BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第十話 先生はレヴィ
ロアナプラの朝は、少しだけ機嫌が悪い。
港から吹いてくる風は潮よりも油の匂いを強く運び、通りには昨夜の酒と煙草と、その他いろいろなものの残骸が転がっている。
遠くで怒鳴り声が聞こえた。
誰かが瓶を割った。
まだ朝なのに。
この街では、それくらいが平常運転らしい。
ラグーン商会の事務所。
窓際の椅子に座って、俺は経済誌を読んでいた。
三ヶ月前のものだ。
どこから持ってきたのかは知らない。
事務所の隅に積まれていた雑誌の中から見つけた。
情報としては少し古い。
でも、十分読める。
アメリカ企業の買収。
東南アジアへの投資。
資源開発。
為替。
前世で知っているその後の結果と照らし合わせながら読むと、むしろ面白かった。
この記事を書いた人は当てている。
こっちは完全に外している。
この会社はまだ注目されていない。
でも数年後には――。
ページをめくる。
「何読んでやがる」
影が落ちた。
顔を上げる。
レヴィだった。
煙草を咥えたまま、俺の手元を覗き込んでいる。
「これ」
表紙を見せる。
レヴィは数秒眺めた。
露骨に顔をしかめた。
「見てるだけで頭痛くなる」
「面白いよ」
「そう思える時点で頭がおかしい」
酷い。
俺は雑誌へ視線を戻した。
でも。
レヴィはどこかへ行かなかった。
そのまま近くに立っている。
煙草を吸いながら、こっちを見ている。
「…………」
何だ。
数日前から、時々こういうことがある。
別に話しかけてくるわけでもない。
ただ。
見られている。
最初は人質だからだと思っていた。
でも、それだけではない気がする。
「何?」
聞いてみた。
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「ねぇよ」
嘘だ。
明らかに何か考えている顔だった。
でも、追及はしない。
数日付き合って分かってきた。
この人は、触れられたくないところへ踏み込むと露骨に機嫌が悪くなる。
そして。
レヴィの機嫌をわざわざ悪くして得することは、たぶん何一つない。
本へ戻る。
数秒。
「なあ」
やっぱりあるんじゃないか。
「何?」
「お前、本当にガキか?」
顔を上げる。
レヴィは真顔だった。
「戸籍上は」
眉が動いた。
「それだよ」
「何が?」
「そういう返しだよ」
「じゃあ何て答えればいいんだよ」
「知らねぇよ」
即答。
思わず笑った。
「笑うな」
「いや、だって」
「笑ってんじゃねぇ」
「自分で聞いたんだろ」
レヴィが舌打ちする。
でも。
怒ってはいない。
たぶん。
この数日で。
レヴィという人間について、俺の中でも少しずつ印象が変わっていた。
もちろん、基本的には知っている。
短気。
口が悪い。
すぐ銃を抜く。
恐ろしく喧嘩っ早い。
その辺りは想像通りだった。
というか。
実際に目の前で見ると、想像以上だった。
でも。
それだけではない。
食事を持ってくる。
何だかんだ俺の様子を見に来る。
船を降りてからも、放っておけばいいのに時々こうして声をかけてくる。
面倒見がいい。
本人に言ったら間違いなく否定するだろう。
下手をすれば怒る。
だから。
絶対に言わない。
それに。
こうして話していると、今でも時々妙な感覚になる。
俺にとっては、昔から知っている人。
でも。
レヴィにとっては。
俺は数日前に突然現れた、変な金持ちのガキでしかない。
俺だけが彼女のことを知っている。
その距離のずれには、まだ慣れなかった。
「なあ」
「ん?」
レヴィの視線が俺の身体へ落ちた。
「お前、何かやってんのか?」
一瞬。
意味が分からなかった。
「何かって?」
「格闘技とかよ」
少し驚いた。
「なんで?」
「立ち方」
「立ち方?」
「あと歩き方」
レヴィが顎で俺の足元を示す。
「金持ちの坊ちゃんにしちゃ、重心が安定してやがる」
へえ。
そんなところまで見るのか。
「護身術なら少し」
「誰に習った」
「ファビオラ」
「誰だよ」
そうか。
まだ知らないのか。
「うちのメイド」
レヴィの顔が止まった。
「……メイド?」
「うん」
「お前ん家のメイドはガキに喧嘩教えんのか?」
「喧嘩じゃないよ。逃げるためのやつ」
「同じようなもんだろ」
「全然違うって」
ファビオラが聞いたら怒るぞ。
いや。
ロベルタの方が怒るかもしれない。
「立ち方とか、受け身とか。掴まれた時の外し方とか」
「へえ」
レヴィの目が変わった。
少しだけ。
興味を持った時の目だ。
「使えんのか?」
「どうだろ」
一度だけ。
誘拐された時には使った。
最初に腕を掴まれた時。
ファビオラに教わった通りに外せた。
結局、逃げ切れなかったけれど。
「少なくとも、習ってなかったらもっと早く捕まってたと思う」
「なるほどな」
レヴィが俺を見る。
今度はさっきまでより露骨だった。
足。
肩。
腕。
全身。
値踏みされているみたいで居心地が悪い。
「何?」
「別に」
「またそれ?」
「うるせぇ」
レヴィは新しい煙草を取り出した。
咥える。
火を点ける。
一口吸って。
「銃は?」
俺の視線が、自然と彼女の腰へ向いた。
二挺の拳銃。
「撃ったことあんのか?」
「ないよ」
「一度も?」
「一度も」
「へえ」
煙が吐き出される。
「この前、えらく見てたじゃねぇか」
「興味はあるから」
「でも触らなかった」
「怖かったし」
「今は?」
聞かれて。
少し考える。
怖い。
それは変わらない。
拳銃が人を殺す道具であることも。
でも。
この街に来て数日。
壁に銃痕がある。
酒場に武装した人間がいる。
通りで普通に拳銃が見える。
ここでは。
銃を知らないことの方が危ないのかもしれない。
「……興味はある」
そう答えた。
レヴィが笑った。
嫌な笑いだった。
「そうかよ」
「何?」
「立て」
「何で?」
「いいから」
雑誌を閉じる。
「どこ行くの?」
レヴィは答えない。
そのまま事務所の出口へ向かう。
俺も立ち上がった。
二、三歩進んだところで。
レヴィが振り返った。
俺の立ち方を見る。
「確かに悪くねぇな」
「何が?」
「足だよ」
自分の足を見る。
別に普通だ。
「ファビオラって奴、多少は分かってんじゃねぇか」
「多少って……」
ロベルタに鍛えられたファビオラを捕まえて。
この人は。
「それ、本人には言わない方がいいよ」
「あ?」
「何でもない」
俺は後を追った。
廊下を抜ける。
階段を降りる。
そこで。
何となく行き先が分かってきた。
「レヴィ」
「何だ」
「もしかして」
レヴィが振り返る。
口元に。
あの笑いが浮かんでいた。
ピザを奪った時とは違う。
もっと悪い。
明らかに。
ろくでもないことを思いついた人間の顔だった。
「運が良かったな、坊主」
「その顔で言われても全然そう思えないんだけど」
「今日からあたしが教えてやるよ」
「何を?」
分かっている。
でも。
一応聞いた。
レヴィが腰のホルスターを叩く。
「こいつの使い方だ」
一瞬。
足が止まった。
射撃。
レヴィから。
俺が。
「…………」
まずい。
普通に嬉しい。
顔に出すな。
「何ニヤついてんだ」
「ニヤついてない」
「ついてる」
「ちょっとだけ」
「気色悪ぃな」
前にも言われた。
レヴィが歩き出す。
俺も追いかける。
「最初に言っとくぞ」
「何?」
「泣いてもやめねぇからな」
「泣くようなことするの?」
「さあな」
「怖いこと言うなよ」
「安心しろ」
振り返りもせず。
レヴィは笑った。
「撃たれりゃ痛ぇだけだ」
「何一つ安心できないんだけど」
レヴィの笑い声が響いた。
どうやら。
俺の休日は終わったらしい。
ファビオラとは違う種類の先生が。
ロアナプラで。
一人増えた。