BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十五話 運命の日(前編)
十月初旬。
「ガルシア。少し頼みたいことがあるんだが」
書斎に呼ばれたガルシアは、父の机に置かれた一通の封筒に目を留めた。
「何ですか、父さん?」
「今度、カラカスで国際交流のレセプションが開かれるんだ。各国の外交官や軍関係者、国内の実業家たちも集まるらしい」
ディエゴは封筒を差し出した。
「本来なら私が出席する予定だったんだが、同じ日に外せない会合が入ってしまってね。そこで、お前にラブレス家の名代を務めてもらいたいんだ」
「僕が、ですか?」
「ああ」
父は穏やかに頷いた。
「最近のお前なら、安心して任せられると思っている」
ガルシアは招待状を開いた。
会場はカラカス市内の高級ホテル。出席予定者の顔ぶれを見る限り、かなり大規模な催しだった。
外交官、政治家、軍人、実業家。
普段は接点を持てない人間も、今夜ばかりは同じ場所に集まる。
――悪くないな。
ガルシアは内心で呟いた。
ここ数か月、父の命を守るために、さまざまな人脈を築いてきた。
投資を通じて知り合った実業家。
地方経済に詳しい地主。
政府関係者と交流のある財界人。
その中には、父の政治姿勢に批判的な人間も少なくなかった。
だが、彼らの多くはガルシア個人には好意的だった。
ディエゴの理想主義とは異なり、息子は経済の現実を理解している。
どうやら、そんな評価を受けているらしい。
ガルシアとしては、少々複雑だった。
父の理想を否定したいわけではない。
むしろ、その理想を実現するためにも、資本の蓄積や雇用の創出が必要だと考えているだけだった。
しかし、今はそれでよかった。
人脈が広がれば、情報も集まる。
そして、いつか父の暗殺につながる手がかりが得られるかもしれない。
「どうだろう?」
父の声に、ガルシアは顔を上げた。
「はい。僕でよければ出席します」
「そうか。ありがとう」
ディエゴは嬉しそうに微笑んだ。
「ベラスケス氏からも、お前のことを聞いているよ。ずいぶん熱心に経済を勉強しているそうじゃないか」
「まだまだですよ。知らないことばかりです」
「それでいいんだ。学ぼうとする姿勢が大切なんだから」
父はそう言って、少し表情を和らげた。
「それに、お前は私とは考えの違う人々とも、きちんと話ができている。それが何より嬉しいよ」
ガルシアは小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「ただし、無理に大人の真似をする必要はないぞ。お前はまだ十五歳なんだからな」
「父さん、それはもう何度も聞きましたよ」
「ははは。そうだったな」
父子は顔を見合わせて笑った。
その何気ない時間が、ガルシアには何より大切だった。
だからこそ、守らなければならない。
この笑顔を。
この家を。
そして、父の命を。
*
レセプション当日。
カラカス市内の高級ホテルには、次々と車が到着していた。
玄関では制服姿の係員たちが来賓を迎え、正装した男女が談笑しながら館内へ入っていく。
ガルシアもラブレス家の車を降りた。
濃紺のスーツに、落ち着いた色のネクタイ。
十五歳という年齢を考えれば、少々背伸びした装いかもしれない。
だが、こうした場にも少しずつ慣れてきた。
受付で招待状を提示し、大広間へ向かう。
扉が開かれると、華やかな光景が広がった。
高い天井から吊るされたシャンデリア。
壁際に並ぶ各国の国旗。
銀の盆を手に来賓の間を行き交う給仕たち。
そして、広間を埋め尽くすほどの人々。
スペイン語に混じって、英語やフランス語が聞こえてくる。
――これは、思った以上だな。
ガルシアは広間を見渡した。
新しい人脈を築くには、絶好の機会だった。
「おや、ガルシア君じゃないか!」
聞き覚えのある声がした。
振り向くと、ベラスケスが笑顔で近づいてきた。
「こんばんは、ベラスケスさん」
「久しぶりだね。今夜はお父上の代理かい?」
「はい。父は別の会合に出席していますので」
「相変わらず忙しい方だ」
ベラスケスは苦笑した。
「しかし、君もすっかりこういう場所に慣れたようだね」
「まだまだですよ。今日も勉強させてもらうつもりです」
「ははは。実に君らしい」
二人はしばらく近況を話した。
地方の農産物輸送。
倉庫設備への投資。
道路整備によって変わる物流の採算性。
ベラスケスは現場の事情に詳しく、ガルシアにとって学ぶことも多かった。
やがて別の実業家が会話に加わり、そこからさらに新しい人物を紹介された。
ガルシアは一人ずつ丁寧に挨拶を交わした。
以前なら、こうした場所で自分から話しかけるだけでも苦労したものだ。
今では相手の関心を探り、話題を選び、自然に会話を続けられるようになっていた。
もっとも、それが本来の目的にどれほど役立っているかは別問題だった。
父の暗殺に関する情報。
それだけは、いまだに何一つつかめていない。
ガルシアは会話を続けながら、広間の様子にも注意を向けていた。
外国の軍関係者。
政府の要人。
国内の有力者たち。
どこに手がかりがあるかわからない。
そう考えていたときだった。
広間の奥にいる一人の男が、ふと目に留まった。
*
儀礼用の軍装を身につけた白人男性だった。
整えられた髪。
隙のない立ち姿。
胸元には幾つもの略綬が並んでいる。
軍人であることは一目でわかった。
だが、ガルシアが気になったのは、その男自身よりも周囲の顔ぶれだった。
以前の晩餐会で知り合った大地主。
ディエゴの政治姿勢を公然と批判していた企業家。
改革派の勢力拡大を警戒する財界の有力者。
いずれも、ガルシアには見覚えがあった。
彼らは軍人を囲み、穏やかに談笑している。
別段、不審な様子があるわけではない。
外国の軍人が現地の有力者と交流すること自体、こうした催しでは珍しくなかった。
それでも、ガルシアは何となく気になった。
「どうしたのかね?」
隣にいたベラスケスが尋ねた。
「ああ、いえ。少し気になった方がいまして」
「ほう?」
「あちらの、礼装を着ていらっしゃる方です。どなたなんでしょう?」
ベラスケスは視線を追った。
「ああ、ディケンズ大佐か」
その名前を聞いた瞬間、ガルシアの意識が止まった。
――ディケンズ?
「サイモン・ディケンズ大佐だよ。アメリカ陸軍の大佐で、国家安全保障局にも関係している人物だそうだ」
サイモン・ディケンズ。
その名前が、頭の中で繰り返された。
どこかで聞いたことがある。
いや。
違う。
知っている。
ガルシアの背筋に、冷たいものが走った。
前世。
日本で暮らしていた頃。
読んだ漫画。
『BLACK LAGOON』。
ラブレス家。
ディエゴの暗殺。
アメリカの特殊部隊。
そして――。
サイモン・ディケンズ。
――あいつだ。
忘れていた記憶が、急速に形を取り戻していく。
父の暗殺に関わった、アメリカ側の人間。
その名前を、原作で見たことがある。
ガルシアはもう一度、広間の奥にいる男を見た。
ディケンズは何事もないように笑っていた。
周囲の男たちも、穏やかな表情で言葉を交わしている。
誰一人として、目の前の少年が何を思い出したのかなど知らない。
――何で、ここにいる?
――もう、計画は動いているのか?
胸の鼓動が速くなる。
父を殺すのがアメリカの特殊部隊だということは、最初から知っていた。
だが、いつ、どこで事件が起きるのかは知らない。
ディケンズが今、ベネズエラにいる。
その事実が何を意味するのかも、まだわからなかった。
「なかなか有名な人物らしいよ」
ベラスケスの声が、ガルシアを現実へ引き戻した。
「……そうなんですか?」
「ああ。もっとも、良い評判ばかりではないがね」
「と、おっしゃいますと?」
ベラスケスは少し声を落とした。
「アメリカの軍部でも、かなり強引な手段を取ることで知られているそうだ。目的のためなら、手段を選ばない人物だという話も聞く」
「……なるほど」
「もちろん、私も直接見たわけではない。あくまで聞いた話だが」
ベラスケスは苦笑した。
「敵には回したくない人物だな」
ガルシアは頷いた。
手段を選ばない軍人。
アメリカの情報活動に関係する人物。
そして、原作で父の暗殺に関わっていた男。
その人物が、父の政治的な対立者たちと交流している。
もっとも、だからといって周囲の人間まで暗殺計画に関係しているとは限らない。
彼らは何も知らず、ただ外国の軍人と社交を楽しんでいるだけかもしれない。
だが、ディケンズ本人については違う。
ガルシアには、原作の記憶がある。
「興味があるなら、ご紹介しようか?」
ベラスケスが言った。
「直接の知り合いというほどではないが、間に入ってくれる者はいると思うよ」
ガルシアは一瞬、言葉に詰まった。
紹介。
ディケンズに。
目の前にいる男へ近づけば、何か聞き出せるかもしれない。
滞在の目的。
今後の予定。
ベネズエラでの活動。
だが、すぐにその考えを打ち消した。
――駄目だ。
相手は情報活動に関係する軍高官だ。
しかも、強引な手段を取ることで知られている。
ラブレス家の息子が自分に関心を示した。
そんな事実を、わざわざ相手に知らせる必要はない。
今のところ、こちらだけが相手を認識している。
その状態を保つべきだった。
「いえ、そこまでしていただくのは恐縮です」
ガルシアは穏やかに微笑んだ。
「少し気になっただけですので。教えていただいて、ありがとうございます」
「そうかね。まあ、君ならまた機会もあるだろう」
「そうかもしれませんね」
それ以上、ベラスケスは勧めなかった。
会話は自然と別の話題へ移った。
ガルシアも普段どおりに応じた。
笑顔を作り、相手の話を聞き、必要なところで意見を述べる。
誰にも、不審に思われないように。
ただ、広間の奥にいる男の姿だけは、頭から離れなかった。
*
屋敷に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
ガルシアは自室に入ると、上着を脱ぎ、机に向かった。
引き出しから一冊のノートを取り出す。
そこには、前世の記憶をもとに書き出した情報が並んでいた。
ディエゴ・ラブレス。
暗殺。
アメリカ特殊部隊。
不明な日時。
不明な場所。
そのページの余白に、ガルシアは新しい名前を書き加えた。
『サイモン・ディケンズ』
続けて、今夜知ったことを記す。
『アメリカ陸軍大佐』
『国家安全保障局との関係』
『強引な手段を取る人物として知られる』
『カラカスの国際交流レセプションに出席』
『父の政治的対立者たちと交流』
ペンを置いた。
書き並べた情報を、じっと見つめる。
――やっと、見つけた。
今までは、誰を調べればいいのかすらわからなかった。
父の暗殺にアメリカが関係していることは知っていた。
だが、アメリカという国家を相手に、十五歳の少年が何を調べられるというのか。
どこから手をつければいいのかもわからなかった。
それが今、変わった。
名前がある。
顔も見た。
階級も所属も、ある程度わかっている。
ならば、調べられる。
ガルシアはそう考えた。
今夜初めて、父の死につながる具体的な人物を見つけたのだ。
*
しかし、その期待は数日も経たないうちに打ち砕かれた。
ディケンズについて調べても、出てくる情報は限られていた。
公表された経歴。
公式行事への出席記録。
断片的な軍歴。
国家安全保障局との関係についても、具体的な任務内容まではわからない。
まして、現在ベネズエラで何をしているのかなど、どこにも書かれていなかった。
ガルシアは机に積まれた資料を見下ろした。
「……これだけか」
自分でも、甘い考えだったとは思う。
情報機関に関わる軍人の秘密任務が、一般に入手できる資料に載っているはずがない。
それでも、名前さえわかれば何か見つかると期待していた。
しかし、知りたい情報ほど手が届かなかった。
ディケンズが誰の命令で動いているのか。
父の暗殺計画が、すでに進行しているのか。
いつ、どこで実行されるのか。
何一つ、わからない。
机の端には、金融取引の記録が置かれていた。
五百万ドルから始めた資金は、すでに三千万ドル近くまで増えている。
それだけの金があれば、多くのことができる。
人を雇うことも、警備を増やすことも、情報を集めるために費用を投じることも。
だが、何を防げばいいのかわからない。
どの場所を守ればいいのか。
どの日を警戒すればいいのか。
肝心なことが、何もわからない。
「……何なんだよ」
ガルシアは小さく呟いた。
「ここまでわかってるのに……」
父を殺すのはアメリカの特殊部隊。
その事件に関わるディケンズという男。
それだけ知っているのに、父を救うための具体的な行動につながらない。
ガルシアはノートを閉じた。
そして、しばらく机に突っ伏した。
何度も考えた。
父にすべて話すべきなのか。
未来を知っていると打ち明けるべきなのか。
だが、それをどう説明すればいい。
自分は別の世界から来た人間で、この世界の未来を漫画で読んだことがある。
そんな話を、父が信じるだろうか。
仮に信じてくれたとしても、具体的な日時や場所がわからない以上、どうすればいいのか。
父の政治活動をすべてやめさせるのか。
いつまで。
何を根拠に。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
*
レセプションから四日後。
ガルシアはベラスケスに一通の手紙を書いた。
内容の大半は、以前から相談していた農業投資についてだった。
輸送費の削減。
倉庫の建設。
地方の流通網。
その話の最後に、最近の外国要人の訪問について、さりげなく尋ねた。
ディケンズの名前も添えたが、あくまで社交の場で見かけた人物への興味という形にとどめた。
手紙を送ってからも、ガルシアは調査を続けた。
新聞を読み、公開資料を調べ、知人から聞いた話を整理する。
しかし、新しい情報はなかなか得られなかった。
そして、さらに数日が過ぎた。
ベラスケスから返事が届いたのは、レセプションから八日ほど経った頃だった。
ガルシアは封を切り、内容に目を通した。
農業投資についての丁寧な返答。
地方の経済状況。
新しい取引先についての紹介。
いつもと変わらない、実務的な内容だった。
だが、手紙の終わりに近づいたところで、ガルシアの指が止まった。
『そういえば、以前君が尋ねていたディケンズ大佐のことだが、先日バリナスでお見かけしたという話を聞いたよ。現地の関係者と面会されていたそうだ。外国からのお客様は相変わらずお忙しいようだね。』
ガルシアは、その一文を読み返した。
――バリナス?
胸の奥で、何かが引っかかった。
バリナス。
父の政治活動でも、たびたび名前が出てくる地域だ。
だが、今のところ、それ以上のことはわからない。
ディケンズがそこへ行った理由も、誰と会っていたのかも不明だった。
ガルシアは手紙を机に置いた。
――何で、バリナスに?
外国の軍人が地方を訪れること自体、珍しい話ではない。
公式な交流行事かもしれない。
現地の軍関係者との会合かもしれない。
ただの視察という可能性だってある。
それでも、気になった。
ディケンズは父の暗殺に関係する人物だ。
その男が、ベネズエラ国内で何をしているのか。
少しでも詳しく知りたかった。
ガルシアは便箋を取り出した。
ベラスケスへの返事を書くためだった。
ただし、露骨にディケンズのことばかり尋ねるわけにはいかない。
農業投資の話に答え、地方の経済状況について意見を述べる。
そのうえで、何気ない調子を装い、ディケンズの訪問についてもう少し詳しく尋ねた。
誰から聞いた話なのか。
どのあたりで目撃されたのか。
相手はどのような人物だったのか。
わかる範囲で構わない。
そう書き添えて、手紙を封じた。
*
それから二日後。
夕食を終えたガルシアは、ディエゴに呼び止められた。
「ガルシア。少しいいか?」
「はい、父さん」
二人は食堂の隣にある小さな居間へ移った。
使用人が紅茶を運び、静かに退室する。
ディエゴはカップを手に取り、嬉しそうに話し始めた。
「実は、今度バリナスで大きな式典が開かれることになってね」
ガルシアの手が止まった。
「……バリナス、ですか?」
「ああ。新しい政党の発足に関わる式典だ。各地の同志や支援者が集まる予定なんだよ」
「父さんも、出席するんですか?」
「もちろんだ」
ディエゴは頷いた。
「私も、この運動を支えてきた一人だからな。新しい一歩を、皆とともに迎えたいと思っている」
ガルシアは父を見つめた。
バリナス。
新党発足の式典。
ディエゴが出席する。
そして、ディケンズが訪れていた場所。
頭の中で、二つの情報がつながった。
だが、まだわからない。
ディケンズがバリナスを訪れたことと、式典に何の関係があるのか。
そもそも、同じ地域にいたというだけで、暗殺計画と結びつけていいのか。
原作の記憶を探っても、式典の日時や場所は浮かんでこなかった。
「ガルシア?」
父の声に、ガルシアは我に返った。
「あ……はい」
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
ガルシアは少し迷った。
「……大きな式典なら、警備もしっかりしているんですよね」
「もちろん、主催者側も準備しているはずだよ」
「父さん自身も、十分気をつけてください」
ディエゴは穏やかに微笑んだ。
「わかっている。お前には心配をかけてばかりだな」
「そんなことは……」
「だが、心配してくれるのは嬉しいよ」
父はそう言って、紅茶に口をつけた。
ガルシアは何も言えなかった。
父は知らない。
自分がどれほど恐れているのか。
何を知っているのか。
何を防ごうとしているのか。
ただ、息子が自分の身を案じている。
そう思っているだけだった。
*
その二日後の朝。
屋敷の玄関前には、バリナスへ向かう車が用意されていた。
使用人たちが荷物を積み込み、ロベルタが車両の最終確認をしている。
ディエゴはまだ屋敷の中だった。
ガルシアは玄関から出ると、ロベルタに声をかけた。
「ロベルタ。ちょっといい?」
「はい、若様」
彼女はすぐに作業を止め、ガルシアに向き直った。
「どうかなさいましたか?」
「今回の父さんの出張なんだけど、いつも以上に気をつけてほしいんだ」
「もちろんでございます。旦那様のお身の安全は、私が責任を持ってお守りいたします」
「うん。それは信じてる」
ガルシアは頷いた。
ロベルタの能力を疑ったことなど、一度もない。
彼女が本気になれば、並の武装集団など相手にならないだろう。
だが、今回の問題はそこではなかった。
「……それと、爆発物にも気をつけてほしい」
ロベルタの表情が、わずかに引き締まった。
「爆発物、でございますか?」
「うん」
ガルシアは声を落とした。
「今回の式典には、政治家や政府関係者も大勢集まるんでしょう?」
「そのように伺っております」
「だったら、父さんだけが狙われるとは限らないよね」
ロベルタは黙って耳を傾けた。
「例えば、別の政治家を狙って爆弾が仕掛けられていたとしても、父さんが近くにいたら巻き込まれるかもしれない」
「……確かに、その可能性はございます」
「銃撃なら、まだ相手が誰を狙っているかわかる場合もある。でも、爆発物はそうじゃない。近くにいるだけで危険なんだ」
ガルシアはロベルタを見上げた。
「だから、父さんに敵意を持っている人だけを警戒するんじゃなくて、会場そのものにも気を配ってほしい」
ロベルタはしばらく沈黙した。
そして、静かに口を開いた。
「……若様。何か、具体的な情報をお持ちなのでしょうか?」
ガルシアは首を振った。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
嘘ではなかった。
今回の式典が狙われているという情報は、まだ何もない。
ディケンズがバリナスにいた。
それだけだった。
「ただ、大勢の人が集まる場所だから。考えられる危険には、できるだけ備えておきたいんだ」
「承知いたしました」
ロベルタは深く頷いた。
「旦那様を直接狙う者だけでなく、周囲で発生し得る危険にも十分注意いたします。不審な点があれば、旦那様の安全を最優先に行動いたします」
「……お願いね」
「はい、若様」
ロベルタは真剣な表情で答えた。
「必ずや、旦那様をお守りいたします」
その言葉を聞いて、ガルシアはようやく小さく息を吐いた。
ロベルタなら大丈夫。
そう信じたい。
だが、胸の奥の不安は消えなかった。
――爆発物、か。
原作で父を殺したのは、爆弾だった。
どのような仕掛けだったのか。
誰が、どこに設置したのか。
それは思い出せない。
ただ、爆発によって父が命を落としたことだけは、はっきりと覚えている。
そして、どれほど強い人間でも、爆発に巻き込まれてしまえば無事では済まない。
ロベルタの強さは、何の保証にもならなかった。
だからこそ、警戒してもらうしかない。
今の自分には、それ以上のことができなかった。
「おや、二人とも。何の話をしていたんだい?」
玄関からディエゴが姿を現した。
「父さん」
ガルシアは振り向いた。
「ロベルタに、父さんのことをよろしくって頼んでたんです」
「ははは。お前は本当に心配性だな」
ディエゴは笑った。
「ロベルタが一緒なんだ。何も心配することはないさ」
ガルシアは微笑んだ。
「……そうですね」
そう答えながらも、胸の奥の不安は消えなかった。
ディエゴは息子の肩に手を置いた。
「それでは、行ってくるよ」
「はい。気をつけて」
「お前も、留守を頼んだぞ」
「わかりました」
ディエゴは後部座席に乗り込んだ。
ロベルタも運転席へ向かう。
その直前、彼女はガルシアを振り返った。
「若様。行ってまいります」
「……うん。お願いね、ロベルタ」
「はい」
ロベルタは一礼し、運転席に乗り込んだ。
エンジンがかかる。
車はゆっくりと屋敷の門へ向かって走り出した。
ガルシアはその姿を見送った。
父が窓越しに手を振っている。
ガルシアも手を上げた。
車が門を抜け、道の向こうへ消えていく。
その姿が見えなくなっても、ガルシアはしばらく動かなかった。
――何も起きなければいい。
そう願った。
ロベルタが一緒にいる。
彼女ほど頼りになる人間はいない。
だから、きっと大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせた。
*
レセプションから十四日目。
ベラスケスから二通目の返事が届いた。
ガルシアは書斎でその封筒を受け取った。
いつものように封を切り、内容に目を通す。
農業投資についての返答。
地方の経済状況。
そして、ディケンズのバリナス訪問についての補足。
そこに書かれていたのは、知人を通じて確認できたという目撃情報だった。
ディケンズは、バリナス市内のある施設の近くで、現地のベネズエラ人と面会していたらしい。
相手の名前も、面会の目的もわからない。
ただ、目撃された場所については、ある程度詳しく記されていた。
ガルシアは手紙を机に置いた。
そして、父が出席する式典の案内を取り出した。
開催場所。
周辺の地図。
ディケンズが目撃された場所。
それらを照らし合わせた。
ガルシアの指が止まった。
――近い。
式典会場から、それほど離れていない。
もちろん、それだけでは証拠にならない。
ディケンズがそこで誰と何を話していたのかは不明だ。
式典とは無関係な用事だった可能性もある。
だが。
ガルシアはもう一度、地図を見た。
父を殺すのは、アメリカの特殊部隊。
その事件に関わるディケンズ。
そして、父が出席する政治式典の近くで目撃されたという情報。
偶然。
そう考えることもできる。
だが、もし偶然ではなかったら。
もし、この式典こそが――。
「……まさか」
声が漏れた。
胸の鼓動が速くなる。
原作の記憶を必死に探る。
父が死んだ場面。
爆発。
政治活動。
そこに、今知った情報が重なっていく。
確証はない。
だが、これまでとは違う。
初めて、具体的な場所と人物が結びついた。
――今回かもしれない。
ガルシアは立ち上がった。
父に話さなければならない。
式典への出席を、考え直してもらわなければ。
そう思った瞬間、気づいた。
父は、もう屋敷にいない。
二日前の朝、バリナスへ向けて出発している。
ガルシアは机に置かれた手紙を見つめた。
それから、扉へ向かった。
「ファビオラ!」
廊下に声が響いた。
すぐに足音が近づいてくる。
「はい、若様!」
ファビオラが姿を現した。
ガルシアは彼女を見上げた。
「ロベルタの携帯に連絡して。今すぐ!」
「婦長様に、でございますか?」
「うん。急いで!」
ファビオラはガルシアの表情を見た。
いつもの穏やかな様子ではない。
顔色は悪く、声にも切迫したものがあった。
「か、かしこまりました!」
ファビオラは急いで電話を取りに走った。
ガルシアは机に戻り、地図を見下ろした。
式典会場。
ディケンズの目撃地点。
父の現在地。
そのどれもが、頭の中で重なっていた。
――間に合ってくれ。
ガルシアは拳を握りしめた。
今まで、何度も父の死を想像してきた。
だが、それはいつも、形のない恐怖だった。
どこで起きるのかわからない。
いつ起きるのかわからない。
何をすれば防げるのかわからない。
しかし今、その恐怖には場所があった。
バリナス。
父が向かった場所。
そして、ディケンズが姿を現した場所。
ガルシアは書斎の扉を見つめた。
連絡がつけば、父を止められるかもしれない。
事情を説明できなくても、何とか引き返してもらえるかもしれない。
だが、もし連絡がつかなかったら。
もし、父が耳を貸してくれなかったら。
もし、すでに手遅れだったら。
ガルシアはその考えを振り払った。
まだ、何も起きていない。
そう信じるしかなかった。
そして、今度こそ自分が動かなければならない。
父を守るために。