BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第十二話 夜の港
ロアナプラの夜は、静かではない。
ただ、騒音の種類が変わるだけだ。
昼間、港を満たしていたクレーンの軋みやエンジンの唸りが遠ざかると、今度は酒場から漏れる笑い声と安っぽい音楽が街を満たす。
時折。
乾いた音が混じる。
銃声だ。
最初は反応していた。
今はもう、窓の外を見ることもしなくなった。
慣れた。
――というより。
この街では、いちいち気にしていたら身が持たない。
ラグーン商会の事務所。
俺は窓際の椅子に座り、雑誌を開いていた。
経済誌。
さっきから同じページを読んでいる。
正確には。
読もうとしている。
文字が頭に入ってこない。
「…………」
ページをめくる。
数秒して。
一ページ戻す。
やっぱり何も覚えていない。
雑誌を閉じた。
窓の外を見る。
夜の港に無数の灯りが浮かんでいる。
ロベルタが来ない。
そのことが。
ここ数日、ずっと頭から離れなかった。
最初は気にしていなかった。
俺が知っている未来と、現実には既に違いがある。
誘拐のされ方からして違った。
なら。
ロベルタが俺を追ってくるまでの時間に多少のずれが出ても、おかしくはない。
そう考えていた。
一日。
二日。
まだ平気だった。
三日。
少し気になった。
四日。
五日。
そこで。
さすがにおかしいと思い始めた。
父上が何もしていないはずがない。
まして。
ロベルタが。
俺が誘拐されたと知って。
屋敷で大人しく待っているはずがない。
それだけは。
原作を知らなくても断言できる。
あの人なら来る。
何があっても。
だからこそ。
来ないことが怖かった。
ロベルタを疑っているんじゃない。
逆だ。
あのロベルタが来られないほどの何かが。
俺の知らないところで起きている。
そう考えてしまう。
「…………」
やめよう。
何度考えても同じだ。
情報がない。
考える材料がないのに考え続けても、不安だけが大きくなる。
分かっている。
分かっているのに。
目はまた窓の外へ向かった。
「起きてたか」
低い声がした。
振り返る。
ダッチだった。
「うん」
大きな身体が部屋へ入ってくる。
体格に似合わず、足音は静かだった。
ダッチは俺が持っている雑誌を見て。
それから窓の外へ視線を向けた。
「眠れないか」
「少し」
嘘だった。
昨日もあまり眠れていない。
でも。
ダッチは何も言わなかった。
見抜いているのかもしれない。
ただ。
追及しない。
この人は、そういう距離の取り方をする。
ダッチが窓際まで来た。
並んで港を見る。
しばらく。
何も言わなかった。
「ガルシア」
「何?」
「どうして俺たちが、まだお前を次へ渡してないと思う?」
横を見る。
ダッチの表情は変わらない。
そのことは。
俺も考えていた。
ラグーン商会の仕事は、本来なら俺をここまで運んで終わるはずだった。
なのに。
俺はまだここにいる。
「……向こうで揉めてるから?」
「それもある」
それも。
ということは。
他にもある。
「今回の仕事は、どうにも臭ぇ」
ダッチは窓の外を見たまま言った。
「最初に聞いていた話と、後から出てきた話が噛み合わん」
「例えば?」
「そいつをガキに説明するほど、俺は親切じゃない」
「聞いた俺が馬鹿だった」
「そういうことだ」
少し笑われた。
でも。
すぐに表情が戻る。
「金の流れも妙だ。仲介に入ってる連中も増えた。お前を欲しがってる奴が、一人じゃない可能性もある」
背中が少し冷えた。
「……それ、結構まずくない?」
「だから止めてる」
ダッチがこちらを見る。
「荷物を運ぶのと、火のついた爆弾を抱えるのは別の仕事だ」
荷物。
俺のことだろう。
でも。
不思議と腹は立たなかった。
この人なりの言い方だ。
「急いで渡して、後から巻き込まれるのは御免だ。誰が何を欲しがってるのか。最低限、それくらいは見えてから動く」
「それまで俺は?」
「うちの客だ」
「人質じゃなくて?」
「金を払ってねぇ客だな」
「最悪じゃん」
ダッチが僅かに笑った。
俺も笑う。
ほんの少し。
胸の重さが軽くなった。
状況が良くなったわけではない。
ロベルタが来ない理由も分からない。
でも。
少なくとも。
俺一人だけが、何かがおかしいと思っているわけではなかった。
「ダッチ」
「何だ」
「ありがとう」
「礼を言うのは家に帰ってからにしろ」
短い返事だった。
俺はもう一度。
夜の港を見た。
ロベルタ。
今。
どこにいるんだろう。
⸻
同じ夜。
遠く離れたラブレス邸では。
執務室の灯りが、まだ消えていなかった。
机の上を。
無数の紙が埋め尽くしている。
港湾記録。
道路地図。
船舶の出入港記録。
警察から得た報告。
軍に残る古い伝手から届けられた情報。
政界。
財界。
港湾関係者。
ディエゴ・ラブレスが、この数年で取り戻した繋がりを総動員して集めたものだった。
それでも。
息子には届かなかった。
ディエゴは椅子に座らず、机へ両手をついていた。
「また、外れた」
掠れた声だった。
向かいに立つロベルタは。
何も言わない。
「港の倉庫は空。使われた形跡はある。だが、我々が情報を得た時には既にもぬけの殻だった」
「はい」
「次の拠点も同じだ」
「……はい」
「その次も」
ディエゴが顔を上げた。
疲れていた。
この数日。
まともに眠っていない。
それでも。
目だけは死んでいなかった。
「偶然ではない」
ロベルタの眼鏡に、机上のランプが映る。
「私も、そう考えます」
「こちらが動く前に、向こうが消えている」
ディエゴは地図へ視線を戻した。
「警察へ話を通した後も。軍の伝手を頼った後もだ」
沈黙。
「……漏れている」
ロベルタが言った。
ディエゴは答えなかった。
答える必要がなかった。
どこからか。
こちらの動きが漏れている。
警察か。
軍か。
役人か。
あるいは。
その全てではなく。
そのどこかにいる一人なのか。
分からない。
だからこそ。
もう使えない。
「ラブレス家も、随分立て直したと思っていた」
ディエゴが呟いた。
自嘲ではなかった。
ただ。
事実を確認するような声だった。
「金を取り戻した。土地も立て直した。昔の繋がりも、少しずつ戻した」
ロベルタは黙って聞いている。
「息子一人くらいは守れると」
拳が。
ゆっくり握られた。
「……思い上がっていたらしい」
「旦那様」
「分かっている」
ディエゴが遮った。
「後悔は後でする」
そして。
顔を上げる。
「今は、ガルシアだ」
「はい」
ロベルタの返事に。
迷いはなかった。
ディエゴはその顔を見た。
ラブレス家のメイド。
息子が誰より信頼する女性。
そして。
それだけではない。
ディエゴは知っている。
彼女が。
どこから来た人間なのかを。
何を捨てて、この屋敷へ来たのかを。
だから。
これだけは。
命じたくなかった。
「ロベルタ」
「はい」
「……すまない」
初めて。
彼女の表情が動いた。
ほんの僅かに。
「何を仰るのですか」
「私は、お前に別の人生を生きてもらいたかった」
ロベルタは黙った。
「ここで働いて。ガルシアを叱って。あの子が大人になるのを見て」
ディエゴの口元に。
一瞬だけ、弱い笑みが浮かぶ。
「料理は……まあ、もう少し上達してもらいたいが」
「……精進いたします」
「頼む」
ほんの一瞬。
部屋の空気が緩んだ。
でも。
すぐに戻る。
ディエゴは机の引き出しを開けた。
一枚の封筒を取り出す。
「ここから先は、公式な手段を使わない」
ロベルタの視線が封筒へ落ちた。
「警察にも知らせない。軍にも。私がこれまで頼った者にもだ」
「承知いたしました」
「信頼できる者を一人ずつ辿って集めた。まだ裏は取れていない」
封筒を差し出す。
ロベルタが受け取る。
中には。
断片的な情報しかない。
使われた船。
寄港した可能性のある港。
裏社会の仲介人。
東南アジアへ流れた金。
そして。
一つの地名。
ロアナプラ。
ロベルタの目が止まった。
ディエゴは。
彼女を見ていた。
「これは、ラブレス家当主としての命令ではない」
「旦那様」
「父親として頼む」
声が。
僅かに震えた。
隠さなかった。
「ガルシアを」
そこで。
一度だけ言葉が止まった。
「私の息子を、連れて帰ってきてくれ」
ロベルタは。
すぐには答えなかった。
封筒を持ったまま。
目を伏せる。
ディエゴには。
その沈黙の意味が分かっていた。
彼女を。
かつていた場所へ戻す。
それが。
何を意味するのか。
それでも。
他に頼める人間はいない。
数秒後。
ロベルタは顔を上げた。
「必ず」
静かな声だった。
「必ず、坊ちゃまをお連れして戻ります」
疑いはなかった。
希望ですらない。
彼女にとっては。
決定事項なのだ。
「……頼む」
ロベルタが深く頭を下げた。
踵を返す。
「ロベルタ」
扉の前で止まった。
「はい」
ディエゴは。
しばらく何も言えなかった。
ガルシアを連れ戻してほしい。
そのためなら。
何でもする。
そう思っている。
それでも。
「お前も戻ってこい」
ロベルタの背中が。
ほんの僅かに止まった。
「二人でだ」
沈黙。
やがて。
ロベルタは振り返った。
「はい」
微笑んだ。
いつもの。
ガルシアの世話をしている時と同じ。
穏やかな微笑みだった。
「旦那様」
一礼する。
「行ってまいります」
扉が閉じた。
廊下を歩く。
自室へ向かう。
必要なものを揃える。
荷物は多くない。
多くする必要がない。
最後に。
鏡の前で立ち止まった。
胸元へ手を伸ばす。
服の下から。
細い鎖を引き出す。
銀のロケット。
ガルシアから贈られたものだった。
蓋を開く。
中には。
小さな写真が一枚。
ガルシアがいる。
少し恥ずかしそうに笑っている。
「…………」
指先で。
そっと写真に触れた。
「お待ちくださいませ」
誰もいない部屋で。
ロベルタは囁いた。
「坊ちゃま」
ロケットを閉じる。
胸元へ戻す。
そして。
その上から一度だけ。
手を重ねた。
表情が消えた。
穏やかなメイドの顔から。
笑みが消える。
その夜。
ロベルタ・シスネロスは。
ラブレス邸を発った。
坊ちゃまを。
家へ連れ戻すために。