BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
夜の港
ロアナプラの夜は、静かではない。
ただ、騒音の種類が変わるだけだ。
昼間の港に満ちていた怒号とエンジン音が遠ざかり、代わりに酒場の笑い声、安い音楽、遠くの銃声が街の底から浮かび上がってくる。
ガルシアは窓際に立っていた。
手には雑誌がある。
だが、もう随分前から同じページを開いたままだった。
ロベルタが来ない。
本来なら、もう来ているはずだった。
原作ではそうだった。
ロベルタは距離も障害も常識も踏み潰して、ガルシアの元へ辿り着く。
それがロベルタだ。
少なくとも、ガルシアはそう知っている。
だから最初の一日は気にしなかった。
現実と原作に多少のズレはある。
二日目も、まだそう思えた。
だが三日、四日、五日と過ぎていくうちに、その違和感は少しずつ重くなっていった。
父を疑っているわけではない。
ロベルタを疑っているわけでもない。
むしろ逆だった。
あの二人が動いていないはずがない。
ならば、何かに阻まれている。
それしか考えられなかった。
「起きてたか」
扉の方から低い声がした。
振り返ると、ダッチが立っていた。
大きな身体を屈めるようにして部屋へ入ってくる。足音は驚くほど静かだった。
「うん」
ダッチは窓の外を見る。
港。
黒い海。
揺れる灯り。
それからガルシアを見た。
「眠れないか」
「少し」
嘘だった。
ほとんど眠れていない。
ダッチは追及しなかった。
その距離感がありがたかった。
しばらく沈黙が続く。
やがてダッチが口を開いた。
「どうして俺達がまだお前を引き渡してないと思う」
ガルシアは少しだけ目を細めた。
考えたことはある。
何度も。
「カルテルが揉めてるから?」
「それもある」
それも。
つまり、他にもある。
ダッチは窓の外を見たまま言った。
「今回の件は臭ぇ」
静かな声だった。
「連中の動きが妙だ。金の流れも、話の筋もな。何より、急ぎ過ぎてる奴が多い」
「急ぎ過ぎてる?」
「ああ。俺の経験じゃ、こういう時に急いだ奴から死ぬ」
理屈ではなかった。
だが、その言葉には妙な重さがあった。
戦場を生き残った男の勘。
それはガルシアの原作知識とは違う種類の未来予測だった。
「だから待つ」
ダッチは言った。
「引き渡しは、こっちが納得してからだ」
ガルシアは頷いた。
安心したわけではない。
だが、自分だけが異変を感じているわけではない。
それは少しだけ救いだった。
その頃。
コロンビアのラブレス邸では、夜になっても執務室の灯りが消えていなかった。
ディエゴ・ラブレスは机の前に立っていた。
椅子には座っていない。
座っていられなかった。
机の上には地図が広げられている。
港。
道路。
空路。
国境。
カルテルの勢力圏。
警察からの報告書。
軍からの連絡。
政府関係者からの返答。
その全てが、綺麗に揃い過ぎていた。
だからこそ不自然だった。
「また空振りですか」
ロベルタが静かに言った。
声は落ち着いている。
だが、その奥にあるものをディエゴは知っていた。
怒りだ。
冷えた怒り。
刃物のような怒り。
「軍は動いた」
ディエゴは言った。
「警察もだ。情報機関にも話を通した」
「はい」
「だが、我々が掴んだ拠点は全て空だった。押収されるはずだった記録は消え、証言者は姿を消した」
ロベルタは何も言わない。
ディエゴは地図に視線を落とす。
「敵が優秀なのではない」
低い声だった。
「こちらの情報が漏れている」
ロベルタの眼鏡が灯りを反射した。
表情は読めない。
「政府の中に、カルテルと繋がっている者がいると」
「そう考えるのが自然だ」
ディエゴは拳を握った。
怒鳴りたい衝動を押し殺す。
ラブレス家は、以前のラブレス家ではない。
金もある。
影響力もある。
政財界への繋がりも取り戻しつつある。
だからこそ、ガルシアが攫われた直後から全力で動いた。
動けた。
原作のように、無力に祈るだけの家ではなかった。
それなのに。
届かない。
あと一歩のところで、必ず道が塞がれる。
「旦那様」
ロベルタが言った。
「ご命令を」
短い言葉だった。
だが十分だった。
ディエゴはゆっくりと顔を上げる。
目の前にいるのは、ラブレス家のメイドだ。
料理は壊滅的。
掃除も完璧とは言いがたい。
だが、彼女ほど信頼できる者をディエゴは知らなかった。
「これは公式の依頼ではない」
ディエゴは言った。
「ラブレス家当主としての命令でもない」
ロベルタの表情が僅かに変わる。
「父親として頼む」
声が少しだけ震えた。
それを隠さなかった。
「私の息子を連れ戻してくれ」
ロベルタは深く頭を下げた。
迷いはなかった。
「必ず」
それだけだった。
それだけで十分だった。
ディエゴは机の上から一枚の封筒を取る。
公式な捜査資料ではない。
信頼できる筋だけを通して集めた断片。
港の名前。
船の航路。
裏社会の仲介人。
そしてロアナプラ。
ロベルタは封筒を受け取った。
「誰にも知られるな」
「承知しております」
「政府にも、軍にも、警察にもだ」
「はい」
ディエゴは息を吐いた。
「ガルシアは生きている」
「はい」
ロベルタは即答した。
それは希望ではなかった。
確信だった。
「坊ちゃまは、必ずお待ちです」
ディエゴは目を閉じた。
その言葉に縋りたくなった。
だが縋るだけでは父親ではない。
「頼む」
ロベルタはもう一度頭を下げた。
そして部屋を出ていく。
扉が閉まる。
廊下の足音はすぐに遠ざかった。
ディエゴは一人残された執務室で、地図を見下ろした。
政府の中に敵がいる。
カルテルの中にも敵がいる。
味方の顔をした敵が、どこにでもいる。
それでも。
息子を取り戻す。
ラブレス家当主としてではなく。
ただ一人の父親として。
その夜、ロベルタは屋敷を出た。
音もなく。
誰にも告げず。
胸元には、坊ちゃまから贈られた銀のロケットペンダントが揺れていた。