明日未満の波打ち際 作:学マスオタク
「プロデューサーは、生まれ変わりって信じる?」
波が岩を打つ音が響く中でも、篠澤さんのか細い声ははっきりと俺の耳に届いていた。
「今際の際になって、来世の話ですか」
「そう。信じる?」
隣で俺を見上げながら、篠澤さんはまるで明日の献立でも聞いているかのような軽さで問いかける。
生まれ変わり。今まさに飛び立とうとする俺たちの、最後の会話として相応しいかもしれないと思った俺は、その会話に乗ることにした。
「信じていますよ」
「ロマンティックだ、ね。どうして?」
「他に縋るところがありませんから。篠澤さんは、信じますか?」
「わたしは、信じてない。非科学的」
篠澤さんらしい返答に、堪え切れず笑いが漏れた。
「なら、どうして聞いたんですか」
「プロデューサーが信じてるなら、来世のことを検討する価値があると思った」
「俺が言うことなら、何でも検討するんですか」
「うん」
即答だった。
波が岩を叩く。白く砕けた飛沫が、夜の中で一瞬だけ輪郭を持って、それからすぐに消えた。
冬の海は暗い。空も、海も、岩場も、全部が同じ色に塗り潰されていて、境目がわからなかった。
ただ隣にいる篠澤さんの体温だけが、この場所にまだ現実が残っていることを示している。
「合理的ではありませんね」
「知ってる」
「あなたらしくもない」
「そうかもしれない、ね」
篠澤さんは否定しなかった。
彼女はいつも通り、淡々としている。
淡々としているのに、いつもより少しだけその声は柔らかかった。
俺が聞き逃さないように。まるで最後まで、俺にだけ届けばいいと思っているように。
「あなたは、わたしのプロデューサーだから」
その言葉を聞いて、胸の奥に鈍い痛みが走った。
プロデューサー。
その肩書きは、もう俺には重すぎるものだった。
二週間前に行われた冬のH.I.F。一番星を決める、初星学園最大のアイドルフェス。
その決勝のステージで、篠澤広と俺は、負けた。
◆
「一番星は──十王星南ッ!」
会場が湧き立つ。止まない拍手、止まない歓声が彼女を迎えた。
冬のH.I.Fで優勝したのは、十王星南。
去年の王者が、今年も王座を守った。
会場の誰もが納得していた。
星南さんのステージは圧倒的で、勝者に相応しい説得力があった。
最後のサビで、彼女は一度だけ客席に背を向けた。
普通なら視線を切る失点になりかねない動きなのに、その背中だけで会場の熱が一段上がった。
歌も、表情も、指先の角度も、すべてが「一番星」のためにそこにあるようだった。
だからこそ、言い訳の余地がない。
篠澤さんはよくやった。あの細い身体で、あの体力で、決勝の舞台まで辿り着いた。
誰もがそう言ったし、俺自身もそう感じている。
学園の教師も、他のプロデューサーも、SNSの向こう側の誰かも、彼女の健闘を称えていた。
H.I.Fの決勝まで篠澤さんを連れて行った。その事実だけを見れば、成果としては十分だったのかもしれない。
アイドルとして不利な条件を、彼女はいくつも抱えていた。
経験値、体力、歌、ダンス。要素を挙げていけばきりがない。それでも篠澤さんは決勝のステージに立った。
誰もがそれを奇跡のように語った。
奇跡という言葉は便利で、そこに至るまでの努力を称えているようで、勝敗から目を逸らすための言葉にもなる。
俺たちは、奇跡的に勝ち上がったのではない。
勝つために準備して、勝つために調整して、勝つためにあの日のステージへ立った。
その結果、負けた。
なら、敗因はある。そして敗因があるなら、それを見落とした人間がいる。
それが俺だった。
ライブ終了後。控室へ戻る廊下で、篠澤さんは何も言わなかった。
小さな身体をさらに小さく見せるように、肩を落として歩いている。呼吸は乱れていた。決勝のステージを終えた直後なのだから当然だ。
それでも彼女は、一度として立ち止まらなかった。
「篠澤さん」
声をかけると、彼女はゆっくり振り向いた。
「なに? プロデューサー」
「お疲れさまでした」
「うん」
「……すみません」
俺がそう言うと、篠澤さんは少しだけ首を傾げた。
「どうして謝るの?」
「勝たせられませんでした」
「うん。勝てなかった、ね」
篠澤さんは否定しなかった。
慰めも励ましも言い訳もなかった。いつも通り、事実だけをそのまま受け取るような返事。
その反応に、なぜか少し救われた。
同時に、息が詰まるほど苦しくなった。
「でも、プロデューサーは悪くない、よ。……ごめんね、勝てなかった」
「悪いのは俺ですよ」
「そうなの?」
「はい」
「わたしは、そうは思わない」
「篠澤さんがそう思わなくても、俺はそう思います」
「……そっか」
篠澤さんは短く答えた。
それきり、会話は続かなかった。
廊下の先からは、星南さんの優勝を祝う声が聞こえてくる。
誰かが泣いている。
誰かが笑っている。
誰かが何度も名前を呼んでいる。
一番星。その称号は、今年も彼女のものだった。
控室に戻ると、篠澤さんは椅子に座り、しばらく膝の上で手を重ねていた。
疲労のせいか、顔色は悪い。
それでも表情は大きく崩れていなかった。
「悔しいですか?」
俺が聞くと、篠澤さんは少し考えてから頷いた。
「悔しい」
「……そうですか」
「うん」
それから彼女は、ステージ衣装の裾を指でつまんだ。
「でも、よくわからない」
「何がですか」
「どれくらい悔しがればいいのか」
その問いに、俺は何も返せなかった。
「星南は、すごかった。わたしより上だった。だから負けた。そこまではわかる」
「はい」
「でも、悔しい」
「当然でしょう」
「当然なんだ」
「はい」
「じゃあ、これはアイドルとして、正しい反応なの?」
「そうですね。悔しくて当然だと思います」
篠澤さんは小さく頷いた。
「よかった」
「何がですか?」
「わたしが、アイドルに本気だったってことだから」
そう言って、彼女はほんの少しだけ息を吐いた。
それが安堵なのか、疲労なのか、俺には判断できなかった。
「次は、もっと悔しくなれると思う」
篠澤さんは、ぽつりとそう言った。
俺はその言葉に、すぐ返事ができなかった。
負けた直後なのに、彼女はもう次の敗北の可能性を考えている。
それは前向きなのか、恐ろしいほど冷静なのか、俺には判断がつかなかった。
俺はプロデューサーだ。
彼女を一番近くで見てきた。
レッスンの進捗も、体調の変化も、心拍数も、声量も、振り付けの精度も、表情の変化も、何度も測ってきた。
それなのに。
決勝の直後、彼女が何を感じているのかすら、俺には正確にわからなかった。
その事実が、負けたこと以上に堪えた。
式典が終わり、関係者への挨拶を済ませ、篠澤さんと寮に戻る頃には日付が変わりかけていた。
先ほどの喧騒が嘘だったかのように静かな学内で、俺はスマートフォンに届いた通知を消していた。
お疲れさまでした。
惜しかったですね。
来年があります。
篠澤さん、本当に成長しましたね。
あの子を決勝まで連れていっただけでも十分ですよ。
十分。
その言葉を見た瞬間、胃の奥が捻れるような感覚があった。
十分とは何だろう。誰にとって、何に対して、どこまで行けば十分なのだろう。
篠澤広は、十分頑張った。
篠澤広は、十分成長した。
篠澤広は、十分結果を残した。
そのすべてが正しいと思う。
しかしだからこそ、俺だけはそれを認めてはいけないと思った。俺がそれを言った瞬間、彼女の敗北を肯定してしまうような気がした。
彼女が届かなかった場所を、届かなくても仕方がない場所にしてしまう気がした。
そんなことのために、俺は彼女のプロデューサーになったわけではない。
気づけば俺たちは、篠澤さんの寮に到着していた。
女子寮に入るわけにはいかないので、ここでお別れだ。
「今日は、ゆっくり休んでください」
「うん」
「明日は、午後からにしましょう。午前中は完全休養で」
「プロデューサーは?」
「俺は……、プロデューサー科への報告書をまとめます」
「寝ないの?」
「寝ますよ」
嘘だった。眠れるわけがない。
篠澤さんは、俺の顔を見ていた。
じっと、いつものように。何かを測るように。
「そう」
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ、プロデューサー」
その声を最後に、寮の扉が閉まる。
俺はしばらく、その場に立ちつくした。
足が動かなかったのだ。
身体は重い。けれど頭の奥だけが妙にはっきりしていて、瞼を閉じれば、今日のステージの映像が何度も再生された。
星南さんの歌。
星南さんの表情。
星南さんの一歩。
星南さんが客席を掴んだ瞬間。
そのすべてが、篠澤さんには足りなかった。
いや、違う。俺が足りなかった。
レッスン量の調整。決勝用セットリストの構成。体力配分。表情の見せ方。照明との相性。ステージ上での視線誘導。審査員に刺すための見せ場。
どれか一つでも、もっと正解に近づけていれば。どこか一つでも、俺が判断を誤らなければ。
結果は変わっていたのかもしれない。
もちろん、そんなものは仮定でしかない。
現実は変わらない。
勝ったのは星南さんで、負けたのは篠澤さんだ。
そして、その篠澤さんをプロデュースしていたのは俺だ。
俺は自室ではなくミーティングルームに戻り、ノートパソコンを開いた。
報告書の作成。
振り返り資料。
ステージ映像の確認。
審査員コメントの整理。
SNS反応の集計。
来年度に向けた改善点。
やるべきことはいくらでもあった。
けれど、キーボードの上に置いた指は動かないままでいる。
画面には空白のドキュメントが表示されている。
タイトル欄に、俺はこう入力した。
冬季H.I.F結果報告。
そこまで打って、しばらく画面を見つめた。
結果報告。あまりにも事務的な言葉だと感じた。
あの日のステージで篠澤さんが積み重ねてきたものも、届かなかったものも、すべてがその数文字に押し込められていく。
俺は一度だけ目を閉じた。
まぶたの裏で、篠澤さんがステージに立っている。
細い脚で踏ん張り、乱れそうな呼吸を押し殺し、最後のフレーズまで歌い切っている。
彼女は逃げなかった。
最後まで、ステージの上にいた。
その彼女に対して、俺は何を返せるのだろう。
準優勝おめでとう。
よく頑張りました。
来年また挑戦しましょう。
そんな言葉しか出てこないなら、俺は何のために隣にいたのだろう。
時計を見ると、午前三時を過ぎていた。
結局その日、俺は一睡もすることができなかった。