BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

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第二十六話

第二十六話 運命の日(後編)

 

「ファビオラ!」

 

自分でも驚くほど大きな声が出た。

 

書斎の扉が開くのを待つ時間さえ惜しかった。机の上には、たった今届いたベラスケスからの手紙が広がっている。

 

サイモン・ディケンズ。

 

バリナス。

 

そして、MVRの結党式典が開かれる会場の近く。

 

何度読み返しても、書かれていることは変わらなかった。

 

「お呼びでしょうか、若様?」

 

駆けつけたファビオラが、扉のところで足を止めた。

 

「ロベルタに電話をつないで。今すぐ!」

 

「は、はい!」

 

ファビオラが電話機へ駆け寄り、番号を押し始める。

 

俺は手紙を握りしめたまま、その指先を見ていた。

 

早く。

 

頼むから、早く出てくれ。

 

受話器から漏れる呼び出し音が、ひどく長く感じられた。

 

「……あっ、婦長様! ファビオラです。若様がお話しになりたいそうで……はい、至急とのことで……」

 

差し出された受話器を、ほとんど奪うように受け取った。

 

「ロベルタ!」

 

『若様? いかがなさいましたか』

 

「父さんは!? 今、どこにいる!?」

 

一瞬、向こうの声が途切れた。

 

『旦那様でしたら、すでに会場へ向かわれました』

 

「一緒じゃないのか!?」

 

『はい。会場周辺が大変混雑しておりまして、旦那様ご自身のご指示で、入口近くでお降りいただきました。残りは歩いて向かわれると……私は現在、駐車場への入場待ちで――』

 

「今すぐ父さんを探して!」

 

言い終わる前に、椅子が床を擦った。

 

いつ立ち上がったのか、自分でも分からなかった。

 

「式典会場に爆弾が仕掛けてあるかもしれない! 父さんを連れて、そこから離れてくれ!」

 

『……爆弾、ですか』

 

「前に話しただろ! 父さんが狙われてるかもしれないって!」

 

『はい。覚えております』

 

声が変わった。

 

『若様、何かお分かりになったのですね』

 

「確証なんてない!でも、危険な男が何日か前に会場の近くにいる所をみた人間がいる!僕が前から調べていた男だ!お願いだ、今すぐ!」

 

『承知いたしました。直ちに旦那様をお探しします』

 

「車なんかどうでもいい! 動けないなら置いていって!」

 

『車を置いて今すぐ向かいます』

 

「父さんを、頼む」

 

短い沈黙があった。

 

『……必ず、お探しします』

 

通話が切れた。

 

受話器を置こうとして、思い直した。

 

まだできることがある。

 

「ファビオラ、式典会場の警備本部の番号を調べて!」

 

「は、はい!」

 

俺も机の上の資料をかき集めた。式典の案内、招待状の写し、関係者の連絡先。どこかに番号が載っているはずだった。

 

ファビオラが指で紙面をたどる。

 

「あっ、若様、こちらに!」

 

番号を受け取ると、すぐにダイヤルした。

 

一度、二度、呼び出し音が鳴る。

 

『はい、式典警備本部』

 

「爆弾の可能性があります! 今すぐ会場を調べてください!」

 

『……はぁ』

 

電話の向こうで、露骨なため息が聞こえた。

 

『あんたで何人目だよ』

 

「え?」

 

『爆弾だの、銃を持った男がいるだの、刃物を持った連中が紛れ込んでるだの、朝からそんな電話ばっかりなんだよ。こっちは非番の連中まで駆り出されてるんだぞ』

 

「でも、これは本当に――」

 

『ああ、分かった分かった。そういう話はもう聞き飽きた』

 

「待ってください! 僕はディエゴ・ラブレスの息子です!」

 

受話器を握り直した。

 

「父がその式典に出席しているんです! お願いします、せめて父に電話をしてください! すぐに会場から出るよう伝えてもらうだけでいいんです!」

 

『ラブレス氏の名前なんて式典のチラシに載ってるんだよ。そんなもの誰でも知ってる』

 

「本当なんです! 僕は――」

 

『いい加減にしろよ。これ以上ふざけた電話をかけてくるなら警察に通報するぞ』

 

「待って! お願いだから、父さんに――」

 

通話が切れた。

 

「……もしもし?」

 

返事はない。

 

「もしもし!」

 

耳元では、無機質な音が繰り返されていた。

 

もう一度かけようとした。

 

指が番号の途中で止まった。

 

今度は何を言えばいい。

 

名前を名乗っても信じてもらえなかった。爆弾があるという証拠もない。ディケンズの名前を出したところで、どう説明する。

 

警備本部にいる誰かが、もう一度だけ俺の話を聞いてくれる保証もなかった。

 

「……若様?」

 

顔を上げると、ファビオラがこちらを見ていた。

 

不安そうに、両手を胸の前で握り合わせている。

 

俺は受話器を置いた。

 

「大丈夫だよ、ファビオラ」

 

自分の声が思ったより静かだった。

 

「ロベルタがいる。きっと、うまくやってくれるから」

 

彼女は小さく頷いた。

 

ロベルタなら。

 

あのロベルタなら、きっと。

 

そう考えながら、机の上の時計を見た。

 

針は容赦なく進んでいた。

 

「ファビオラ、テレビをつけてくれる?」

 

「テレビ、ですか?」

 

「うん。何かニュースが入るかもしれない」

 

「かしこまりました」

 

書斎の隅に置かれたテレビが点いた。

 

画面に映し出されたのは、派手な衣装を着た司会者と、客席で笑い転げる人々だった。

 

陽気な音楽が流れ、誰かが大げさに転んだ。

 

観客の笑い声が響く。

 

俺は画面を見つめた。

 

頼む。

 

何も起こるな。

 

何事もなく式典が終わってくれ。

 

父さんがロベルタに見つかって、どうしたんだと笑ってくれれば、それでいい。

 

大げさに騒ぎすぎたと叱られても構わない。

 

父さんなら、きっとそうする。

 

「……若様、お座りになられますか?」

 

「ううん。大丈夫」

 

ファビオラはそれ以上何も言わなかった。

 

テレビの中では、司会者が次の出演者を紹介していた。

 

拍手が起こる。

 

画面いっぱいに笑顔が映る。

 

その途中で、映像が突然切り替わった。

 

赤い文字が現れる。

 

臨時ニュース。

 

司会者の笑い声が消えた。

 

代わりに、硬い表情のアナウンサーが映し出される。

 

『番組の途中ですが、ここで緊急ニュースをお伝えします』

 

胸の奥が、冷たくなった。

 

『先ほど、バリナスで開催されていたMVRの結党式典会場で、大規模な爆発が発生しました』

 

何かが遠くで鳴ったような気がした。

 

『現場では多数の負傷者が出ている模様です。詳しい被害状況については、現在確認が進められています』

 

画面が切り替わる。

 

煙。

 

砕けた窓。

 

建物の入口へ駆け寄る人々。

 

誰かが叫んでいた。

 

俺はテレビを見ていた。

 

そこに映っているものが何なのか、分かっているはずだった。

 

けれど、どうしても目を離せなかった。

 

「……若様っ!」

 

ファビオラの声が聞こえた。

 

俺は電話機へ手を伸ばした。

 

ロベルタ。

 

ロベルタなら、父さんを。

 

番号を押す。

 

呼び出し音が鳴らない。

 

もう一度。

 

つながらない。

 

番号を確かめ、かけ直した。

 

今度も駄目だった。

 

「……くそっ」

 

受話器を置き、すぐに持ち上げる。

 

ロベルタの番号は覚えている。

 

何度でもかけられる。

 

何度でも。

 

それなのに、電話はつながらなかった。

 

現地で何が起きているのか、分からない。

 

回線が混雑しているのか、何か別の障害が起きているのか。それすら確かめようがなかった。

 

「若様、私もなにかお手伝いを……」

 

「……うん。ありがとう」

 

ファビオラが傍らに立つ。

 

俺はもう一度、番号を押した。

 

やはり、つながらなかった。

 

テレビでは現場の映像が繰り返されていた。

 

爆発が起きたという事実以外、確かな情報はほとんど増えない。

 

父さんの名前も出てこなかった。

 

それが救いなのかどうかも分からなかった。

 

時計を見る。

 

電話をかける。

 

テレビを見る。

 

また、電話をかける。

 

どれほど繰り返しただろう。

 

途中から、何度かけ直したのか数えることもできなくなった。

 

父さんは生きている。

 

まだ、そうでないと決まったわけじゃない。

 

ロベルタが間に合ったかもしれない。

 

入口で見つけたかもしれない。

 

一緒に逃げているかもしれない。

 

電話がつながらないのは、ただそれだけのことかもしれない。

 

そうであってくれ。

 

そうであってくれ。

 

書斎に、電話のベルが鳴り響いた。

 

俺は飛びつくように受話器を取った。

 

「ロベルタ!?」

 

『……若様』

 

その声を聞いた瞬間、握っていた受話器がひどく重く感じられた。

 

「……ロベルタ。父さんは?」

 

返事がなかった。

 

「父さんは無事なんだよね?」

 

『……若様、私は……』

 

ロベルタの声が震えていた。

 

『若様は、あらかじめ私に警告してくださっていたのに……』

 

「ロベルタ」

 

『私が……私がおそばに居りながら……』

 

「ロベルタ、父さんは?」

 

向こうで、息を吸う音がした。

 

『旦那様は……』

 

そこで言葉が途切れた。

 

しばらく、何も聞こえなかった。

 

『……申し訳、ございません……』

 

俺は受話器を耳に当てたまま、目を閉じた。

 

何も言わずにいると、向こうから押し殺したような呼吸が聞こえてきた。

 

「……ロベルタ」

 

『……はい』

 

「怪我はしてない?」

 

『……え?』

 

「ロベルタは、無事なの?」

 

『……はい。私は……怪我など……』

 

「そっか」

 

机の端に、手をついた。

 

「よかった」

 

『若様……』

 

「ロベルタが無事で、本当によかった」

 

言葉を区切って、もう一度伝えた。

 

「無事でいてくれて、ありがとう」

 

『……若様、私は……旦那様を……』

 

「ロベルタのせいじゃないよ」

 

『ですが……!』

 

「父さんが一人で行くって言ったんだろ?」

 

『……はい』

 

「だったら、ロベルタは悪くない」

 

受話器の向こうで、かすかに嗚咽が漏れた。

 

「……父さんのこと、お願いしてもいいかな」

 

『……はい』

 

「僕はすぐにはそっちへ行けないから。父さんを、ちゃんと連れて帰ってきてほしい」

 

『……承知、いたしました』

 

「それと、ロベルタも必ず帰ってきてね」

 

『……はい、若様』

 

「待ってるから」

 

『……申し訳、ございません……』

 

「謝らないで」

 

俺は、ゆっくり息を吸った。

 

「ありがとう、ロベルタ」

 

それだけ言って、通話を終え、俺は受話器を置き、その両手で電話機を頭の上まで勢いよく振り上げた。

 

*

 

ガシャアアンッ!!

 

「ひっ……!」

 

びくりと身体が震えた。

 

耳をつんざくような破砕音が、書斎の静寂を引き裂いた。

 

私は息をすることも忘れ、ただただ目の前の背中を見つめることしかできなかった。

 

若様が、電話機を。

 

床には黒い破片が散乱していた。机の脚の向こうに受話器が転がり、つい先ほどまで婦長様のお声を伝えていたものが、もう元の形を留めていない。

 

若様は何もおっしゃらなかった。

 

お願いだから、振り向かないで。

 

そんな言葉が、唐突に頭をよぎった。

 

若様がこちらをご覧になったら、どうすればいいのだろう。何を申し上げればいいのだろう。

 

若様は振り返られない。

 

私は、その背中から目を離せなかった。

 

どれほどの時間が過ぎたのだろう。

 

不意に、若様が膝を折られた。

 

心臓が大きく脈打つ

 

そのままゆっくり片膝をつき、若様は床に散らばった破片を拾い始められた。

 

指先で一つつまみ、手のひらに載せる。

 

もう一つ。

 

少し離れたところにも手を伸ばされる。

 

私はまるでその場に縫い付けられたように、その様子を見ることしかできなかった。

 

何か言わなければ。

 

そう思うのに、言葉が出てこない。

 

若様は拾い上げた破片を手のひらで寄せ集め、さらに別の欠片へ手を伸ばされた。

 

その動きを目で追っているうちに、私はここに来てようやく、本来の呼吸の仕方を少しずつ思い出す。

 

「……ああ、ごめんね、ファビオラ」

 

この場には不釣り合いな穏やかな声。

 

「手が滑っちゃった」

 

わずかに開いた唇からは、気の利いた言葉は何も出てこない。

 

「悪いんだけど、ほうきとちり取りを持ってきてもらえるかな」

 

「…………」

 

若様は返事を待っていらっしゃる。

 

けれど、私が何も言えずにいるうちに、また床へ手を伸ばされた。

 

細く尖った破片が、その指先に触れようとしていた。

 

「わ、若様……!」

 

ようやく声が出た。

 

「そのようなことは、私がいたします!」

 

若様のそばへ駆け寄り、膝をつく。

 

「どうか、お手を……。お怪我をなさいますから……!」

 

若様の手が止まった。

 

私は、伸ばしかけた自分の手を宙に浮かせたまま、その指先を見つめていた。

 

「……そう?」

 

「はい。私が片づけます。ですから……」

 

若様は少しの間、拾い集めた破片を手にしたままでいらっしゃった。

 

やがて、それをそっと床に置かれた。

 

「じゃあ、お願いしてもいいかな」

 

「……はい」

 

「ありがとう、ファビオラ」

 

若様の手が、私の目の前から離れた。

 

私はその手を追いかけるように顔を上げかけ、途中で止めた。

 

若様は、こちらをご覧にならなかった。

 

「尖ったものもあるから、気をつけてね。怪我しないように」

 

「……かしこまりました」

 

「それと、確か資材室に古い電話機が残っていたと思うんだ。悪いけど、取り替えておいてくれるかな」

 

「はい、若様」

 

若様は床に手をつき、立ち上がられた。

 

私は慌てて道を空けた。

 

「じゃあ、僕は部屋に戻ってるね」

 

「……はい」

 

「ロベルタが帰ってきたら教えて」

 

「かしこまりました」

 

「ありがとう、ファビオラ。よろしくね」

 

若様は扉へ向かわれた。

 

私は、その背中を見送っていた。

 

扉の取っ手に若様の手がかかる。

 

「……若様」

 

自分の声に、驚いた。

 

若様の足が止まる。

 

「ん? どうしたの?」

 

私は口を開いた。

 

けれど、何を申し上げればいいのか分からなかった。

 

何か。

 

何か一つでも。

 

若様は振り返らず、待っていらっしゃった。

 

「……若様」

 

「うん」

 

返事があった。

 

その声を聞いても、続く言葉は見つからなかった。

 

「……申し訳、ございません」

 

ようやく、それだけを絞り出した。

 

「何でも……ございません」

 

少しの間があった。

 

「……そっか」

 

若様は静かにお答えになった。

 

「じゃあ、お願いね」

 

扉が閉まった。

 

私は、その扉を見つめていた。

 

廊下を遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなった。

 

若様がお部屋へ戻られた。

 

そのことだけは、分かった。

 

私はまだ、若様に何を申し上げたかったのか、分からずにいた。

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