BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二話 父と子
「坊ちゃま。廊下を走らないでください」
背後から飛んできた声に、俺は足を緩めなかった。
「父上を待たせたくないんだ」
「旦那様は、その程度でお怒りになる方ではございません」
「分かってる。でも――」
「それと、転びます」
「さすがに転ばな――」
足先が絨毯に引っかかった。
身体が前へ傾く。
咄嗟に一歩踏み込み、それでも殺しきれなかった勢いを腕と肩へ逃がす。そのまま床を転がって、片膝をついた。
痛い。
しばらく、その姿勢のまま動かなかった。
後ろを見る必要はない。
分かる。
ものすごく見られている。
「……今のは転んだうちに入る?」
「入ります」
即答だった。
「受け身は取れたけど」
「転ばなければ、受け身を取る必要もございません」
正論である。
振り返ると、ロベルタがこちらを見下ろしていた。
怒っているわけではない。
だから余計に逃げ場がない。
「怪我はないよ」
「膝を」
「本当に大丈夫だから」
「坊ちゃま」
「……はい」
差し出した。
ロベルタが膝を確認する。
ほんの少し擦っただけだった。
俺なら放っておく程度だ。
ロベルタはそう思わなかったらしい。
「消毒いたします」
「これくらいなら――」
視線が合った。
「……お願いします」
最初からこうしておけばよかった。
⸻
父上の執務室を訪ねたのは、それから十分ほど後だった。
「失礼します」
「入りなさい」
扉を開ける。
父上――ディエゴ・ホセ・サン・フェルナンド・ラブレスは、机いっぱいに広げた書類から顔を上げた。
俺の姿を見る。
正確には、俺の膝を見る。
「またロベルタに叱られたのか」
「……なぜご存じなんです?」
「顔を見れば分かる」
ロベルタじゃなかった。
俺は少しだけ傷ついた。
そんなに分かりやすいのだろうか。
父上が笑う。
「座りなさい」
「はい」
向かいの椅子へ腰掛ける。
昔から使われている執務室だった。
ただ、以前とは少し様子が違う。
机に積まれた書類が増えた。
壁際の棚にも新しい帳簿が並んでいる。
父上の仕事そのものが増えているからだ。
――良い意味で。
「それで?」
父上がペンを置いた。
「今日は何を持ってきた?」
俺は抱えていた資料を机へ置いた。
父上が一枚目を見る。
数秒後。
小さく息を吐いた。
「また投資か」
「はい」
「お前は本当にこれが好きだな」
「嫌いではありません」
嘘ではない。
最初は必要に迫られて始めた。
ラブレス家には金がいる。
これから先に起こることを知っている以上、備えられるものには備えておきたかった。
そのために、前世の知識を使った。
最初は小さく。
俺が知っている企業。
これから伸びる産業。
需要が増えるもの。
記憶が曖昧なものには手を出さない。
確信できるものだけを選んだ。
そして何より、一度にやりすぎない。
未来を知っているからといって、未来の知識を説明することはできないのだから。
父上が資料をめくる。
「聞いたことのない会社だな」
「まだ小さいですから」
「何を作っている?」
説明する。
会社の事業。
現在の市場。
競合。
俺なりに考えた、今後の需要。
未来を知っている。
だから答えを知っている。
だが、答えだけを出すわけにはいかない。
未来の知識を、今存在する材料だけで説明できる形へ組み直す。
この数年で身につけた癖だった。
父上は途中で何度か質問した。
俺も答える。
すぐに答えられないものについては、分からないと答えた。
一通り聞き終えると、父上は椅子へ深く腰掛けた。
「なるほど」
「どうでしょう」
「悪くない」
それだけ言って、もう一度資料を見る。
「ただ、お前の予測通りになる保証はない」
「もちろんです」
「なら、なぜここまで推す?」
この質問が一番難しい。
本当の理由なら簡単だ。
知っているから。
この会社が将来どうなるのかを。
だが、それは言えない。
「……最終的には、勘です」
父上が顔を上げた。
「また勘か」
「はい」
「随分と都合のいい勘だな」
「今のところは」
父上が笑った。
俺も少し笑う。
以前なら、この話はここで終わっていた。
子供の思いつき。
そう扱われて当然だった。
最初の頃は、資料を最後まで読んでもらうことすら難しかった。
だから調べた。
数字を集めた。
理由を考えた。
そして結果を出した。
一度。
二度。
それでも偶然と言われた。
さらに何度か。
ようやく父上は、俺の話を最後まで聞いてくれるようになった。
今ではこうして、同じ机を挟んで議論してくれる。
それが、少し嬉しい。
父上が資料を閉じた。
「分かった。私の方でも調べさせよう」
思わず顔が上がった。
「では」
「まだ投資するとは言っていない」
釘を刺された。
「分かっています」
「本当か?」
「……かなり期待はしています」
「正直でよろしい」
父上が笑った。
その顔を見て、俺も笑った。
以前より、父上が笑うことは増えたと思う。
ラブレス家の財政には、少しずつ余裕が生まれていた。
使用人に支払う給与。
屋敷の修繕。
農園への設備投資。
小さな変化ばかりだ。
けれど、それでいい。
一夜にして大富豪になる必要なんてない。
必要なのは、この家を少しずつ強くすることだった。
俺が知っている未来が訪れた時。
簡単には壊れない程度に。
「ガルシア」
考え込んでいた俺を、父上の声が呼び戻した。
「はい」
「お前は最近、随分と先のことを考えるようになったな」
心臓が一つ跳ねた。
「そうでしょうか」
「ああ」
父上は俺を見る。
「まるで、何かに追われているように見える時がある」
何も答えられなかった。
この人は、時々鋭い。
俺が黙っていると、父上はそれ以上追及しなかった。
代わりに、少し困ったように笑った。
「急ぐな」
「……え?」
「家のことを考えてくれるのは嬉しい。だが、お前がすべて背負う必要はない」
穏やかな声だった。
「まだ私がいる」
胸の奥に、何かが刺さった。
――まだ。
父上にそんな意味はない。
当然だ。
未来を知らないのだから。
「はい」
それしか言えなかった。
父上は満足したように頷き、再び資料を開いた。
俺はその横顔を見つめた。
知っている。
この人を失う未来を。
だからこそ、ここまでやってきた。
なのに時々思う。
未来を知らない父上の方が、俺よりずっと落ち着いている。
「では、この件はこちらで調べておこう」
「お願いします」
立ち上がる。
「ガルシア」
扉へ向かいかけて振り返った。
「はい?」
「次からは走らずに来なさい」
「……ロベルタから聞いてるじゃないですか」
父上が声を上げて笑った。
⸻
執務室を出ると、少し先の廊下にロベルタがいた。
壁際に立ち、こちらを見ている。
偶然を装う気すらないらしい。
「待ってた?」
「たまたまでございます」
「そういうことにしておくよ」
隣まで来ると、自然に二人で歩き始めた。
「旦那様とのお話はいかがでしたか?」
「とりあえず調べてくれるって」
「それは何よりでございました」
「まだ決まったわけじゃないけどね」
ロベルタは微笑んだ。
「旦那様が坊ちゃまのお話を真剣に聞いてくださることが、私は嬉しいのです」
その言い方が妙にロベルタらしくて、俺も笑った。
窓の外へ目を向ける。
庭では使用人たちが働いていた。
以前より人数が増えた。
荒れていた場所も随分と整備された。
遠くには農園が広がっている。
少しずつ。
本当に少しずつだが。
ラブレス家は変わっている。
俺が知っている原作のラブレス家とは、すでに少し違う。
その事実は、何より心強かった。
ふと、庭の一角が騒がしいことに気づいた。
荷馬車のそばで、二人の使用人が大きな木箱を降ろそうとしている。
かなり重いらしい。
一度持ち上げかけて、また荷台へ戻した。
「少々お待ちください」
ロベルタがそう言って庭へ下りていった。
使用人たちと言葉を交わす。
そして。
木箱の下へ片手を入れた。
持ち上げた。
それだけだった。
何の予備動作もない。
成人男性二人が苦労していた木箱が、まるで中身が空であるかのように持ち上がる。
そのまま指定された場所まで運んでいった。
使用人たちも、礼こそ言うが驚いてはいない。
見慣れているらしい。
俺も見慣れている。
――見慣れてはいるのだが。
「相変わらず、とんでもないな……」
思わず呟いた。
やがてロベルタが戻ってくる。
呼吸一つ乱れていない。
「お待たせいたしました」
「いや」
思わず腕を見る。
細い。
あの腕のどこに、そんな力が入っているんだ。
「どうかされましたか?」
「ロベルタはすごいなと思って」
「私が、ですか?」
「男二人で持てなかったものを片手で運んでたけど」
「少々重いだけでございました」
少々。
基準がおかしい。
だが、これがロベルタ・シスネロスという人間だった。
父上から彼女の過去を詳しく聞いたことはない。
本人も話さない。
本来なら、俺が知るはずのないことだ。
それでも俺は知っている。
その手が銃を握っていたことを。
戦場で人を殺していたことを。
《フローレンシアの猟犬》と呼ばれていたことを。
そして。
一度大切なものを奪われれば、この優しい人が再びその世界へ戻ってしまうことも。
ロベルタが不思議そうにこちらを見ている。
その手を見る。
今は銃を持っていない。
メイドの白い手袋に包まれている。
それでいい。
それがいい。
「坊ちゃま?」
「……なんでもない」
俺は歩き出した。
ロベルタも隣についてくる。
父上の言葉が、まだ頭に残っていた。
――まだ私がいる。
当然だ。
今はいる。
ロベルタもいる。
屋敷には使用人たちの声がしている。
ラブレス家も、以前よりずっと安定している。
俺がしてきたことは無駄ではない。
実際に未来は変わり始めている。
なら。
もっと変えればいい。
知っている未来が来るまでに。
それに耐えられるだけのものを作ればいい。
そうすれば父上は死なない。
ロベルタも戦場へ戻らない。
俺がロアナプラへ連れ去られることもない。
すべて、避けられる。
そのはずだった。
俺は未来を知っている。
そしてすでに、その未来を少しずつ変えることにも成功していた。
だからこの時の俺には、まだ分からなかった。
未来を変えることと。
未来を知っていることは。
同じではないということが。