屍人─シビト─ この世界では、死んだ人間が戻ってくる   作:一般ゾンビ兵

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どうも一般ゾンビ兵です!

今回は多少ですが北九州弁が出てる部分があります。多分意味は分かる…と思います!

是非感想や評価もお願いします!


第四話 兄妹

三年前のよく晴れた秋の日の午後。

 

 

大学の講義が早く終わり、郊外のアパートに帰宅して暇を持て余していた私──古賀栞(こがしおり)はベッドに寝転がりながら親友の梨絵(りえ)とスマートフォンで通話をしていた。

 

 

『でね、その時の店員さんの顔がすっごく面白くてさー』

 

 

「あはは何それ! 梨絵、また変な絡み方したんじゃないの?」

 

 

『してないしてない! あ、そういえば天神に新しくできたあのカフェ今度の週末一緒に行かん? パンケーキがすごく美味しいらしくて』

 

 

「行く行く! 絶対行きたい!」

 

 

スピーカー越しに聞こえる梨絵の声はいつも通り明るく弾んでいた。

 

 

彼女は博多駅の近くに買い物に出かけており、歩きながら私と他愛のないおしゃべりを続けていた。最近あった大学での出来事、気になっている服のブランド、今度行きたいお店。そんなどこにでもある平和で楽しい女子大生の日常。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが音を立てて崩れ去るのは本当にあっという間のことだった。

 

 

『そういえばさ、栞のお兄さんって今も──』

 

 

梨絵の言葉が不自然に途切れた。

 

 

「え? お兄ちゃんがどうしたの?」

 

 

私が聞き返した直後、通話口の向こうからガシャン! という何か硬いものが割れるような鋭い音が響いた。続いて、周囲の人々の悲鳴と怒号が入り乱れるノイズが鼓膜を打つ。

 

 

『きゃあっ!? な、何……っ!?』

 

 

「梨絵? どうしたの、何かあった?」

 

 

ベッドから跳ね起き、私はスマートフォンを耳に強く押し当てた。しかし返ってきたのは梨絵の返事ではなく、見知らぬ男のひどく荒々しい怒鳴り声だった。

 

 

『来い!! 暴れるな!!』

 

 

『いやっ、離して! 痛いっ!』

 

 

「梨絵!? どうしたの!? 梨絵!!」

 

 

私は血の気が引くのを感じながら画面に向かって声を荒げた。だが私の声が届いている様子はない。スピーカーからは梨絵の泣き叫ぶ声と男が何かを乱暴に引きずるような音、そして周囲のパニックに陥った人々の悲鳴だけが生々しく伝わってくる。

 

 

『動くな! 動いたらこいつを殺すぞ!!』

 

 

男の狂気に満ちた叫び声が響いたのを最後にガサッ、という鈍い音と共に通話は唐突に切断された。

 

 

「……っ、梨絵? もしもし! 梨絵!!」

 

 

何度画面をタップしてリダイヤルしても無機質な電子音が虚しく響くばかりだった。心臓が早鐘のように打ち鳴り、嫌な汗が全身から噴き出してくる。ただの喧嘩や事故じゃない。男の『殺すぞ』という言葉が耳の奥にこびりついて離れない。

 

 

私は震える手でスマートフォンを握りしめたまま部屋のテレビのリモコンを掴み電源を入れた。画面が明るくなり、民放のワイドショーが映し出される。しかし番組の途中であるにもかかわらず画面は突然、緊迫した表情のニュースキャスターへと切り替わった。

 

 

『──速報です。先ほど博多駅近くの商業施設において刃物を持った男が暴れ、現在も客を人質にとって立てこもっているとの情報が入りました。現場にはすでに多数の警察車両が到着しており……』

 

 

画面の隅に『LIVE』の文字が点滅し、上空のヘリコプターから撮影された博多の街並みが映し出される。規制線が張られ、パトカーの赤色灯がひしめき合う異様な光景。

 

 

私は息を呑み、テレビの画面に釘付けになった。

 

 

やがて現場のカメラが立てこもり現場となっている店舗のガラス窓をズームで捉えた。薄暗い店内。刃物を振り回して興奮状態にある男の姿。

 

 

そして、その男に首を絞められるようにして拘束され恐怖で顔を歪めている人質の女性。

 

 

「……嘘、でしょ」

 

 

私の口から震える声が漏れた。画質は粗かったが間違いない。男に捕らえられ刃物を突きつけられているその人質はつい数分前まで私と笑い合っていた親友──梨絵だった。

 

 

「……お兄ちゃん!」

 

 

私は震える指でスマートフォンの画面を叩き、警察官として働いている兄——壮真の番号を呼び出した。

 

 

居ても立っても居られなかった。テレビの画面越しに刃物を突きつけられている親友の姿を見てただ部屋で震えていることなんてできなかった。

 

 

 

 

 プルルルル……プルルルル……

 

 

 

 

耳に押し当てたスピーカーから鳴るコール音がやけに長く、ひどく遅く感じられた。

 

 

 

 

 

 

早く出て。お願い、早く。

 

 

 

 

 

 

祈るような気持ちで画面を握りしめる。五回、六回、七回──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガチャッ

 

 

 

 

不意にコール音が途切れ、通話が繋がった。

 

 

「お兄ちゃん!?」

 

 

『──栞、どうかしたか!?』

 

 

電話の向こうから聞こえてきた兄の声はひどく切羽詰まっていた。背景からは複数の人間の怒号やけたたましく鳴り響く警察無線の音声、そして慌ただしく走り回る足音が入り乱れて聞こえてくる。現場の最前線か、あるいは対策本部が置かれた署内の喧騒だろう。

 

 

『今、俺はすごく忙しいんだ! 悪いがまた後でかけ直して──』

 

 

「梨絵が……っ! 梨絵が人質に……!」

 

 

電話を切られそうになるのを遮るように私は半ば叫ぶようにして言葉を被せた。声が震え、涙で喉が詰まりそうになるのを必死に堪える。

 

 

『……え?』

 

 

私の悲痛な叫びを聞いて電話の向こうの兄の言葉がピタリと止まった。周囲の喧騒は相変わらず聞こえていたが、兄の息遣いだけが一瞬だけ時を止めたように静まり返った。

 

 

『……栞。立てこもり事件のあの人質にされている女の子……あれはお前の友達の梨絵ちゃんなのか?』

 

 

兄の声から焦りが消え、警察官としての鋭く真剣なトーンに変わった。

 

 

私はテレビの画面に映る恐怖で泣き顔になっている親友の姿を見つめながら、スマートフォンを両手で握りしめた。

 

 

「……うん」

 

 

絞り出すような弱々しい声しか出なかった。自分が何もできない無力感と、梨絵が殺されてしまうかもしれないという恐怖で膝の震えが止まらない。

 

 

そんな私の怯えを電話越しに察取ったのだろう。兄は先ほどまでの緊迫した空気を意図的に消し去り、昔から私が不安な時にいつもかけてくれていたあの『優しい兄』の声色で静かに語りかけてきた。

 

 

『栞、深呼吸しろ。落ち着け』

 

 

「でも……刃物が梨絵の首に……」

 

 

『大丈夫だ。お前の友達は絶対に大丈夫だ』

 

 

兄の低く落ち着いた声が、私のパニックになりかけていた心を少しずつ包み込んでいく。その声には不思議なほどの説得力があった。どんな悪人も捕まえてくれる私の自慢の警察官の兄。

 

 

「……本当に?」

 

 

『当たり前だ』

 

 

私のすがるような問いかけに兄は一切の迷いなく、力強い声で断言した。

 

 

『今から俺も現場に加勢に行く。俺が必ず助け出す。だからお前は何も心配しないで家で待ってろ』

 

 

その言葉を聞いて私は張り詰めていた糸が少しだけ緩み、ポロポロと涙をこぼした。

 

 

「……うん。お願いお兄ちゃん。梨絵を……助けて」

 

 

『ああ、約束する』

 

 

兄はそう短く答え、通話を切った。

 

 

ツーツーという電子音が鳴るスマートフォンを胸に抱きしめながら、私はテレビの画面を見つめただひたすらに祈り続けた。

 

 

兄さんが現場に行ってくれれば絶対に梨絵は助かる。あの優しい兄さんが約束を破るはずがない。そう自分に言い聞かせながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから祈るようにスマートフォンを握りしめたまま数時間が経過した。

 

 

テレビのワイドショーは特番に切り替わり、相変わらず事件の報道を続けていたが警察の規制が厳しくなったのか現場の店舗を映す生中継の映像はすでに途絶えていた。アナウンサーが「現在も膠着状態が続いています」と繰り返すばかりで状況がどう動いているのかは全く分からない。

 

 

窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中にはテレビの青白い光だけが不気味に浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 ブブブッ、ブブブッ

 

 

 

不意に手の中のスマートフォンが短く震えた。

 

 

「……っ!」

 

 

私は画面の着信者名を確認する暇すら惜しみ反射的に通話ボタンをスワイプして耳に押し当てた。

 

 

「もしもし!?」

 

 

電話に出た瞬間、私は違和感を覚えた。数時間前の通話の時のような怒号やサイレンの喧騒が全く聞こえないのだ。背景はひどく静かで、遠くの方で誰かがボソボソと話す声や無機質な足音が微かに聞こえてくるだけだった。

 

 

「もしもし? ……お兄ちゃん?」

 

 

私が問いかけても相手からは何の返答もない。ただかすかに荒い呼吸音だけが聞こえてくる。いたずら電話か、あるいは間違い電話だろうか。私は一度スマートフォンを耳から離し画面に表示されている着信者の名前を確認した。

 

 

画面にははっきりと、『お兄ちゃん』という文字が表示されていた。

 

 

その瞬間、背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走り、嫌な汗がどっと噴き出した。

 

 

「ねえ、どうしたの? お兄ちゃん! 梨絵は!? 梨絵はどうなったの!?」

 

 

私が半ば叫ぶように問い詰めると数秒の重い沈黙の後、ようやく電話の向こうから声が聞こえた。

 

 

『……すまない』

 

 

それは私の知っている力強く頼もしい兄の声ではなかった。ひどく掠れ、震え、まるで魂の半分が抜け落ちてしまったかのような虚ろな声だった。

 

 

『俺が……もっと早く……撃っていれば……。すまない……すまない……っ』

 

 

「すまないって、何が……? ねえ、それだけじゃ分かんないよ! 梨絵は無事なんでしょ!? お兄ちゃんが助けてくれたんでしょ!?」

 

 

私は必死に言葉を投げかけた。だが兄はそれ以上何も答えず、ただ壊れたテープレコーダーのように「すまない」という言葉を繰り返すだけだった。

 

 

やがて、電話は一方的に切断された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、私がどうやって時間を過ごしたのかよく覚えていない。ただ暗い部屋の真ん中に座り込み虚無感に包まれていたことだけは確かだ。

 

 

それからしばらくして、手の中のスマートフォンが再び震えた。画面に表示されているのは知らない番号だった。一瞬ためらったものの、私はすがるような思いで通話ボタンをスワイプした。

 

 

「……もしもし」

 

 

『夜分に失礼します。私、福岡県警の者です』

 

 

電話の向こうから聞こえてきたのは中年男性のひどく事務的で落ち着いた声だった。そのトーンを聞いた瞬間、胸の奥に冷たい氷の塊が落ちたような気がした。

 

 

『古賀巡査のご家族の方でお間違いないでしょうか』

 

 

「……はい」

 

 

『大変申し上げにくいのですが──』

 

 

その前置きを聞いた瞬間、私は無意識に目をきつく閉じた。

 

 

聞きたくない。聞きたくない。けれど、耳を塞ぐことはできなかった。

 

 

『ご友人の梨絵さんですが、搬送先の病院で懸命な救命措置が行われましたが……』

 

 

男性はそこで一度重い息を吐くように言葉を切った。

 

 

そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──先ほど、死亡が確認されました』

 

 

「…………え?」

 

 

自分でも驚くほど間の抜けた声が出た。

 

 

死亡。そのたった二文字の意味が理解できない。いや、脳が理解することを全力で拒絶していた。

 

 

『詳細につきましては、後日改めてご説明に──』

 

 

警察官はまだ何かを話し続けていた。だがその後の言葉は何一つ鼓膜を揺らさなかった。

 

 

梨絵が死んだ。

 

 

その事実だけが空っぽになった頭の中でガンガンと反響している。通話がいつ切れたのかも覚えていない。気が付けば私はスマートフォンを耳に当てたまま青白い光を放つテレビの前に立ち尽くしていた。

 

 

その時だった。テレビの画面が突然切り替わり、けたたましいチャイム音と共に『緊急速報』の赤いテロップが画面下部を滑り始めた。

 

 

『──速報です。博多駅近くで発生した立てこもり事件の犯人は警察官の発砲を受け死亡』

 

 

私は呼吸を忘れた。アナウンサーの無機質な声が続く。

 

 

『犯人は人質の女性を刺した直後、突入した警察官によって射殺されたとのことです』

 

 

射殺。その言葉を聞いた瞬間、数十分前に電話越しで聞いた兄の掠れた声が最悪のパズルのピースとなって頭の中で組み合わさった。

 

 

『俺が……もっと早く……撃っていれば……』

 

 

『……すまない』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ああ、そういうことだったのか。

 

 

 

 

指先からすべての力が抜け落ちた。スマートフォンが手から滑り落ち、フローリングの床にぶつかって硬い音を立てる。

 

 

梨絵は死んだ。そして兄は──人を撃った。人を殺したのだ。

 

 

『約束する』と言ってくれたはずだった。必ず助けると。絶対に大丈夫だと。なのに助からなかった。間に合わなかった。

 

 

親友は理不尽に命を奪われ、兄は一生消えない十字架を背負った。その残酷すぎる現実がゆっくりと猛毒のように脳髄へと浸透していく。

 

 

視界がぐにゃりと歪んだ。足の裏から感覚が消え失せる。私は糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。

 

 

冷たい床に膝をつき、声にならない悲鳴を上げてうずくまる私の頭上でテレビだけが何事もなかったかのように事件の続報を淡々と流し続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日が経った。

 

 

梨絵の葬儀がどのように行われ、自分がどうやって参列したのか記憶はひどく曖昧だった。ただ泣き崩れる梨絵のご両親の姿とお線香の匂いだけが脳裏にこびりついて離れなかった。

 

 

私は文字通り抜け殻のようになりながらも休むことなく大学に通い続けた。一人でアパートの部屋に引きこもっていると、あの日の電話越しの悲鳴や兄の虚ろな声がフラッシュバックして頭がおかしくなりそうだったからだ。

 

 

しかし、大学に行っても心の平穏が訪れることはなかった。キャンパスのあちこちで凄惨な立てこもり事件の話題がヒソヒソと囁かれていた。

 

 

「ねえ、教育学部の梨絵ちゃんって子が巻き込まれたらしいよ」

 

 

「犯人警察に頭撃ち抜かれて即死やったんやろ?ヤバいよね」

 

 

「でも人質は助けられなかったんよね。警察はなんしよったんやろか」

 

 

無責任な噂話や同情の声が耳に入るたび私の頭はさらに真っ白になった。その「人質を助けられず犯人を撃ち殺した警察官」が自分の兄だとは誰にも言えなかった。言えるはずがなかった。

 

 

兄からの連絡はあの日以来一切なかった。

 

 

事件の翌日、私から一度だけ電話を掛けたがコール音が虚しく鳴り続けるだけで今に至るまで折り返しの連絡はない。兄が今どこで何をしているのか、警察の内部でどういう扱いを受けているのか、私には知る術もなかった。

 

 

その日の講義を終え、夕暮れ時のアパートに帰宅した私は電気もつけずにベッドの上で無機質に横たわっていた。涙はもう枯れ果てていた。ただ天井の木目をぼんやりと見つめながらぽっかりと空いた胸の穴に冷たい風が吹き込むのを感じているだけだった。

 

 

 

 

 ──カチャ、カチャ。

 

 

 

 

不意に静まり返った部屋に金属音が響いた。玄関の方からだ。誰かが外から鍵穴にキーを差し込み回そうとしている音。

 

 

私の部屋の鍵を持っているのは私自身と、万が一の時のために渡してある兄の二人だけだ。

 

 

「……お兄ちゃん?」

 

 

私はベッドからゆっくりと身を起こした。数日間、まともに食事を喉に通していなかったせいで立ち上がると軽い目眩がした。ふらふらとしたおぼつかない足取りで薄暗い廊下を抜け、玄関の方へと向かう。

 

 

ガチャリ、と重い金属音がしてドアノブがゆっくりと回った。夕日の赤い光が細く開いたドアの隙間から玄関の土間に差し込んでくる。

 

 

そして、ドアが完全に開かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこに立っていたのは間違いなく私の兄、古賀壮真だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、その姿は私の知っている『自慢の兄』とはあまりにもかけ離れていた。

 

 

髪は乱れ、頬はこけ、目の下には濃い隈が落ちている。いつもピシッと着こなしていたはずの服はシワだらけで、何よりその表情からは一切の『生気』が失われていた。まるで魂だけがどこか遠くへ置き去りにされ、肉体の抜け殻だけが本能でここまで歩いてきたかのような、そんな痛々しい姿だった。

 

 

「……お兄、ちゃん」

 

 

私は掠れた声で呟いた。兄がゆっくりと顔を上げ、私を見た。

 

 

焦点の定まらない虚ろな瞳。

 

 

私と兄の視線が交差した。

 

 

『俺が必ず助け出す。だからお前は何も心配しないで家で待ってろ』

 

 

あの日、力強くそう言ってくれた兄の面影はもうどこにもなかった。

 

 

何を言えばいいのか分からなかった。兄もまた、私に対してかける言葉を見つけられないようだった。半開きになった口からは何も紡がれず、ただ重く、息苦しい沈黙だけが夕暮れの玄関に冷たく降り積もっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重く、息苦しい沈黙がどれほど続いただろうか。永遠にも感じられたその静寂を破ったのは、私自身の口からこぼれ落ちたひどく掠れた声だった。

 

 

「……どうして、助けられなかったの……」

 

 

自分でも驚くほどその言葉は冷たく、そして重かった。まるで氷の刃のように夕暮れの玄関の空気を切り裂いて兄の胸へと突き刺さる。

 

 

その言葉を聞いた瞬間、兄の肩がピクッと小さく震えた。虚ろだった瞳に一瞬だけ耐え難い苦痛の色が走る。

 

 

それを見た途端、私の中で張り詰めていた何かが完全に決壊した。

 

 

「約束したじゃない……! 絶対に助けるってお兄ちゃんがそう言ったじゃない!!」

 

 

気がつけば私は泣き叫んでいた。数日間、心の奥底に溜め込み押し殺してきた真っ黒な感情のすべてが濁流となって溢れ出した。

 

 

「どうして梨絵が死ななきゃいけなかったの!? 警察官なのにどうして犯人をすぐに撃たなかったの!? お兄ちゃんがもっと早く助けてくれていれば梨絵は死なずに済んだのに!!」

 

 

酷い言葉の数々だった。自分でも何を言っているのか分からなくなるほどただ感情に任せて兄を罵倒し続けた。

 

 

『お兄ちゃんのせいじゃない』

 

 

頭の片隅ではちゃんと分かっていた。兄は命がけで現場に突入し、親友を助けようとしてくれたのだ。犯人を撃ち殺すという警察官として人間として最も重い十字架を背負ってまで。

 

 

悪いのは犯人であって兄ではない。

 

 

それなのに口から飛び出す責め苦の言葉はどうしても止められなかった。やり場のない悲しみと喪失感をぶつける対象が私にはもう目の前にいる兄しかいなかったのだ。

 

 

「……っ、はぁっ……はぁっ……」

 

 

どれくらいの間言葉の刃をぶつけ続けただろうか。やがて喉が枯れ、息も絶え絶えになった私はその場にへたり込むようにして膝をつき荒い呼吸を繰り返した。涙で視界がぼやけ、床の木目がぐにゃぐにゃと歪んで見える。

 

 

私は兄からの反論を待っていたのかもしれない。

 

 

「俺だって必死だったんだ」と怒鳴ってほしかった。「仕方なかったんだ」と言い訳をしてほしかった。そうすれば私はもっと兄を憎むことができたから。

 

 

だが、兄は何も言い返さなかった。ただ黙って私の罵倒のすべてをその身に浴び続けていた。

 

 

やがて兄はゆっくりと頭を下げた。生気を失った、まるで死人のような目で床を見つめたままぽつりと呟いた。

 

 

「……すまなかった」

 

 

それはあの日、電話越しに聞いたのと同じ魂の抜け落ちた虚ろな声だった。そのあまりにも悲痛な謝罪に対して私は何も言うことができなかった。許すことも、さらに責めることもできず、ただ床に座り込んだまま嗚咽を漏らすことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからしばらくして、兄はゆっくりと背を向けた。

 

 

「……元気でな」

 

 

誰に言うともなくそう呟き兄は重い足取りで玄関の外へと歩み出ていく。私はその背中を止めることはなかった。

 

 

「行かないで」と手を伸ばすことも、「ごめんなさい」と謝ることもできなかった。

 

 

バタン、と。

 

 

冷たい金属音と共にドアが閉まる。夕日の光が遮断され、玄関は再び薄暗い影に包まれた。

 

 

それが、私が『警察官の兄』を見た最後の日だった。この日を境に兄は警察を辞め、酒に溺れ、やがて逃げるようにして長距離トラックの運転手となり私のもとから完全に姿を消したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 

溺れかけていた水面から顔を出したように私は大きく息を吸い込んで目を覚ました。心臓が早鐘のように打ち鳴り、全身がじっとりと冷たい汗に覆われている。暗闇の中で私は必死に酸素を肺に送り込もうと荒い呼吸を繰り返した。

 

 

「……栞? 大丈夫?」

 

 

不意にすぐ隣から潜めるような小さな声が聞こえた。

 

 

ハッとして横を向くと、毛布にくるまって寝ていた同級生の女の子が私の異変に気づいて身を起こしていた。薄暗い中でも彼女の顔に浮かぶ心配そうな表情が見て取れた。

 

 

私は慌てて呼吸を整え、できるだけ平坦な声を作った。

 

 

「……うん。ごめんね、起こしちゃった? 大丈夫だよ」

 

 

しかし、彼女は私の顔をじっと見つめたままさらに不安そうな声で言った。

 

 

「でも……泣いてるよ」

 

 

「え……?」

 

 

私はそこで初めて自分の頬が冷たく濡れていることに気がついた。目尻からとめどなく溢れ出した涙があごを伝って毛布の襟元を濡らしている。夢の中で流していた涙が現実の私まで侵食していたのだ。

 

 

「あ、ほんとだ……変なの」

 

 

私は悟られないように慌てて手の甲で涙を乱暴に拭い去り、暗闇の中で精一杯の『張り付けた笑顔』を作ってみせた。

 

 

「ちょっと怖い夢を見ちゃっただけだから、本当に大丈夫。心配かけてごめんね……」

 

 

私の気丈な振る舞いに彼女はまだ少し不安そうな表情を残していたが、やがて「……無理しないでね」と小さく呟き、再び毛布の中へと潜り込んでいった。

 

 

彼女の規則正しい寝息が聞こえ始めるまで私はじっと息を潜めていた。

 

 

やがて、広い空間に再び重い静寂が戻ってきた。非常灯の緑色の光と、高い窓から差し込む青白い月明かりだけが照らし出す広大な体育館。床には所狭しと段ボールが敷き詰められ、数十人の学生や教職員が毛布や寝袋にくるまって身を寄せ合うように眠っている。

 

 

ここは私が通っている郊外の大学の体育館だ。あの『終わりの日』、運良くキャンパス内にいて逃げ延びた人たちで集まり、バリケードを築いて今はどうにかこの閉鎖された環境で生き延びている。

 

 

……でも、それでも私は自分が『生きている』という心地が全くしなかった。ただ心臓が動いて、呼吸をしているだけ。私の時間はあの日、兄に酷い言葉をぶつけてしまった夕暮れの玄関で完全に止まったままなのだ。

 

 

「……お兄ちゃん」

 

 

ふと、無意識のうちにその言葉だけが唇からこぼれ落ちた。

 

 

会いたい。会ってちゃんと謝りたい。

 

 

『お兄ちゃんのせいじゃない』と、あの時言えなかった本当の気持ちを伝えたい。私がぶつけた酷い言葉の数々を土下座してでも取り消したい。

 

 

しかし、外の世界はそんな私のささやかな願いすら絶対に許してはくれない。体育館の分厚い壁の向こう側には生きた人間を喰らう『感染者』たちが無数に蔓延っている。迂闊に外を出歩けば数分と経たずに彼らの餌食になることは火を見るより明らかだった。

 

 

それに、私にはこの大学に残ったみんなを置いていくことはできない。

 

 

食料も水も底を尽きかけ、誰もが極限の恐怖とストレスに晒されているこの状況で自分勝手な理由でコミュニティの輪を乱すわけにはいかなかった。

 

 

私は膝を抱え込み、その上に顔を埋めた。周囲には同じように生き延びた仲間たちがたくさんいる。決して一人ではないはずなのに。それでも、私の心の中にあるぽっかりと空いた穴を埋めるものは何もなく、ただ酷く、冷たい虚無感だけがこの広い体育館の暗闇に木霊しているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お読みいただきありがとうございました!

よく勘違いされることがあるのですが、福岡の人全員が博多弁を喋ると思ったら全然違います!

全く方言ない人もいますし、ちょっとだけ方言を使ったりとかバラバラです。

私の場合は北九州弁・筑豊弁・博多弁が混ざった感じですね。(といっても方言は少なめ)
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