BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
なんやかんやあって、日本滞在四日目。
つまり、最終日である。
「……帰りたくない」
ホテルの玄関を出たところで、俺は心の底から呟いた。
「若様」
隣を歩くロベルタが、困ったように微笑む。
「旦那様がお待ちでございます」
「分かってるよ……」
分かっている。
父さんに許してもらった三泊四日の日本旅行。今日の夕方には空港へ向かわなければならない。
しかし、納得できるかどうかは別問題だ。
三泊四日。
長いようで短い。
いや、短すぎる。
初日は寿司とラーメン。
二日目は牛丼に串カツ、天ぷら。
三日目はカツ丼、蕎麦、そしてカレー。
……振り返ってみると、食べてばっかりだな。
いや、もちろん観光もした。
秋葉原ではベニーへの土産に電子部品を探し、ダッチには日本製の工具、ロックにはネクタイ、レヴィにはウイスキーを選んだ。
バラライカへの葉巻は、ベネズエラに帰ってから用意するつもりだ。
それなりに、日本経済の視察らしいこともした……はずだ。
だが。
「……まだ食べてないもの、いっぱいあるんだよなあ」
俺が呟くと、ロベルタが不思議そうに首を傾げた。
「若様?」
「いや、日本ってすごいなって」
「はい。私も、そう思います」
ロベルタは嬉しそうに微笑んだ。
「どのお料理も大変美味しく、街並みも美しく……。素晴らしい国でございますね」
「でしょ?」
「はい」
その笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった。
今回の旅行で、一番よかったこと。
それは、ロベルタが楽しんでくれたことかもしれない。
普段は俺の世話ばかりしている彼女が、こうして自分のために笑っている。
それだけでも、来た甲斐があったというものだ。
「……ところで、若様」
「うん?」
「朝食はいかがなさいますか?」
「そうだねえ……」
俺は腕を組んだ。
日本最後の朝食。
これもまた、重大な問題である。
すると、ロベルタがおずおずと口を開いた。
「……もし、よろしければ」
「うん?」
「一昨日にいただいた、あのお料理をもう一度……」
「……牛丼?」
「はい」
即答だった。
「…………」
「…………」
「……ロベルタ」
「はい」
「そんなに気に入った?」
「はい。大変美味しゅうございました」
彼女は実に幸せそうに微笑んだ。
……うん。
知ってた。
「じゃあ、牛丼にしようか」
「……まあ!」
ロベルタの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます、若様」
「帰ったら、うちでも作ってみようね」
「はい。ぜひ、旦那様にも召し上がっていただきたいと思います」
……父さん。
帰国後の食卓に、牛丼が登場することが決定しました。
お楽しみに。
***
朝食を済ませた俺たちは、街をぶらぶらと歩いていた。
飛行機の時間までは、まだ余裕がある。
問題は昼食だ。
日本最後の食事。
何を食べるべきか。
昨日はカツ丼と蕎麦を食べた。
一昨日は天ぷらも食べた。
寿司もラーメンも、すでに堪能した。
……うーん。
「……若様?」
「うーん……」
「何かお悩みでございますか?」
「人生の重大な選択を迫られてる」
「……まあ」
ロベルタの表情が引き締まった。
「私にお手伝いできることがございましたら、何なりと」
「最後の昼ご飯、何にしようかなって」
「…………」
「…………」
「……左様でございますか」
少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
失礼な。
食事は人生における重大事項だぞ。
そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうに鳥居が見えた。
その奥から、何やら賑やかな声が聞こえてくる。
「……ん?」
俺は足を止めた。
石段の上には、色とりどりの提灯。
それに、何だかいい匂いもする。
……まさか。
「ロベルタ、ちょっと寄ってみよう」
「神社でございますか?」
「うん。何かやってるみたい」
石段を上がり、鳥居をくぐる。
そして。
「……おおっ!」
思わず声が出た。
境内いっぱいに、屋台が並んでいた。
焼きそば。
たこ焼き。
焼き鳥。
お好み焼き。
金魚すくいに射的。
提灯の下を子供たちが走り回り、祭囃子が賑やかに響いている。
「縁日だ!」
「……縁日、でございますか?」
「お祭りみたいなものだよ。食べ物の屋台とか、遊べるお店がいっぱい出るんだ」
「まあ……!」
ロベルタが目を輝かせた。
「それは、大変楽しそうでございますね」
「でしょ!」
俺は笑った。
……決まった。
最後の昼食は、ここだ。
***
まずは焼きそば。
「……美味しいですね、若様」
「うん!」
ソースの香ばしい匂い。
少し濃いめの味付け。
紅生姜が、実にいい仕事をしている。
二人で一皿を食べ終え、次はたこ焼き。
熱々の一個を口に放り込んだ俺は、直後に自分の判断を後悔した。
「あっつ! あっつ……!」
「若様!?」
「だ、大丈夫……!」
口の中が火事だ。
隣でロベルタが心配そうに見つめている。
「どうぞ、お水を」
「ありがと……」
何とか飲み込んだ俺を確認してから、ロベルタも一つ口に運んだ。
「…………」
「……どう?」
「……これは」
彼女の目が輝く。
「大変、美味しゅうございますね」
「でしょ?」
続いて焼き鳥。
お好み焼き。
そして、たい焼き。
一つ食べ終わるたびに次の屋台へ移動する。
気づけば、当初の昼食候補など、きれいさっぱり頭から消えていた。
……いやあ。
日本って、素晴らしい。
「……あ」
俺は足を止めた。
「ロベルタ、あれやってみよう」
「……金魚、でございますか?」
「金魚すくいっていう遊びだよ」
小さな紙の道具で、水槽の金魚をすくう。
説明を聞いたロベルタは、興味深そうに頷いた。
「なるほど。紙を破らないよう、慎重に扱うのでございますね」
「そうそう。結構難しいんだよ」
「承知いたしました」
そして。
一匹。
二匹。
三匹。
四匹。
「…………」
五匹。
六匹。
「…………」
……え?
屋台のおじさんが、ぽかんと口を開けていた。
ロベルタは水面をじっと見つめている。
金魚の進路を読み、手首をわずかに動かす。
紙に余計な抵抗をかけず、最小限の動作ですくい上げる。
一切の迷いがない。
「……うーん」
俺は思わず呟いた。
「これは狩人」
「……若様?」
「いや、何でもない」
その後のスーパーボールすくいでも、結果は似たようなものだった。
そして、射的。
「若様、こちらは?」
「コルクの弾で景品を撃ち落とすんだ」
「……なるほど」
俺は銃を構えた。
ロアナプラでレヴィに教わったことを思い出す。
狙いを定める。
引き金を引く。
ぽんっ。
景品が一つ、棚から落ちた。
「よし!」
「おお、坊主! 上手いじゃねえか!」
屋台のおじさんが感心したように声を上げた。
……ふふん。
レヴィ先生の指導は伊達じゃない。
「では、私も」
ロベルタが銃を受け取った。
ぽんっ。
一つ。
ぽんっ。
二つ。
ぽんっ。
三つ。
四つ。
五つ。
「…………」
……あれ?
気づけば、棚の上がほとんど空になっていた。
「お、お嬢さん……?」
屋台のおじさんの顔が引きつっている。
ロベルタは最後の一発を装填し、静かに構えた。
ぽんっ。
最後の景品が落ちた。
「……うん」
俺は頷いた。
「これはスナイパー」
「……若様?」
「何でもないよ」
おじさんは、しばらく空っぽの棚を見つめていた。
……ごめんね、おじさん。
悪気はないんだ。
***
ひとしきり遊んだあと、俺たちは境内の端にあるベンチで休憩することにした。
「……楽しかったね」
「はい。大変興味深い催しでございました」
ロベルタは満足そうだった。
……よかった。
本当によかった。
普段のロベルタは、いつも俺の世話をしている。
身の回りのことも、食事も、移動も。
俺が困らないように。
俺が危険な目に遭わないように。
いつだって、自分のことは後回しだ。
だからこそ、こうして彼女自身が楽しそうにしていると、俺まで嬉しくなる。
「……若様」
「うん?」
「申し訳ございません。少々、個人的な買い物を済ませてまいりたく……」
「買い物?」
「はい。すぐに戻りますので」
「分かった。ここで待ってるよ」
「ありがとうございます」
ロベルタは丁寧に一礼すると、人混みの向こうへ歩いていった。
……個人的な買い物、か。
珍しいな。
まあ、ロベルタにも欲しいものくらいあるだろう。
俺はベンチに腰を下ろし、境内を眺めた。
子供たちが走り回っている。
親子連れが屋台に並んでいる。
祭囃子が、どこか懐かしい。
……平和だなあ。
そう思った、そのときだった。
「……だからさ、ちょっと付き合ってよ」
「そんなに怖がらなくてもいいじゃん」
少し離れた場所から、男の声が聞こえてきた。
視線を向ける。
二人の男が、一人の女の子を囲んでいた。
制服姿。
眼鏡をかけた、物静かそうな少女だ。
年齢は十六、七歳くらいだろうか。
「……申し訳ありません。人を待っていますので」
「いいじゃん、少しくらい」
「すぐ終わるからさ」
少女は困ったように視線を落とした。
……あー。
いるんだよな、こういう連中。
俺はため息をついた。
……どうしよう。
正直、関わりたくない。
でも。
「……はあ」
見て見ぬふりをするのも、寝覚めが悪い。
俺はベンチから立ち上がった。
「その辺でやめときなよ、お二人さん」
「……あ?」
男たちが振り返った。
俺はできるだけ穏やかに笑った。
「せっかくのお祭りなんだから。あんまり無茶すると、バチが当たるよ?」
「……何だ、ガキかよ」
「お前には関係ねえだろ」
「まあまあ。女の子も困ってるみたいだしさ」
「うるせえな」
一人が近づいてきた。
そして、俺の襟元を掴む。
「ガキは引っ込んでろって言ってんだよ」
「…………」
……あーあ。
仕方ないな。
俺は掴まれた手首を取った。
捻る。
「いっ……!?」
男の身体が傾いた瞬間、足を払う。
どさっ!
「ぐえっ!」
男が地面に転がった。
……うん。
ファビオラ先生、ありがとう。
「てめえ!」
もう一人が殴りかかってきた。
俺は半歩下がり、拳をかわす。
その勢いを利用して腕を取り、体勢を崩す。
次の瞬間には、男の腕を背中側へ捻り上げていた。
「いででででっ!」
「……ねえ」
俺は声を落とした。
「明日からも自分の手でご飯を食べたいなら、さっさと失せた方がいいよ」
「わ、分かった! 分かったから!」
手を離すと、男たちは慌てて逃げていった。
「…………」
……ふう。
何とかなった。
正直、相手が素人で助かった。
俺は服の襟を直し、少女へ向き直った。
「大丈夫?」
「……あ」
少女は少し驚いたように俺を見つめていた。
やがて、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。助かりました」
「いや、別に大したことしてないよ」
「ですが……」
「怪我がなかったなら、それでいいから」
少女はほっとしたように微笑んだ。
「……本当に、ありがとうございます」
「…………」
……ん?
俺は、彼女の顔を見つめた。
眼鏡。
整った制服。
控えめな物腰。
どこか儚げな雰囲気。
……あれ?
何だろう。
どこかで見たことがあるような。
いや。
そんなはずはない。
俺は日本に来たばかりだ。
この子とも、初対面のはず。
それなのに。
妙な既視感があった。
「……あの?」
「あ、ごめん」
俺は慌てて笑った。
「ちょっと、知り合いに似てる気がして」
「……そうなんですか?」
「うん。気のせいだと思うけど」
そのときだった。
「――お嬢」
低い声がした。
少女が振り返る。
「……銀さん」
俺も、つられて顔を向けた。
そこに立っていたのは、大柄な男だった。
短く刈り込まれた髪。
サングラス。
厚い肩幅。
飾り気のない服装。
男は少女の姿を確認すると、静かに尋ねた。
「……お嬢。大丈夫ですかい?」
「はい。あの、銀さん――」
少女が口を開きかける。
だが、男の視線はすでに俺へ向いていた。
「……坊ちゃん」
「……はい?」
「ちょいと、お嬢から離れてもらえませんかね」
「…………」
……え?
いや、ちょっと待って。
「……あの、僕は」
「悪いことは言いやせん」
男は静かに続けた。
「この辺で勘弁してもらえませんかい」
ぞくり。
背筋に冷たいものが走った。
……何だ?
この人。
怒鳴っているわけじゃない。
拳を握っているわけでもない。
ただ、そこに立っているだけだ。
それなのに。
……まずい。
そう思った瞬間には、身体が動いていた。
地面を蹴り、後方へ大きく距離を取る。
男を正面に捉えたまま、さらに間合いを広げた。
足を前後に開き、重心を整える。
顎を引き、両手を胸の前に構えた。
「…………」
……あ。
俺は、自分の姿勢に気づいた。
ファビオラに叩き込まれた、徒手格闘の基本姿勢。
考えて取ったわけじゃない。
身体が勝手に動いたんだ。
「…………」
男の表情が、わずかに変わった。
サングラスの奥の視線が、俺の足元から両手へと移る。
……しまった。
別に、戦いたいわけじゃない。
むしろ逆だ。
絶対に戦いたくない。
けれど、構えを解くこともできなかった。
心臓が激しく脈打つ。
呼吸が浅い。
背中を冷たい汗が伝う。
ロアナプラで過ごした三週間。
あの街で、俺は嫌というほど思い知らされたことがある。
本当に恐ろしい人間は、必ずしも声を荒らげたり、武器をちらつかせたりするわけじゃない。
レヴィの銃の腕も、バラライカの底知れなさも、間近で見てきた。
そして、ロベルタ。
普段は誰よりも優しい彼女が、俺を守るためにどれほどの力を振るえるのか。
それも知っている。
だからこそ、分かってしまう。
……この人。
たぶん、あの人たちと同じ世界を知っている。
いや、それどころか。
その世界で、長いこと生き残ってきた人間だ。
「…………」
男が、わずかに顎を引いた。
たったそれだけで、心臓が跳ねた。
……勝てない。
俺がこれまで教わった技術を、どれだけ使ったところで。
この男には、到底敵わない。
それだけは、理屈じゃなく分かった。
……武器。
何か、武器になるものは。
俺は一瞬、周囲を見た。
……ない。
さっき食べた焼き鳥の串も、たこ焼きの楊枝も、全部捨てた。
手ぶらだ。
……いや。
仮に持ってたところで、どうにかなる相手なのか?
「……坊ちゃん」
男の声が、少しだけ低くなった。
「その構えは、どういうつもりですかい」
「……っ」
違う。
違うんだ。
俺はただ、この子を助けただけで。
「――若様」
その瞬間。
聞き慣れた声がした。
「……!」
俺の前に、影が落ちる。
次の瞬間には、黒いメイド服の背中が視界を塞いでいた。
「お待たせいたしました、若様」
ロベルタだった。
「……ロベルタ!」
「どうか、そのまま私の後ろに」
彼女は振り返らない。
男から、一瞬たりとも視線を外さなかった。
「……若様」
スペイン語だった。
「お怪我はございませんか」
「……うん。大丈夫」
「……では」
ロベルタの声が、わずかに低くなる。
「この男性は、一体何者でございますか」
「……分からない。初めて会った人だよ」
「では、なぜそれほど怯えていらっしゃるのですか」
「それは……」
言葉に詰まる。
ロベルタは静かに男を見据えた。
「……坊ちゃん」
今度は男が、日本語で話しかけてきた。
「その方は、あんたのお連れさんですかい」
「……はい。僕の家のメイドです」
「……メイドさん、ですかい」
男はロベルタを見た。
サングラスの奥にある瞳が、彼女の眼鏡の奥を捉える。
「……えらく物騒なメイドさんで」
「…………」
「どうにも、堅気には見えやせんね」
「…………」
男の声には、嘲りも挑発もなかった。
ただ、事実を確かめるような静けさがあった。
「……坊ちゃん」
「……はい」
「俺は、お嬢に何もなけりゃ、それでいいんです」
「…………」
「そちらも、そうなんでしょうな」
「……はい」
「なら、互いに余計なことはしない方がいい」
……まったく、その通りだ。
俺だって、そうしたい。
心の底から、そうしたい。
「……若様」
ロベルタの声が割り込んだ。
「この方は、先ほどから何をおっしゃっているのでしょう」
「……揉め事は起こしたくないって」
「…………」
ロベルタは黙った。
男を見つめる。
そして、静かに言った。
「……若様。私には、この方の言葉が分かりません」
「……うん」
「ですが、この方が若様に話しかけるたび、若様が怯えていらっしゃることは分かります」
「…………」
「……それだけで、十分でございます」
ぞくり。
今度は、別の意味で背筋が凍った。
……ロベルタ。
お願いだから、落ち着いて。
「……坊ちゃん」
男が俺を呼んだ。
「その方、何と?」
「……えっと」
答えるより早く、ロベルタが半歩前へ出た。
俺を完全に背後へ隠す。
男の視線が、俺からロベルタへ移った。
「…………」
「…………」
その右手が、無意識に腰元をなぞった。
まるで、そこにあるはずの何かを探すように。
指先が止まる。
……何もない。
男の表情が、ほんのわずかに引き締まった。
そして。
「…………え?」
俺は、ロベルタの右手に目を留めた。
……串?
焼き鳥の串だ。
少し大ぶりな、先端の尖った木製の串。
……いつから?
さっきまで、何も持ってなかったよね?
男の視線が、その串へ落ちた。
そして、ゆっくりとロベルタの顔へ戻る。
「…………」
「…………」
空気が変わった。
はっきりと、変わった。
男の口元から表情が消える。
ロベルタも、微動だにしない。
互いの目を見つめている。
眼鏡越しに。
サングラス越しに。
……ああ。
この二人。
気づいてしまったんだ。
目の前にいる相手が、どういう人間なのか。
肉を潰し、骨を砕き、血で血を洗う。
人間が人間を殺す世界で、生きてきた者同士。
獣が、獣の匂いを嗅ぎ取った。
「…………」
男の視線が、ほんの一瞬だけ背後へ向く。
そこには、あの女の子が立っていた。
そして、ロベルタの背後には俺がいる。
……そうか。
この人も。
この人も、誰かを守っているんだ。
「…………」
男が、わずかに重心を落とした。
ロベルタも、それに応じる。
「…………っ」
俺は息を呑んだ。
……まずい。
さっきまで、二人とも戦うつもりなんてなかったはずだ。
なのに。
今は、相手が動いた瞬間に殺すつもりで構えている。
言葉は通じない。
それでも、互いがどういう人間なのかは分かっている。
そして。
互いに、絶対に譲れないものがあることも。
「…………」
「…………」
祭囃子が聞こえる。
子供たちの笑い声が聞こえる。
屋台の呼び込みが聞こえる。
なのに、ここだけが別世界だった。
……神様。
お願いです。
さっきまで、あんなに楽しかったじゃないですか。
最後の最後に、神社を戦場にするのだけは――。
「――待ってください!」
少女の声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「銀さん! 違うんです!」
「……お嬢?」
男の視線が、わずかに動く。
「その方は、私を助けてくださったんです!」
「…………」
「さっき、男の人たちに絡まれてしまって……。困っていたところを、こちらの方が助けてくださったんです!」
「……助けた?」
「はい! 私がきちんと説明していなかったから……」
少女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「この方は、何も悪いことをしていません」
「…………」
男はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと俺を見る。
「……坊ちゃん」
「は、はいっ!」
「……そいつぁ、本当ですかい」
「本当です! 本当に!」
俺は全力で頷いた。
「たまたま絡まれてるところを見かけて、助けただけです!」
「…………」
男は静かに息を吐いた。
「……そうでしたかい」
そして、サングラスを外す。
「……とんだ失礼をいたしやした」
深々と頭を下げた。
「事情も知らず、恩人に無礼を働いちまった。申し訳ありやせん」
「い、いえ! そんな!」
俺は慌てて両手を振った。
「誤解が解けたなら、それで十分ですから!」
「……そう言っていただけると、ありがてえ」
男が顔を上げる。
その瞬間。
ふっ。
張り詰めていた空気が、嘘みたいにほどけた。
「…………」
ロベルタも男の変化を察したらしい。
肩から、わずかに力が抜ける。
「……若様?」
「……ああ、ロベルタ」
俺は慌ててスペイン語に切り替えた。
「誤解だったんだ。僕があの女の子を助けたんだけど、この人は僕が悪いことをしたと思ってたみたいで」
「…………」
「でも、ちゃんと説明してくれたから。もう大丈夫」
ロベルタは少女を見た。
それから、大男を見る。
「……左様でございましたか」
小さく息を吐いた。
「それは、何よりでございます」
そして。
気づけば、彼女の右手から焼き鳥の串が消えていた。
……いや。
だから、どこにしまったんだよ。
「……若様」
「うん?」
「お怪我は、本当にございませんね?」
「ないよ。大丈夫」
「……承知いたしました」
ようやく、ロベルタが微笑んだ。
……ああ。
よかった。
本当に、よかった。
俺は全身の力が抜けそうになるのを、必死に堪えた。
***
「……あの」
少女が、おずおずと声をかけてきた。
「よろしければ、少しお時間をいただけませんか?」
「……え?」
「助けていただいたお礼を、まだきちんとできていませんので」
「いや、そんな。別に大したことしてないし」
「ですが……」
少女は困ったように微笑んだ。
すると、隣の大男も静かに頭を下げる。
「……俺からもお願いしやす。こちらも、とんだ失礼をしちまったもんで」
「いや、本当に気にしなくていいですよ?」
「……そうおっしゃらずに」
「…………」
……うーん。
困った。
別にお礼が欲しくて助けたわけじゃない。
それに、そろそろ空港へ向かう時間も気にしなければならない。
俺が返事に迷っていると、少女がふと思いついたように言った。
「でしたら、せめてお食事だけでもいかがでしょう?」
「……食事?」
「はい。こちらのお祭りの屋台でしたら、ご案内できますので」
「…………」
食事。
……食事、か。
「……若様?」
ロベルタが首を傾げた。
「何とおっしゃっているのでしょうか」
「ああ、助けたお礼にご飯をご馳走したいって」
「……まあ」
彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
「それは、大変ありがたいお申し出でございますね」
「…………」
……うん。
そうだね。
君は、まだまだ食べられるもんね。
「……じゃあ、少しだけ」
俺がそう答えると、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。こちらへどうぞ」
***
案内されたのは、境内の端にある大きなテントだった。
屋台の裏手に設けられた、関係者用らしい休憩所。
中には長机と折り畳み椅子が並び、湯飲みや食器が置かれている。
「お嬢!」
「お疲れさまです!」
少女が入るなり、法被姿の男たちが一斉に立ち上がった。
「……え?」
俺は思わず足を止めた。
「皆さん、お疲れさまです」
少女は丁寧に頭を下げた。
「こちらのお二人に、お食事をお願いできますか?」
「へい! すぐに!」
「お嬢のお客様ですかい?」
「はい。私を助けてくださった方々です」
「そいつぁ……!」
男たちの視線が、一斉に俺へ集まった。
「ありがとうございます!」
「お嬢がお世話になりやした!」
「…………」
……お、おう。
何だろう。
この妙な迫力。
「あの……こちらの屋台って、皆さんのお知り合いが?」
俺が尋ねると、少女は頷いた。
「はい。こちらの縁日の屋台は、うちの者たちが取り仕切っているんです」
「……へえ」
なるほど。
地元の有力者の娘さん、とかかな。
それにしても、みんなずいぶん礼儀正しいな。
「ささ、どうぞ!」
促されるまま、俺たちは長机に腰を下ろした。
すると。
「お待たせしました!」
どんっ。
目の前に、大きな皿が置かれた。
湯気の立つおでん。
大根、卵、こんにゃく、ちくわ。
続いて、炭火で焼かれた牛串。
さらに、焼き鳥や漬物。
冷えた瓶入りのサイダーまで運ばれてきた。
「…………」
俺は思わず目を丸くした。
「……すごい」
「どうぞ、遠慮なさらず」
少女が微笑む。
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
隣では、ロベルタが目を輝かせていた。
「……若様」
「うん?」
「大変、美味しそうでございますね」
「……そうだね」
「こちらのお料理は、すべていただいてもよろしいのでしょうか」
「……うん。いいと思うよ」
「……まあ」
……あ。
これ、追加注文までいくやつだ。
「それじゃあ、いただきます」
俺は箸を手に取った。
まずは、おでんの大根。
箸を入れると、ほろりと崩れる。
口に運べば、出汁がじゅわっと広がった。
「……うまっ」
思わず声が漏れた。
「お気に召しましたか?」
「はい! すごく美味しいです!」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
隣ではロベルタが牛串を一本、静かに味わっていた。
「…………」
「……ロベルタ?」
「……若様」
「うん?」
「こちらのお肉は、素晴らしいですね」
「……そうだね」
「もう一本、いただいてもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
……うん。
完全に、いつものロベルタだ。
さっきまでの殺気は、一体どこへ行ったんだろう。
***
しばらくして。
「……そういえば」
少女が、ふと思い出したように口を開いた。
「まだ、お名前も伺っていませんでしたね」
「あ、そうですね」
俺はサイダーの瓶を手に取った。
「僕はガルシア。ガルシア・ラブレスです」
「ガルシアさん……」
「南米から、旅行で来てるんです」
「まあ。そうだったんですね」
「はい。で、こちらがロベルタ。僕の家のメイドです」
俺が紹介すると、ロベルタは静かに頭を下げた。
「ロベルタと申します。若様が大変お世話になりました」
少女にはスペイン語が分からないので、俺が簡単に訳した。
「こちらこそ、ありがとうございます」
少女も丁寧に頭を下げる。
そして。
「申し遅れました。私は――」
彼女は姿勢を正し、穏やかに微笑んだ。
「鷲峰雪緒と申します」
「…………」
俺はサイダーを一口飲んだ。
……ん?
わしみね?
「……それから」
少女が隣の大男へ目を向ける。
男は静かに会釈した。
「……松崎銀次と申しやす」
「…………」
……まつざき。
……ぎんじ。
…………。
………………。
ぶふぉっ!!
「きゃっ!?」
「――若様!?」
俺は盛大にサイダーを吹き出した。
「げほっ! ごほっ! げほげほっ!!」
「若様!? どうなさいました!?」
ロベルタが慌てて背中をさする。
「お、お水を!」
少女も立ち上がった。
大男は驚いたように目を見開いている。
「……坊ちゃん。大丈夫ですかい?」
「げほっ! だ、大丈夫……! ごほっ!」
……いや。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
俺は涙目になりながら、目の前の二人を見た。
眼鏡をかけた、物静かな少女。
短髪にサングラスの、大柄な男。
そして。
鷲峰雪緒。
松崎銀次。
…………。
……おい。
嘘だろ。
俺は震える手で、口元を拭った。
……知ってる。
知ってるぞ、この二人。
いや。
知ってるどころの話じゃない。
『BLACK LAGOON』の、日本編。
……何で。
何で、こんなところで。
よりによって。
この二人に出会っちゃうんだよぉぉぉぉ!!