BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第一話
朝は嫌いだ。
正確には、朝そのものが嫌いなわけじゃない。
目を覚ました、その瞬間が嫌いだった。
意識だけが先に浮かび上がって、まだ身体が眠りの中に取り残されている、あの数秒。人間が一日の中で一番無防備になる時間だ。
そして俺には、目を覚ますたびに確かめることがあった。
ゆっくりと目を開く。
見慣れた天井。
窓の隙間から差し込む朝の光。
遠くから聞こえる鳥の声。
深く息を吸って、吐く。
「……よし」
生きている。
そして今日も――ここは『BLACK LAGOON』の世界だった。
こんな確認をするようになって、もう十年以上になる。
それでも時々、目を覚ました瞬間だけは確かめてしまう。
夢じゃない。
幻覚でもない。
前世の俺が見ている、やけに長くて出来のいい夢でもない。
ここで腹が減り、眠くなり、怪我をすれば血が出る。
十年以上積み重なった記憶もある。
だから、とっくに分かっている。
俺は本当に、この世界で生きている。
ガルシア・フェルナンド・ラブレスとして。
最初にその事実を理解した時のことは、今でも覚えている。
よりによって『BLACK LAGOON』かよ、と思った。
転生なんてものが本当にあるなら、もう少し平和な世界を選ばせてくれてもよかったはずだ。
しかもガルシア・ラブレス。
この名前が意味するものを、俺は知っていた。
この先、ラブレス家に何が起こるのか。
父上に何が起こるのか。
そして――ロベルタがどうなるのか。
全部知っている。
だから俺には、やるべきことがある。
コンコン。
控えめなノックが、思考を遮った。
「坊ちゃま」
その声を聞いた瞬間、俺の意識は現実へ引き戻される。
聞き間違えるはずがない。
この世界に生まれてから、誰よりも聞いてきた声だ。
「起きてるよ」
「失礼いたします」
「どうぞ」
静かに扉が開いた。
黒い髪。
白いエプロン。
きっちりと整えられたメイド服。
背筋の伸びた立ち姿。
彼女は部屋へ入ると、いつものように一礼した。
「おはようございます、坊ちゃま」
「おはよう、ロベルタ」
ロベルタ・チスネロス。
かつて《フローレンシアの猟犬》と呼ばれた女。
原作を知る俺にとって、その名前がどれほど物騒な意味を持つのかは説明するまでもない。
けれど。
「カーテンを開けますね」
「ああ」
今の彼女は、俺のメイドだった。
ロベルタが窓辺へ歩き、カーテンを開く。
朝の光が一気に部屋へ流れ込んだ。
眩しさに目を細めながら、その横顔を見る。
綺麗だなぁ。
結局、今日もそう思う。
十年以上一緒にいるのに、いまだに慣れない。
俺のメイド。
俺の護衛。
そして、俺の家族。
ついでに言えば――前世からの推しでもある。
これは絶対に本人には言えない。
前世の俺に教えてやったら、どうなるだろう。
お前、将来ロベルタに毎朝起こしてもらってるぞ。
たぶん信じない。
信じたら信じたで、卒倒するかもしれない。
ロベルタに起こしてもらう人生。
強すぎる。
転生先としては相当に物騒な世界だが、この一点については文句のつけようがなかった。
「本日のご予定ですが」
ロベルタがいつもの調子で話し始める。
「午前中はお勉強を。その後、ディエゴ様が昼食をご一緒にとのことです」
「父上が?」
「はい。先日お話しになっていた件についても、ご報告があるかと」
「ああ、投資の」
「左様でございます。それから午後は――」
俺は相槌を打ちながら聞いていた。
午前は勉強。
昼は父上と食事。
その席で投資についての報告。
午後にもいくつか予定が入っている。
ラブレス家の跡取りとして、覚えなければならないことは多い。
それに、この先のことを考えれば、今のうちにできることはできるだけやっておきたい。
金もいる。
知識もいる。
人脈もいる。
何より、力がいる。
原作を知っているだけで全部解決できるほど、この世界は甘くない。
――分かっている。
分かってはいるのだが。
「坊ちゃま」
「ん?」
ロベルタがこちらを見ていた。
「聞いておられますか?」
「聞いてるよ」
「では、午後三時からのご予定は?」
「…………」
しまった。
途中からロベルタを見ていた。
彼女の目がわずかに細くなる。
「ごめんなさい」
「まだ何も申しておりません」
「いや、これは先に謝った方がいいやつかなって」
「そういうところだけは、ご判断がお早いのですね」
淡々と刺された。
思わず笑ってしまう。
「ごめんって」
「まったく……」
小さくため息をつきながらも、ロベルタの声はどこか柔らかい。
昔から、この人は俺のことに関してだけ妙に鋭かった。
熱を出せば、俺自身より先に気づく。
寝不足も隠せない。
嘘をつけば大抵見抜かれる。
最近、誰にも言わず身体を鍛え始めたことも、そろそろ気づかれている気がする。
理由を聞かれると少し困る。
まさか、
――将来、マフィアに誘拐される予定だから。
なんて言えるはずがない。
「坊ちゃま」
「ん?」
「今度は何をお考えですか?」
「……なんで分かったの?」
「お顔を見れば」
怖い。
やはり、この人には下手なことを考えない方がいい。
「なんでもないよ」
「左様でございますか?」
明らかに信じていない。
それでも、それ以上は聞かなかった。
俺はそんなロベルタを見ながら、ふと部屋の中を見回した。
いつもの朝だった。
特別なことなんて何もない。
銃声は聞こえない。
誰かが怒鳴っているわけでもない。
ロベルタがいて。
父上がいて。
屋敷の使用人たちがいて。
今日も昨日と同じように、一日が始まろうとしている。
前世なら、退屈だと思ったかもしれない。
今は違う。
この何も起こらない時間が、どれだけ大切なものなのか。
俺は知っている。
この世界の未来を知っているからこそ。
「坊ちゃま」
「なに?」
「何か良いことでもございましたか?」
ロベルタが不思議そうに俺を見ていた。
「どうして?」
「先ほどから、楽しそうにしておられますので」
どうやら、また顔に出ていたらしい。
何かあったかと考える。
別に何もない。
昨日から今日にかけて、特別な出来事なんて一つもなかった。
だから、そのまま答えた。
「ロベルタがいるから」
一瞬。
彼女の動きが止まった。
「…………」
「ロベルタ?」
「……坊ちゃま」
「なに?」
「そのようなことを、朝から突然仰らないでください」
いつもと変わらない声だった。
少なくとも、本人はそのつもりなのだろう。
でも耳が少し赤い。
耐えられなかった。
「あははは!」
「坊ちゃま!」
「ごめん、ごめん!」
「まったくもう……」
ロベルタが困ったように息を吐く。
けれど、その口元はわずかに緩んでいた。
その表情を見た瞬間。
ほんの一瞬だけ、別のロベルタが頭をよぎった。
血。
泥。
硝煙。
憎悪。
大切なものを失って、自分まで壊しながら復讐を続ける女。
俺の知っている『BLACK LAGOON』のロベルタ。
目の前にいる彼女とは、あまりにも違う。
――ああはさせない。
笑っているこの人を見ながら、改めて思った。
ロベルタを守る。
父上も守る。
ラブレス家も守る。
原作で起きたことを、そのまま起こさせるつもりはない。
俺は未来を知っている。
いつ。
どこで。
何が起こるのか。
少なくとも、大きな流れは知っている。
それは、この世界の誰も持っていない俺だけの武器だった。
コンコン。
再び扉が鳴った。
今度の声も、すぐに分かった。
「ガルシア」
父上だった。
「起きているか?」
ロベルタと顔を見合わせる。
彼女が微笑む。
俺も笑った。
「もちろんです、父上」
ベッドから降りる。
今日も一日が始まる。
父上がいて。
ロベルタがいて。
ラブレス家がある。
守りたいものは、全部ここにあった。
そして俺には、これから起こることが分かっている。
だから。
この頃の俺は、本気で信じていた。
未来を知っているのなら、未来は変えられる。
大切な人を失う結末を知っているのなら、それを避ければいい。
原作で間違えた道を知っているのなら、そこを通らなければいい。
それだけのことだと。
俺は知っている。
だから、間違えるはずがない。
――この時は、まだ。
本気でそう思っていた。