BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

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日本旅行編・第四話

なんやかんやあって、日本滞在四日目。

 

つまり、最終日である。

 

「……帰りたくない」

 

ホテルの玄関を出たところで、俺は心の底から呟いた。

 

「若様」

 

隣を歩くロベルタが、困ったように微笑む。

 

「旦那様がお待ちでございます」

 

「分かってるよ……」

 

分かっている。

 

父さんに許してもらった三泊四日の日本旅行。今日の夕方には空港へ向かわなければならない。

 

しかし、納得できるかどうかは別問題だ。

 

三泊四日。

 

長いようで短い。

 

いや、短すぎる。

 

初日は寿司とラーメン。

 

二日目は牛丼に串カツ、天ぷら。

 

三日目はカツ丼、蕎麦、そしてカレー。

 

……振り返ってみると、食べてばっかりだな。

 

いや、もちろん観光もした。

 

秋葉原ではベニーへの土産に電子部品を探し、ダッチには日本製の工具、ロックにはネクタイ、レヴィにはウイスキーを選んだ。

 

バラライカへの葉巻は、ベネズエラに帰ってから用意するつもりだ。

 

それなりに、日本経済の視察らしいこともした……はずだ。

 

だが。

 

「……まだ食べてないもの、いっぱいあるんだよなあ」

 

俺が呟くと、ロベルタが不思議そうに首を傾げた。

 

「若様?」

 

「いや、日本ってすごいなって」

 

「はい。私も、そう思います」

 

ロベルタは嬉しそうに微笑んだ。

 

「どのお料理も大変美味しく、街並みも美しく……。素晴らしい国でございますね」

 

「でしょ?」

 

「はい」

 

その笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった。

 

今回の旅行で、一番よかったこと。

 

それは、ロベルタが楽しんでくれたことかもしれない。

 

普段は俺の世話ばかりしている彼女が、こうして自分のために笑っている。

 

それだけでも、来た甲斐があったというものだ。

 

「……ところで、若様」

 

「うん?」

 

「朝食はいかがなさいますか?」

 

「そうだねえ……」

 

俺は腕を組んだ。

 

日本最後の朝食。

 

これもまた、重大な問題である。

 

すると、ロベルタがおずおずと口を開いた。

 

「……もし、よろしければ」

 

「うん?」

 

「一昨日にいただいた、あのお料理をもう一度……」

 

「……牛丼?」

 

「はい」

 

即答だった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……ロベルタ」

 

「はい」

 

「そんなに気に入った?」

 

「はい。大変美味しゅうございました」

 

彼女は実に幸せそうに微笑んだ。

 

……うん。

 

知ってた。

 

「じゃあ、牛丼にしようか」

 

「……まあ!」

 

ロベルタの顔がぱっと明るくなる。

 

「ありがとうございます、若様」

 

「帰ったら、うちでも作ってみようね」

 

「はい。ぜひ、旦那様にも召し上がっていただきたいと思います」

 

……父さん。

 

帰国後の食卓に、牛丼が登場することが決定しました。

 

お楽しみに。

 

***

 

朝食を済ませた俺たちは、街をぶらぶらと歩いていた。

 

飛行機の時間までは、まだ余裕がある。

 

問題は昼食だ。

 

日本最後の食事。

 

何を食べるべきか。

 

昨日はカツ丼と蕎麦を食べた。

 

一昨日は天ぷらも食べた。

 

寿司もラーメンも、すでに堪能した。

 

……うーん。

 

「……若様?」

 

「うーん……」

 

「何かお悩みでございますか?」

 

「人生の重大な選択を迫られてる」

 

「……まあ」

 

ロベルタの表情が引き締まった。

 

「私にお手伝いできることがございましたら、何なりと」

 

「最後の昼ご飯、何にしようかなって」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……左様でございますか」

 

少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

 

失礼な。

 

食事は人生における重大事項だぞ。

 

そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうに鳥居が見えた。

 

その奥から、何やら賑やかな声が聞こえてくる。

 

「……ん?」

 

俺は足を止めた。

 

石段の上には、色とりどりの提灯。

 

それに、何だかいい匂いもする。

 

……まさか。

 

「ロベルタ、ちょっと寄ってみよう」

 

「神社でございますか?」

 

「うん。何かやってるみたい」

 

石段を上がり、鳥居をくぐる。

 

そして。

 

「……おおっ!」

 

思わず声が出た。

 

境内いっぱいに、屋台が並んでいた。

 

焼きそば。

 

たこ焼き。

 

焼き鳥。

 

お好み焼き。

 

金魚すくいに射的。

 

提灯の下を子供たちが走り回り、祭囃子が賑やかに響いている。

 

「縁日だ!」

 

「……縁日、でございますか?」

 

「お祭りみたいなものだよ。食べ物の屋台とか、遊べるお店がいっぱい出るんだ」

 

「まあ……!」

 

ロベルタが目を輝かせた。

 

「それは、大変楽しそうでございますね」

 

「でしょ!」

 

俺は笑った。

 

……決まった。

 

最後の昼食は、ここだ。

 

***

 

まずは焼きそば。

 

「……美味しいですね、若様」

 

「うん!」

 

ソースの香ばしい匂い。

 

少し濃いめの味付け。

 

紅生姜が、実にいい仕事をしている。

 

二人で一皿を食べ終え、次はたこ焼き。

 

熱々の一個を口に放り込んだ俺は、直後に自分の判断を後悔した。

 

「あっつ! あっつ……!」

 

「若様!?」

 

「だ、大丈夫……!」

 

口の中が火事だ。

 

隣でロベルタが心配そうに見つめている。

 

「どうぞ、お水を」

 

「ありがと……」

 

何とか飲み込んだ俺を確認してから、ロベルタも一つ口に運んだ。

 

「…………」

 

「……どう?」

 

「……これは」

 

彼女の目が輝く。

 

「大変、美味しゅうございますね」

 

「でしょ?」

 

続いて焼き鳥。

 

お好み焼き。

 

そして、たい焼き。

 

一つ食べ終わるたびに次の屋台へ移動する。

 

気づけば、当初の昼食候補など、きれいさっぱり頭から消えていた。

 

……いやあ。

 

日本って、素晴らしい。

 

「……あ」

 

俺は足を止めた。

 

「ロベルタ、あれやってみよう」

 

「……金魚、でございますか?」

 

「金魚すくいっていう遊びだよ」

 

小さな紙の道具で、水槽の金魚をすくう。

 

説明を聞いたロベルタは、興味深そうに頷いた。

 

「なるほど。紙を破らないよう、慎重に扱うのでございますね」

 

「そうそう。結構難しいんだよ」

 

「承知いたしました」

 

そして。

 

一匹。

 

二匹。

 

三匹。

 

四匹。

 

「…………」

 

五匹。

 

六匹。

 

「…………」

 

……え?

 

屋台のおじさんが、ぽかんと口を開けていた。

 

ロベルタは水面をじっと見つめている。

 

金魚の進路を読み、手首をわずかに動かす。

 

紙に余計な抵抗をかけず、最小限の動作ですくい上げる。

 

一切の迷いがない。

 

「……うーん」

 

俺は思わず呟いた。

 

「これは狩人」

 

「……若様?」

 

「いや、何でもない」

 

その後のスーパーボールすくいでも、結果は似たようなものだった。

 

そして、射的。

 

「若様、こちらは?」

 

「コルクの弾で景品を撃ち落とすんだ」

 

「……なるほど」

 

俺は銃を構えた。

 

ロアナプラでレヴィに教わったことを思い出す。

 

狙いを定める。

 

引き金を引く。

 

ぽんっ。

 

景品が一つ、棚から落ちた。

 

「よし!」

 

「おお、坊主! 上手いじゃねえか!」

 

屋台のおじさんが感心したように声を上げた。

 

……ふふん。

 

レヴィ先生の指導は伊達じゃない。

 

「では、私も」

 

ロベルタが銃を受け取った。

 

ぽんっ。

 

一つ。

 

ぽんっ。

 

二つ。

 

ぽんっ。

 

三つ。

 

四つ。

 

五つ。

 

「…………」

 

……あれ?

 

気づけば、棚の上がほとんど空になっていた。

 

「お、お嬢さん……?」

 

屋台のおじさんの顔が引きつっている。

 

ロベルタは最後の一発を装填し、静かに構えた。

 

ぽんっ。

 

最後の景品が落ちた。

 

「……うん」

 

俺は頷いた。

 

「これはスナイパー」

 

「……若様?」

 

「何でもないよ」

 

おじさんは、しばらく空っぽの棚を見つめていた。

 

……ごめんね、おじさん。

 

悪気はないんだ。

 

***

 

ひとしきり遊んだあと、俺たちは境内の端にあるベンチで休憩することにした。

 

「……楽しかったね」

 

「はい。大変興味深い催しでございました」

 

ロベルタは満足そうだった。

 

……よかった。

 

本当によかった。

 

普段のロベルタは、いつも俺の世話をしている。

 

身の回りのことも、食事も、移動も。

 

俺が困らないように。

 

俺が危険な目に遭わないように。

 

いつだって、自分のことは後回しだ。

 

だからこそ、こうして彼女自身が楽しそうにしていると、俺まで嬉しくなる。

 

「……若様」

 

「うん?」

 

「申し訳ございません。少々、個人的な買い物を済ませてまいりたく……」

 

「買い物?」

 

「はい。すぐに戻りますので」

 

「分かった。ここで待ってるよ」

 

「ありがとうございます」

 

ロベルタは丁寧に一礼すると、人混みの向こうへ歩いていった。

 

……個人的な買い物、か。

 

珍しいな。

 

まあ、ロベルタにも欲しいものくらいあるだろう。

 

俺はベンチに腰を下ろし、境内を眺めた。

 

子供たちが走り回っている。

 

親子連れが屋台に並んでいる。

 

祭囃子が、どこか懐かしい。

 

……平和だなあ。

 

そう思った、そのときだった。

 

「……だからさ、ちょっと付き合ってよ」

 

「そんなに怖がらなくてもいいじゃん」

 

少し離れた場所から、男の声が聞こえてきた。

 

視線を向ける。

 

二人の男が、一人の女の子を囲んでいた。

 

制服姿。

 

眼鏡をかけた、物静かそうな少女だ。

 

年齢は十六、七歳くらいだろうか。

 

「……申し訳ありません。人を待っていますので」

 

「いいじゃん、少しくらい」

 

「すぐ終わるからさ」

 

少女は困ったように視線を落とした。

 

……あー。

 

いるんだよな、こういう連中。

 

俺はため息をついた。

 

……どうしよう。

 

正直、関わりたくない。

 

でも。

 

「……はあ」

 

見て見ぬふりをするのも、寝覚めが悪い。

 

俺はベンチから立ち上がった。

 

「その辺でやめときなよ、お二人さん」

 

「……あ?」

 

男たちが振り返った。

 

俺はできるだけ穏やかに笑った。

 

「せっかくのお祭りなんだから。あんまり無茶すると、バチが当たるよ?」

 

「……何だ、ガキかよ」

 

「お前には関係ねえだろ」

 

「まあまあ。女の子も困ってるみたいだしさ」

 

「うるせえな」

 

一人が近づいてきた。

 

そして、俺の襟元を掴む。

 

「ガキは引っ込んでろって言ってんだよ」

 

「…………」

 

……あーあ。

 

仕方ないな。

 

俺は掴まれた手首を取った。

 

捻る。

 

「いっ……!?」

 

男の身体が傾いた瞬間、足を払う。

 

どさっ!

 

「ぐえっ!」

 

男が地面に転がった。

 

……うん。

 

ファビオラ先生、ありがとう。

 

「てめえ!」

 

もう一人が殴りかかってきた。

 

俺は半歩下がり、拳をかわす。

 

その勢いを利用して腕を取り、体勢を崩す。

 

次の瞬間には、男の腕を背中側へ捻り上げていた。

 

「いででででっ!」

 

「……ねえ」

 

俺は声を落とした。

 

「明日からも自分の手でご飯を食べたいなら、さっさと失せた方がいいよ」

 

「わ、分かった! 分かったから!」

 

手を離すと、男たちは慌てて逃げていった。

 

「…………」

 

……ふう。

 

何とかなった。

 

正直、相手が素人で助かった。

 

俺は服の襟を直し、少女へ向き直った。

 

「大丈夫?」

 

「……あ」

 

少女は少し驚いたように俺を見つめていた。

 

やがて、深々と頭を下げる。

 

「ありがとうございました。助かりました」

 

「いや、別に大したことしてないよ」

 

「ですが……」

 

「怪我がなかったなら、それでいいから」

 

少女はほっとしたように微笑んだ。

 

「……本当に、ありがとうございます」

 

「…………」

 

……ん?

 

俺は、彼女の顔を見つめた。

 

眼鏡。

 

整った制服。

 

控えめな物腰。

 

どこか儚げな雰囲気。

 

……あれ?

 

何だろう。

 

どこかで見たことがあるような。

 

いや。

 

そんなはずはない。

 

俺は日本に来たばかりだ。

 

この子とも、初対面のはず。

 

それなのに。

 

妙な既視感があった。

 

「……あの?」

 

「あ、ごめん」

 

俺は慌てて笑った。

 

「ちょっと、知り合いに似てる気がして」

 

「……そうなんですか?」

 

「うん。気のせいだと思うけど」

 

そのときだった。

 

「――お嬢」

 

低い声がした。

 

少女が振り返る。

 

「……銀さん」

 

俺も、つられて顔を向けた。

 

そこに立っていたのは、大柄な男だった。

 

短く刈り込まれた髪。

 

サングラス。

 

厚い肩幅。

 

飾り気のない服装。

 

男は少女の姿を確認すると、静かに尋ねた。

 

「……お嬢。大丈夫ですかい?」

 

「はい。あの、銀さん――」

 

少女が口を開きかける。

 

だが、男の視線はすでに俺へ向いていた。

 

「……坊ちゃん」

 

「……はい?」

 

「ちょいと、お嬢から離れてもらえませんかね」

 

「…………」

 

……え?

 

いや、ちょっと待って。

 

「……あの、僕は」

 

「悪いことは言いやせん」

 

男は静かに続けた。

 

「この辺で勘弁してもらえませんかい」

 

ぞくり。

 

背筋に冷たいものが走った。

 

……何だ?

 

この人。

 

怒鳴っているわけじゃない。

 

拳を握っているわけでもない。

 

ただ、そこに立っているだけだ。

 

それなのに。

 

……まずい。

 

そう思った瞬間には、身体が動いていた。

 

地面を蹴り、後方へ大きく距離を取る。

 

男を正面に捉えたまま、さらに間合いを広げた。

 

足を前後に開き、重心を整える。

 

顎を引き、両手を胸の前に構えた。

 

「…………」

 

……あ。

 

俺は、自分の姿勢に気づいた。

 

ファビオラに叩き込まれた、徒手格闘の基本姿勢。

 

考えて取ったわけじゃない。

 

身体が勝手に動いたんだ。

 

「…………」

 

男の表情が、わずかに変わった。

 

サングラスの奥の視線が、俺の足元から両手へと移る。

 

……しまった。

 

別に、戦いたいわけじゃない。

 

むしろ逆だ。

 

絶対に戦いたくない。

 

けれど、構えを解くこともできなかった。

 

心臓が激しく脈打つ。

 

呼吸が浅い。

 

背中を冷たい汗が伝う。

 

ロアナプラで過ごした三週間。

 

あの街で、俺は嫌というほど思い知らされたことがある。

 

本当に恐ろしい人間は、必ずしも声を荒らげたり、武器をちらつかせたりするわけじゃない。

 

レヴィの銃の腕も、バラライカの底知れなさも、間近で見てきた。

 

そして、ロベルタ。

 

普段は誰よりも優しい彼女が、俺を守るためにどれほどの力を振るえるのか。

 

それも知っている。

 

だからこそ、分かってしまう。

 

……この人。

 

たぶん、あの人たちと同じ世界を知っている。

 

いや、それどころか。

 

その世界で、長いこと生き残ってきた人間だ。

 

「…………」

 

男が、わずかに顎を引いた。

 

たったそれだけで、心臓が跳ねた。

 

……勝てない。

 

俺がこれまで教わった技術を、どれだけ使ったところで。

 

この男には、到底敵わない。

 

それだけは、理屈じゃなく分かった。

 

……武器。

 

何か、武器になるものは。

 

俺は一瞬、周囲を見た。

 

……ない。

 

さっき食べた焼き鳥の串も、たこ焼きの楊枝も、全部捨てた。

 

手ぶらだ。

 

……いや。

 

仮に持ってたところで、どうにかなる相手なのか?

 

「……坊ちゃん」

 

男の声が、少しだけ低くなった。

 

「その構えは、どういうつもりですかい」

 

「……っ」

 

違う。

 

違うんだ。

 

俺はただ、この子を助けただけで。

 

「――若様」

 

その瞬間。

 

聞き慣れた声がした。

 

「……!」

 

俺の前に、影が落ちる。

 

次の瞬間には、黒いメイド服の背中が視界を塞いでいた。

 

「お待たせいたしました、若様」

 

ロベルタだった。

 

「……ロベルタ!」

 

「どうか、そのまま私の後ろに」

 

彼女は振り返らない。

 

男から、一瞬たりとも視線を外さなかった。

 

「……若様」

 

スペイン語だった。

 

「お怪我はございませんか」

 

「……うん。大丈夫」

 

「……では」

 

ロベルタの声が、わずかに低くなる。

 

「この男性は、一体何者でございますか」

 

「……分からない。初めて会った人だよ」

 

「では、なぜそれほど怯えていらっしゃるのですか」

 

「それは……」

 

言葉に詰まる。

 

ロベルタは静かに男を見据えた。

 

「……坊ちゃん」

 

今度は男が、日本語で話しかけてきた。

 

「その方は、あんたのお連れさんですかい」

 

「……はい。僕の家のメイドです」

 

「……メイドさん、ですかい」

 

男はロベルタを見た。

 

サングラスの奥にある瞳が、彼女の眼鏡の奥を捉える。

 

「……えらく物騒なメイドさんで」

 

「…………」

 

「どうにも、堅気には見えやせんね」

 

「…………」

 

男の声には、嘲りも挑発もなかった。

 

ただ、事実を確かめるような静けさがあった。

 

「……坊ちゃん」

 

「……はい」

 

「俺は、お嬢に何もなけりゃ、それでいいんです」

 

「…………」

 

「そちらも、そうなんでしょうな」

 

「……はい」

 

「なら、互いに余計なことはしない方がいい」

 

……まったく、その通りだ。

 

俺だって、そうしたい。

 

心の底から、そうしたい。

 

「……若様」

 

ロベルタの声が割り込んだ。

 

「この方は、先ほどから何をおっしゃっているのでしょう」

 

「……揉め事は起こしたくないって」

 

「…………」

 

ロベルタは黙った。

 

男を見つめる。

 

そして、静かに言った。

 

「……若様。私には、この方の言葉が分かりません」

 

「……うん」

 

「ですが、この方が若様に話しかけるたび、若様が怯えていらっしゃることは分かります」

 

「…………」

 

「……それだけで、十分でございます」

 

ぞくり。

 

今度は、別の意味で背筋が凍った。

 

……ロベルタ。

 

お願いだから、落ち着いて。

 

「……坊ちゃん」

 

男が俺を呼んだ。

 

「その方、何と?」

 

「……えっと」

 

答えるより早く、ロベルタが半歩前へ出た。

 

俺を完全に背後へ隠す。

 

男の視線が、俺からロベルタへ移った。

 

「…………」

 

「…………」

 

その右手が、無意識に腰元をなぞった。

 

まるで、そこにあるはずの何かを探すように。

 

指先が止まる。

 

……何もない。

 

男の表情が、ほんのわずかに引き締まった。

 

そして。

 

「…………え?」

 

俺は、ロベルタの右手に目を留めた。

 

……串?

 

焼き鳥の串だ。

 

少し大ぶりな、先端の尖った木製の串。

 

……いつから?

 

さっきまで、何も持ってなかったよね?

 

男の視線が、その串へ落ちた。

 

そして、ゆっくりとロベルタの顔へ戻る。

 

「…………」

 

「…………」

 

空気が変わった。

 

はっきりと、変わった。

 

男の口元から表情が消える。

 

ロベルタも、微動だにしない。

 

互いの目を見つめている。

 

眼鏡越しに。

 

サングラス越しに。

 

……ああ。

 

この二人。

 

気づいてしまったんだ。

 

目の前にいる相手が、どういう人間なのか。

 

肉を潰し、骨を砕き、血で血を洗う。

 

人間が人間を殺す世界で、生きてきた者同士。

 

獣が、獣の匂いを嗅ぎ取った。

 

「…………」

 

男の視線が、ほんの一瞬だけ背後へ向く。

 

そこには、あの女の子が立っていた。

 

そして、ロベルタの背後には俺がいる。

 

……そうか。

 

この人も。

 

この人も、誰かを守っているんだ。

 

「…………」

 

男が、わずかに重心を落とした。

 

ロベルタも、それに応じる。

 

「…………っ」

 

俺は息を呑んだ。

 

……まずい。

 

さっきまで、二人とも戦うつもりなんてなかったはずだ。

 

なのに。

 

今は、相手が動いた瞬間に殺すつもりで構えている。

 

言葉は通じない。

 

それでも、互いがどういう人間なのかは分かっている。

 

そして。

 

互いに、絶対に譲れないものがあることも。

 

「…………」

 

「…………」

 

祭囃子が聞こえる。

 

子供たちの笑い声が聞こえる。

 

屋台の呼び込みが聞こえる。

 

なのに、ここだけが別世界だった。

 

……神様。

 

お願いです。

 

さっきまで、あんなに楽しかったじゃないですか。

 

最後の最後に、神社を戦場にするのだけは――。

 

「――待ってください!」

 

少女の声が、張り詰めた空気を切り裂いた。

 

「銀さん! 違うんです!」

 

「……お嬢?」

 

男の視線が、わずかに動く。

 

「その方は、私を助けてくださったんです!」

 

「…………」

 

「さっき、男の人たちに絡まれてしまって……。困っていたところを、こちらの方が助けてくださったんです!」

 

「……助けた?」

 

「はい! 私がきちんと説明していなかったから……」

 

少女は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「この方は、何も悪いことをしていません」

 

「…………」

 

男はしばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと俺を見る。

 

「……坊ちゃん」

 

「は、はいっ!」

 

「……そいつぁ、本当ですかい」

 

「本当です! 本当に!」

 

俺は全力で頷いた。

 

「たまたま絡まれてるところを見かけて、助けただけです!」

 

「…………」

 

男は静かに息を吐いた。

 

「……そうでしたかい」

 

そして、サングラスを外す。

 

「……とんだ失礼をいたしやした」

 

深々と頭を下げた。

 

「事情も知らず、恩人に無礼を働いちまった。申し訳ありやせん」

 

「い、いえ! そんな!」

 

俺は慌てて両手を振った。

 

「誤解が解けたなら、それで十分ですから!」

 

「……そう言っていただけると、ありがてえ」

 

男が顔を上げる。

 

その瞬間。

 

ふっ。

 

張り詰めていた空気が、嘘みたいにほどけた。

 

「…………」

 

ロベルタも男の変化を察したらしい。

 

肩から、わずかに力が抜ける。

 

「……若様?」

 

「……ああ、ロベルタ」

 

俺は慌ててスペイン語に切り替えた。

 

「誤解だったんだ。僕があの女の子を助けたんだけど、この人は僕が悪いことをしたと思ってたみたいで」

 

「…………」

 

「でも、ちゃんと説明してくれたから。もう大丈夫」

 

ロベルタは少女を見た。

 

それから、大男を見る。

 

「……左様でございましたか」

 

小さく息を吐いた。

 

「それは、何よりでございます」

 

そして。

 

気づけば、彼女の右手から焼き鳥の串が消えていた。

 

……いや。

 

だから、どこにしまったんだよ。

 

「……若様」

 

「うん?」

 

「お怪我は、本当にございませんね?」

 

「ないよ。大丈夫」

 

「……承知いたしました」

 

ようやく、ロベルタが微笑んだ。

 

……ああ。

 

よかった。

 

本当に、よかった。

 

俺は全身の力が抜けそうになるのを、必死に堪えた。

 

***

 

「……あの」

 

少女が、おずおずと声をかけてきた。

 

「よろしければ、少しお時間をいただけませんか?」

 

「……え?」

 

「助けていただいたお礼を、まだきちんとできていませんので」

 

「いや、そんな。別に大したことしてないし」

 

「ですが……」

 

少女は困ったように微笑んだ。

 

すると、隣の大男も静かに頭を下げる。

 

「……俺からもお願いしやす。こちらも、とんだ失礼をしちまったもんで」

 

「いや、本当に気にしなくていいですよ?」

 

「……そうおっしゃらずに」

 

「…………」

 

……うーん。

 

困った。

 

別にお礼が欲しくて助けたわけじゃない。

 

それに、そろそろ空港へ向かう時間も気にしなければならない。

 

俺が返事に迷っていると、少女がふと思いついたように言った。

 

「でしたら、せめてお食事だけでもいかがでしょう?」

 

「……食事?」

 

「はい。こちらのお祭りの屋台でしたら、ご案内できますので」

 

「…………」

 

食事。

 

……食事、か。

 

「……若様?」

 

ロベルタが首を傾げた。

 

「何とおっしゃっているのでしょうか」

 

「ああ、助けたお礼にご飯をご馳走したいって」

 

「……まあ」

 

彼女の表情が、ぱっと明るくなった。

 

「それは、大変ありがたいお申し出でございますね」

 

「…………」

 

……うん。

 

そうだね。

 

君は、まだまだ食べられるもんね。

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

俺がそう答えると、少女は嬉しそうに微笑んだ。

 

「はい。こちらへどうぞ」

 

***

 

案内されたのは、境内の端にある大きなテントだった。

 

屋台の裏手に設けられた、関係者用らしい休憩所。

 

中には長机と折り畳み椅子が並び、湯飲みや食器が置かれている。

 

「お嬢!」

 

「お疲れさまです!」

 

少女が入るなり、法被姿の男たちが一斉に立ち上がった。

 

「……え?」

 

俺は思わず足を止めた。

 

「皆さん、お疲れさまです」

 

少女は丁寧に頭を下げた。

 

「こちらのお二人に、お食事をお願いできますか?」

 

「へい! すぐに!」

 

「お嬢のお客様ですかい?」

 

「はい。私を助けてくださった方々です」

 

「そいつぁ……!」

 

男たちの視線が、一斉に俺へ集まった。

 

「ありがとうございます!」

 

「お嬢がお世話になりやした!」

 

「…………」

 

……お、おう。

 

何だろう。

 

この妙な迫力。

 

「あの……こちらの屋台って、皆さんのお知り合いが?」

 

俺が尋ねると、少女は頷いた。

 

「はい。こちらの縁日の屋台は、うちの者たちが取り仕切っているんです」

 

「……へえ」

 

なるほど。

 

地元の有力者の娘さん、とかかな。

 

それにしても、みんなずいぶん礼儀正しいな。

 

「ささ、どうぞ!」

 

促されるまま、俺たちは長机に腰を下ろした。

 

すると。

 

「お待たせしました!」

 

どんっ。

 

目の前に、大きな皿が置かれた。

 

湯気の立つおでん。

 

大根、卵、こんにゃく、ちくわ。

 

続いて、炭火で焼かれた牛串。

 

さらに、焼き鳥や漬物。

 

冷えた瓶入りのサイダーまで運ばれてきた。

 

「…………」

 

俺は思わず目を丸くした。

 

「……すごい」

 

「どうぞ、遠慮なさらず」

 

少女が微笑む。

 

「……ありがとうございます」

 

俺は頭を下げた。

 

隣では、ロベルタが目を輝かせていた。

 

「……若様」

 

「うん?」

 

「大変、美味しそうでございますね」

 

「……そうだね」

 

「こちらのお料理は、すべていただいてもよろしいのでしょうか」

 

「……うん。いいと思うよ」

 

「……まあ」

 

……あ。

 

これ、追加注文までいくやつだ。

 

「それじゃあ、いただきます」

 

俺は箸を手に取った。

 

まずは、おでんの大根。

 

箸を入れると、ほろりと崩れる。

 

口に運べば、出汁がじゅわっと広がった。

 

「……うまっ」

 

思わず声が漏れた。

 

「お気に召しましたか?」

 

「はい! すごく美味しいです!」

 

少女は嬉しそうに微笑んだ。

 

隣ではロベルタが牛串を一本、静かに味わっていた。

 

「…………」

 

「……ロベルタ?」

 

「……若様」

 

「うん?」

 

「こちらのお肉は、素晴らしいですね」

 

「……そうだね」

 

「もう一本、いただいてもよろしいでしょうか」

 

「……どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

……うん。

 

完全に、いつものロベルタだ。

 

さっきまでの殺気は、一体どこへ行ったんだろう。

 

***

 

しばらくして。

 

「……そういえば」

 

少女が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「まだ、お名前も伺っていませんでしたね」

 

「あ、そうですね」

 

俺はサイダーの瓶を手に取った。

 

「僕はガルシア。ガルシア・ラブレスです」

 

「ガルシアさん……」

 

「南米から、旅行で来てるんです」

 

「まあ。そうだったんですね」

 

「はい。で、こちらがロベルタ。僕の家のメイドです」

 

俺が紹介すると、ロベルタは静かに頭を下げた。

 

「ロベルタと申します。若様が大変お世話になりました」

 

少女にはスペイン語が分からないので、俺が簡単に訳した。

 

「こちらこそ、ありがとうございます」

 

少女も丁寧に頭を下げる。

 

そして。

 

「申し遅れました。私は――」

 

彼女は姿勢を正し、穏やかに微笑んだ。

 

「鷲峰雪緒と申します」

 

「…………」

 

俺はサイダーを一口飲んだ。

 

……ん?

 

わしみね?

 

「……それから」

 

少女が隣の大男へ目を向ける。

 

男は静かに会釈した。

 

「……松崎銀次と申しやす」

 

「…………」

 

……まつざき。

 

……ぎんじ。

 

…………。

 

………………。

 

ぶふぉっ!!

 

「きゃっ!?」

 

「――若様!?」

 

俺は盛大にサイダーを吹き出した。

 

「げほっ! ごほっ! げほげほっ!!」

 

「若様!? どうなさいました!?」

 

ロベルタが慌てて背中をさする。

 

「お、お水を!」

 

少女も立ち上がった。

 

大男は驚いたように目を見開いている。

 

「……坊ちゃん。大丈夫ですかい?」

 

「げほっ! だ、大丈夫……! ごほっ!」

 

……いや。

 

大丈夫じゃない。

 

全然、大丈夫じゃない。

 

俺は涙目になりながら、目の前の二人を見た。

 

眼鏡をかけた、物静かな少女。

 

短髪にサングラスの、大柄な男。

 

そして。

 

鷲峰雪緒。

 

松崎銀次。

 

…………。

 

……おい。

 

嘘だろ。

 

俺は震える手で、口元を拭った。

 

……知ってる。

 

知ってるぞ、この二人。

 

いや。

 

知ってるどころの話じゃない。

 

『BLACK LAGOON』の、日本編。

 

……何で。

 

何で、こんなところで。

 

よりによって。

 

この二人に出会っちゃうんだよぉぉぉぉ!!

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