BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
「十四年分の食欲」
「ということで、やってまいりました日本!」
「……どなたにおっしゃっているのですか、若様?」
「気分だよ、気分!」
「左様でございますか」
ロベルタはいつものように澄ました顔で頷いた。
いや、違う。もう少しこう、何かないのか。せっかくの日本上陸だぞ?
ともあれ、日本である。
日本!
十四年ぶりの日本だ!
俺は到着ロビーで大きく息を吸い込んだ。
「ああ……この匂い!」
「匂い、でございますか?」
「うん。日本の匂いだよ」
「……若様は、日本にいらっしゃるのは初めてでは?」
「…………」
しまった。
「ほら、国によって空港の匂いって違うだろ? タイは湿気が強いし、日本は空調とか床のワックスとか、そういうのが混ざった匂いがするんだよ」
「なるほど」
ロベルタは少し考え、それから控えめに鼻を動かした。
「……私には、普通の空港の匂いとしか感じられませんが」
「風情がないなあ」
「申し訳ございません」
「いや、謝ることじゃないから!」
まったく、この人は。
それにしても、懐かしい。
耳に飛び込んでくる日本語の案内放送。行き交う人々の会話。見慣れた漢字の看板。
俺の記憶にある日本とは少し違う。何しろ今は一九九〇年代の半ばだ。俺が知っている日本より、ずっと昔の日本である。
それでも、やっぱり落ち着く。
「では若様、まずはホテルへ向かいましょう」
ロベルタが出口の方へ視線を向けた。
「何言ってるんだ、ロベルタ」
「……はい?」
「僕たちの日本旅行は、たったの三泊四日しかないんだぞ」
「はい。承知しております」
「そして、その貴重な時間は、もうすでに始まっている!」
「……はい」
「つまり、ホテルでのんびりしている場合じゃない!」
「ですが、お荷物もございますし――」
「先に預ければいい。もっと大事な用事があるだろう!」
「……どちらでございましょうか?」
俺は胸を張った。
「築地だよ!」
「……ツキジ?」
「そう! 築地!」
「そちらには何が?」
「寿司だ!」
「…………」
「寿司があるんだよ、ロベルタ!」
「……お寿司、でございますか」
ロベルタは少し考えたあと、静かに口を開いた。
「若様。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「旦那様には、日本経済の視察とご説明なさっていたように記憶しておりますが……」
「もちろん、そのつもりだよ」
「では、なぜお寿司なのでしょうか?」
「甘いな、ロベルタ」
「……はい?」
「築地市場は日本の水産物流通を支える重要な拠点なんだ。全国から集まる魚介類、仲卸業者、価格形成。日本の食文化と流通経済を理解するには、これ以上ない場所だよ」
「なるほど……」
「そして、その流通の最終地点にあるのが寿司屋というわけさ」
「……つまり?」
「立派な経済視察だよ!」
完璧だ。我ながら隙のない理論武装である。
「確かに、現地の食文化を知ることも勉強の一環でございますね」
「そういうこと!」
よし。これで父上にも胸を張って報告できる。
日本の流通経済を調査しました、と。
……寿司を食べるだけだけど。
* * *
築地に到着した俺は、思わず声を上げた。
「おおお……!」
威勢のいい掛け声。忙しなく行き交う人々。魚の匂いと、どこからか漂ってくる出汁の香り。
「すごいなあ!」
「大変な賑わいでございますね」
「これが日本の台所だよ、ロベルタ!」
「先ほどから随分とお詳しいですね」
「まあね!」
危ない。調子に乗ると余計なことを喋りそうだ。
俺たちは場外の通りを歩きながら、店を物色した。
せっかくなら昔ながらの寿司屋がいい。派手な看板も豪華な内装もいらない。年季の入った暖簾と、腕のいい職人がいれば十分だ。
やがて、路地の一角に小さな店を見つけた。
色褪せた紺色の暖簾。使い込まれた木の引き戸。いかにも長年営業していそうな店構えだ。
「……ここだな」
「こちらでございますか?」
「うん。こういう店がいいんだよ」
「何か理由が?」
「勘!」
「……左様でございますか」
暖簾をくぐる。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声が飛んできた。カウンターの向こうには、白衣を着た年配の大将。
「二人です!」
「おう、好きなとこ座んな!」
日本語で応じた俺を、ロベルタがちらりと見た。
「……若様、日本語がお上手ですね」
「言っただろ? 日常会話くらいできるって」
「発音も大変自然でございます」
「そ、そう?」
しまった。うっかり普通に喋ってしまった。
俺たちはカウンターに並んで腰を下ろした。目の前のガラスケースには、見るからに新鮮な魚介類が並んでいる。
ああ、素晴らしい。この光景だけで白米三杯はいけそうだ。
「ロベルタ、何食べたい?」
「私は若様にお任せいたします」
「何でもいいの?」
「はい」
「よし」
俺は大将に向き直り、日本語で注文した。
「大将! まずは玉子を二つお願いします!」
「あいよ!」
ロベルタは注文の内容が分からないまま、興味深そうに大将の手元を眺めている。
ほどなくして、目の前に玉子の握りが置かれた。
「へい、お待ち!」
「おお!」
「……若様?」
「ん?」
「こちらは……卵でございますか?」
「うん。玉子の握りだよ」
「お寿司というのは、お魚をいただくものではないのですか?」
俺はゆっくりとロベルタを見た。そして静かに首を振る。
「甘いな、ロベルタ」
「……甘い、でございますか?」
「いいかい。本当にうまい寿司屋というのは、玉子とガリがうまいんだよ」
「ガリ……?」
「生姜の甘酢漬け。そこに置いてあるやつ」
ロベルタが小皿に盛られたガリへ目を向けた。
「玉子は出汁の加減、甘み、焼き方。ガリは酢の塩梅と生姜の風味。こういう脇役にこそ、店の仕事が表れるんだ」
「なるほど……!」
よし。ここからが本番だ。
「それにね、ロベルタ。寿司というものは食べる順番も重要なんだよ」
「順番、でございますか?」
「まずは平目や鯛みたいな淡泊な白身から始める。次に貝類、赤身。最後に脂の乗った中トロや大トロへ進むんだ。途中でガリを挟めば、次の一貫の味もよく分かる」
「なんと奥深い……!」
ロベルタが真剣な顔で聞き入っている。
うむ。実にいい生徒だ。
「つまり寿司とは、一貫一貫の味を組み立て、全体の流れを楽しむものなんだよ」
「勉強になります、若様」
「ふふん」
我ながら、なかなか決まったのではなかろうか。まるで昔読んだグルメ漫画の主人公になった気分だ。
俺は玉子を一貫つまみ、ゆっくりと口へ運んだ。
ふんわりとした食感。出汁の香りが広がり、ほどよい甘みが後から追いかけてくる。
「……ほう」
思わず目を細めた。
そして大将に向き直り、日本語で告げる。
「これは……いい仕事をしてますね」
「そりゃどうも」
大将が笑う。
「大将、次は平目をお願いします」
「あいよ!」
ロベルタも玉子を口に運び、小さく目を見開いた。
「……まあ。とても美味しゅうございます」
「だろう?」
「はい。ふんわりとしていて、優しいお味ですね」
「そうそう! その優しさが大事なんだよ!」
「若様は本当に博識でいらっしゃいますね。いつ、そのような知識を身につけられたのでございますか?」
「…………」
まずい。
「……本だよ。本。日本の食文化について書かれた本をね」
「それほどまでに研究なさっていたとは……」
「ま、まあね!」
危ない危ない。
俺はお茶を一口飲み、何事もなかったように大将へ向き直った。
「さて、大将。平目の次は鯛を――」
「坊ちゃん」
「はい?」
大将が笑いを堪えながら口を開いた。
「さっきから随分と難しい顔して食べてるけどさ。寿司なんて、好きなもんから食べりゃいいんだよ」
「…………」
どうやら、俺の気取った態度は全部見られていたらしい。
俺は静かに湯呑みを置いた。
「……それもまた、一つの流儀ですね」
「はっはっは! 違いねえ!」
大将が豪快に笑う。
ロベルタは会話の意味が分からず、俺と大将を交互に見た。
「若様、何のお話を?」
「……好きなものを好きな順番で食べるのが一番だって」
「まあ。それは素敵なお考えですね」
「…………そうだね」
今までの講釈は何だったんだ。
「でもまあ、坊ちゃん、寿司が好きなんだな」
大将の言葉に、俺は日本語で即答した。
「はい! 大好きです!」
「そいつは嬉しいねえ。じゃあ、うまいもん握ってやるよ」
「お願いします!」
それからは大将に任せて、次々と出される寿司を堪能した。
平目に鯛、赤貝、鮪の赤身。そして待ちに待った中トロ。
「うまっ!」
「若様、先ほどまでのご講釈は……」
「今は食べることに集中してるんだよ!」
「左様でございますか」
ロベルタも楽しそうに寿司を口へ運んでいた。
十四年ぶりの日本の寿司。
ああ。生きててよかった。
* * *
「いやあ、食べた食べた!」
寿司屋の暖簾をくぐり、俺は満足げに腹をさすった。
「ご満足いただけたようで何よりでございます」
「うん! 大満足!」
「それでは若様、そろそろホテルへ向かいましょうか」
「よし! 次はラーメンだ!」
「…………はい?」
「ラーメン! 日本に来たら食べておかないと!」
「ですが若様、つい先ほどお寿司を召し上がったばかりでは……」
「甘いな、ロベルタ」
「……またでございますか」
「僕たちが日本にいられるのは、たったの三泊四日なんだ。一食たりとも無駄にはできない!」
「……はい?」
「寿司、ラーメン、天ぷら、蕎麦、うどん、焼肉、すき焼き、お好み焼き、たこ焼き……!」
指を折りながら数えていく。
まずい。全然足りない。
「若様、まさか……」
「ロベルタ」
俺は彼女の肩にそっと手を置き、厳かに告げた。
「いいか。日本を出るときまで、今みたいなスリムな体型を保てると思うなよ」
「…………」
ロベルタが固まった。
「……それは、どういう意味でございましょうか」
「太る覚悟を決めろってことだよ」
「なっ……!」
珍しくロベルタが絶句した。
「わ、若様! 私はそのような覚悟を決めた記憶はございません!」
「大丈夫。僕も一緒に太るから」
「そういう問題ではございません!」
「安心して。帰ったら一緒に運動しよう」
「ですから!」
俺はロベルタの手を引き、意気揚々と歩き出した。
「さあ、行こう! 次はラーメンだ!」
「若様! せめて少しお腹を休めてからにいたしましょう!」
「時間は待ってくれないんだよ、ロベルタ!」
「お腹は待ってくれます!」
……なるほど。それは確かに正論だった。
だが残念ながら、十四年分の食欲に正論など通用しないのである。
* * *
次に向かったのは、評判の豚骨ラーメン店だった。
入口には行列ができている。
「おお、並んでる並んでる!」
「……随分と嬉しそうでございますね」
「行列は人気の証だからね!」
「では、並びましょうか」
「うん!」
もっとも、三十分ほど経った頃には、さすがの俺も少し後悔し始めていた。
腹が減らない。
当たり前である。
ようやく席に着き、俺は店員に日本語で二人分のラーメンを注文した。
「お待たせしました! 豚骨ラーメン二つです!」
目の前に置かれた丼から、白い湯気が立ち上る。
乳白色のスープ。細いストレート麺。薄く切られたチャーシュー。そして豚骨特有の濃厚な香り。
「おお……!」
「こちらが日本のラーメンでございますか」
「そう! それじゃ、いただきます!」
まずはレンゲでスープを一口。
「…………ほう」
「若様?」
「なるほど……そう来たか」
「……何がでございましょう?」
「豚骨の旨みがしっかり出ている。それでいて後味は意外なほどすっきりしているんだ。濃厚なのに、くどくない」
ロベルタもスープを口に運ぶ。
「……本当ですね。とても深いお味です」
「だろう?」
続いて麺をすする。
ああ、これだ。この細麺がいい。
「うん! 麺の歯切れもいい! スープとの相性も抜群だ!」
「若様、本当に美味しそうに召し上がりますね」
「そりゃあもう!」
さらにチャーシューを口に運ぶ。
柔らかい。脂がとろける。素晴らしい。
俺は厨房の店主へ日本語で声をかけた。
「大将、いい仕事してますね」
「ははっ、ありがとよ!」
店主の返事に俺が満足げに頷くと、ロベルタが小声で尋ねた。
「今は何とおっしゃったのですか?」
「美味しいって褒めたんだよ」
「まあ。でしたら、私からもお礼をお伝えください」
「もちろん!」
俺はもう一度店主に向き直った。
「連れも、とても美味しいと言ってます!」
「そりゃよかった!」
その笑顔をロベルタに伝えると、彼女も嬉しそうに会釈した。
うむ。今日の俺は実に冴えている。
ところが、半分ほど食べ進めたところで異変が起きた。
「…………」
箸が止まる。
「若様?」
「……うん?」
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
重い。
胃が、非常に重い。
考えてみれば当然だった。つい先ほど、寿司を腹いっぱい食べたばかりなのだ。そこへ濃厚な豚骨ラーメン。
十四年分の食欲があっても、胃袋の容量まで十四年分になるわけではない。
「……ロベルタ」
「はい」
「ちょっと、休憩しようか」
ロベルタが静かに箸を置いた。
「若様」
「はい」
「先ほど、何とおっしゃっていましたか?」
「……何のこと?」
「日本を出るまで、今のようなスリムな体型を保てると思うな、と」
「…………」
覚えていたか。
「……計画には柔軟性も必要なんだよ」
「左様でございますか」
「うん」
「では、次のお食事は?」
「……明日にしよう」
「賢明なご判断かと存じます」
ロベルタが微笑んだ。
……くそっ。十四年ぶりの日本。まさか初日から、自分の胃袋に敗北するとは。
「……ロベルタ」
「はい」
「残り、食べられる?」
「もちろんでございます」
そう言ってロベルタは俺の丼を受け取り、何事もなかったかのように麺をすすり始めた。
そして、あっという間に完食。
「ごちそうさまでございました」
「…………」
「若様?」
「……お腹、大丈夫?」
「はい。大変美味しゅうございました」
「……苦しくない?」
「特には」
「…………」
おかしい。同じだけ寿司を食べたはずなのに。
俺が胃袋の限界と死闘を繰り広げている横で、この人は涼しい顔をしている。
「……ロベルタ」
「はい」
「もしかして、まだ食べられる?」
「はい。少々でしたら」
「…………」
少々。
この人の少々は、一体どれくらいなのだろう。
「……ロベルタ」
「はい」
「さっき、太る覚悟を決めろって言ったよね」
「はい」
「……必要なかったかもしれない」
「?」
どうやら、日本旅行最大の敵は俺の胃袋だったらしい。
そして、ロベルタの胃袋には底がないらしい。
日本旅行、一日目。
早くも俺の食い倒れ計画に暗雲が立ち込めていた。