、間一髪でその動きを止めた。奥歯をギリッと噛み締め、壁に押し当てた拳を白くなるほど強く握り込む。
『最後くらい……看護師らしく患者を守らせて』
彼女の最期の願いが耳の奥にこびりついて離れない。今戻れば彼女の決死の覚悟を、残された人間としての最後の尊厳を泥で汚すことになる。
「……無駄にはしない。絶対に」
壮真は誰にともなく低く呟き、振り返りたくなる未練を心の奥底へと無理やり封じ込めた。
その時、極度の緊張と疲労で麻痺していた感覚が戻り、喉が焼け焦げるように渇いていることに気がついた。目覚めてから一滴の水分も摂っていないのだ。
壮真は林から託されたビニール袋をごそごそと探り、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。震える手でキャップを捻り開ける。プシュッという微かな音とともにプラスチックの口から水の匂いが漂った。
壮真はペットボトルを口に当て勢いよく喉に流し込んだ。
「ゴクッ、ゴクッ……!」
冷たい水が干からびた粘膜を潤し、食道を通って空っぽの胃の腑へと落ちていく。それは今まで生きてきた中で飲んだどんな水よりも甘く、そして命の重みを感じる味がした。
一気に飲み干してしまいたい衝動に駆られたが、壮真はペットボトルの残量が半分ほどになったところで無理やり口から離した。
(駄目だ。これから外に出るんだ。水は少しでも残しておかないと……)
手の甲で口元を拭い、しっかりとキャップを閉めて袋に戻す。冷たい水のおかげで頭の芯までクリアになった気がした。体の奥底から生き延びるための活力が少しずつ湧き上がってくる。
壮真は袋の持ち手を腕に巻き付け、右手でモップの太い柄をしっかりと握り直した。
見下ろす階段の先、二階へと続く踊り場は窓からの光が届かず薄暗い影に沈んでいる。あそこに何が潜んでいるのか、一階のロビーがどうなっているのかは分からない。
だが、立ち止まっている暇はない。壮真は鋭い視線を暗がりへと向け、意を決して二階へと続く階段を一段ずつ慎重に下り始めた。
二階のフロアに足を踏み入れるとそこには三階と何一つ変わらない凄惨な風景が広がっていた。
ひっくり返った長椅子、散乱した書類、そして壁や床にこびりついた赤黒い血の染み。天井の蛍光灯はやはり沈黙しており、窓から差し込む灰色の光だけがこの死に絶えた空間を薄暗く照らし出している。
壮真は周囲に動くものがいないことを素早く確認すると、そのまま足を止めることなく一階へと続く階段の踊り場に向かった。手すりに身を隠すようにして下の階の様子をそっと窺う。
「……っ」
壮真は思わず息を呑み反射的に身を引いた。一階へと続く階段の終わり、薄暗いロビーへと繋がる開口部のすぐそばに三つの人影が立っていたのだ。
生存者か?
いや、そんな淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
薄暗がりの中でもその異様なシルエットははっきりと見て取れた。首が不自然な方向に折れ曲がっている者、白衣が血で真っ赤に染まり腕の肉がごっそりと欠損している者。彼らはただ見えない糸で吊るされた操り人形のように力なくその場に突っ立っていた。
間違いなく『やつら』だ。壮真は息を殺し、気配を消そうとした。
しかしやつらのうちの一体が不意にピクリと首を動かした。白濁した瞳が階段の上——壮真のいる方向へと向けられる。
階段を下りる際の僅かな衣擦れの音を聞きつけたのか、それとも生きている人間の血の匂いを嗅ぎ取ったのか。理由は分からない。だが確かなのはやつらが明確に『獲物』の存在を認識したということだ。
「アァ……ァァ……」
低く濁ったうめき声が階段の下から響き、三体の化け物が一斉にこちらへ向かって動き出した。動き自体はひどく緩慢で、足を引きずるようにして一段ずつ階段を上ってくる。しかしその一切の躊躇がない機械的な足取りは確実な死が這い上がってくるような底知れない恐怖を孕んでいた。
(三体……今の俺じゃ絶対にさばききれない)
壮真は手にしたモップの柄を強く握りしめたが、すぐに冷静な判断を下した。狭い階段で三体を同時に相手にするのは不可能だ。一体を突き飛ばせたとしてもその隙に残りの二体に組み付かれればあっという間に喉笛を食い破られる。
「……クソッ!」
壮真は短く悪態をつき、踵を返して二階の通路へと駆け戻った。背後からはやつらが階段を上ってくるズルリ、ズルリという不気味な足音が迫ってきている。
(こっちの階段からは無理だ。なら……)
走りながら壮真は頭の中で病院の構造図を必死に思い描いた。林の説明によればここは東病棟の中央階段だ。巨大な病院であれば必ず反対側の西病棟の端にも別の階段や非常階段があるはずだ。
(反対側の階段に向かうしかない)
壮真はモップの柄を構え直し、血と散乱物で足の踏み場もない二階の長い廊下を西へ向かって走り出した。
二階の長い通路を西へ向かって駆け抜けていくと、薄暗い廊下の中ほどに一つの人影がふらふらと立ち尽くしているのが見えた。
患者用のパジャマを着た初老の男だった。しかしその首筋は無残に食い破られ、だらりと垂れ下がった両腕の先からはどす黒い血が床に滴り落ちている。
男──いや、男だった『やつ』は、壮真の足音に反応してゆっくりと振り返った。白濁した瞳が壮真を捉え、喉の奥からゴボゴボと血の泡を吹くような唸り声を上げる。
(一体だけなら……!)
壮真は走りながらモップの柄を両手で強く握り直し、迎撃の態勢に入った。
林の言葉が脳裏をよぎる。『あれを完全に止めるには脳を壊すしかない』。
距離が縮まる。三メートル、二メートル。やつが血まみれの腕を突き出し、壮真に掴みかかろうとしたその瞬間。
壮真は踏み込み、モップの太い柄を大きく振り上げた。狙うはやつの頭部。渾身の力で頭蓋骨を叩き割る──。
『パーンッ!!』
その瞬間、壮真の脳内で鼓膜を破るような乾いた銃声が弾けた。
(……っ!?)
視界が激しく明滅する。目の前にいるはずの化け物の顔が三年前、自分が銃口を向けた『人間の犯人』の顔と重なり合った。
引き金を引いた指の感触。頭部が弾け飛び、赤黒い飛沫がスローモーションのように宙を舞う光景。そして崩れ落ちる生身の肉体の重み。
「あ……ぁ……」
壮真の喉から空気が漏れるような情けない音がこぼれた。振り上げた両腕がまるで目に見えない鎖で縛り付けられたかのように空中でピタリと止まる。モップの柄を握る指先から急速に力が抜け、ガタガタと激しい震えが全身を支配した。
頭を、壊せない。それがたとえすでに死んでいる化け物だと分かっていても。
壮真が過去の幻影に囚われ、完全に無防備になったその一瞬の隙をやつが見逃すはずもなかった。
「ガァァッ!」
腐肉の強烈な匂いが鼻腔を殴りつけた時にはやつはすでに壮真の目の前、息がかかるほどの至近距離にまで迫っていた。血に染まった黒い歯が壮真の首筋めがけて無慈悲に食らいつこうと迫る。
「うおっ……!?」
間近で響いた獣の唸り声に壮真はハッと正気に戻った。反射的に身をよじり、致命傷を避ける。同時に力が抜けかけていたモップの柄を横向きに構え直し、やつの胸元へと力任せに押し当てた。
「くそっ、離れろ……!」
やつの異常な腕力と体重がモップの柄越しに壮真の両腕にのしかかる。壮真は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、必死にやつを押さえつけた。顔のすぐ数センチ先でやつの顎がカチカチと空を切っている。
(頭が駄目なら……!)
壮真は一歩後退してやつの体重を前に引き出すと次の瞬間、全身のバネを使ってモップの柄を思い切り前へと突き飛ばした。
「おおおおっ!!」
「ガッ……!?」
壮真の渾身の突き飛ばしを受け、やつは大きくバランスを崩し、背中から廊下の床へと激しく転倒した。やつが床でもがき、再び起き上がろうとするその一瞬の隙。
壮真は倒れたやつの脇をすり抜けるようにして駆け抜け、再び西の階段を目指して全力で走り出した。背後から怒りに満ちたような唸り声が聞こえたが、振り返る余裕などない。
自分のトラウマが、この地獄のような世界でどれほど致命的かを壮真は身をもって痛感させられていた。
息が上がり肺が焼けるように痛む。それでも壮真は薄暗い二階の廊下をひたすらに走り続けた。
床に散乱した点滴のスタンドや車椅子を蹴り飛ばしそうになるのを必死に避けながら西へ、西へと向かう。背後からは先ほど突き飛ばしたやつが起き上がり、ズルリ、ズルリと後を追ってくる不気味な足音が微かに聞こえていた。
(早く……階段を見つけないと……!)
視界が汗で滲む中、廊下の突き当たりに光を失った緑色の非常口サインが見えた。
「あった……!」
壮真は安堵の息を漏らし、重い防火扉のハンドルに手をかけた。体重をかけて押し開けるとコンクリート打ちっぱなしの無機質な非常階段が姿を現した。扉を閉め、背後からの追跡を断ち切る。
階段の吹き抜けにはカビと埃の匂いが立ち込めていた。壮真は手すりから身を乗り出し、下の階の様子を窺う。幸いなことにこの非常階段には『やつら』の姿も動く気配もないようだった。
壮真はモップの柄を握り直し、足音を殺しながら慎重に階段を下りていく。一段下りるごとに外の世界が近づいてくる。だが同時に林が言っていた警告が重い鉛のように胃の腑にのしかかっていた。
『一階には逃げ遅れた人々の成れの果てが大量に徘徊している可能性が高いわ』
一階の踊り場に辿り着いた壮真はロビーへと続く防火扉の前に立った。扉にはめ込まれた長方形の小さなガラス窓から向こう側の様子を覗き込む。
「……嘘だろ」
壮真の口から絶望に染まった掠れ声が漏れた。
ガラスの向こうに広がっていたのは巨大な総合病院のメインロビーだった。吹き抜けの広々とした空間。その奥には外の光を透かしている巨大なガラス張りの正面玄関が見える。あそこを抜ければ外に出られる。
だが、その数十メートル先の出口に辿り着くことは今の壮真にとって不可能に等しかった。
ロビーを埋め尽くすように無数の『やつら』が蠢いていたのだ。パジャマ姿の患者、白衣を着た医師、私服姿の見舞い客。年齢も性別もバラバラな数十体——いや、百体近いかもしれない化け物たちが目的もなく、ただゆらゆらと亡霊のようにロビーを徘徊している。
床は乾いた血で赤黒く染まり、あちこちに食い荒らされた無残な遺体の一部が転がっていた。
(あんな数……どうやって突破すればいいんだ)
壮真は扉から一歩後ずさり、壁に背中を打ち付けた。一体の頭すら壊せない自分があの群れの中に飛び込めばどうなるか。数秒も経たないうちに四方八方から組み付かれ、生きたまま肉を貪り食われる未来しか見えない。
モップの柄を握る手が絶望で小刻みに震え始める。ここまで来て終わりなのか。あのロビーを抜けない限り外には出られない。だが正面突破は絶対に不可能だ。
『ねえ、覚えておいて。あれは音と匂いにはすごく敏感よ』
その時、脳裏に林の言葉が鮮明に蘇った。
(……音、そうだ。音だ!)
林は「音と匂いに敏感だ」と言っていた。だがガラス越しにやつらの動きをじっと観察していた壮真は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
割れた窓ガラスから吹き込んだ風で壁際のブラインドが大きく揺れた。その瞬間、近くを徘徊していた数体のやつらがピタリと動きを止めて一斉にそちらへ顔を向けたのだ。
(……奴らは動くものをはっきりと視覚で捉えている)
白濁した瞳は死人のそれだが、視力は確実に機能している。もし音だけで誘導しようとしても、逃げる自分の姿が視界に入ってしまえば意味がない。何のカバーもなくこの扉を開けてロビーに飛び出せばこちらを向いている数十体と一瞬で目が合い、あっという間に群がられて終わるだろう。やつらの「視線」と「聴覚」の両方を完全に別の方向へ釘付けにする強烈な陽動が必要だ。
壮真は扉からそっと離れ、非常階段の踊り場を見渡した。何か遠くまで投げられて、かつ派手な音と動きでやつらの注意を惹きつけられるものはないか。
焦燥感に駆られながら視線を巡らせた壮真の目が、壁に設置された赤い円筒形——『消火器』で止まった。
(……これだ)
壮真はモップを壁に立てかけ、消火器を固定具から外した。ずっしりとした鉄の重みが両腕に伝わる。これをロビーの反対側——受付カウンターのさらに奥にある待合スペースに向かって全力で放り投げれば金属が床に激突する凄まじい轟音が響くはずだ。
やつらの視線と意識がそちらに向いた一瞬の隙を突き、死角となる太い柱やカウンターの陰を縫って正面玄関へ走る。失敗すれば百近い群れのど真ん中で孤立し、生きたまま食い殺される。
想像するだけで足の震えが止まらなくなるが、ここで立ち止まっていても飢え死にするかやつらに見つかるのを待つだけだ。
壮真は大きく深呼吸をし、肺の奥まで空気を満たした。林から託された命。絶対に死ねない理由が恐怖で竦む足に無理やり力を与えてくれる。
「……やるしかない」
壮真は消火器を左脇にしっかりと抱え込み、右手でモップの柄を握り直した。
そして防火扉のハンドルに手をかけると、ロビーへと続く地獄の扉を勢いよく押し開けた。重い防火扉が開くと同時にむせ返るような血と腐肉の悪臭が物理的な壁となって壮真の全身に叩きつけられた。
ロビーの空気が動いたことで近くを徘徊していた数体の『やつら』がギクリと不自然な動きでこちらへ首を巡らせる。白濁した瞳と視線が交差する。
猶予はほんの数秒しかない。壮真は左脇に抱えていた消火器の黄色い安全ピンを指に引っ掛けて強引に引き抜いた。
そして、レバーを強く握り込みながらロビーの対角線——受付カウンターのさらに奥にある待合スペースの壁際めがけて渾身の力で消火器を放り投げた。
「いけっ……!」
数週間の昏睡で衰えた筋肉が悲鳴を上げる。宙を舞った赤い鉄の塊は放物線を描いて大理石の床に激突した。
ガァァァンッ!! という鼓膜を劈くような金属音が吹き抜けのロビー全体に反響する。同時に激突の衝撃でレバーが押し込まれた消火器のノズルから猛烈な勢いで白い粉末消火剤が噴き出した。
シューーーッ!! というけたたましい噴射音と共に消火器は床の上を暴れ回りながら周囲を真っ白な煙幕で包み込んでいく。視覚と聴覚。その両方を強烈に刺激する異常事態にロビーを埋め尽くしていた百近い群れの動きがピタリと止まった。
次の瞬間、「アァ……」「ガァァ……」という無数の唸り声が合唱のように響き渡り、やつらは一斉に白煙と騒音の発生源へと群がり始めた。
(今だ……!)
壮真は床を蹴り駆け出した。やつらの意識が完全に待合スペースへと向いているその隙に、死角となる太い柱の陰から陰へと身を滑らせ正面玄関を目指す。
すぐ横を白煙に向かって歩いていくやつらの背中が通り過ぎる。手が届きそうな距離。強烈な腐臭が鼻を突き、恐怖で心臓が破裂しそうになるが壮真は奥歯を噛み締めて足を進めた。
十メートル、五メートル。
ついに外の光を透かす巨大なガラス張りの正面玄関——風除室の前に辿り着いた。だが壮真の顔からサッと血の気が引いた。
電力が完全に落ちているため、分厚いガラスの自動ドアが固く閉ざされたまま沈黙していたのだ。
「くそっ、開け……!」
壮真はモップを小脇に抱え直し、自動ドアの隙間に両手の指をねじ込んだ。火事場の馬鹿力で左右にこじ開けようとする。
しかし、重いガラス戸は数センチ開いただけでガコンと鈍い音を立てて引っかかってしまった。ロックがかかっているのか、それともレールに何かが詰まっているのか。
その鈍い音に反応したのか、ハッとして振り返ると、群れから遅れていた一体のやつが壮真の存在に気づきこちらへ向き直っていた。
白衣を着た、恰幅の良い中年の男だったやつだ。口の周りを赤黒く染めたそいつが両腕を突き出しながら壮真めがけて突進してくる。距離はわずか数メートル。自動ドアの隙間はまだ人が通れるほど開いていない。
壮真は舌打ちをし、こじ開けかけていたドアから手を離して再びモップの柄を両手で構え直した。
迫り来る白衣の男は生前かなり恰幅の良かったであろう巨体だった。その体重を乗せた突進はただでさえ体力が戻りきっていない壮真にとって脅威以外の何物でもない。
「ガァァッ!」
血走った歯を剥き出しにし、太い両腕が壮真の首めがけて伸びてくる。壮真はモップの柄を槍のように構え、やつの分厚い胸板めがけて力任せに突き出した。
ドンッ! という鈍い手応え。しかしやつの突進は止まらない。痛覚を持たない化け物は胸に突き立てられたモップの柄ごと壮真を押し潰そうとさらに前傾姿勢で体重をかけてきた。
(力が違いすぎる!)
このまま押し込まれれば壁とやつの巨体に挟まれて終わる。壮真は奥歯を噛み締め、警察時代に身体に叩き込まれた『逮捕術』の感覚を必死に呼び起こした。力で勝てないなら相手の力を利用するしかない。
壮真は押し込まれる力に逆らうのをやめ、あえて自分から一歩大きく後ろへ引き、同時にモップの柄を斜め下へと強く払い落とした。支えを急に失ったやつは自らの突進の勢いを殺しきれず、前のめりに大きく体勢を崩す。その瞬間、壮真はやつの足首めがけて渾身の力で右足を刈り払った。
「おらっ!」
ドスゥンッ!!
凄まじい質量が床に叩きつけられる鈍い音が響いた。やつは顔面から大理石の床に激突し、無様に転がった。
だが、頭を潰されていないやつはすぐさま四つん這いになって起き上がろうとする。壮真はすかさず周囲を見回し、すぐ横にあった金属製の重い『院内案内板』のスタンドに目をつけた。大人が両手で抱えなければ動かせないほどの重量がある鉄の塊だ。
壮真はスタンドの縁を掴み、起き上がりかけたやつの背中めがけて力任せに蹴り倒した。
ガシャァァンッ!!
「ガァ……ッ!?」
重い鉄の案内板がやつの背中を直撃し、そのまま巨体を床に縫い付けた。やつは鉄の重みの下で手足をバタバタと這わせ、獣のような唸り声を上げているがすぐには抜け出せそうにない。
(よし……!)
壮真は息を乱しながら、再び自動ドアへと向き直った。手でこじ開けるのは不可能だ。ならば物理的に破壊するしかない。
壮真は案内板の横に設置されていたステンレス製の巨大なダストボックス(ゴミ箱)に駆け寄った。中身が入ったままのそれは腰が抜けそうになるほど重かったが、火事場の馬鹿力で無理やり胸の高さまで持ち上げる。
「開けぇっ!!」
壮真は雄叫びと共に強化ガラスの自動ドアめがけてダストボックスを全力で叩きつけた。
ガンッ!!
鈍い衝撃音が響き、ガラスの表面に蜘蛛の巣状のヒビが走る。しかしまだ割れない。
その凄まじい打撃音はロビーの奥で消火器の煙幕に群がっていた『やつら』の注意を完全にこちらへと引き戻してしまった。
「アァ……」 「ガァァ……!」
数十体の化け物たちが一斉にこちらへ顔を向け、足を引きずりながら怒涛の勢いで迫ってくる。距離はもう十メートルを切っている。
(割れろ……割れろっ!!)
壮真は恐怖で震える腕に無理やり力を込め再びダストボックスを振りかぶった。
二撃目。ガンッ!! ヒビがさらに広がる。
群れが五メートルまで迫る。先頭を歩くやつの腐り落ちた顔のディテールまではっきりと見える。
「うおおおおおっ!!」
壮真は全身のバネを使い、最後の一撃をガラスの中心めがけて叩き込んだ。
ガシャァァァァンッ!!!
鼓膜を劈くような破砕音と共に分厚い強化ガラスが粉々に砕け散り、無数の破片となって外の風除室へと降り注いだ。
「やった……!」
壮真はダストボックスを投げ捨て、割れたガラスの枠をすり抜けるようにして外へと飛び出した。
風除室のさらに外側にあるもう一枚の自動ドアは内側から手動で開けられる非常用のスライド式になっていた。壮真はロックを外し、力任せにドアを横に引き開ける。
その瞬間、生ぬるい風が壮真の全身を包み込んだ。消毒液と血の匂いが充満していた密閉空間からついに外の空気を吸い込んだのだ。
「ハァッ……ハァッ……!」
壮真は病院の敷地内のロータリーに飛び出し、膝に手をついて激しく咳き込んだ。背後の風除室では折り重なっていたやつらがようやく立ち上がり、割れたガラスを踏み越えてこちらへ手を伸ばそうとしている。だが壮真はすでに安全な距離まで離れていた。
どうにか死の病棟からの脱出に成功した。だが顔を上げた壮真の目に飛び込んできたのは希望に満ちた外の世界などではなかった。
放置され、あちこちで衝突したまま錆びついている無数の車。遠くに見える天神や博多のビル群からは黒煙が上がり、どんよりとした灰色の空を焦がしている。
そして、病院の敷地の外──見渡す限りの道路をゆらゆらと徘徊している数え切れないほどの『やつら』の姿。
世界は、完全に終わっていた。
壮真はその絶望的な光景を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかったのだ。
お読みいただきありがとうございました!