BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
守るべきもの
日本から帰国して、半年が経った。
俺もとうとう十五歳。身長は百六十五センチになり、身体つきも以前とは随分変わった。
原作のガルシアがこの年頃にどれくらいの体格だったのかは知らないが、少なくとも俺の記憶にある彼よりは、たくましく育っている気がする。
これも日頃の運動と、タンパク質をたっぷり摂る食生活のおかげだろう。
肉、魚、卵、牛乳。食事にはそれなりに気を遣っているし、運動だって欠かしていない。
前世ではここまで健康的な生活を送っていなかった気がする。転生してからというもの、我ながら実に健全な成長を遂げている。
もっとも、その健康的な生活の一環として、毎朝メイドに殴られたり投げ飛ばされたりしているわけだが。
「坊ちゃま、参ります!」
目の前でファビオラが地面を蹴った。
鋭い蹴りが脇腹を狙う。
俺は半歩下がってそれをかわした。
しかし、ファビオラは止まらない。着地と同時に踏み込み、今度は拳を突き出してくる。
「っと!」
間一髪で受け流す。
相変わらず、いい動きをする。
ファビオラは俺よりずっと小柄だが、格闘技術では今でも彼女の方が上だ。攻撃の速さも正確さも申し分なく、こちらの隙を見つけるのも上手い。
実際、以前は何度挑んでも勝てなかった。
ただ、最近は少しずつ事情が変わってきている。
俺の身体が大きくなったこともあるが、それ以上に、ファビオラの動きが以前よりよく見えるようになったのだ。
いや、正確には違う。
次に何をしてくるのか、わかるようになってきた。
「ふっ!」
ファビオラの拳が頬をかすめる。
危ない危ない。
今のは少し判断が遅れた。
俺は距離を取り直し、彼女の様子をうかがった。
呼吸、視線、足運び。
何年も相手をしてもらっているのだ。彼女の得意な攻撃も、追い詰められたときの反応も、それなりに頭に入っている。
もっとも、動きが読めたからといって、必ず対処できるわけではない。
頭で理解していても、身体が追いつかなければ意味がないからだ。
だが、今は違う。
少なくとも、以前よりはずっと動ける。
さて。
そろそろ仕掛けてみようか。
俺は構えを変え、右側の守りをわずかに下げた。
ファビオラの視線が、そこへ向く。
よし。
彼女が踏み込んできた。
俺の右側を狙った拳が伸びる。
その瞬間、俺は彼女の腕をつかんだ。
「っ!」
ファビオラがとっさに腕を引く。
予想どおり。
俺はその力に逆らわず、引かれる方向へ踏み込んだ。
そして、彼女の足を払う。
「きゃっ!」
ファビオラの身体が傾いた。
すぐに体勢を立て直そうとするが、そこは逃がさない。
俺は彼女の腕を引き寄せ、そのまま地面へ倒した。
すかさず上から押さえ込む。
「……参りました」
「よっしゃ!」
思わず声が出た。
勝った。
しかも、今回は力任せに押し倒したわけじゃない。狙ったとおりに相手を動かして、きちんと一本を取れた。
俺が手を離すと、ファビオラは仰向けのまま小さく息を吐いた。
「……まったく。最近は本当に勝てなくなってきましたね」
「そう言いながら、昨日は俺を二回も転がしたけどね」
「三回ですよ、坊ちゃま」
「訂正しなくていいから」
差し出した手を取って、ファビオラが立ち上がる。
「先ほどは、わざと隙を見せたのですね?」
「うん。ファビオラなら見逃さないと思ったから」
「その後の動きまで読まれていたとは……。私もまだまだ修行が足りません」
「いやいや、技術は今でもファビオラの方が上だよ。俺が勝てるようになったのは、身体が大きくなったのと、何度も相手をしてもらってるおかげだから」
「それでも、立派な成長です」
ファビオラは嬉しそうに微笑んだ。
「以前は、私の攻撃を見切っていても、身体がついてこないことが多かったですから」
「そうなんだよね。わかってるのに避けられないって、あれ結構悔しいんだよ」
「ふふっ。ですが、今ではそれも少なくなりました」
そう言って、彼女は再び構えを取った。
「では、もう一本お願いいたします」
「えっ、まだやるの?」
「もちろんです。今度は私が勝ちますから」
にっこり。
……負けず嫌いだなあ。
まあ、俺も人のことは言えないけど。
俺は苦笑しながら、もう一度拳を構えた。
強くなっている。
少なくとも、半年前の自分よりは確実に。
それでも、まだ足りない。
ファビオラに勝てるようになったところで、ロベルタのような本物の怪物には遠く及ばないのだから。
……先は長いな。
*
訓練を終えて汗を流し、朝食を済ませた俺は、父さんの執務室へ向かった。
最近は午前中の時間を使って、父さんの仕事を手伝うことが多い。
十五歳になったのを機に、父さんは俺を一人前の男として扱ってくれるようになった。
農園の経営、取引先との交渉、設備投資、資金繰り。
以前なら横で話を聞くだけだった仕事にも、少しずつ参加させてもらっている。
もちろん、まだ勉強中の身だ。
だが、これでも投資に関しては、それなりの成果を出している。
未来の知識という、少々反則じみた武器があるからだ。
俺が提案した投資案件のいくつかは、ラブレス家にかなりの利益をもたらしていた。
もっとも、すべての提案が採用されたわけではない。
中には、父さんから却下されたものもある。
理由は簡単。
根拠が足りないからだ。
俺としては将来値上がりすると知っている銘柄でも、父さんからすれば、息子が突然持ち込んできた怪しげな投資話にすぎない。
しかも、その根拠を説明できない。
そりゃ却下されるわ。
父さんはラブレス家の財産を預かる当主なのだ。俺の勘に大金を賭けるわけにはいかないだろう。
だから、そういう案件には自分のお金を使うことにしている。
結果として、現在の俺の個人資産は時価でおよそ五百万ドル。
なかなか立派な数字である。
……まあ、ほとんどを投資に回しているので、銀行口座に五百万ドルが眠っているわけではないのだが。
ちなみに父さんは、俺が個人的に投資していることは知っているものの、詳しい金額までは知らない。
別に隠しているわけじゃない。
聞かれていないだけだ。
……知ったら、どんな顔をするんだろう。
ちょっと見てみたい気もする。
「父さん、入ってもいい?」
「ああ、ガルシア。入りなさい」
扉を開けると、父さんは机に向かって書類を読んでいた。
「おはよう。今朝もファビオラと訓練していたのかい?」
「うん。今日は一本取れたよ」
「ほう! それは素晴らしいじゃないか」
父さんが嬉しそうに笑った。
「彼女は非常に優秀だからね。勝てるようになったとは、随分と腕を上げたものだ」
「まあ、まだまだだけどね」
「その謙虚さも大切だよ。さあ、座りなさい。今日は相談したいことがあるんだ」
俺は勧められた椅子に腰を下ろした。
差し出されたのは、農園の設備更新に関する資料だった。
どうやら、老朽化した灌漑設備を新しくしたいらしい。
費用は決して安くない。
だが、故障による損失や維持費を考えれば、長期的には十分な価値がありそうだった。
「どう思う?」
「更新には賛成かな。ただ、一度に全部やる必要はないと思う」
「理由を聞かせてくれるかい?」
「故障が多い区画から順番に更新すれば、資金繰りに余裕ができるし、新しい設備の効果も確認できるでしょう? それを見てから残りを進めても遅くないと思う」
「なるほど。私も同じ考えだよ」
父さんは満足そうに頷いた。
「ただ、農園の責任者は全面更新を希望しているんだ。お前ならどうする?」
「まずは理由を聞くよ。現場には現場の事情があるだろうし」
「うん。それがいい」
父さんは微笑んだ。
「数字だけで判断してはいけない。実際に働く人々の意見にも耳を傾けなければね」
「うん」
こういうところは、本当に尊敬している。
父さんは農園で働く人々を、単なる労働力として見ていない。
彼らの生活も、家族も、自分が守るべきものだと考えている。
だからこそ、俺も安心して経営を学べるのだ。
その後も、取引先との契約や来年度の予算について話し合った。
父さんの説明は丁寧で、こちらの意見もきちんと聞いてくれる。
仕事の話をしているときの俺たちは、以前よりずっと対等になった気がした。
だからだろうか。
ずっと気になっていたことを、今なら聞けるような気がした。
「……そういえば父さん、一つ聞いてもいい?」
「何だい?」
「この前、屋敷に政治家の方が来ていたよね。何かあったの?」
「ああ、あの方か」
父さんは書類を置いた。
「第五共和国運動、MVRの議員だよ。以前から親交があってね。今後の活動について相談を受けていたんだ」
……MVR。
その名前を聞いて、胸の奥が冷たくなった。
第五共和国運動。
父さんが支持している政治勢力であり、原作で父さんが命を落とすことになる事件にも関係している。
確か、MVRの指導者を狙った爆破事件だったはずだ。
父さんは、その巻き添えになって死ぬ。
だが、肝心の日時も場所も覚えていない。
どの集会だったのかすら、はっきりしないのだ。
くそっ。
こういうときに限って、どうして覚えていないんだ。
「ガルシア?」
「あ……ごめん。ちょっと考え事をしてた」
「そうかい」
「父さんは、これからもMVRを支援するつもり?」
「もちろんだよ。彼らの掲げる改革には、私も共感しているからね」
父さんは穏やかに答えた。
「お前も知っているだろう。この国には、懸命に働いても貧しさから抜け出せない人々が大勢いる。十分な教育を受けられない子供たちもいるんだ」
「……うん」
「政治の腐敗も深刻だ。本来なら人々の暮らしを支えるために使われるべき富が、正しく行き渡っていない」
父さんは窓の外へ目を向けた。
その先には、ラブレス家の農園が広がっている。
「私は、この国を少しでも良くしたいと思っている。生まれた環境によって人生が決まるのではなく、誰もが安心して暮らし、努力に応じた機会を得られる社会にしたいんだ」
その言葉に嘘はなかった。
父さんは本気でそう思っている。
ロベルタやファビオラのように、幼い頃から過酷な環境に置かれた人間が、二度と生まれないように。
きっと、そんな願いもあるのだろう。
立派な理想だ。
俺だって、そんな国になればいいと思う。
でも。
「父さん。少し気になることがあるんだ」
「何かな?」
「MVRには、政敵が多いでしょう?」
「……そうだね」
「父さんが個人的に支持するだけならともかく、ラブレス家として深く関われば、僕たちまで敵視される可能性があると思う」
父さんは黙って俺を見つめた。
「僕たちは地主で、資本家だ。今の経済体制の中では、十分に恵まれた立場にいる。だからこそ、既存の体制と対立することには慎重になるべきじゃないかな」
「なるほど。続けなさい」
「政府の有力者、大企業、他の名家……。この国には、僕たちより大きな力を持っている人たちがたくさんいる。MVRへの支援を続ければ、そういう人たちとの関係が悪くなるかもしれない」
俺は机の上の収支報告書に目を落とした。
「例えば、取引先が契約を見直したら? 行政から不当な圧力を受けたら? 農園の経営が悪化すれば、使用人たちの雇用にも影響が出る」
「……」
「それに、嫌がらせが経済的なものだけで済む保証もない。屋敷や農園が襲われたら、ここで働く人たちの安全はどうなるの?」
父さんの表情が引き締まった。
「父さんは、この国の人々を守りたいんだよね。それはわかる。でも、そのために今ここで暮らしている人たちを危険にさらすのは、本末転倒じゃないかな」
しばらく沈黙が続いた。
父さんは腕を組み、考え込んでいる。
俺はその様子をじっと見つめた。
感情的になってはいけない。
まずは冷静に、経営上の危険を理解してもらうんだ。
父さんは決して愚かな人じゃない。
筋道を立てて説明すれば、きっと耳を傾けてくれる。
「……ガルシア」
やがて父さんが口を開いた。
「お前の指摘はもっともだよ。私の政治的な立場によって、農園や使用人たちに不利益が及ぶ可能性は、決して軽視してはいけない」
「だったら――」
「だが、それでも私は、今の社会を変える必要があると思っているんだ」
……ああ。
やっぱり、そう来るか。
「私たちが今の暮らしを維持できているからといって、この国の仕組みが正しいということにはならない。むしろ、恵まれた立場にいるからこそ、果たすべき責任があると私は考えている」
「……父さん」
「この土地で働く人々の暮らしを守ることも、国全体の制度を良くすることも、私にとっては切り離せない問題なんだよ」
父さんは静かに続けた。
「もちろん、無用な危険を招くつもりはない。だが、危険があるという理由だけで、改革を求める人々を見捨てることもできないんだ」
……責任、か。
俺には、どうしても理解できない。
いや、理屈はわかる。
貴族の義務。恵まれた者の責任。
ノブレス・オブリージュというやつだ。
立派な考え方だと思う。
だけど。
そんなもの、俺に言わせればクソ喰らえだ。
父さんやロベルタ、ファビオラの命と引き換えにしてまで果たす責任なんて、俺は認めない。
「父さん。僕は、今すぐ政治に関わる必要はないと思う」
「……どういうことだい?」
「ラブレス家には土地も資産もある。今の立場を維持しながら事業を拡大していけば、十年後にはもっと大きな力を持てるかもしれない」
いや、かもしれない、じゃない。
俺には未来の知識がある。
この先、どんな企業が成長し、どんな産業が世界を変えるのか、ある程度は知っている。
もちろん、すべてが記憶どおりに進む保証はない。
それでも、十年あれば。
うまくやれば、世界有数の資本家にだってなれるかもしれない。
そうなれば、今とは比較にならない規模で社会に影響を与えられる。
「まずは経済力を蓄えるべきだと思うんだ。教育や雇用に投資するにしても、政治家を支援するにしても、もっと大きな力を持ってからの方が、できることは増えるでしょう?」
「……なるほど」
「だから、今は政治的な中立を保ってほしい。わざわざ強大な敵を作る必要はないよ」
父さんはしばらく考え込んだ。
そして、静かに首を振った。
「お前の考えは理解できる。だが、ガルシア。十年後に私たちが今より豊かになっているとして、その十年間、苦しんでいる人々はどうなる?」
「……」
「私たちが十分な力を持つまで、彼らに待っていてほしいと言うのかい?」
父さんの声は、責めるようなものではなかった。
本当に、俺の考えを聞こうとしている。
だからこそ、俺も正直に答えることにした。
「……父さん」
俺は小さく息を吐いた。
「その人たちのために、僕たちの家族や使用人を危険にさらす必要があるの?」
父さんの眉が、わずかに動いた。
「僕は、この国の人たちが不幸になればいいなんて思ってないよ。できることがあるなら助けたいし、父さんの理想だって尊敬してる」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、僕にとっては父さんやロベルタ、ファビオラ、それにこの屋敷や農園で働いてくれている人たちの方が、ずっと大切なんだ」
「ガルシア……」
「十年間待つことで、助けられない人がいるかもしれない。それはわかる。でも、今すぐ政治に関わって、僕たちの大切な人が傷ついたら?」
俺は父さんの目をまっすぐ見つめた。
「僕は、そんな犠牲を払ってまで国を変えたいとは思わない」
執務室が静まり返った。
父さんは何も言わなかった。
いつもなら、俺の話を聞いて穏やかに微笑んでくれる人だ。
けれど今は、その表情がひどく険しい。
……言いすぎただろうか。
いや。
これでも、まだ言いたいことの半分も言えていない。
本当は、国の未来なんてどうでもいい。
父さんが生きていてくれるなら、ラブレス家の財産も、この屋敷も、全部捨てたって構わない。
母さんとの思い出が残るこの場所を離れることになったとしても。
父さんとロベルタとファビオラが一緒なら、それでいい。
俺にとっての家族は、土地でも財産でもないのだから。
「……ガルシア」
しばらくして、父さんが静かに口を開いた。
「お前の気持ちはよくわかった。私たちのことを、それほど大切に思ってくれているのも嬉しいよ」
「だったら……」
「だが、私にも譲れないものがあるんだ」
その声は穏やかだった。
怒っているわけじゃない。
ただ、決して曲げるつもりがないのだと、はっきり伝わってきた。
「私たちの暮らしは、この土地で働く多くの人々に支えられている。その恩恵を受けてきた者として、私は自分たちの利益だけを考えるわけにはいかないんだよ」
「……そう」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
父さんの考えは理解できる。
立派だとも思う。
でも、納得はできない。
きっと父さんも、同じなんだろう。
「……そろそろ、仕事に戻ろうか」
「うん」
父さんは再び書類を手に取った。
俺も目の前の帳簿に視線を落とす。
けれど、さっきまで当たり前のように交わしていた会話は、もう戻ってこなかった。
紙をめくる音だけが、執務室に響いている。
……困ったな。
父さんと喧嘩なんて、したくないのに。
俺はちらりと父さんの顔を見た。
その横顔は、いつもと変わらない。
優しくて、真面目で、少し頑固な、俺の大好きな父さんだ。
だからこそ。
絶対に、失いたくなかった。