BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第十八話 交差点
イエローフラッグの裏口を蹴破るようにして飛び出した一行は、そのまま駐車してあった車へとなだれ込んだ。
「ベニー、出せ!」
「言われなくても!」
運転席へ滑り込んだベニーがエンジンを叩き起こす。
ダッチが助手席へ乗り込み、ロックが意識を失ったレヴィを後部座席へ押し込む。その後を追ってガルシアまで乗り込もうとしたところで、ダッチが振り返った。
「おい。そのガルシアは置いてこいって言っただろ」
「そんなこと言っても、あんなところに置いていけないよ!」
ロックが言い返す。
ダッチは舌打ちし、今度はガルシア本人を睨んだ。
「で、お前はお前でなんでついて来てんだ?」
もちろん、本当の理由など言えるはずがない。
この先に何が待っているのか知っているから。
ロベルタとのカーチェイス。その先にいる、バラライカ。
そこまで辿り着くために、ガルシアは自分の意思でロックの手を取ったのだ。
だが、そんなことを説明できるはずもない。
「いやいや、あのまま置いていかれて、イエローフラッグの下敷きになるのはごめんだよ」
「お前がいたら、あのメイドもそこまでは――」
ダッチが言い終えるより早かった。
轟音。
地面そのものが跳ねた。
背後で巨大な火柱が立ち上がり、爆風が車体を揺さぶった。
振り返れば、つい先ほどまで店だったものが、炎と瓦礫の塊へと変わっていた。
全員が黙った。
ガルシアだけは知っていた。
――ああ。
――やったな、ロベルタ。
原作通りだ。
大量の手榴弾を使った、あの無茶苦茶な破壊。
もちろん口には出さない。
ガルシアはゆっくりダッチへ顔を戻した。
「これでもそう思うの?」
「…………」
答えはなかった。
燃え上がる店を見ながら、ロックが呟く。
「……あいつ、今ので死んだと思うか?」
「そんなことどうでもいい! 乗れ! ベニー、出せ!」
全員が乗り込んだ瞬間、タイヤが悲鳴を上げた。
車は夜のロアナプラへ飛び出した。
*
炎上するイエローフラッグ。
その炎の向こうから、一人の女が歩いてきた。
メイド服は煤に汚れている。
眼鏡の奥の瞳だけが、異様なほど静かだった。
ロベルタは道端に停められていた銀色のメルセデスへ歩み寄る。
拳を振り上げた。
鈍い破砕音。
ドアのガラスを拳で破壊し、内側からロックを外す。
そのまま運転席へ乗り込んだ。
ほどなくして、銀色の車体が炎を背負って走り出した。
*
「で、どこへ向かえばいい!?」
ハンドルを握ったままベニーが叫ぶ。
「問題は逃げ場があるかだ!」
ダッチが答える。
「今なら信じるよ。あれが未来から来た殺人ロボットだって言われても!」
「その映画と違うのは、シュワルツェネッガーが演じてないことくらいだ!」
「面白くもねえし笑えねえよ! こっちはあいつの大事なお坊ちゃんを連れちまってるんだぞ!」
ダッチが前方を指した。
「港まで走れ! ラグーン号のところまで行くぞ!」
「了解!」
ベニーがアクセルを踏み込む。
しばらくして。
バックミラーを見たベニーの顔が引きつった。
「……おいおい」
「どうした?」
「来た」
後方から猛烈な勢いで迫ってくる銀色のメルセデス。
その運転席に座る女を見て、誰も名前を確認する必要などなかった。
「ロック! レヴィを起こせ!」
「え?」
「こんな状況で寝てる場合じゃねえ!」
「レヴィ! レヴィ、起きろ!」
返事はない。
メルセデスが一気に距離を詰める。
並んだ。
「ちくしょう!」
ダッチが懐から拳銃を抜き、窓越しに発砲する。
銃声。
その直後、ロベルタがハンドルを切った。
「うわっ!」
銀色の車体が横から激突する。
鉄と鉄が擦れ、火花が散った。
もう一度。
さらにもう一度。
「ちょっと待て!」
思わずガルシアの地が出た。
「僕も乗ってんだぞ! 殺す気か!」
さらにダッチを見る。
「それに、そんなにうちのメイドを撃つのやめてよ! 僕のロベルタに傷がついたらどうするんだよ!」
その声が届いたのか。
銀色のメルセデスの中で、ロベルタの目が見開かれた。
――若様。
次の瞬間、メルセデスが離れた。
追跡をやめたわけではない。
だが、先ほどまでの無茶な体当たりだけはぴたりと止まった。
「……効いたみたいだな」
ダッチが呟く。
「最初から気づいてよ……」
ガルシアはぐったりと座席へ沈んだ。
*
追跡は港まで続いた。
「……信心深い甲斐もあるもんだ。生きてる奴らは返事しろ」
「なんとか……」
「生きてる……」
「僕も……」
レヴィだけがぐったりしている。
ダッチが周囲を見た。
「……あのメイドはどこ行った?」
メルセデスは大破していた。
だが、その中にロベルタはいない。
前方。
コンテナの間。
そこに、既に彼女は立っていた。
「くそ……あのメイド、一体何でできてやがるんだ……」
「……あのアマはどうなった?」
掠れた声。
レヴィがようやく目を開けた。
「くたばったのか?」
「安心しろ。ちゃんと生きてる」
レヴィの目が変わった。
「そりゃ何よりだ。ご苦労なこった」
車から降りようとする。
「レヴィ、待て!」
ロックが止めようとした瞬間、銃口が向いた。
「今あたしはな、テールランプ並みに真っ赤っかになる直前なんだ」
「レ、レヴィ……」
「それが赤く灯っちまったら最後、てめえのケツ穴を増やすことになっても警告してはやれねえ」
レヴィは肩を回した。
「あたしにぶち込まれた砲弾はな、あのアマにぶち込まれた今までのどんなものよりも一等高くついてんだよ」
唇が歪む。
「それを嫌っていうほど思い知らせてやる」
*
コンテナの谷間。
二人の女が向かい合った。
「抜けよ、セニョリータ。それとも、ブルっちまってるのかい?」
「柄の悪い言葉を並べて、怯えずともよろしゅうございますわよ」
ロベルタは微笑んだ。
「敵わず、若様を人質に取った卑怯者」
銃声。
レヴィが即座に抜いた。
そこから先は戦争だった。
コンテナの隙間を駆け、撃ち、跳び、身を翻す。
レヴィの肩が撃ち抜かれる。
ロベルタの拳銃の一挺が弾丸を受けて吹き飛ぶ。
やがて二人の姿はコンテナの奥へ消えた。
残された者たちには、もう何も見えない。
聞こえるのは銃声だけ。
鉄板に弾丸が跳ねる音。
そして、とうとう爆発音まで混じり始めた。
「……一体どうなってんだ、こりゃ」
ガルシアは息を吐いた。
――そろそろだ。
ここまで来た。
ならば。
車から降りる。
「ロベルタ!」
声を張った。
「レヴィ!」
静寂。
ほんの数秒。
そして再び銃声。
だが今度は、それが近づいてくる。
爆発音も。
銃声も。
どんどんこちらへ近づいてくる。
そして二人が飛び出した。
至近距離。
撃つ。
避ける。
また撃つ。
常人なら一秒も生きていられない距離で、二人だけが互いの弾丸をかわし続ける。
距離が潰れた。
拳。
同時。
レヴィの拳がロベルタの顔面を打ち、ロベルタの拳もレヴィの顔面を捉えた。
二人が倒れる。
それでも銃を離さない。
地面へ落ちながら互いの急所へ銃口を突きつける。
その瞬間だった。
白。
コンテナヤード全体が、昼間のような光に包まれた。
「もう、その辺でやめておいたら? お二人さん」
軍用コート。
その下にはワインレッドのスーツ。
バラライカ。
見回せば、コンテナの上にも、その間にも、武装した兵士たち。
ホテル・モスクワ。
完全に包囲されていた。
「それ以上争っても、お互い一文の得にもならないわよ」
それでもレヴィとロベルタは銃口を下ろさない。
バラライカは小さく息を吐いた。
「私たちホテル・モスクワは、最初からマニサレラ・カルテルと戦争をするつもりでいたの。この土地でのお膳立ては私の役目だったけれど――あなたのおかげで手間が省けたわ」
ロベルタを見る。
「今頃はベネズエラの本拠地も壊滅しているはずよ。これでガルシア君がさらわれた件も含めて、全部チャラ。そういうことでどう?」
ベニーが小声で呟いた。
「地球上で一番おっかない女の上位三人だ」
「グラウンド・ゼロって気分だぜ」
ダッチが続ける。
「関係ねえだろ」
「ですわ」
二人の声が重なった。
「あら、そう」
バラライカが笑った。
「勘違いしないでね。お願いしてるんじゃないの」
一瞬。
「命令」
銃声が二つ。
レヴィとロベルタの手から、同時に拳銃が弾き飛ばされた。
*
――ようやく。
僕は小さく息を吐いた。
ここまで来た。
イエローフラッグから逃げたことも。
あの無茶苦茶なカーチェイスも。
レヴィとロベルタの殺し合いも。
ホテル・モスクワの介入も。
知っている流れに、どうにか戻った。
でも。
僕が欲しかったのは、ここからだ。
バラライカ。
この人との接触。
吉と出るか、凶と出るか。
それは、もう僕にも分からない。
僕はロベルタへ歩いた。
「もういいんだよ、ロベルタ」
「若様……」
「もういいんだ。僕はこの通り、怪我もしてないよ」
そして、できるだけ優しく言った。
「ねえ、もう帰ろう。僕はもう、銃を持ってるロベルタなんて見たくないんだよ」
「あら。同感だわ、坊や」
バラライカが口を挟んだ。
「でも――猟犬の方はどうかしら」
「……猟犬?」
口から勝手に出た。
もちろん知っている。
フローレンシアの猟犬。
その名が誰を指すのかも。
何をしてきた人なのかも。
「おや、坊や。ご存じないのね。こいつは――」
「知ってるよ」
僕が先に言った。
ロベルタの目が、大きく見開かれた。
「…………」
言葉が消えた。
バラライカも、ほんのわずかに眉を上げる。
その隣に立つボリス――軍曹も、初めて僕をはっきりと見た。
子供を見る目ではない。
何者なのかを測る、軍人の目だった。
僕はバラライカへ向き直った。
背筋を伸ばす。
ここからは、ラブレス家の人間として。
「ご挨拶が遅れましたこと、どうかお許しください」
一礼。
「ガルシア・フェルナンド・ラブレスと申します。ラブレス家当主、ディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスの一子にございます」
「このたびは私どもの事情により、貴女ならびにホテル・モスクワの皆様に多大なご足労をおかけいたしましたこと、ラブレス家の者としてお詫び申し上げます」
バラライカはしばらく僕を眺めていた。
やがて、口元を緩める。
「あら。ご丁寧なご挨拶。痛み入るわね、坊や」
少し楽しそうに続ける。
「でもね。私たちみたいなロシアン・マフィア相手に、そんな大層な挨拶は必要ないのよ」
「いいえ」
僕は首を振った。
「少なくとも、僕はそうは思っておりません」
笑みが、ほんの少し薄くなった。
「国こそ違えど、あなた方は祖国のために軍務に就き、その身命を賭して職責を果たされた方々だと承知しております」
ボリスの視線が鋭くなる。
「そのような方々に最大限の敬意をもってご挨拶申し上げることは、当然の礼儀にございます」
バラライカの目が冷えた。
笑っている。
なのに、空気だけが変わった。
「あら……」
ほんの少しだけ、肌が粟立つ。
「一体どこまで知っているの、坊や」
笑みはそのまま。
「危ない子ね。少し――危険だわ」
やっぱり怖い。
でも、ここで退くわけにはいかない。
「昔の記事を拝見したことがございます」
「記事?」
「越境作戦の最中、難民キャンプの子供を救われた軍人の記事です」
わずかな沈黙。
「その時のことを、覚えておりました」
バラライカはしばらく僕を見た。
やがて、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
「……よくそんな昔のことを知っているのね、坊や」
それ以上は追及しなかった。
ただし、目は僕から離れない。
「それで?」
「はい?」
「わざわざ私たちの前まで出てきたのは、ご挨拶をするためだけではないのでしょう?」
見抜かれている。
「私に何の用かしら?」
僕は一度だけ息を整えた。
「ラブレス家とホテル・モスクワとしてではございません」
彼女の目を見る。
「ガルシア・フェルナンド・ラブレス個人として――バラライカさん。あなたと友好を深めたいと思い、そのためのご挨拶に参りました」
「あら」
今度こそ、バラライカは楽しそうに笑った。
「こんな小さな紳士から熱烈なアプローチを受けるなんて。驚いたわね」
だが、次の瞬間には少しだけ顔が締まった。
「それで? あなたのような子供と親しくなって、私に一体何のメリットがあるのかしら」
口元だけが笑う。
「悪いけれど、遊び相手には困ってなくてよ、坊や」
「もちろん、ただお付き合いを願い出るつもりはございません」
「へえ?」
「僕にも、あなたのお役に立てることはあるかと存じます」
「あなたが、私の?」
「はい」
ここから先は、本当に賭けだった。
「たとえば――これから先、価値を持つものを、人より少し早く見つけることには自信がございます」
企業。
株式。
技術。
これから起こる世界の変化。
僕が知っている未来は、使い方次第では莫大な価値になる。
もちろん、全部を一度に見せるつもりはない。
「世の中には、まだ誰もその価値に気づいていないものがございます。企業でも、技術でも、市場でも」
僕は少しだけ笑った。
「そういったものを、ほんの少し早く知ることができるとしたら――僕とお付き合いいただく価値も、少しは生まれませんか?」
「なるほどね」
「少なくとも、麻薬の縄張りを巡って血を流すよりは、安全で――実入りもよろしいかと」
バラライカの目が細くなった。
僕はそこで、少しだけ肩の力を抜いた。
「それと、もう一つ」
「まだあるの?」
「僕の故郷からなら、上等な葉巻にも伝手がございます」
「……葉巻?」
「ええ。もしお付き合いいただけるのでしたら、バラライカさんには定期的に、とびきり上等なものをお送りしますよ。そこらのお店ではまず手に入らないようなものを」
「…………」
バラライカが僕を見る。
「私が葉巻を好むなんて、誰から聞いたのかしら?」
「誰からも」
「じゃあ、どうして?」
「先ほどから、バラライカさんから葉巻の香りがしておりましたので」
一瞬。
彼女が笑った。
「あら、坊や」
少し意地の悪い笑み。
「淑女の香りをそんなに熱心に嗅ぐものではなくてよ。紳士を名乗るなら、そこは少し慎んだ方がよろしくてよ」
「……それは失礼いたしました」
後ろで誰かが吹き出した。
バラライカは小さく肩を揺らすと、隣へ手を出した。
「軍曹。紙とペンを」
「はい」
ボリスから受け取った紙に、何かを書きつける。
そして折り畳み、僕へ差し出した。
「これを」
開く。
電話番号。
「何かあったら、いつでも連絡してきなさい、坊や」
「……ありがとうございます」
賭けには、勝った。
少なくとも。
次に賭ける権利だけは手に入れた。
*
僕はロベルタへ戻った。
さっきから、彼女はずっと黙っていた。
「ロベルタ」
「……若様」
視線が落ちる。
「私は……決して若様を欺くつもりなど……騙すつもりなど、一切ございませんでした」
「もういいよ、ロベルタ」
「しかし――」
「大丈夫。もう全部、大丈夫だから」
僕は彼女を見上げた。
「僕は、ロベルタのすべてを知ってるわけじゃないのかもしれない」
「…………」
「でも、屋敷にいるロベルタを知ってる。一生懸命働いてるロベルタを知ってる」
そして。
「母さんが育てた花を見て、笑ってるロベルタも知ってる」
ロベルタの瞳が揺れた。
「それでいいじゃないか」
「しかし、私は……」
彼女の声が震えた。
「猟犬、番犬と呼ばれ……この手で数多の罪を犯してまいりました。そのような私が、若様のそのようなお優しさを受ける資格など――」
「二度とそんなことを言うな」
自分でも驚くほど強い声が出た。
ロベルタが息を呑む。
「ロベルタは僕の家族だ」
「若様……」
「だから、これ以上、自分で自分をそんなふうに否定するな」
過去は消えない。
僕にだって、それをなかったことにはできない。
でも。
「ロベルタだって、ラブレス家の一部なんだから」
長い沈黙。
ロベルタは何も言わなかった。
ただ、俯いた。
その姿を見ていたバラライカが、静かに息を吐いた。
「――これで一件落着、といったところかしら」
「おい」
レヴィだった。
「こいつらはお涙頂戴のハッピーエンドで、そりゃいいわな」
撃たれた肩を指差す。
「でもよ――あたしの肩に空いてるこのトンネルは、どこの誰が埋め合わせしてくれるんだ? え?」
「我慢したら?」
「姉御よ、そいつは酷ってもんだろ」
レヴィが顔をしかめる。
「あたしらの世界じゃ、落としどころってのが大事だろ。姉御だって百も承知だろうが」
「……まあ、それもそうかもね」
「んなもん簡単じゃねえか」
ダッチが口を挟んだ。
「納得いくまで取っ組み合いでもすりゃいい。獲物なし。それなら死ぬこたぁねえだろ」
「……え?」
僕は耳を疑った。
「ちょっと待って。今、綺麗にまとまりそうだったよね?」
誰も答えない。
「なんでまた蒸し返すの?」
「若様」
「ロベルタ?」
ロベルタが一歩前へ出た。
妙に凛々しい。
「先ほど、若様は仰ってくださいました。私もラブレス家の一部なのだと」
「うん。言ったけど」
「なればこそ――この戦いから逃げるわけにはまいりません」
「…………」
違う。
そういう意味じゃない。
「……いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
「じゃあ、決まりね」
バラライカが楽しそうに手を叩いた。
「お二人とも、思う存分やりなさい」
「決まりじゃないよ……」
*
「おら。ちゃっちゃとかかってこいよ」
レヴィが構える。
ロベルタは静かに彼女を見た。
「靴紐がほどけてますわよ」
「あ?」
レヴィが足元を見た。
瞬間。
ロベルタの拳が下から跳ね上がった。
「ぶっ――!」
完璧なアッパー。
「入った! 入った!」
ロックたちの声が飛ぶ。
バラライカはのんびりと眺めながら、
「若いっていいわね」
と呟いた。
そこから先は壮絶だった。
殴る。
蹴る。
殴り返す。
倒す。
起きる。
また殴る。
最初こそ技術も駆け引きもあった。
だが、次第にそんなものすら消えていった。
意地。
ただそれだけで二人とも立っている。
「どっちに賭ける?」
「俺はレヴィに2を」
「じゃあ僕はロベルタに3を賭ける。ロックはどっちに?」
「いやいやいや! 止めようよ! ねえ、やめさせようよ!」
「どうして?」
「早い! 早すぎるし! あんたたちはイカれてるよ!」
ロックが頭を抱えた。
「いくらなんだって女の子同士でこんな――」
「じゃあ止めてくれば?」
「え?」
「だって嫌なんでしょう?」
「私たちは構わないわよ」
「…………」
ロックは恐る恐る二人へ近づいた。
「あの……二人とも。もういいんじゃないかな?」
拳が飛び交う。
「あとはほら、朝日でも眺めながら、お互いの闘志を讃え合うとか……いろいろ――」
「「すっこんでろ!!」」
「……わかりました」
即座に戻ってきた。
だが。
終わらない。
まったく終わらない。
十分。
二十分。
さらに。
気づけばバラライカの足元には、十本を優に超える吸い殻が転がっていた。
最初は面白そうに見ていた彼女まで、とうとう欠伸混じりに呟く。
「粘るわねぇ……」
煙を吐く。
「飽きてきちゃった」
二人はもう原形が怪しかった。
頬は腫れ、唇は切れ、足元はふらついている。
それでも。
「いい加減に……くたばれ、クソメガネ!」
「お前こそ……早く倒れろ!」
最後の拳。
同時だった。
二つの拳が、それぞれの顔面へめり込む。
二人とも倒れた。
沈黙。
バラライカが煙草をくわえたまま言った。
「はい、ドロー」
*
「ロベルタ!」
僕は駆け寄った。
倒れたロベルタの頭を抱え、自分の膝へ乗せる。
ハンカチを取り出した。
頬についた血を、そっと拭う。
「若様……申し訳……ございません……」
「喋らないで」
傷に触れないように、ゆっくり。
「最後まで立ってたのはロベルタだ」
僕は笑った。
「だから、大丈夫だよ」
少し離れたところでは。
「よいしょ」
「……ひでえ顔だな」
「気絶してるぞ、こいつ」
ダッチたちがレヴィを囲んでゲラゲラ笑っていた。
……扱いの差がひどい。
僕はロベルタの腕を自分の肩へ回した。
「ほら、つかまって。ロベルタ」
「若様……?」
力を入れる。
重い。
当然だ。
それでも、僕はロベルタを担ぎ上げた。
「手伝おうか、坊っちゃん?」
ダッチが言う。
「ほっといてくれ」
「おいおい」
「ロベルタはうちのメイドだ。だから人の手なんか借りないよ」
足に力を入れ直す。
「必ず僕が連れて帰る」
「あら」
バラライカが感心したように笑った。
「さすがは次期当主様」
そして、すぐに表情を変える。
「同志軍曹」
「はい」
「手当てを済ませたら、二人を空港まで送ってやりなさい。カルテル残党の襲撃があった場合は、任意に反撃を許可する」
「了解」
「若様……」
背中からロベルタの弱い声がした。
「一つ、お願いが――」
「これでしょ?」
僕はポケットから眼鏡を取り出した。
戦いの最中に落ちていたものを拾っておいた。
ロベルタが目を見開く。
僕はそれを彼女へ渡した。
「なくしたら困るだろ?」
「……ありがとうございます、若様」
*
ホテル・モスクワの車に護衛されながら、空港へ向かった。
窓の外では、ロアナプラの街が少しずつ遠ざかっていく。
三週間。
たった三週間。
でも、僕にとってはもう「原作の登場人物」と呼ぶには長すぎた。
レヴィ。
ロック。
ダッチ。
ベニー。
本来なら誘拐犯と人質だったはずなのに。
レヴィには銃を教えてもらった。
ベニーにはコンピューターを教えてもらった。
ダッチには運転を教えてもらった。
ロックとは、たくさん話をした。
馬鹿なこともした。
危ない目にも遭った。
そして。
ロベルタ。
僕は今日、初めて彼女に伝えた。
知っている、と。
彼女が最も知られたくなかったことを、僕はずっと前から知っていた。
それでも。
何も変わらなかった。
いや。
少しだけ、変わったのかもしれない。
ロベルタは僕のメイドだ。
そして。
僕の家族だ。
それでいい。
僕はポケットへ手を入れた。
指先に紙が触れる。
取り出す。
そこには、一つの電話番号。
バラライカ。
今回、僕がわざわざ原作の流れに乗った理由。
本来ならロベルタに発見された時点で、僕は彼女と帰ればよかった。
でも、そうしなかった。
逃げた。
追わせた。
原作通りの場所まで来た。
そして今日。
本来なら交わるはずのなかった線を、僕は自分の手で一本繋いだ。
これまでは、知っている道だった。
どこで曲がるのか。
その先に誰がいるのか。
何が起こるのか。
僕は知っていた。
でも。
ここから先は違う。
僕は紙を折り、もう一度ポケットへしまった。
この縁が吉と出るか。
凶と出るか。
それはもう――
僕の知っている『BLACK LAGOON』には、書かれていない。