BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

2 / 33
第二話

第二話 父と子

 

「坊ちゃま。廊下を走らないでください」

 

背後から飛んできた声に、俺は足を緩めなかった。

 

「父上を待たせたくないんだ」

 

「旦那様は、その程度でお怒りになる方ではございません」

 

「分かってる。でも――」

 

「それと、転びます」

 

「さすがに転ばな――」

 

足先が絨毯に引っかかった。

 

身体が前へ傾く。

 

咄嗟に一歩踏み込み、それでも殺しきれなかった勢いを腕と肩へ逃がす。そのまま床を転がって、片膝をついた。

 

痛い。

 

しばらく、その姿勢のまま動かなかった。

 

後ろを見る必要はない。

 

分かる。

 

ものすごく見られている。

 

「……今のは転んだうちに入る?」

 

「入ります」

 

即答だった。

 

「受け身は取れたけど」

 

「転ばなければ、受け身を取る必要もございません」

 

正論である。

 

振り返ると、ロベルタがこちらを見下ろしていた。

 

怒っているわけではない。

 

だから余計に逃げ場がない。

 

「怪我はないよ」

 

「膝を」

 

「本当に大丈夫だから」

 

「坊ちゃま」

 

「……はい」

 

差し出した。

 

ロベルタが膝を確認する。

 

ほんの少し擦っただけだった。

 

俺なら放っておく程度だ。

 

ロベルタはそう思わなかったらしい。

 

「消毒いたします」

 

「これくらいなら――」

 

視線が合った。

 

「……お願いします」

 

最初からこうしておけばよかった。

 

⸻

 

父上の執務室を訪ねたのは、それから十分ほど後だった。

 

「失礼します」

 

「入りなさい」

 

扉を開ける。

 

父上――ディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスは、机いっぱいに広げた書類から顔を上げた。

 

俺の姿を見る。

 

正確には、俺の膝を見る。

 

「またロベルタに叱られたのか」

 

「……なぜご存じなんです?」

 

「顔を見れば分かる」

 

ロベルタじゃなかった。

 

俺は少しだけ傷ついた。

 

そんなに分かりやすいのだろうか。

 

父上が笑う。

 

「座りなさい」

 

「はい」

 

向かいの椅子へ腰掛ける。

 

昔から使われている執務室だった。

 

ただ、以前とは少し様子が違う。

 

机に積まれた書類が増えた。

 

壁際の棚にも新しい帳簿が並んでいる。

 

父上の仕事そのものが増えているからだ。

 

――良い意味で。

 

「それで?」

 

父上がペンを置いた。

 

「今日は何を持ってきた?」

 

俺は抱えていた資料を机へ置いた。

 

父上が一枚目を見る。

 

数秒後。

 

小さく息を吐いた。

 

「また投資か」

 

「はい」

 

「お前は本当にこれが好きだな」

 

「嫌いではありません」

 

嘘ではない。

 

最初は必要に迫られて始めた。

 

ラブレス家には金がいる。

 

これから先に起こることを知っている以上、備えられるものには備えておきたかった。

 

そのために、前世の知識を使った。

 

最初は小さく。

 

俺が知っている企業。

 

これから伸びる産業。

 

需要が増えるもの。

 

記憶が曖昧なものには手を出さない。

 

確信できるものだけを選んだ。

 

そして何より、一度にやりすぎない。

 

未来を知っているからといって、未来の知識を説明することはできないのだから。

 

父上が資料をめくる。

 

「聞いたことのない会社だな」

 

「まだ小さいですから」

 

「何を作っている?」

 

説明する。

 

会社の事業。

 

現在の市場。

 

競合。

 

俺なりに考えた、今後の需要。

 

未来を知っている。

 

だから答えを知っている。

 

だが、答えだけを出すわけにはいかない。

 

未来の知識を、今存在する材料だけで説明できる形へ組み直す。

 

この数年で身につけた癖だった。

 

父上は途中で何度か質問した。

 

俺も答える。

 

すぐに答えられないものについては、分からないと答えた。

 

一通り聞き終えると、父上は椅子へ深く腰掛けた。

 

「なるほど」

 

「どうでしょう」

 

「悪くない」

 

それだけ言って、もう一度資料を見る。

 

「ただ、お前の予測通りになる保証はない」

 

「もちろんです」

 

「なら、なぜここまで推す?」

 

この質問が一番難しい。

 

本当の理由なら簡単だ。

 

知っているから。

 

この会社が将来どうなるのかを。

 

だが、それは言えない。

 

「……最終的には、勘です」

 

父上が顔を上げた。

 

「また勘か」

 

「はい」

 

「随分と都合のいい勘だな」

 

「今のところは」

 

父上が笑った。

 

俺も少し笑う。

 

以前なら、この話はここで終わっていた。

 

子供の思いつき。

 

そう扱われて当然だった。

 

最初の頃は、資料を最後まで読んでもらうことすら難しかった。

 

だから調べた。

 

数字を集めた。

 

理由を考えた。

 

そして結果を出した。

 

一度。

 

二度。

 

それでも偶然と言われた。

 

さらに何度か。

 

ようやく父上は、俺の話を最後まで聞いてくれるようになった。

 

今ではこうして、同じ机を挟んで議論してくれる。

 

それが、少し嬉しい。

 

父上が資料を閉じた。

 

「分かった。私の方でも調べさせよう」

 

思わず顔が上がった。

 

「では」

 

「まだ投資するとは言っていない」

 

釘を刺された。

 

「分かっています」

 

「本当か?」

 

「……かなり期待はしています」

 

「正直でよろしい」

 

父上が笑った。

 

その顔を見て、俺も笑った。

 

以前より、父上が笑うことは増えたと思う。

 

ラブレス家の財政には、少しずつ余裕が生まれていた。

 

使用人に支払う給与。

 

屋敷の修繕。

 

農園への設備投資。

 

小さな変化ばかりだ。

 

けれど、それでいい。

 

一夜にして大富豪になる必要なんてない。

 

必要なのは、この家を少しずつ強くすることだった。

 

俺が知っている未来が訪れた時。

 

簡単には壊れない程度に。

 

「ガルシア」

 

考え込んでいた俺を、父上の声が呼び戻した。

 

「はい」

 

「お前は最近、随分と先のことを考えるようになったな」

 

心臓が一つ跳ねた。

 

「そうでしょうか」

 

「ああ」

 

父上は俺を見る。

 

「まるで、何かに追われているように見える時がある」

 

何も答えられなかった。

 

この人は、時々鋭い。

 

俺が黙っていると、父上はそれ以上追及しなかった。

 

代わりに、少し困ったように笑った。

 

「急ぐな」

 

「……え?」

 

「家のことを考えてくれるのは嬉しい。だが、お前がすべて背負う必要はない」

 

穏やかな声だった。

 

「まだ私がいる」

 

胸の奥に、何かが刺さった。

 

――まだ。

 

父上にそんな意味はない。

 

当然だ。

 

未来を知らないのだから。

 

「はい」

 

それしか言えなかった。

 

父上は満足したように頷き、再び資料を開いた。

 

俺はその横顔を見つめた。

 

知っている。

 

この人を失う未来を。

 

だからこそ、ここまでやってきた。

 

なのに時々思う。

 

未来を知らない父上の方が、俺よりずっと落ち着いている。

 

「では、この件はこちらで調べておこう」

 

「お願いします」

 

立ち上がる。

 

「ガルシア」

 

扉へ向かいかけて振り返った。

 

「はい?」

 

「次からは走らずに来なさい」

 

「……ロベルタから聞いてるじゃないですか」

 

父上が声を上げて笑った。

 

⸻

 

執務室を出ると、少し先の廊下にロベルタがいた。

 

壁際に立ち、こちらを見ている。

 

偶然を装う気すらないらしい。

 

「待ってた?」

 

「たまたまでございます」

 

「そういうことにしておくよ」

 

隣まで来ると、自然に二人で歩き始めた。

 

「旦那様とのお話はいかがでしたか?」

 

「とりあえず調べてくれるって」

 

「それは何よりでございました」

 

「まだ決まったわけじゃないけどね」

 

ロベルタは微笑んだ。

 

「旦那様が坊ちゃまのお話を真剣に聞いてくださることが、私は嬉しいのです」

 

その言い方が妙にロベルタらしくて、俺も笑った。

 

窓の外へ目を向ける。

 

庭では使用人たちが働いていた。

 

以前より人数が増えた。

 

荒れていた場所も随分と整備された。

 

遠くには農園が広がっている。

 

少しずつ。

 

本当に少しずつだが。

 

ラブレス家は変わっている。

 

俺が知っている原作のラブレス家とは、すでに少し違う。

 

その事実は、何より心強かった。

 

ふと、庭の一角が騒がしいことに気づいた。

 

荷馬車のそばで、二人の使用人が大きな木箱を降ろそうとしている。

 

かなり重いらしい。

 

一度持ち上げかけて、また荷台へ戻した。

 

「少々お待ちください」

 

ロベルタがそう言って庭へ下りていった。

 

使用人たちと言葉を交わす。

 

そして。

 

木箱の下へ片手を入れた。

 

持ち上げた。

 

それだけだった。

 

何の予備動作もない。

 

成人男性二人が苦労していた木箱が、まるで中身が空であるかのように持ち上がる。

 

そのまま指定された場所まで運んでいった。

 

使用人たちも、礼こそ言うが驚いてはいない。

 

見慣れているらしい。

 

俺も見慣れている。

 

――見慣れてはいるのだが。

 

「相変わらず、とんでもないな……」

 

思わず呟いた。

 

やがてロベルタが戻ってくる。

 

呼吸一つ乱れていない。

 

「お待たせいたしました」

 

「いや」

 

思わず腕を見る。

 

細い。

 

あの腕のどこに、そんな力が入っているんだ。

 

「どうかされましたか?」

 

「ロベルタはすごいなと思って」

 

「私が、ですか?」

 

「男二人で持てなかったものを片手で運んでたけど」

 

「少々重いだけでございました」

 

少々。

 

基準がおかしい。

 

だが、これがロベルタ・シスネロスという人間だった。

 

父上から彼女の過去を詳しく聞いたことはない。

 

本人も話さない。

 

本来なら、俺が知るはずのないことだ。

 

それでも俺は知っている。

 

その手が銃を握っていたことを。

 

戦場で人を殺していたことを。

 

《フローレンシアの猟犬》と呼ばれていたことを。

 

そして。

 

一度大切なものを奪われれば、この優しい人が再びその世界へ戻ってしまうことも。

 

ロベルタが不思議そうにこちらを見ている。

 

その手を見る。

 

今は銃を持っていない。

 

メイドの白い手袋に包まれている。

 

それでいい。

 

それがいい。

 

「坊ちゃま?」

 

「……なんでもない」

 

俺は歩き出した。

 

ロベルタも隣についてくる。

 

父上の言葉が、まだ頭に残っていた。

 

――まだ私がいる。

 

当然だ。

 

今はいる。

 

ロベルタもいる。

 

屋敷には使用人たちの声がしている。

 

ラブレス家も、以前よりずっと安定している。

 

俺がしてきたことは無駄ではない。

 

実際に未来は変わり始めている。

 

なら。

 

もっと変えればいい。

 

知っている未来が来るまでに。

 

それに耐えられるだけのものを作ればいい。

 

そうすれば父上は死なない。

 

ロベルタも戦場へ戻らない。

 

俺がロアナプラへ連れ去られることもない。

 

すべて、避けられる。

 

そのはずだった。

 

俺は未来を知っている。

 

そしてすでに、その未来を少しずつ変えることにも成功していた。

 

だからこの時の俺には、まだ分からなかった。

 

未来を変えることと。

 

未来を知っていることは。

 

同じではないということが。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。