BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

12 / 33
第十二話

第十二話 夜の港

 

ロアナプラの夜は、静かではない。

 

ただ、騒音の種類が変わるだけだ。

 

昼間、港を満たしていたクレーンの軋みやエンジンの唸りが遠ざかると、今度は酒場から漏れる笑い声と安っぽい音楽が街を満たす。

 

時折。

 

乾いた音が混じる。

 

銃声だ。

 

最初は反応していた。

 

今はもう、窓の外を見ることもしなくなった。

 

慣れた。

 

――というより。

 

この街では、いちいち気にしていたら身が持たない。

 

ラグーン商会の事務所。

 

俺は窓際の椅子に座り、雑誌を開いていた。

 

経済誌。

 

さっきから同じページを読んでいる。

 

正確には。

 

読もうとしている。

 

文字が頭に入ってこない。

 

「…………」

 

ページをめくる。

 

数秒して。

 

一ページ戻す。

 

やっぱり何も覚えていない。

 

雑誌を閉じた。

 

窓の外を見る。

 

夜の港に無数の灯りが浮かんでいる。

 

ロベルタが来ない。

 

そのことが。

 

ここ数日、ずっと頭から離れなかった。

 

最初は気にしていなかった。

 

俺が知っている未来と、現実には既に違いがある。

 

誘拐のされ方からして違った。

 

なら。

 

ロベルタが俺を追ってくるまでの時間に多少のずれが出ても、おかしくはない。

 

そう考えていた。

 

一日。

 

二日。

 

まだ平気だった。

 

三日。

 

少し気になった。

 

四日。

 

五日。

 

そこで。

 

さすがにおかしいと思い始めた。

 

父上が何もしていないはずがない。

 

まして。

 

ロベルタが。

 

俺が誘拐されたと知って。

 

屋敷で大人しく待っているはずがない。

 

それだけは。

 

原作を知らなくても断言できる。

 

あの人なら来る。

 

何があっても。

 

だからこそ。

 

来ないことが怖かった。

 

ロベルタを疑っているんじゃない。

 

逆だ。

 

あのロベルタが来られないほどの何かが。

 

俺の知らないところで起きている。

 

そう考えてしまう。

 

「…………」

 

やめよう。

 

何度考えても同じだ。

 

情報がない。

 

考える材料がないのに考え続けても、不安だけが大きくなる。

 

分かっている。

 

分かっているのに。

 

目はまた窓の外へ向かった。

 

「起きてたか」

 

低い声がした。

 

振り返る。

 

ダッチだった。

 

「うん」

 

大きな身体が部屋へ入ってくる。

 

体格に似合わず、足音は静かだった。

 

ダッチは俺が持っている雑誌を見て。

 

それから窓の外へ視線を向けた。

 

「眠れないか」

 

「少し」

 

嘘だった。

 

昨日もあまり眠れていない。

 

でも。

 

ダッチは何も言わなかった。

 

見抜いているのかもしれない。

 

ただ。

 

追及しない。

 

この人は、そういう距離の取り方をする。

 

ダッチが窓際まで来た。

 

並んで港を見る。

 

しばらく。

 

何も言わなかった。

 

「ガルシア」

 

「何?」

 

「どうして俺たちが、まだお前を次へ渡してないと思う?」

 

横を見る。

 

ダッチの表情は変わらない。

 

そのことは。

 

俺も考えていた。

 

ラグーン商会の仕事は、本来なら俺をここまで運んで終わるはずだった。

 

なのに。

 

俺はまだここにいる。

 

「……向こうで揉めてるから?」

 

「それもある」

 

それも。

 

ということは。

 

他にもある。

 

「今回の仕事は、どうにも臭ぇ」

 

ダッチは窓の外を見たまま言った。

 

「最初に聞いていた話と、後から出てきた話が噛み合わん」

 

「例えば?」

 

「そいつをガキに説明するほど、俺は親切じゃない」

 

「聞いた俺が馬鹿だった」

 

「そういうことだ」

 

少し笑われた。

 

でも。

 

すぐに表情が戻る。

 

「金の流れも妙だ。仲介に入ってる連中も増えた。お前を欲しがってる奴が、一人じゃない可能性もある」

 

背中が少し冷えた。

 

「……それ、結構まずくない?」

 

「だから止めてる」

 

ダッチがこちらを見る。

 

「荷物を運ぶのと、火のついた爆弾を抱えるのは別の仕事だ」

 

荷物。

 

俺のことだろう。

 

でも。

 

不思議と腹は立たなかった。

 

この人なりの言い方だ。

 

「急いで渡して、後から巻き込まれるのは御免だ。誰が何を欲しがってるのか。最低限、それくらいは見えてから動く」

 

「それまで俺は?」

 

「うちの客だ」

 

「人質じゃなくて?」

 

「金を払ってねぇ客だな」

 

「最悪じゃん」

 

ダッチが僅かに笑った。

 

俺も笑う。

 

ほんの少し。

 

胸の重さが軽くなった。

 

状況が良くなったわけではない。

 

ロベルタが来ない理由も分からない。

 

でも。

 

少なくとも。

 

俺一人だけが、何かがおかしいと思っているわけではなかった。

 

「ダッチ」

 

「何だ」

 

「ありがとう」

 

「礼を言うのは家に帰ってからにしろ」

 

短い返事だった。

 

俺はもう一度。

 

夜の港を見た。

 

ロベルタ。

 

今。

 

どこにいるんだろう。

 

⸻

 

同じ夜。

 

遠く離れたラブレス邸では。

 

執務室の灯りが、まだ消えていなかった。

 

机の上を。

 

無数の紙が埋め尽くしている。

 

港湾記録。

 

道路地図。

 

船舶の出入港記録。

 

警察から得た報告。

 

軍に残る古い伝手から届けられた情報。

 

政界。

 

財界。

 

港湾関係者。

 

ディエゴ・ラブレスが、この数年で取り戻した繋がりを総動員して集めたものだった。

 

それでも。

 

息子には届かなかった。

 

ディエゴは椅子に座らず、机へ両手をついていた。

 

「また、外れた」

 

掠れた声だった。

 

向かいに立つロベルタは。

 

何も言わない。

 

「港の倉庫は空。使われた形跡はある。だが、我々が情報を得た時には既にもぬけの殻だった」

 

「はい」

 

「次の拠点も同じだ」

 

「……はい」

 

「その次も」

 

ディエゴが顔を上げた。

 

疲れていた。

 

この数日。

 

まともに眠っていない。

 

それでも。

 

目だけは死んでいなかった。

 

「偶然ではない」

 

ロベルタの眼鏡に、机上のランプが映る。

 

「私も、そう考えます」

 

「こちらが動く前に、向こうが消えている」

 

ディエゴは地図へ視線を戻した。

 

「警察へ話を通した後も。軍の伝手を頼った後もだ」

 

沈黙。

 

「……漏れている」

 

ロベルタが言った。

 

ディエゴは答えなかった。

 

答える必要がなかった。

 

どこからか。

 

こちらの動きが漏れている。

 

警察か。

 

軍か。

 

役人か。

 

あるいは。

 

その全てではなく。

 

そのどこかにいる一人なのか。

 

分からない。

 

だからこそ。

 

もう使えない。

 

「ラブレス家も、随分立て直したと思っていた」

 

ディエゴが呟いた。

 

自嘲ではなかった。

 

ただ。

 

事実を確認するような声だった。

 

「金を取り戻した。土地も立て直した。昔の繋がりも、少しずつ戻した」

 

ロベルタは黙って聞いている。

 

「息子一人くらいは守れると」

 

拳が。

 

ゆっくり握られた。

 

「……思い上がっていたらしい」

 

「旦那様」

 

「分かっている」

 

ディエゴが遮った。

 

「後悔は後でする」

 

そして。

 

顔を上げる。

 

「今は、ガルシアだ」

 

「はい」

 

ロベルタの返事に。

 

迷いはなかった。

 

ディエゴはその顔を見た。

 

ラブレス家のメイド。

 

息子が誰より信頼する女性。

 

そして。

 

それだけではない。

 

ディエゴは知っている。

 

彼女が。

 

どこから来た人間なのかを。

 

何を捨てて、この屋敷へ来たのかを。

 

だから。

 

これだけは。

 

命じたくなかった。

 

「ロベルタ」

 

「はい」

 

「……すまない」

 

初めて。

 

彼女の表情が動いた。

 

ほんの僅かに。

 

「何を仰るのですか」

 

「私は、お前に別の人生を生きてもらいたかった」

 

ロベルタは黙った。

 

「ここで働いて。ガルシアを叱って。あの子が大人になるのを見て」

 

ディエゴの口元に。

 

一瞬だけ、弱い笑みが浮かぶ。

 

「料理は……まあ、もう少し上達してもらいたいが」

 

「……精進いたします」

 

「頼む」

 

ほんの一瞬。

 

部屋の空気が緩んだ。

 

でも。

 

すぐに戻る。

 

ディエゴは机の引き出しを開けた。

 

一枚の封筒を取り出す。

 

「ここから先は、公式な手段を使わない」

 

ロベルタの視線が封筒へ落ちた。

 

「警察にも知らせない。軍にも。私がこれまで頼った者にもだ」

 

「承知いたしました」

 

「信頼できる者を一人ずつ辿って集めた。まだ裏は取れていない」

 

封筒を差し出す。

 

ロベルタが受け取る。

 

中には。

 

断片的な情報しかない。

 

使われた船。

 

寄港した可能性のある港。

 

裏社会の仲介人。

 

東南アジアへ流れた金。

 

そして。

 

一つの地名。

 

ロアナプラ。

 

ロベルタの目が止まった。

 

ディエゴは。

 

彼女を見ていた。

 

「これは、ラブレス家当主としての命令ではない」

 

「旦那様」

 

「父親として頼む」

 

声が。

 

僅かに震えた。

 

隠さなかった。

 

「ガルシアを」

 

そこで。

 

一度だけ言葉が止まった。

 

「私の息子を、連れて帰ってきてくれ」

 

ロベルタは。

 

すぐには答えなかった。

 

封筒を持ったまま。

 

目を伏せる。

 

ディエゴには。

 

その沈黙の意味が分かっていた。

 

彼女を。

 

かつていた場所へ戻す。

 

それが。

 

何を意味するのか。

 

それでも。

 

他に頼める人間はいない。

 

数秒後。

 

ロベルタは顔を上げた。

 

「必ず」

 

静かな声だった。

 

「必ず、坊ちゃまをお連れして戻ります」

 

疑いはなかった。

 

希望ですらない。

 

彼女にとっては。

 

決定事項なのだ。

 

「……頼む」

 

ロベルタが深く頭を下げた。

 

踵を返す。

 

「ロベルタ」

 

扉の前で止まった。

 

「はい」

 

ディエゴは。

 

しばらく何も言えなかった。

 

ガルシアを連れ戻してほしい。

 

そのためなら。

 

何でもする。

 

そう思っている。

 

それでも。

 

「お前も戻ってこい」

 

ロベルタの背中が。

 

ほんの僅かに止まった。

 

「二人でだ」

 

沈黙。

 

やがて。

 

ロベルタは振り返った。

 

「はい」

 

微笑んだ。

 

いつもの。

 

ガルシアの世話をしている時と同じ。

 

穏やかな微笑みだった。

 

「旦那様」

 

一礼する。

 

「行ってまいります」

 

扉が閉じた。

 

廊下を歩く。

 

自室へ向かう。

 

必要なものを揃える。

 

荷物は多くない。

 

多くする必要がない。

 

最後に。

 

鏡の前で立ち止まった。

 

胸元へ手を伸ばす。

 

服の下から。

 

細い鎖を引き出す。

 

銀のロケット。

 

ガルシアから贈られたものだった。

 

蓋を開く。

 

中には。

 

小さな写真が一枚。

 

ガルシアがいる。

 

少し恥ずかしそうに笑っている。

 

「…………」

 

指先で。

 

そっと写真に触れた。

 

「お待ちくださいませ」

 

誰もいない部屋で。

 

ロベルタは囁いた。

 

「坊ちゃま」

 

ロケットを閉じる。

 

胸元へ戻す。

 

そして。

 

その上から一度だけ。

 

手を重ねた。

 

表情が消えた。

 

穏やかなメイドの顔から。

 

笑みが消える。

 

その夜。

 

ロベルタ・シスネロスは。

 

ラブレス邸を発った。

 

坊ちゃまを。

 

家へ連れ戻すために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。