BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

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そして感想を書いていただいた方々にもこの場をお借りして御礼申し上げます。非常に励みになっております。


日本旅行編・第五話

第五話 日の当たる道

 

「ぶふぉっ!!」

 

盛大にサイダーを吹き出した。

 

「うおっ!? 坊ちゃん、大丈夫ですかい!?」

 

「だ、大丈夫です! すみません!」

 

慌てて口元を拭う。

 

いや、大丈夫じゃない。

 

全然大丈夫じゃない。

 

鷲峰雪緒。

 

松崎銀次。

 

……嘘だろ、おい。

 

知っている。

 

俺は、この二人を知っている。

 

『BLACK LAGOON』日本編の主要人物。

 

そして、二人がどんな結末を迎えるのかも。

 

鷲峰組とホテル・モスクワの抗争。

 

銀次さんの死。

 

その後、銀次さんの刀で自ら命を絶つ雪緒さん。

 

……なんでだよ。

 

なんで、よりによってこの二人なんだ。

 

「ガルシアさん? お顔の色が……」

 

雪緒さんが心配そうに覗き込んでくる。

 

「あ、いえ! ちょっとサイダーが変なところに入っちゃって」

 

「まあ……お水をお持ちしましょうか?」

 

「大丈夫です。本当に!」

 

……やめてくれ。

 

そんな優しい顔で心配しないでくれ。

 

余計に、つらくなる。

 

俺は改めて二人を見た。

 

眼鏡をかけた、物静かで礼儀正しい少女。

 

その傍らに控える、いかにも堅気ではなさそうな男。

 

画面越しに見た二人が、今、目の前で生きている。

 

笑って、話して、俺のことを心配している。

 

……参ったな。

 

助けようと思えば、方法はいくつか考えられる。

 

金もある。伝手もある。

 

ラブレス家の力を使えば、二人を日本から逃がすことだって不可能ではないだろう。

 

でも、その結果は?

 

俺が本来の歴史に手を加えれば、何が変わる?

 

ホテル・モスクワの動きが変わるかもしれない。

 

バラライカが、こちらに対し敵対の意思有りと見做すかもしれない。

 

そして、その影響が父さんやロベルタに及んだら?

 

……駄目だ。

 

それだけは避けなければならない。

 

俺にとって何より大切なのは、父さんとロベルタだ。

 

そこだけは譲れない。

 

だから。

 

関わるな。

 

余計なことをするな。

 

この二人には、この二人の人生がある。

 

俺が背負えるものじゃない。

 

「――それで、ロベルタさん。日本のお料理はいかがでしたか?」

 

ふと、雪緒さんの声が聞こえた。

 

見ると、いつの間にかロベルタと楽しそうに話している。

 

「どれも大変おいしかったです。特にお寿司と天ぷらは、忘れられそうにありません」

 

ロベルタは雪緒さんに合わせ、ゆっくりとした英語で答えていた。

 

「まあ! お寿司も召し上がったんですね」

 

「はい。ラーメンも、串カツも。それから、お蕎麦やカレーもいただきました」

 

「ずいぶんいろいろ召し上がったんですね」

 

「ええ。若様が、たくさんのお店に連れていってくださったんです」

 

嬉しそうに微笑むロベルタ。

 

……まあ、楽しんでくれたなら何よりだ。

 

「ちなみに雪緒さん、ロベルタが一番気に入ったのは牛丼なんですよ」

 

「若様!?」

 

ロベルタが珍しく慌てた声を上げた。

 

「牛丼、ですか?」

 

「ええ。昨日食べたばかりなのに、今朝も食べたいって言い出して」

 

「わ、若様。それは……!」

 

「しかも大盛り」

 

「若様っ!」

 

雪緒さんが口元を押さえて笑い出した。

 

「ふふっ。そんなにお気に召されたんですね」

 

「……はい。大変、おいしゅうございました」

 

ロベルタが少し恥ずかしそうに答える。

 

……おお。

 

あのロベルタが照れている。

 

これはなかなか貴重な光景だぞ。

 

「でしたら、ぜひまた日本にいらしてください。おいしい牛丼のお店、まだまだありますから」

 

「まあ……!」

 

ぱっと顔を輝かせるロベルタ。

 

……いや、そんなに嬉しいのか。

 

元ゲリラの凄腕メイドと、ヤクザの跡取り娘が、牛丼の話で盛り上がっている。

 

事情を知っている人間が見たら、卒倒するんじゃないだろうか。

 

俺は思わず笑いかけて――ふと、胸の奥が重くなった。

 

……こんなに楽しそうに笑う子なのにな。

 

目の前の雪緒さんは、何も知らない。

 

自分にどんな未来が待っているのかも。

 

隣にいるロベルタが、どんな過去を持つ人間なのかも。

 

ただ、日本の食べ物について楽しそうに話している。

 

……くそ。

 

やっぱり、知らないままでいられたらよかったのにな。

 

そのとき。

 

ドン、ドン、と腹に響く太鼓の音が聞こえた。

 

続いて、笛の澄んだ音色。

 

神社の奥の方からだ。

 

「あっ!」

 

雪緒さんが顔を上げる。

 

「神楽が始まります!」

 

「カグラ、ですか?」

 

ロベルタが首を傾げた。

 

「はい。神様に奉納する、日本の伝統的な舞です」

 

雪緒さんは少し考えてから、英語で説明し直した。

 

「ええと……神様のための、特別な踊りです」

 

「まあ。それはぜひ拝見したいですね」

 

「でしたら、一緒に行きませんか?」

 

「ええ、ぜひ……」

 

そこでロベルタは俺を見た。

 

「あ……ですが、若様が」

 

「僕はここで休んでるよ」

 

「しかし……」

 

「銀次さんもいるし、大丈夫だって」

 

ロベルタは少し迷っているようだった。

 

「せっかくだから見ておいでよ。日本の神楽なんて、そう何度も見られるものじゃないんだから」

 

「……では、お言葉に甘えさせていただきます」

 

そう言うと、ロベルタは銀次さんに向き直った。

 

「銀次様。私が戻るまで、どうか若様をよろしくお願いいたします」

 

スペイン語だ。

 

銀次さんには分からないので、俺が通訳する。

 

銀次さんはロベルタをじっと見た後、小さく頷いた。

 

「……承知いたしやした。坊ちゃんは、俺がお預かりしやす」

 

その返事をロベルタに伝える。

 

「ありがとうございます」

 

二人は静かに頭を下げ合った。

 

……何だろう。

 

妙に緊張感がある。

 

互いに相手の実力を理解しているからだろうか。

 

銀次さんは俺を預かり、ロベルタは雪緒さんと行動する。

 

互いに、最も大切な人間を相手に託す形だ。

 

さっきまで殺し合いになりかけていた二人とは思えない。

 

「それでは、行ってまいります」

 

「うん。楽しんできて」

 

雪緒さんがロベルタを案内し、二人は人混みの中へ消えていった。

 

残されたのは、俺と銀次さん。

 

……さて。

 

どうしたものか。

 

「……坊ちゃん」

 

「はい?」

 

銀次さんが、静かに口を開いた。

 

「ひとつ、聞いてもよろしいですかい?」

 

「何でしょう?」

 

「さっきのことなんですがね」

 

……さっき?

 

「俺が近づいたとき、坊ちゃん、随分と見事な動きをなさいやしたな」

 

「……え?」

 

「あの距離を一息に飛び退いて、すぐに身構えた。それから、周りに使える物がねえか、目を走らせてたでしょう」

 

……見られてたのか。

 

「ありゃあ、普通の坊ちゃんの動きじゃありやせん」

 

銀次さんは、穏やかな口調のまま続けた。

 

「それに、あのメイドさん」

 

「ロベルタですか?」

 

「へえ」

 

銀次さんは、少しだけ表情を険しくした。

 

「……ありゃあ、怖えお人だ」

 

「…………」

 

「俺も長いこと、いろんな人間を見てきやしたがね。ああいうお人は、そうそうお目にかかれるもんじゃありやせん」

 

……でしょうね。

 

世界でも指折りの化け物ですから。

 

「……坊ちゃん。あんた方、一体何者なんです?」

 

まあ、気になるよな。

 

「僕は、南米のちょっと古い家の息子なんです。ロベルタは、父が僕につけてくれたメイドで、護衛も兼ねています」

 

「……なるほど」

 

「物騒なこともありますから、僕も少しだけ護身術を習っていて」

 

「そのロベルタさんに?」

 

「いえ。別のメイドに体術を教わったんです」

 

ファビオラだけど。

 

「……そいつはよかった」

 

「え?」

 

銀次さんは、少し真剣な顔になった。

 

「……あのお人はね、坊ちゃん。人を斬った張ったの世界で、生きてきたお人です」

 

「…………」

 

「強いだの弱いだの、そういう話じゃありやせん。ありゃあ、命のやり取りが骨の髄まで染みついてる。俺らみてえな人間でも、そうそうお目にかかれるもんじゃねえ」

 

銀次さんは、俺を見た。

 

「……ああいうお人の真似は、しねえ方がいい」

 

……なるほど。

 

この人は、ロベルタの危険性を正確に見抜いている。

 

しかも、彼女を侮辱しているわけじゃない。

 

むしろ、理解しているからこその忠告だ。

 

「……ありがとうございます。気をつけます」

 

「へい。それがようござんす」

 

銀次さんは、それ以上追及してこなかった。

 

なら、今度はこちらの番だ。

 

「……銀次さんは、雪緒さんとどういうご関係なんですか?」

 

「俺ですかい?」

 

「はい。ご家族……ではないですよね?」

 

「へへ。まあ、そんなところでさあ」

 

銀次さんは少し笑った。

 

「俺は鷲峰の先代に、随分と世話になった人間でしてね。今もその家に厄介になっておりやす」

 

「そうなんですか」

 

「まあ、あんまり日の当たる商売じゃありやせんがね」

 

……ヤクザですもんね。

 

もちろん、口には出さない。

 

「雪緒さんは?」

 

「先代の一人娘でさあ」

 

銀次さんは、少し遠くを見るような目をした。

 

「本来なら、俺らみてえな人間とは関わらずに済むお方なんですがね」

 

「…………」

 

「俺はね、坊ちゃん。先代には随分と世話になりやした」

 

その声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「だから、せめてお嬢だけは守って差し上げてえんです」

 

「……守る?」

 

「へえ」

 

銀次さんは、神楽の音が聞こえる方へ目を向けた。

 

「俺らみてえな人間は、今さらどうなろうと構いやせん。ですがね……お嬢には、日の当たる道を歩いていただきてえ」

 

学校へ通って。

 

友達と笑って。

 

普通の女の子として、普通の人生を送ってほしい。

 

銀次さんは、そんな話をしてくれた。

 

……ああ。

 

駄目だ。

 

その話は、駄目だ。

 

聞いているだけで、胸が苦しくなる。

 

この人は、本気なんだ。

 

自分がどうなろうと、雪緒さんだけは幸せになってほしいと思っている。

 

でも。

 

俺は知っている。

 

その願いが、どんな結末を迎えるのか。

 

……くそ。

 

関わるなって、決めたじゃないか。

 

なのに。

 

「……銀次さん」

 

「へい?」

 

「少し、僕の話をしてもいいですか?」

 

「……何ですかい?」

 

「僕にとって、ロベルタはとても大切な人なんです」

 

銀次さんは黙って頷いた。

 

「そして、ロベルタは……きっと僕のためなら、迷わず命を懸けると思います」

 

「…………」

 

「自分の命を捨ててでも、僕を助けようとするでしょうね」

 

俺は、銀次さんをまっすぐ見た。

 

「もし、本当にそうなったら。ロベルタが自分の命と引き換えに僕を助けたら……僕がどうするか、分かりますか?」

 

「……さて」

 

「僕は、何が何でも仇を討ちます。たとえ自分の命を懸けることになっても」

 

銀次さんの目が、わずかに細くなった。

 

「ロベルタが命懸けで守ってくれたんだから、その分まで幸せに生きよう……なんて、僕には到底思えません」

 

「…………」

 

「たとえロベルタが、僕にそうしてほしいと願っていたとしても、です」

 

銀次さんは何も言わない。

 

「……銀次さん」

 

「へい」

 

「雪緒さんは、どうなんでしょうね」

 

「……お嬢が?」

 

「ええ。銀次さんは、雪緒さんのためなら自分がどうなってもいいっておっしゃいましたよね」

 

「……へえ」

 

「でも、それは銀次さんの考えでしょう?」

 

俺は少しだけ身を乗り出した。

 

「雪緒さんが、銀次さんを失ってまで幸せになりたいと思っているかどうか……考えたことはありますか?」

 

「…………」

 

「僕には、雪緒さんがそんなに弱い人には見えませんでした」

 

銀次さんの表情が変わった。

 

「むしろ、銀次さんと同じくらい頑固で、大切なもののためなら何だってする人なんじゃないかって」

 

……知っている。

 

俺は、その強さがどこへ向かうのかを知っている。

 

銀次さんが死んだ後。

 

雪緒さんが、その刀で何をするのか。

 

全部、知っている。

 

だからこそ。

 

「本当に雪緒さんに日の当たる道を歩いてほしいなら……」

 

俺は銀次さんを見つめた。

 

「銀次さんも、その隣を歩く覚悟を持ってください」

 

「…………」

 

「命を懸けて守る覚悟だけじゃなくて、生きて一緒に幸せになる覚悟も」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

やがて銀次さんが、静かに口を開いた。

 

「……坊ちゃん。俺にゃ、俺なりの仁義ってもんがありやす」

 

「……仁義、ですか」

 

「へえ。先代から受けた恩もありやす。今さらそいつを放り出すわけにゃいきやせん」

 

「……そうですか」

 

俺は少し考えてから、口を開いた。

 

「じゃあ、ひとつ聞いてもいいですか?」

 

「何ですかい?」

 

「銀次さんのその仁義は、自分のためにあるんですか? それとも、誰かのためにあるんですか?」

 

「…………」

 

「自分の信念を貫くためなら、それも一つの生き方だと思います」

 

俺は続けた。

 

「でも、雪緒さんのためだと言うのなら……雪緒さんが何を望んでいるのか、ちゃんと考えてあげてください」

 

「…………」

 

「銀次さんが命を捨てることを、雪緒さんが望んでいるとは、僕には思えません」

 

銀次さんは、何も答えなかった。

 

……ああ。

 

言っちまった。

 

完全に、余計なことを言っちまった。

 

「……すみません。生意気なことを言いました」

 

俺は小さく頭を下げた。

 

銀次さんは、しばらく黙っていた。

 

やがて、ふっと息を吐く。

 

「……いや。耳が痛え話ですな」

 

「…………」

 

「まさか、坊ちゃんみてえな若いお人に、説教されるたぁ思いやせんでした」

 

そう言って、苦笑した。

 

「ですがね……」

 

銀次さんは、雪緒さんたちが去った方へ目を向けた。

 

「……考えてみやしょう」

 

……そうか。

 

それなら、よかった。

 

本当に。

 

……これで終わりにしよう。

 

これ以上は、駄目だ。

 

俺はそう自分に言い聞かせた。

 

そして。

 

「……銀次さん。紙とペン、ありますか?」

 

……おい。

 

何を言ってるんだ、俺は。

 

「……へい?」

 

「ちょっと、貸してもらえませんか?」

 

銀次さんは不思議そうな顔をしながらも、屋台の奥から紙とボールペンを持ってきてくれた。

 

俺はそこに、番号を書きつける。

 

ベネズエラにある、俺の直通電話番号だ。

 

「……こいつは?」

 

「僕に直接つながる番号です」

 

紙を折り畳み、銀次さんに差し出した。

 

「もし、いつか……どうにもならなくなったら」

 

「…………」

 

「そのとき、雪緒さんと一緒に逃げる覚悟があるのなら、ここに電話してください」

 

銀次さんは、差し出された紙を見つめた。

 

「……坊ちゃん。そいつは、どういう意味ですかい?」

 

「そのままの意味ですよ」

 

俺は小さく笑った。

 

「これでも、南米ではそれなりに名の通った家の息子なんです」

 

「…………」

 

「腐っても名家ですからね。二人くらい匿う場所は、どうにか用意できますよ」

 

「……あんた」

 

銀次さんの声が、少し低くなった。

 

「俺らがどういう人間か、分かって言ってるんですかい?」

 

「ええ。なんとなくは」

 

「…………」

 

「ただし、条件があります」

 

「……条件?」

 

「雪緒さんと一緒に来てください」

 

俺は、銀次さんをまっすぐ見た。

 

「一人で死ぬ覚悟じゃなくて、二人で生きる覚悟を決めたときに、電話してください」

 

銀次さんは、しばらく俺を見つめていた。

 

やがて、ゆっくりと紙を受け取った。

 

「……随分と、お節介な坊ちゃんですな」

 

「よく言われます」

 

嘘だ。

 

こんなこと、初めてだよ。

 

銀次さんは苦笑し、折り畳まれた紙を懐にしまった。

 

「……ありがたく、預からせていただきやす」

 

「ええ」

 

「ですが、こいつを使うことはねえと思いやすよ」

 

「……そうだといいですね」

 

本当に。

 

心の底から、そう思う。

 

そのときだった。

 

「銀さん!」

 

人混みの向こうから、雪緒さんの声が聞こえた。

 

振り向くと、ロベルタと雪緒さんがこちらへ歩いてくる。

 

二人とも、ずいぶん楽しそうだ。

 

「お待たせしました!」

 

「お帰りなさい。神楽はどうでした?」

 

「とても素敵でしたよ!」

 

雪緒さんは嬉しそうに笑った。

 

「ロベルタさんにも楽しんでいただけたみたいです」

 

「そうなんですか?」

 

ロベルタが俺のそばに来て、柔らかく微笑んだ。

 

「はい、若様。大変素晴らしい舞でした」

 

「それはよかった」

 

「雪緒様には、いろいろと教えていただきました」

 

見ると、雪緒さんも満足そうに笑っている。

 

……よかった。

 

少なくとも今、この二人は何も知らずに笑っている。

 

「……銀さん?」

 

雪緒さんが、ふと銀次さんを見上げた。

 

「どうかしましたか?」

 

「……いえ、何でもありやせんよ、お嬢」

 

銀次さんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。

 

「坊ちゃんと、ちょいと世間話をしてただけでさあ」

 

「そうですか」

 

雪緒さんはそれ以上気にすることなく、ロベルタに向き直った。

 

銀次さんと、ほんの一瞬だけ目が合った。

 

互いに何も言わない。

 

さっきの話は、今はまだ、俺たち二人だけの秘密だ。

 

「若様、そろそろお時間が」

 

ロベルタが腕時計を確認して言った。

 

「あ、もうそんな時間か」

 

空港へ向かわなければならない。

 

「すみません。そろそろ帰らないと」

 

「まあ、もうお帰りなんですか?」

 

雪緒さんが残念そうな顔をした。

 

「はい。今日の飛行機で帰国するんです」

 

「そうでしたか……」

 

「雪緒さん、今日はありがとうございました。ロベルタも楽しめたみたいですし」

 

「いえ、こちらこそ。とても楽しかったです」

 

雪緒さんはロベルタにも向き直り、ゆっくりと英語で別れの挨拶をした。

 

ロベルタも笑顔で応える。

 

すっかり仲良くなったもんだな。

 

「それじゃあ、銀次さんも。お世話になりました」

 

「へい。道中、お気をつけて」

 

銀次さんは、いつもの調子で頭を下げた。

 

けれど、俺と目が合ったときだけ、ほんのわずかに表情が変わった。

 

「……坊ちゃん」

 

「はい?」

 

「今日のお話、忘れやせんよ」

 

「…………」

 

俺は小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

それ以上は何も言わなかった。

 

雪緒さんと銀次さんに見送られ、俺たちは祭りの人混みを後にした。

 

***

 

帰りの飛行機。

 

窓の外には、どこまでも暗い空が広がっていた。

 

隣の席では、ロベルタが静かに眠っている。

 

日本に来てからというもの、食べて、歩いて、また食べて。

 

……まあ、そりゃ疲れるよな。

 

俺は座席に深く腰掛け、目を閉じた。

 

今回の日本旅行。

 

寿司、ラーメン、牛丼、天ぷら、蕎麦、カレー。

 

食べたいものは大体食べたし、買い物もできた。

 

ロベルタも楽しんでくれた。

 

父さんへの土産話も、山ほどある。

 

最高の旅行だった。

 

……最後の最後で、あの二人に出会わなければ。

 

鷲峰雪緒。

 

松崎銀次。

 

まさか、こんなところで出会うとは思わなかった。

 

俺は二人の未来を知っている。

 

この先、鷲峰組がどうなるのか。

 

ホテル・モスクワと何が起こるのか。

 

そして、二人がどんな結末を迎えるのか。

 

……全部、知っている。

 

助けようと思えば、方法はいくつも考えられる。

 

金もある。伝手もある。

 

俺が本気で動けば、少なくとも何かを変えることはできるだろう。

 

でも。

 

その結果、何が起こる?

 

本来起こるはずだった出来事が変われば、その影響がどこへ及ぶかなんて分からない。

 

ホテル・モスクワ。

 

バラライカ。

 

ロアナプラ。

 

そして、ラブレス家。

 

……父さんとロベルタ。

 

俺は隣で眠るロベルタを見た。

 

絶対に嫌だ。

 

あの二人を助けるために、父さんやロベルタを危険にさらすなんて。

 

そんな選択は、俺にはできない。

 

……そう思っていたはずなのに。

 

説教までして、挙げ句の果てには自分の電話番号まで渡してしまった。

 

馬鹿だな、俺。

 

もし本当に電話がかかってきたら、どうするつもりなんだ?

 

ホテル・モスクワが関わっていたら?

 

父さんやロベルタにまで危険が及ぶかもしれないのに?

 

……分からない。

 

でも。

 

あの二人が、どうしようもなくいい人たちだったんだ。

 

雪緒さんは、ロベルタと楽しそうに笑っていた。

 

銀次さんは、自分の命よりも雪緒さんの幸せを願っていた。

 

そんな二人が、あんな結末を迎えると知っていて。

 

……何もしないなんて、できなかった。

 

俺は隣で眠るロベルタを見た。

 

父さんとロベルタが一番大切だ。

 

それは変わらない。

 

だけど、それ以外の人間がどうなってもいいなんて、俺には思えない。

 

……困ったな。

 

どうやら俺は、自分で思っていたほど、割り切れる人間じゃないらしい。

 

「……若様?」

 

隣から、小さな声がした。

 

見ると、ロベルタが目を開けていた。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「……ううん。何でもないよ」

 

「そうですか?」

 

「うん。ただ、今回の旅行、楽しかったなって」

 

ロベルタは、嬉しそうに微笑んだ。

 

「はい。私も、とても楽しかったです」

 

「また来ようね」

 

「ええ。ぜひ」

 

俺はロベルタの肩に、そっと頭を預けた。

 

……雪緒さん。

 

銀次さん。

 

どうか、二人とも。

 

日の当たる道を、歩いてくれ。

 

できることなら。

 

二人、一緒に。

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