BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
BLACK LAGOON
Maid’s Salvation
第三話 信用
未来は変えられる。
そう信じるようになったのは、何も根拠のない楽観からではなかった。
実際に、変わったものがあったからだ。
ラブレス家の財政には余裕が生まれた。
長く後回しにされていた屋敷の修繕が進み、農園にも新しい設備が入った。使用人の数も少しずつ戻り、以前より屋敷の中で人の声を聞くことが増えた。
何より、父上が金のことで難しい顔をする時間が減った。
もちろん、俺一人の力ではない。
父上が経営を立て直し、使用人たちが働き、皆で少しずつ積み上げてきた結果だ。
ただ。
その最初のきっかけの一つを、俺はよく覚えている。
三年前。
俺が十一歳だった頃のことだ。
⸻
「駄目だ」
父上は、俺が持ってきた資料を一通り読んでから言った。
予想はしていた。
それでも、実際に言われると少し堪える。
「……理由を聞いても?」
「逆に聞こう」
父上が資料を机へ置いた。
「なぜ、ここなんだ?」
俺は資料へ目を落とした。
今はまだ、それほど大きくない企業。
世間一般で名前が知られているわけでもない。
だが俺は、この会社の名前を知っていた。
前世で。
十年後、二十年後。
今とは比較にならないほど大きくなっていることも。
「これから伸びると思うからです」
「それは読んだ」
父上が資料の一箇所を指で叩いた。
「私が聞いているのは、なぜお前がそう確信しているのかだ」
やはり、そこを聞かれる。
一番答えに困る質問だった。
未来で有名になる会社だから。
そんなことを言えるはずがない。
「市場がこれから大きくなると思います」
「なぜ?」
「需要が増えるからです」
「なぜ増える?」
質問が続く。
俺は一つずつ答えた。
今ある技術。
人口。
流通。
海外の市場。
これから生活がどう変わっていくのか。
十一歳の俺が理解できる範囲で調べたものを、できる限り順番に説明する。
父上は黙って聞いていた。
途中で何度か質問された。
答えられたものもある。
答えられなかったものもあった。
未来の結果を知っていることと、そこへ至る理由を説明できることは、まったく別だった。
それを俺は、この頃になってようやく理解し始めていた。
話し終える。
父上はしばらく何も言わなかった。
「面白い」
期待して顔を上げる。
「では――」
「だが、駄目だ」
「……やっぱり?」
「やっぱりだ」
父上が苦笑した。
「考え方は悪くない。よく調べてもいる。だが、それとラブレス家の金を実際に投じることは別の話だ」
正論だった。
俺は黙る。
「それに」
父上が俺を見る。
「お前は十一歳だ」
「年齢は関係ないと思います」
「ある」
即答された。
「少なくとも、人に金を預けてもらうにはな」
何も言えなくなった。
今になって思えば、父上は正しかった。
自分が未来を知っているという一点を除けば、十一歳の子供が持ってきた投資話だ。
しかも、その一点を父上は知らない。
信用しろという方が無理がある。
「……分かりました」
資料を集めようとする。
「待ちなさい」
手が止まった。
父上が資料をもう一度手に取った。
「投資はしないと言った」
「はい」
「お前の話を捨てるとは言っていない」
意味が分からず、父上を見る。
「私の方でも調べさせる」
「……本当ですか?」
「ああ」
父上は資料をめくった。
「お前の言うことが正しいかどうかではない。この会社に金を出すだけの根拠が、本当にあるかどうかをだ」
それでも十分だった。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
「礼を言うのはまだ早い」
父上の声は厳しかった。
だが、その顔は少しだけ笑っていた。
「それと、ガルシア」
「はい」
「次にこういうものを持ってくるなら、数字をもっと入れなさい」
資料を見る。
確かに、文章が多い。
「……分かりました」
「自分が分かっていることと、人を納得させられることは違う」
その言葉は、妙に残った。
未来を知っている。
俺にとっては、それだけで十分だった。
だが他人にとっては違う。
未来を知らない人間を動かしたいのなら、その人間が納得できる材料が必要になる。
その日、初めてそれを教えられた。
⸻
投資が決まったのは、それから一か月ほど後だった。
しかも、俺が考えていたよりずっと少額だった。
父上自身が会社について調べさせ、その報告を読んだ上での判断だった。
「お前の言う通りになるとは思っていない」
契約を決めた日、父上はそう言った。
「ただ、調べてみれば悪い会社ではなかった」
それでいい。
最初から、俺の言葉だけで大金を動かしてほしかったわけじゃない。
いや。
本当のことを言えば、少しはそう思っていた。
でも、その考えが子供だったのだと今なら分かる。
そして一年もしないうちに、結果が出た。
⸻
「上がってる」
報告書を見ながら、思わず言った。
知っていた。
こうなることは知っていた。
それでも、自分が実際にこの世界で選んだものが数字になって返ってくると、感覚が違う。
向かいに座る父上は、俺ほど浮かれていなかった。
報告書をじっくり読み込んでいる。
「父上」
「なんだ」
「上がってます」
「見れば分かる」
「かなり」
「それも分かる」
顔を上げない。
「……もう少し喜んでもいいんじゃないですか?」
そこでようやく、父上が俺を見た。
「ガルシア」
「はい」
「一度当てた人間が、一番危ない」
思っていた反応と違った。
「どういう意味です?」
「自分には才能があると思い始めるからだ」
父上は報告書を置いた。
「今回、お前の予測は当たった。それは認めよう」
少しだけ嬉しくなる。
「だが、次も当たるとは限らない」
「……はい」
「金は、当てた人間より、外した時に何をするか知っている人間に預けるものだ」
また一つ、覚えた。
未来を知っている俺には、少し不思議な言葉でもあった。
俺は結果を知っている。
少なくとも、知っているものについては。
なら、外さなければいい。
この頃はまだ、そんなふうにも考えていた。
⸻
次の話を持っていったのは、それからしばらく経ってからだった。
今度は資料の作り方を変えた。
市場規模。
競合。
成長率。
考えられるリスク。
俺自身が理解できなかったところは、人に聞いた。
そして最後に、自分の予測を書く。
父上は前回より長く資料を読んだ。
「少しは見られるようになったな」
褒められているのか分からない。
「ありがとうございます」
「まだ甘い」
やはり褒められてはいなかった。
ただ。
今度は最初から却下されなかった。
父上が調査を命じた。
その結果、投資された。
それも利益を出した。
三度目。
今度は俺が知らない質問をされた。
答えられなかった。
投資は見送られた。
結果として、その会社も後に伸びた。
だから俺だけなら、投資していただろう。
だが父上は言った。
「結果が正しかったからといって、判断まで正しかったことにはならない」
悔しかった。
同時に、面白かった。
俺は未来を知っている。
父上は知らない。
なのに。
経営について話せば話すほど、俺の方が教えられることが多かった。
未来の会社名を知っていても。
投資とは何なのか。
会社とは何なのか。
人を雇うとはどういうことなのか。
金を預かるとはどういうことなのか。
俺は何も知らなかった。
だから覚えた。
父上から。
本から。
専門家から。
屋敷で働く人たちから。
俺の知っている未来を、この世界で使える知識に変えるために。
そうやって一年。
二年。
父上の態度は、少しずつ変わった。
俺が資料を持っていけば、時間を作ってくれるようになった。
意見を聞かれるようになった。
時には父上の方から、
「これはどう思う?」
と資料を渡されるようになった。
そして、ある日のことだった。
二人で会社の報告書を読んでいた時、父上がふと口にした。
「お前は妙なものを見つけてくるな」
「そうですか?」
「ああ」
書類から顔を上げる。
「人がまだ見ていないところばかり見ている」
心臓が、一度だけ強く鳴った。
「……偶然です」
「そうかもしれんな」
父上はそれ以上追及しなかった。
代わりに、少し笑った。
「だが、悪くない」
その言葉が嬉しかった。
最初に利益が出た時よりも。
ずっと。
父上は、俺が未来を知っていることなど知らない。
当然だ。
それでも俺の話を聞くようになった。
結果だけではない。
考え方を見て。
失敗も見て。
何年もかけて。
少しずつ俺を信用してくれるようになった。
その信用を使って、ラブレス家は変わり始めた。
投資による利益のすべてを、さらに投資へ回したわけではない。
農園へ戻した。
設備を直した。
使用人たちの待遇を整えた。
屋敷を修繕した。
父上自身も新しい事業へ動き始めた。
俺の知識は、きっかけに過ぎない。
そこから先を形にしたのは父上だった。
だから。
今、屋敷に人の声が戻っている。
父上が以前より笑う。
ロベルタも穏やかに働いている。
それを見るたびに思う。
変えられた。
少なくとも、ここまでは。
俺が知っている『BLACK LAGOON』と、今ここにあるラブレス家は、もう完全には同じではない。
その事実は、俺に大きな自信を与えた。
同時に。
一つだけ、俺がまだ理解していなかったことがある。
信用は、一日では生まれない。
小さな結果を積み重ね。
言葉を積み重ね。
時間を積み重ねて。
ようやく手に入る。
そのことを、父上から教わった。
なのに俺は――。
未来というものに対してだけは。
まだ、あまりにも簡単に信用しすぎていた。