BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十四話 金で買えないもの
それからガルシアは、何度か社交の席に顔を出した。
実業家の邸宅で催される晩餐会。商工会の懇親会。地方の名士たちが集まる昼食会。
最初こそ「ディエゴ・ラブレスの息子」として紹介されるばかりだったが、回数を重ねるうちに、向こうから声をかけられることも増えていった。
十五歳という年齢に似合わぬ落ち着きと、礼儀正しい振る舞い。
それだけでも、年配の実業家たちには好印象だった。
だが、彼らがガルシアを歓迎する理由は、それだけではなかった。
「君は、お父上とは少し考え方が違うようだね」
ある晩餐会のあと、年配の銀行家がそう口にした。
「そうでしょうか」
「少なくとも、資本を持つ者の役割を理解している」
ガルシアは少し考え、答えた。
「僕は、社会を豊かにするためにも、まず企業が力をつける必要があると思っています」
「ほう」
「事業が成長すれば、雇用を増やすこともできます。教育や医療への支援だって、十分な資金があれば継続できますから」
「そのとおりだ」
銀行家は満足そうに頷いた。
「我々が利益を上げることを、まるで悪事のように言う者もいる。しかし、利益がなければ事業は続かん。事業がなくなれば、働く場所もなくなる」
「ええ。だから僕は、利益を上げること自体は悪いことだと思いません」
「ディエゴ殿にも聞かせたいものだな」
男は笑った。
ガルシアも微笑みを返した。
「父も、貧しい人たちの生活を良くしたいと考えているだけなんです。僕とは方法が違うのかもしれませんが」
「それはわかっているとも。あの方の善意を疑う者は、ここにはそう多くないだろう」
銀行家はグラスを置いた。
「ただ、善意だけでは国は動かん。君には、そのあたりを理解していてほしいものだ」
「はい。勉強させていただきます」
男は上機嫌でガルシアの肩を叩いた。
「ラブレス家の将来も、そう心配したものではなさそうだ」
その言葉に込められた期待を、ガルシアは理解していた。
ディエゴ・ラブレス。
由緒ある地主の家に生まれながら、貧しい人々の側に立ち、改革派の政治運動を支援する男。
彼らにとって、ディエゴは理解しがたい人物だった。
同じ階級に属しながら、その階級の利益を脅かしかねない政治運動に肩入れしている。
しかし、その息子は違う。
少なくとも、彼らにはそう見えていた。
ガルシアは資本の蓄積を肯定し、企業の成長を重視する。
経済的な力を持つ者が、その力によって社会を支えるべきだとも考えている。
富裕層にとって、それは十分に受け入れられる考え方だった。
そして何より、ガルシアは次代のラブレス家当主である。
いずれ彼が家督を継げば、ラブレス家も再び自分たちと歩調を合わせるかもしれない。
そんな期待が、少しずつ広がっていた。
もっとも、ガルシア自身は父親の理念を否定したつもりなどなかった。
社会を良くしたいという目的は同じだ。
ただ、そのためには経済的な基盤が必要だと考えているだけである。
だが、彼らの期待をわざわざ否定する必要もなかった。
父親と富裕層の間に立ち、双方の関係を維持できるなら、それはラブレス家にとっても利益になる。
実際、ガルシアを通じてディエゴに意見を伝えようとする者も現れた。
政治的な対立がなくなったわけではない。
それでも、ラブレス家との関係を完全に断とうとする者は少なかった。
やがて、ガルシア個人に宛てた招待状が届くようになった。
以前の会合で知り合った実業家から別の集まりに誘われ、銀行家からは知人を紹介される。
農園主からは、近くに来た際にはぜひ立ち寄ってほしいという便りも届いた。
そしてガルシアもまた、知り合った人々に手紙を書くようになっていた。
*
「……これで三通目か」
机の上には、書き終えた便箋が並んでいた。
一通目は、農園を見学させてくれたモラレスへの礼状。
二通目は、先日の晩餐会で世話になったベラスケスへの手紙。
三通目は、商工会の席で知り合った銀行家に宛てたものだった。
いずれも、先日の礼と近況を伝える、ごくありふれた内容である。
しかし、こうした付き合いを疎かにするつもりはなかった。
一度顔を合わせただけでは、信頼関係ができたとは言えない。
手紙を交わし、再び会い、少しずつ関係を深める。
時間のかかる仕事だった。
ガルシアは封筒に宛名を書き、三通を揃えた。
ふと、机の端に置かれたノートが目に入る。
これまでに知り合った人物の名前が、何ページにもわたって記されていた。
企業経営者、地主、銀行家、弁護士、政治関係者。
それぞれの交友関係や政治的な立場についても、わかる範囲で書き加えてある。
最初は数えるほどしかなかった名前が、今では随分と増えた。
それなのに。
「……何やってるんだろうな、俺」
思わず、独り言が漏れた。
人脈は増えた。
ラブレス家の仕事にも、以前より深く関わるようになった。
父親から任される仕事も増えた。
何もしていないわけではない。
むしろ、毎日のように何かをしている。
それでも、父親の暗殺については、何一つわかっていなかった。
いつ。
どこで。
誰が。
何のために。
ノートには、そのどれについても答えがなかった。
ガルシアは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
会合では、父親の政治活動を批判する声を何度も耳にした。
地主たちは土地の再分配を恐れ、経営者たちは労働運動の高まりを警戒している。
中には、改革派の政治家を公然と罵る者もいた。
だが、それだけだ。
酒の席で悪態をつく人間と、実際に爆弾を仕掛ける人間。
その間には、途方もない隔たりがある。
誰かが過激な言葉を口にするたびに耳を澄ませたが、結局はありふれた政治談義に終わった。
逆に、穏やかに笑っている人間が何も知らないとも限らない。
疑い始めれば、誰も彼も怪しく見えてしまう。
しかし、疑うだけでは何もわからない。
(……そもそも、俺が探している情報なんて、こんな場所にあるのか?)
考えないようにしていた疑問だった。
自分が会っているのは、あくまで表社会の人間たちだ。
政治的な対立や利害関係は知ることができても、秘密裏に進められる暗殺計画の情報まで手に入るとは限らない。
むしろ、知らなくて当然なのかもしれない。
それでも、ほかに何ができる。
誰に聞けばいい。
どこへ行けばいい。
ガルシアは机に視線を戻した。
丁寧に書き上げた三通の手紙が、静かに並んでいる。
今日もまた、将来のための種を蒔いた。
いつ芽が出るのかはわからない。
そもそも、芽が出たところで、父親を救う手がかりになる保証もない。
そして何より。
その日まで、父親が生きている保証がなかった。
*
机の引き出しを開け、ガルシアは別の書類を取り出した。
銀行から届いた取引報告書だった。
ラブレス家の資産とは完全に切り離した、自分だけの口座。
父親も、ロベルタも、ファビオラも、その存在を知らない。
元手は五百万ドル。
以前、前世の知識を利用して築いた個人資産である。
その資金を、ガルシアは密かに運用していた。
きっかけは、ある記憶だった。
一九九五年。
日本の関西地方で、大きな災害が発生した年。
そして、歴史的な円高が進んだ年でもある。
もちろん、災害が円高の唯一の原因だったわけではない。
当時の国際経済には、さまざまな要因が絡み合っていた。
ただ、ガルシアの記憶には、その年の為替相場について、もう一つ重要なことが残っていた。
円高は、いつまでも続かなかった。
春に歴史的な高値をつけた円は、その後、ドルに対して大きく値を下げていく。
正確な日付や為替レートまでは覚えていなかった。
だからこそ、ガルシアは新聞の経済欄を読み、金融機関から相場の情報を集め、慎重に取引を進めていた。
円高が進む局面では円を買い、相場が転換したと判断してからは、反対にドルを買う。
自己資金だけでなく、証拠金を利用した取引も組み合わせた。
当然、危険はあった。
未来の大まかな流れを知っているからといって、日々の値動きまでわかるわけではない。
思惑と反対に相場が動けば、損失は膨らむ。
それでも、ガルシアには一つだけ、ほかの投資家にはない材料があった。
この年、円相場が大きく反転するという記憶。
その記憶を頼りに、取引を重ねた。
そして現在。
報告書に記された資産評価額は、当初の約六倍に達していた。
五百万ドルから、およそ三千万ドル相当。
ガルシアはその数字を見つめた。
「……増えたな」
感想は、それだけだった。
普通なら、飛び上がって喜んでもおかしくない金額である。
十五歳の少年が、個人でこれほどの資産を持っている。
それも、家族の誰にも知られることなく。
だが、ガルシアには達成感らしいものがなかった。
三千万ドル。
大金だ。
土地も買える。
事業にも投資できる。
人を雇うこともできる。
場合によっては、有力者との交渉材料にもなるだろう。
しかし。
(……それで、どうする?)
ガルシアは報告書を机に置いた。
父親を殺そうとしている人間が誰なのか。
それがわからなければ、金の使いようがない。
護衛を増やすことはできる。
警備を強化することもできる。
だが、父親は政治活動をやめない。
人々の前に立ち、集会に出席し、各地を訪ね歩く。
そのすべてを守りきれるのか。
まして、爆弾が仕掛けられる場所すらわからないのだ。
金を払えば、誰かが教えてくれるのだろうか。
いくら払えばいい。
誰に払えばいい。
そもそも、その情報を持っている人間はどこにいる。
ガルシアは額に手を当てた。
金がないから動けないのだと思っていた。
金さえあれば、できることが増えると思っていた。
実際、その考えは間違っていない。
以前なら手の届かなかったことが、今ならできる。
だが、できることが増えたからといって、何をすればいいのかまでわかるわけではなかった。
社交界では、人脈が増えていく。
金融市場では、資産が増えていく。
ラブレス家の仕事でも、少しずつ成果を上げている。
傍から見れば、すべてが順調だった。
けれど。
父親を救うという、たった一つの目的だけが、まるで前に進んでいない。
「……くそっ」
小さく吐き捨てた。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「若様」
ロベルタの声だった。
「旦那様がお呼びです。少しお時間をいただけますでしょうか」
ガルシアは慌てて報告書を引き出しに戻した。
「うん。すぐ行くよ」
「かしこまりました」
足音が遠ざかっていく。
ガルシアは引き出しを閉め、鍵をかけた。
そして、扉の前で一度だけ表情を整えた。
父親の前では、いつもの自分でいなければならない。
余計な心配をかけたくない。
何より、あの夜のように、父親と争いたくなかった。
ガルシアは扉を開けた。
*
「ガルシア、ちょうどよかった」
書斎に入ると、ディエゴは机から顔を上げた。
「最近、随分と忙しくしているようだな」
「父さんほどじゃないよ」
「ははは。そうかもしれん」
ディエゴは楽しそうに笑った。
「サルセドから聞いたぞ。ベラスケス殿とも、うまく付き合っているそうじゃないか」
「うん。いろいろ教えてもらってる」
「モラレス殿の農園にも行ったそうだな」
「うん。勉強になったよ」
「そうか、そうか」
ディエゴは満足そうに頷いた。
「お前がそこまで家のことを考えてくれるとはな。父親として嬉しいよ」
ガルシアは少し照れたように笑った。
「まだまだ勉強中だけどね」
「それでいい。焦る必要はない」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
焦る必要はない。
父親にとっては、ごく自然な励ましだったのだろう。
十五歳の息子が、家の仕事を学び始めたばかりなのだから。
だが、ガルシアには違った。
焦らずにいられるはずがなかった。
父親がいつ死ぬのか、自分にはわからないのだから。
「ところで、今度また政治関係の集まりに出席することになってな」
ディエゴは机の書類を手に取った。
ガルシアの背筋が、わずかに強張った。
「……そうなんだ」
「ああ。しばらく家を空けることになる。その間の仕事について、少し相談しておきたい」
「うん。わかった」
ガルシアは椅子に腰を下ろした。
父親はいつもどおりだった。
書類を広げ、仕事の説明を始める。
何も知らない。
自分がどれほど危険な未来へ近づいているのか。
そのことを、少しも知らない。
ガルシアは父親の話に耳を傾けながら、机の上の書類を見つめた。
社交界で築いた人脈。
三千万ドルの資産。
そのすべてを差し出しても構わない。
父親が生きてくれるのなら。
だが、どれほど金を積んでも、失われた命を買い戻すことはできない。
ガルシアは膝の上で、そっと拳を握った。
父親の声が、静かな書斎に響いていた。