BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十二話 空の薬室
翌朝、ラブレス家の食堂には、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいた。
ただ、食卓の上座に座るディエゴ・ラブレスの表情だけが、少しばかり冴えなかった。
昨夜、息子に手を上げた。
あのときのガルシアの顔が、どうしても頭から離れない。
「おはよう、父さん!」
顔を上げると、当の息子が食堂に入ってくるところだった。
「……おはよう、ガルシア」
「おはよう、ロベルタ。ファビオラも」
「おはようございます、若様」
「おはようございます!」
ガルシアは二人に笑顔を向け、引かれた椅子に腰を下ろした。
食卓には焼きたてのパンや果物、そして黄金色のオムレツが並んでいる。
「おっ、オムレツだ」
ガルシアの声が少し弾んだ。
「今日はいい朝になりそうだね」
ファビオラがくすりと笑う。
「若様は本当にオムレツがお好きですね」
「好きなものは好きだからね」
そう答える息子を、ディエゴは黙って見つめていた。
あまりにも普段どおりだった。
昨日のことを気にしていないのか。それとも、気にしていないふりをしているのか。
どちらにしても、父親である自分が先に言葉をかけるべきだろう。
ディエゴはそう思いながら、結局その機会をつかめずにいた。
全員が席につき、いつものように食前の祈りを捧げる。
ディエゴが食事を始め、それに続いてガルシアもナイフとフォークを手に取った。
柔らかなオムレツを一口運ぶ。
思わず頬が緩んだ。
昨日と同じ食堂。
昨日と同じ家族。
こうして父親と向かい合って朝食を食べられる。
それが、どれほどありがたいことなのか。
ガルシアは誰にも気づかれないよう、そっと息を吐いた。
*
食事が終わり、食器が下げられた。
ディエゴが食後の茶に手を伸ばしたところで、ガルシアが口を開いた。
「父さん。昨日はごめんなさい」
あまりにも自然に切り出された謝罪に、ディエゴは一瞬言葉を失った。
「僕、ちょっと言いすぎたよ。父さんがどれだけ真剣に考えているか、ちゃんとわかっていたはずなのに」
「……ガルシア」
「だから、もう父さんの政治活動に反対するようなことは言わない。僕も父さんの考えを尊重したいんだ」
ディエゴは静かにカップを置いた。
「お前が謝る必要はない」
「え?」
「いや、意見をぶつけ合うこと自体は悪いことではない。お前にはお前の考えがある。それを私が力で押さえつけてよいはずがない」
ディエゴは息子をまっすぐに見た。
「昨日はすまなかった。父親として、恥ずべきことをした」
ガルシアはしばらく黙っていた。
父親の謝罪が、胸に染みた。
「……うん。謝ってくれてありがとう」
そして、にっこりと笑う。
「じゃあ、仲直りだね」
「ああ」
ディエゴもようやく笑った。
「仲直りだ」
そのやり取りを見守っていたロベルタは、胸を撫で下ろした。
昨夜の若様は、笑顔こそ見せていたものの、どこか無理をしているようにも見えた。
だが今、父親へ向けた笑顔には、偽りのない喜びがあった。
それが何より嬉しかった。
「ところで父さん、ひとつお願いがあるんだけど」
「何だ?」
「家の仕事を、もう少し手伝わせてもらえないかな」
「ほう?」
ディエゴが眉を上げる。
「今でも十分に助けてもらっているが」
「まだできることはあると思うんだ。例えば、父さんがあまり顔を出せない集まりとか」
「集まり?」
「商工会の催しとか、企業の経営者が集まる食事会とか。そういうところに、僕がラブレス家の代表として出席するのはどうかなって」
ディエゴは考え込んだ。
ラブレス家は古くからの名家であり、当然ながら政財界にも多くの縁を持っている。
しかし、近年のディエゴの政治活動は、従来の上流階級との関係に少なからぬ影響を与えていた。
彼が支持する運動に反感を抱く資産家は多い。
招待状が届いても、出席を見送ることが増えていた。
「確かに、そうした席からは少々遠ざかっていたな」
「でしょう?」
ガルシアは頷いた。
「政治的な意見が違っても、仕事の上では協力できることがあるかもしれない。それに、僕もいずれ家のことをもっと覚えなきゃいけないし」
「なるほど。だが、そういう場には、お前の年齢では難しい話も多いぞ」
「だったら、なおさら勉強になるよ」
ガルシアは落ち着いて答えた。
「もちろん、勝手に契約したり、父さんの代わりに何かを約束したりはしない。最初は挨拶をして、顔を覚えてもらうだけでもいいと思ってる」
ディエゴは息子を見つめた。
言葉を選び、できることとできないことをきちんと区別している。
まだ十五歳だというのに、時折、驚くほど思慮深い顔を見せる。
「……わかった。考えてみよう」
「本当?」
「ああ。ただし、最初は私が相手を選ぶ。それから、必要なら誰かを同行させる。よいな?」
「もちろん!」
ガルシアの顔が明るくなった。
「ありがとう、父さん」
「礼を言うのはこちらだ。お前がそこまで家のことを考えてくれているとはな」
ディエゴは満足そうに微笑んだ。
息子が自分の信念を尊重し、家の仕事にも積極的に関わろうとしている。
父親として、これほど嬉しいことはなかった。
ガルシアも笑った。
父親の役に立てることは、心から嬉しい。
ただし、それだけが理由ではなかった。
父さんが会えない人間に、僕なら会えるかもしれない。
父さんが聞けない話を、僕なら聞けるかもしれない。
その小さな可能性に、賭けるしかなかった。
*
自室へ戻ったガルシアは、机の上に広げた資料を見下ろした。
企業名。政治家の名前。商工会の役員。地方の有力者。
調べれば調べるほど、知らない名前が増えていく。
ガルシアは一枚の招待状を手に取った。
以前、父親のもとに届いていたものだ。
主催者は地元でも名の知られた実業家。招待客には企業経営者や政治関係者が名を連ねている。
ディエゴが出席を見送った会合の一つだった。
(……こういうところから始めるしかないか)
ガルシアはノートを開き、招待客の名前を書き写した。
政治的に対立しているからといって、相手が暗殺計画を知っているとは限らない。
むしろ、何も知らない人間の方が圧倒的に多いはずだ。
それでも、誰が誰とつながっているのか。どんな利害が対立しているのか。
そうした情報を集めれば、何かが見えてくるかもしれない。
(いきなり核心に迫れるとは思ってない)
ペンを走らせながら考える。
(まずは顔を覚えてもらう。信用してもらう。それからだ)
相手は長年、商売や政治の世界で生きてきた大人たちだ。
未来の出来事を知っているからといって、目の前の人間の考えまで読めるわけではない。
ましてや、相手の本音を簡単に引き出せるなどとは思っていなかった。
だからこそ、準備が必要だった。
ガルシアは資料を整理し、調べるべき項目を書き出していく。
その手つきに迷いはなかった。
*
数日後。
ガルシアは父親の書斎を訪れていた。
ディエゴから頼まれていた書類を届けるついでに、今後の仕事について確認するためだった。
「父さん、来月の予定って、もう決まってる?」
「おおむねな。どうした?」
「この前話していた社交行事のこと。父さんの予定と重ならないようにしておきたいんだ」
「そうか。それなら秘書に予定表を確認させよう」
「ありがとう。あと、政治集会の予定もわかると助かるんだけど」
「政治集会?」
「うん。父さんが不在のときに、僕が代わりに対応できる仕事もあるかもしれないでしょう?」
ディエゴは納得したように頷いた。
「なるほど。確かにそうだな」
机の上の予定表を開き、いくつかの日付を指し示す。
「今のところ、来月はこちらの集会に出席する予定だ。ほかにも調整中のものがあるが」
「そっか」
ガルシアは日付を確認した。
そして、何事もなかったかのように頷く。
「わかった。じゃあ、その日は僕も予定を空けておくよ」
「頼もしいな」
ディエゴは笑った。
「無理のない範囲で頼むぞ」
「うん。任せて」
ガルシアは笑顔で答え、書斎を後にした。
扉が閉まる。
廊下には、誰もいなかった。
ガルシアは立ち止まった。
(……来月、か)
先ほど聞いた日付が、頭の中で繰り返される。
父親は政治集会で爆死する。
それだけは覚えている。
だが、いつなのか。
どこなのか。
どの集会なのか。
肝心なことが、どうしても思い出せない。
(次かもしれない)
喉の奥が、ひどく乾いた。
(次の集会が、最後になるかもしれない)
そう考えるだけで、胸が締めつけられる。
これまでにも、父親が政治活動のために出かけることはあった。
そのたびに気が気ではなかった。
無事に帰宅した姿を見て、ようやく息をつけた。
だが、安心できるのはその瞬間だけだ。
次の予定が決まれば、また同じ恐怖が始まる。
しかも、次の集会まで何事も起こらない保証すらない。
父親が出席する行事のすべてを、自分が把握できているわけではないのだ。
(……急がないと)
ガルシアは唇を噛んだ。
何を急げばいいのか。
誰に会えばいいのか。
どんな情報を集めれば、あの爆破事件にたどり着けるのか。
まだ、何もわからない。
それでも、立ち止まることはできなかった。
父親が笑顔で家を出るたびに、これが最後になるのではないかと怯える。
そして、無事に帰ってきたら安堵する。
その繰り返し。
まるでロシアンルーレットだった。
引き金が引かれるたびに、今度こそ弾丸が飛び出すかもしれない。
何度空撃ちで終わろうと、次もそうだとは限らない。
ガルシアは静かに息を吐いた。
父親には、そんな恐怖を知られたくなかった。
ロベルタにも、ファビオラにも。
家族には、いつもどおり笑っていてほしい。
そのために、自分は動いているのだから。
「若様!」
廊下の向こうから、ファビオラの声が聞こえた。
「婦長様がお呼びですよ!」
「ああ、今行く!」
ガルシアは顔を上げた。
そして、いつもの笑顔を浮かべる。
父親の命を救う。
そのために、今できることを一つずつ積み重ねていく。
たとえ、残された時間がどれほどあるのか、わからなくても。
ガルシアはファビオラの待つ方へ歩き出した。