BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十三話 同じ階級の異端者
ラブレス家の名は、まだそれなりの力を持っているらしい。
ガルシアは会場の入り口で、自分に向けられる視線を感じながら、そんなことを考えていた。
バリナスの有力実業家が主催する晩餐会。
広々とした邸宅には、銀行家、大地主、企業経営者、そして地方政界に顔の利く人物たちが集まっていた。
磨き上げられた大理石の床。壁を飾る油彩画。庭園に面した大きな窓。
控えめな弦楽四重奏が流れる中、給仕たちが招待客の間を行き交っている。
「若様、まずは主催者にご挨拶を」
隣に立つ男性が、小声で告げた。
ラブレス家と長年付き合いのある法律顧問、エステバン・サルセド。
ディエゴは今回、息子の初めての社交行事に彼を同行させていた。
「うん。お願いするよ」
ガルシアは襟元を軽く整えた。
緊張していないわけではない。
ただ、ここで必要以上に気負っても仕方がなかった。
自分はラブレス家の跡取りとして招かれている。それ以上でも、それ以下でもない。
「参りましょう」
二人は会場の奥へと歩き出した。
*
「これはこれは。ガルシア君ではありませんか」
主催者のラファエル・ベラスケスは、五十代半ばの恰幅のよい男だった。
農産物取引と輸送業で財を成し、地元の実業家たちの間ではよく知られた人物である。
「本日は父の名代として参りました。ガルシア・ラブレスです」
ガルシアは丁寧に挨拶した。
「父からも、よろしくお伝えするようにと」
「いやいや、ご丁寧に。ディエゴ殿はお元気ですかな?」
「はい。相変わらず忙しくしています」
「でしょうな」
ベラスケスは意味ありげに笑った。
「最近は、ずいぶんと政治活動に熱心でいらっしゃるようですから」
「ええ。父らしいと思います」
ガルシアは穏やかに答えた。
ベラスケスは一瞬だけ目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「しかし、十五歳で父君の代理とは。立派なものですな」
「まだ勉強中です。今日は皆さんのお話を伺えればと思っています」
「ははは。それは結構。どうぞ楽しんでいってください」
ベラスケスはサルセドにも挨拶を交わし、次の客を迎えるために離れていった。
ガルシアはその背中を見送った。
「……父さん、あまり歓迎されてないみたいだね」
サルセドがわずかに苦笑した。
「旦那様個人を嫌っているというより、政治的な立場に戸惑っておられるのでしょう」
「なるほど」
「この場にいる方々の多くは、旦那様と同じ社会階層に属していますからな」
「だからこそ、理解できないわけだ」
ガルシアがそう言うと、サルセドは頷いた。
「おそらくは」
ガルシアは会場を見渡した。
高価な時計。仕立てのよいスーツ。代々受け継がれてきた家名。
彼らの多くは、この国で成功を収めてきた人々だった。
そして、その成功を失うことを恐れている。
*
最初に紹介されたのは、農園をいくつも所有する実業家、アルベルト・モラレスだった。
「ラブレス家のご子息か。お父上には以前、随分とお世話になったものです」
「こちらこそ。父からもお名前は伺っています」
「そうですか」
モラレスは柔らかく笑った。
「それにしても、最近は落ち着かない世の中になりましたな」
「といいますと?」
「土地のことですよ」
モラレスは手にしたグラスを軽く揺らした。
「最近は、土地を持つこと自体が罪であるかのように語る者までいる。先祖が何代もかけて守ってきた土地を、まるで不当に奪ったもののように扱うのですから」
ガルシアは黙って耳を傾けた。
「もちろん、貧しい人々の暮らしが苦しいことは承知しています。ですが、だからといって土地を分け与えればすべて解決するというものでもない」
「農園を維持するにも、資金や設備が必要ですからね」
「ええ。それに、土地だけあっても農業はできません。灌漑設備も、機械も、販路も必要だ。そうしたものを整えてきたのは誰なのか、と言いたくもなります」
モラレスの口調には、単なる不満以上のものがあった。
自負。
自分たちが地域の経済を支えてきたという確信。
そして、それを認めようとしない人々への苛立ち。
「父も、農業を営むことの難しさは理解していると思います」
ガルシアは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、父は土地を持たない人たちの暮らしも、どうにか良くしたいと考えているんです」
「それはわかります」
モラレスは頷いた。
「ディエゴ殿が善意で動いておられることは、私も疑っておりません」
そこで、少しだけ声を落とした。
「しかしね、ガルシア君。善意で始めたことが、善い結果を生むとは限らないのですよ」
ガルシアはその言葉を受け止めた。
「……そうですね」
安易に否定できる話ではなかった。
政策がどのような結果をもたらすかは、理念だけでは決まらない。
まして、自分はこの国の農業政策について、十分な知識を持っているわけでもない。
「僕も、もっと勉強しないといけませんね」
「ははは。十五歳なら、これからいくらでも学べますとも」
モラレスは機嫌よく笑った。
「興味がおありなら、一度うちの農園をご覧になりますかな。机の上ではわからないことも多いですから」
「ぜひ。父にも相談してみます」
「そうなさい」
モラレスは名刺を差し出した。
ガルシアは礼を述べ、それを受け取った。
初めての訪問先が、一つできた。
*
晩餐の席では、政治の話題が何度も上った。
もっとも、それは政策の細部を議論するようなものではなかった。
彼らが口にするのは、自分たちの周囲で起きている変化への不安だった。
「また労働者たちが賃上げを要求しているそうだ」
「賃金だけなら、まだ交渉の余地はある。厄介なのは、要求を呑まなければ操業を止めると脅してくることだ」
「最近は政治家まで彼らを後押しする。経営者が悪者で、労働者が被害者だと決めつけているようなものだ」
男たちは口々に不満を述べた。
ガルシアは食事を終えたあと、サルセドとともにその会話の輪へ加わった。
「まったく、世の中の空気が変わってしまった」
年配の銀行家がため息をついた。
「以前なら、土地や事業を持つ者は尊敬されたものです。今では財産を持っているというだけで、疑いの目を向けられる」
「それもこれも、民衆を煽る連中のせいでしょう」
別の男が吐き捨てるように言った。
「富裕層から取り上げれば、国が豊かになると本気で信じている」
「連中は、我々がどれほどの雇用を生み出しているか理解しておらんのですよ」
ガルシアは静かに耳を傾けていた。
彼らが恐れているのは、単に利益が減ることではない。
自分たちが長年築いてきた社会的な地位。
人々から向けられる敬意。
政治家とのつながり。
そうしたものが、少しずつ揺らいでいることだった。
「そういえば、ラブレス家も随分と変わりましたな」
不意に、一人の男がガルシアへ目を向けた。
「ディエゴ殿は、あの政治運動を支持しておられるとか」
周囲の視線が集まった。
ガルシアはナプキンを置き、相手に向き直った。
「はい。父はその運動の理念に共感しています」
「しかし、君のお父上も大地主でしょう?」
「ええ」
「それなのに、土地の再分配だの、富裕層への負担だのと主張する連中を支持するとは。私には理解できませんな」
男は困惑したように首を振った。
「自分たちの立場を危うくするようなものではありませんか」
ガルシアは少し考えてから答えた。
「父は、自分が恵まれた立場にいることを、よく理解していると思います」
「ほう?」
「だからこそ、その立場にいる人間にも責任があると考えているんじゃないでしょうか」
男は黙った。
「もちろん、僕が父の考えをすべて代弁できるわけではありません。でも、父が自分たちの財産を守ることよりも大切だと思っているものがあるのは、確かです」
「……なるほど」
年配の銀行家が静かに口を開いた。
「ディエゴ殿らしい考え方ですな」
その声には、感心とも呆れともつかない響きがあった。
「昔から、あの方はそういうところがあった」
「ええ。立派な方ではありますが……」
別の男が言葉を濁す。
「少々、理想に傾きすぎておられる」
ガルシアは微笑んだ。
「父にも、そう伝えておきます」
周囲から小さな笑いが起こった。
場の空気が少し和らぐ。
話題はやがて別の方向へ移っていった。
ガルシアはその輪の中に留まりながら、胸の内で考えていた。
父親の名前が出た瞬間、彼らの表情が変わった。
憎悪と呼ぶほど激しいものではない。
むしろ、困惑や失望に近い。
自分たちと同じ階級に属する人間が、なぜ自分たちの地位を脅かす側に立つのか。
それが理解できないのだ。
(……父さんは、彼らにとって異端者なんだな)
ガルシアはグラスの水を一口飲んだ。
だが、異端者だからといって殺されるとは限らない。
ここにいる人々が父親を快く思っていないことはわかった。
それだけでは、何の証拠にもならなかった。
*
会も終盤に差しかかったころ、ガルシアは主催者のベラスケスに呼び止められた。
「ガルシア君。今夜はいかがでしたかな?」
「とても勉強になりました。ありがとうございます」
「それは何より」
ベラスケスは笑みを浮かべた。
「モラレス殿とも、ずいぶん話が弾んでいたようですな」
「農園を見学させていただけるかもしれません」
「ほう。それは結構」
ベラスケスは満足そうに頷いた。
「君のお父上とは政治的に意見が合わんことも多い。しかし、ラブレス家との長い付き合いまでなくしたいわけではありませんからな」
「ありがとうございます」
「今後も、こうした席にはぜひ顔を出しなさい」
「はい。父とも相談してみます」
ベラスケスはガルシアの肩に軽く手を置いた。
「君が間に入ってくれれば、我々もディエゴ殿と少しは話がしやすくなるかもしれません」
ガルシアは笑顔で頷いた。
その言葉には、確かな意味があった。
父親とは距離を置きたい。
だが、ラブレス家との関係は維持したい。
彼らにとって、自分は都合のよい窓口になり得るのだろう。
それでも構わなかった。
利用されるだけで終わるつもりはない。
こちらにも、彼らと付き合う理由があるのだから。
*
帰宅すると、ディエゴはまだ書斎にいた。
「おお、ガルシア。どうだった?」
「ただいま、父さん。うん、楽しかったよ」
ガルシアは今日会った人々のことを話した。
モラレスから農園へ招待されたこと。
ベラスケスが今後も顔を出してほしいと言ってくれたこと。
そして、企業経営者たちが抱えている不安について。
ディエゴは興味深そうに耳を傾けていた。
「……なるほど。モラレス殿がそんなことを」
「うん。父さんの政治活動についても、いろいろ言われたよ」
「そうだろうな」
ディエゴは苦笑した。
「彼らの立場からすれば、私の考えは受け入れがたいものだろう」
「でも、父さん個人を嫌っているわけじゃなさそうだった」
「そうか」
ディエゴは少し嬉しそうに笑った。
「それを聞いて安心したよ」
「父さんも、たまには顔を出したら?」
「ははは。考えておこう」
ガルシアは笑った。
ディエゴも笑った。
親子の間に、穏やかな時間が流れた。
「しかし、お前には驚かされるな」
「何が?」
「初めての席で、そこまで人と話せるとは思っていなかった」
「サルセドさんが助けてくれたからだよ」
「それでも立派なものだ」
ディエゴは満足そうに頷いた。
「これからも、少しずつ任せてみよう」
「うん。頑張るよ」
ガルシアは笑顔で答えた。
父親に褒められるのは、やはり嬉しかった。
けれど、その喜びは長く続かなかった。
*
自室へ戻ったガルシアは、受け取った名刺を机に並べた。
ベラスケス。
モラレス。
銀行家。
企業経営者。
地方政界に顔の利く人物たち。
今日一日で、何人もの人間と知り合うことができた。
ガルシアはノートを開き、それぞれの人物について書き留めていく。
誰がどのような事業を営んでいるのか。
どんな政治的立場を取っているのか。
誰と親しく、誰と対立しているのか。
記憶が鮮明なうちに整理しておきたかった。
やがて、ペンが止まった。
(……結局、何もわからなかったな)
ガルシアは椅子の背にもたれた。
今日の社交行事は、成功だった。
父親が遠ざかっていた人々との関係を築き、次につながる約束も得られた。
家の仕事として考えれば、十分な成果だろう。
だが。
父親がいつ、どこで殺されるのか。
その手がかりは、一つも得られなかった。
今日出会った人々は、父親の政治活動を快く思っていなかった。
それは確かだ。
しかし、不満を抱くことと、人を殺すことは違う。
誰かが父親を殺そうとしているとしても、それが今日の会場にいた人間なのかどうかすらわからない。
そもそも、彼らが口にした政治への不満が、あの爆破事件と関係している保証もなかった。
(……もっと調べないと)
ガルシアは再びノートに目を落とした。
今夜得た人脈を、次につなげる。
農園の見学にも行ってみよう。
別の集まりにも顔を出してみよう。
話を聞く相手が増えれば、少しは見えてくるものがあるかもしれない。
だが、そこでふと手が止まった。
父親の次の政治集会。
その日付が、頭をよぎった。
あの日が最後になるかもしれない。
今日知り合った人々との関係が実を結ぶ前に、すべてが終わってしまうかもしれない。
ガルシアはノートを閉じた。
机の上には、名刺が何枚も並んでいる。
今日の成果。
これから広がっていくはずの人脈。
それらを眺めながら、ガルシアは静かに息を吐いた。
自分が手に入れたものと、本当に欲しいもの。
その間には、まだ途方もない距離があった。
窓の外では、夜の庭園が静まり返っている。
屋敷のどこかで、父親がまだ仕事をしている。
ロベルタも、ファビオラも、いつもどおりに過ごしているはずだ。
ガルシアは目を閉じた。
今日も父親は生きている。
その事実に安堵しながらも、次の集会が近づいていることを思い出す。
そして、再び目を開いた。
机の上の名刺を一枚取り、ノートを開く。
今夜は、まだ眠れそうになかった。