BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十七話 帰還
屋敷へ続く坂道に差しかかった頃、フロントガラスに雨粒が落ち始めた。
運転手がワイパーを動かす。細い水の筋が左右へ払われ、灰色の空の下に、見慣れた並木道が現れた。
私は膝の上で握りしめていた両手をほどいた。掌には爪の跡が残っている。指を一本ずつ伸ばしてみたが、すぐにまた握り合わせてしまった。
この道を通るのは、何度目になるだろう。
旦那様のお供で屋敷を出て、仕事を終えて帰ってくる。そんな日々を、私は何年も繰り返してきた。
いつもなら、屋敷が近づく頃には旦那様からお声がかかった。
若様はもうお帰りだろうか。
夕食には間に合いそうだな。
何気ないお言葉にお答えし、屋敷に着けば車の扉を開ける。それが私にとって、ごく当たり前の日常だった。
今は、何も聞こえない。
霊柩車の後部には、旦那様の棺が納められている。
私は背後を振り返らなかった。
バリナスを発ってから、幾度となく振り返りたい衝動に駆られた。そのたびに、前を向き直った。
確かめたところで、何が変わるというのだろう。
それでも、すぐ後ろに旦那様がいらっしゃると思うと、じっとしていられなかった。
「もうすぐ到着します」
運転手の声に、私は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
窓の外では、雨が少しずつ強くなっていた。
やがて、ラブレス邸の門が見えてきた。
車が敷地へ入り、緩やかな坂を上っていく。
玄関前には、大勢の人影があった。
使用人たちだった。
皆、屋敷の前に並び、こちらを待っていた。
車が近づくにつれ、一人ひとりの顔が見えてくる。
目を赤く腫らした者。唇を固く結び、俯いている者。長年旦那様にお仕えしてきた年配の使用人は、隣の者に支えられながら立っていた。
誰もが雨に濡れていた。
その中に、ファビオラの姿を見つけた。
あの子は両手を胸の前で握りしめ、何度も目元を拭っていた。隣の女性使用人が肩に手を添えている。それでも涙は止まらないらしく、とうとう顔を伏せてしまった。
私は窓から目を離した。
あの子に、何と声をかければよいのだろう。
屋敷を出るとき、旦那様はいつもと変わらずお元気だった。
それなのに、私は。
車が玄関前で停まった。
運転手が先に降り、助手席の扉を開けてくれた。
「……ありがとうございます」
私は地面に足を下ろした。
長い移動で強張った膝が、わずかに震えた。すぐに姿勢を正し、使用人たちへ向き直る。
「……ただいま、戻りました」
頭を下げた途端、どこかからすすり泣く声が聞こえた。
顔を上げられなかった。
旦那様をお守りできなかった。
この屋敷の誰よりも、旦那様のおそばにいることを許されていた私が。
「おかえり、ロベルタ」
聞き慣れた声がした。
私は顔を上げた。
若様が、使用人たちの間から歩いてこられるところだった。
「長旅、お疲れさま」
私の前で足を止め、若様は柔らかく微笑まれた。
「大変だったでしょ。身体は大丈夫?」
「……若様」
ようやく、それだけが口から出た。
若様は私の顔をご覧になり、少し眉を寄せられた。
「ちゃんと休めた? あんまり寝てないんじゃない?」
「……いえ、私は……大丈夫でございます」
「そっか。でも、無理しないでね」
雨粒が若様の髪に落ちた。
私は反射的に、若様を屋根の下へお連れしなければと思った。
けれど、足が動かなかった。
若様は、そんな私を見つめたままおっしゃった。
「父さんを連れて帰ってきてくれて、ありがとう」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
私は旦那様をお守りできなかった。
その私に、若様はお礼をおっしゃっている。
「……若様、私は……」
言いかけたところで、車の後方から金具の動く音がした。
係の者たちが霊柩車の後部扉を開き、棺を降ろす準備を始めていた。
若様もそちらへ目を向けられた。
私たちは並んで車の後方へ歩いた。
使用人たちが左右に分かれ、道を開ける。
棺が慎重に引き出され、用意された台へ移された。
その姿が現れた瞬間、背後から押し殺した泣き声が漏れた。
一人ではなかった。
長年旦那様にお仕えしてきた使用人が、両手で顔を覆っていた。別の者は唇を噛み、俯いたまま肩を震わせている。
ファビオラの泣き声も聞こえた。
私は棺のそばに立った。
雨粒が、磨かれた蓋の上に小さな染みを作っていく。
若様は棺の前で足を止められた。
しばらく、何もおっしゃらなかった。
やがて、その蓋を見つめたまま、小さく尋ねられた。
「……この中に、父さんがいるんだね」
「……はい」
若様は頷かれた。
それから、少し間を置いてお尋ねになった。
「……顔を見てもいいかな」
息が止まりそうになった。
あの会場の光景が、脳裏をよぎった。
崩れた建物。
粉塵に覆われた地面。
担架で運ばれていく人々。
そして、ようやく見つかった旦那様のお姿。
「……若様」
私は棺へ目を落とした。
「恐れながら……棺の中は、ご覧にならない方がよろしいかと存じます」
若様はこちらをご覧になった。
「……そうなんだ」
「……はい」
それ以上、言葉が続かなかった。
若様に嘘を申し上げたくはない。
けれど、あのお姿をお伝えすることも、実際にご覧いただくことも、私にはできなかった。
もし、理由をお尋ねになったら。
もし、どうしても会いたいとおっしゃったら。
私は何とお答えすればよいのだろう。
「……分かったよ」
若様は静かに頷かれた。
「ロベルタがそう言うなら、やめておくね」
そして、私に微笑まれた。
「教えてくれてありがとう」
私は俯いた。
そのお言葉に、返事ができなかった。
若様は、私を責められない。
なぜ旦那様を守れなかったのかとも、どうしてお一人で帰ってきたのかとも、お尋ねにならない。
それどころか、私の身体を気遣い、労い、お礼までおっしゃる。
旦那様をお守りすることが、私の務めだった。
そのためなら、どのような危険も厭わないつもりでいた。
なのに、肝心なときに、私は旦那様のおそばにいなかった。
「……若様」
ようやく声を絞り出した。
「……申し訳、ございません」
若様が私をご覧になった。
私は深く頭を下げた。
「私が……私が、旦那様のおそばについていながら……」
言葉が震えた。
「旦那様は、私を信頼してくださっておりました。あれほどのご恩を賜りながら、私は……」
喉の奥が熱くなった。
「若様からも、旦那様をお守りするよう、あれほどお言いつけいただいたというのに……!」
握りしめた拳に力がこもる。
「私が、もっと早く駆けつけていれば……!」
「ロベルタ」
「駐車場で足止めされてなどいなければ……いえ、そもそも、旦那様のおそばを離れさえしなければ……!」
「ロベルタ」
「私が……私が、あのとき……!」
若様が一歩、近づいてこられた。
次の瞬間、私の身体に腕が回された。
「……若、様?」
思いがけないことに、言葉を失った。
若様が、私を抱きしめてくださっていた。
腰の辺りに回された腕。
背中に触れる手。
幼い頃から、私は若様をお守りしてきた。
転んで泣いていらっしゃったときも、熱を出して眠れなかった夜も、私がおそばにいた。
その若様が今、私を抱きしめてくださっている。
「大丈夫だよ、ロベルタ」
穏やかな声だった。
「大丈夫だよ」
ぽん、ぽん。
背中を優しく叩かれた。
私は呆然としたまま、その腕の中に立っていた。
「……若様、私は……」
「うん」
「……旦那様を、お守りすることが……」
声が詰まった。
若様は、私の言葉を待ってくださった。
けれど、どうしても続きを言うことができなかった。
「……申し訳、ございません」
「大丈夫」
また、背中を叩かれた。
ぽん、ぽん。
雨が肩に当たっていた。
髪を伝った水滴が、頬を流れ落ちる。
私は動くことができなかった。
こんなところで取り乱してはならない。
使用人たちが見ている。
旦那様がお戻りになったばかりなのだ。
この後のことも、葬儀の準備も、屋敷のことも、私がしっかりしなければならない。
そう思っているのに、若様の手が背中に触れるたび、胸の奥で何かが揺らいだ。
「……若様」
私はどうにか声を整えようとした。
「どうか……どうか、私を……」
許さないでください。
そう申し上げようとした。
けれど、若様が先に口を開かれた。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
「……っ」
「ロベルタが無事で、よかった」
私は唇を噛んだ。
「……私は……若様に、そのようなお言葉をいただけるような……」
「そんなことないよ」
若様は、少しもためらわずにおっしゃった。
「僕は、ロベルタが帰ってきてくれて嬉しいよ」
目の奥が熱くなった。
一粒、涙がこぼれた。
私は慌てて拭おうとしたが、若様に抱きしめられたままでは、うまく腕を動かせなかった。
「……も、申し訳……」
声が震えた。
「……申し訳、ございません……」
ぽん、ぽん。
背中を叩く手は止まらなかった。
雨脚が強くなっていた。
玄関の庇を叩く音が大きくなり、石畳の上に小さな水溜まりができ始めている。
私は必死に呼吸を整えた。
一度、大きく息を吸う。
けれど、吐き出そうとした途端、喉の奥から嗚咽が漏れた。
「……っ、く……」
いけない。
若様の前で。
旦那様の棺の前で。
こんな姿をお見せするなど。
「ロベルタ」
若様が私を呼ばれた。
「大丈夫だよ」
その声を聞いた途端、堪えていた涙がまた溢れた。
「……わ、私は……っ」
何か申し上げなければならなかった。
謝らなければ。
旦那様をお守りできなかったことを。
若様から、大切なお父上を奪ってしまったことを。
「……旦那様、を……っ、お守り……!」
息が続かなかった。
私は若様の服を掴んだ。
「……申し、訳……ございま……っ」
視界が滲んだ。
足元が頼りなくなり、膝が震えた。
どうにか踏みとどまろうとした。
けれど、若様の手が、もう一度、優しく背中を叩いた。
「大丈夫だよ、ロベルタ」
その声を聞いた途端、とうとう膝から力が抜けた。
若様の服を握りしめたまま、私はその場に崩れ落ちた。
両膝が濡れた石畳につく。
若様のお腹に顔を埋めるようにして、私はしがみついた。
「……っ、う……ああ……!」
もう、声を抑えることができなかった。
「も……申し、わけ……っ、ございま、せん……!」
私は顔を上げることもできず、何度も謝罪を繰り返した。
「……だん、なさま……っ、わ、わたし……っ……!」
声は若様の服に遮られ、嗚咽に途切れ、まともな言葉にならなかった。
それでも、口を閉じることができなかった。
「……若様……っ、申し訳……申し訳、ございませ……っ!」
若様の腕が、私の肩を包んだ。
背中に回されていた手が、今度は頭をそっと撫でてくださった。
「大丈夫だよ、ロベルタ」
私は首を横に振った。
何が大丈夫だというのだろう。
旦那様は、もういらっしゃらない。
二度と、あのお声を聞くことはできない。
若様がどれほど優しいお言葉をくださっても、私が旦那様をお守りできなかった事実は、何一つ変わらない。
それなのに。
「……う、ああああ……っ!」
私は若様に縋りつき、声を上げて泣いた。
雨は、いっそう激しくなっていた。
肩を濡らし、髪を濡らし、若様のお召し物にも染み込んでいく。
周囲からも泣き声が聞こえていた。
ファビオラのすすり泣く声。
誰かが鼻をすする音。
私の名前を呼んだ者もいたように思う。
けれど、顔を上げることはできなかった。
若様の服を握りしめ、ただ泣き続けた。
若様は何もおっしゃらなかった。
私を抱きとめ、時折、背中や頭を優しく撫でてくださる。
その手が止まるたび、私はまた何かを申し上げようとした。
けれど、出てくるのは途切れ途切れの謝罪ばかりだった。
どれほどの時間が過ぎたのか、分からない。
ようやく泣き声が小さくなっても、私はしばらく若様から離れることができなかった。
若様は、急かすことなく待ってくださった。
私は震える息を整え、ようやく顔を上げた。
若様のお召し物は、雨と私の涙ですっかり濡れていた。
「……お召し物を……汚してしまいました……」
かすれた声で申し上げると、若様は小さく笑われた。
「そんなの、気にしなくていいよ」
そして、私の肩にそっと手を添えられた。
「立てる?」
私は頷いた。
けれど、すぐには足に力が入らなかった。
若様が支えてくださるのを感じながら、どうにか立ち上がる。
目の前には、旦那様の棺があった。
係の者たちが雨に濡れないよう覆いをかけ、屋敷の中へ運び込む準備を整えていた。
私はその前で、深く頭を下げた。
申し訳ございません、旦那様。
心の中で、もう一度謝った。
顔を上げると、若様が私をご覧になっていた。
そのお顔には、いつもの穏やかな微笑みがあった。
*
その夜になっても、雨は止まなかった。
屋敷の窓を絶え間なく叩き、ときおり風に煽られて、強くガラスを鳴らした。
旦那様の棺は、一階の大広間に安置されていた。
普段は客人を迎え、屋敷の催しにも使われる広間だったが、今夜は家具の一部が片づけられ、中央に棺が置かれている。
葬儀の準備は、明日から本格的に進めることになっていた。
私は自室で着替えを済ませ、椅子に腰を下ろしていた。
身体は疲れ切っていた。
長い移動に、現地での手続き。ほとんど眠れないまま、ようやく屋敷へ戻ってきた。
それでも、横になる気にはなれなかった。
目を閉じると、あの会場の光景が浮かんでくる。
旦那様をお探しして、何度もお名前を呼んだこと。
ようやく見つけたときのこと。
そして、今日、若様の前で泣き崩れてしまったこと。
私は両手で顔を覆った。
あれほど取り乱したのは、いつ以来だろう。
旦那様にお仕えするようになってから、一度もなかったかもしれない。
若様は、何もおっしゃらなかった。
ただ、私が落ち着くまで、ずっと抱きしめてくださった。
そのことを思い出すと、また涙が滲んだ。
私は手の甲で目元を拭った。
若様は、もうお休みになられただろうか。
昼間、あれほどのことがあったというのに、若様は終始、私たちを気遣ってくださった。
食事は召し上がっただろうか。
少しでも、お休みになれているだろうか。
そう考えると、じっとしていられなくなった。
私は立ち上がり、部屋を出た。
廊下には、夜の静けさが満ちていた。
若様のお部屋の前まで行き、軽く扉を叩く。
「……若様。ロベルタでございます」
返事はなかった。
もう一度、少し間を置いて呼びかけた。
やはり、返事はない。
お休みになっているのだろうか。
私はしばらく扉の前に立っていたが、どうにも気になり、そっと声をかけてから扉を開けた。
室内は暗かった。
寝台には誰もいらっしゃらない。
私は部屋を見回した。
机の上には、いつものように本が置かれていた。寝台も整えられたままだった。
「……若様?」
返事はない。
私は扉を閉め、廊下へ戻った。
書斎だろうか。
若様は夜遅くまで本を読んでいらっしゃることも珍しくない。
そう思いながら階段へ向かった。
途中、廊下を歩いてきた使用人に声をかける。
「若様をお見かけしませんでしたか」
「いえ……申し訳ございません、婦長様」
「そうですか。ありがとうございます」
私は階段を下りた。
一階の廊下には、ところどころ灯りが残されている。
書斎へ向かおうとしたところで、玄関ホールの方から、雨音がひときわ大きく聞こえてきた。
ホールの一角には、大広間へ続く両開きの扉がある。
その前に、二人の使用人が立っていた。
旦那様の棺を安置した大広間の入口で、夜通し控えることになっている者たちだった。
私に気づくと、二人は静かに頭を下げた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまでございます、婦長様」
私は挨拶を返した。
それから、尋ねた。
「……若様をお見かけしませんでしたか」
二人の表情が曇った。
年配の使用人は眉を寄せ、唇を固く結んだ。隣に立つ若い使用人も、何か言いかけたものの、すぐに口を閉ざしてしまった。
二人は顔を見合わせた。
やがて、年配の使用人が悲しそうに目を伏せ、背後の大広間の扉へと視線を向けた。
私はその様子を見て、扉へ目を向けた。
「……若様は、こちらに?」
「……はい」
かすかな返事だった。
「旦那様の棺をこちらにお運びしてから、ずっと中にいらっしゃいます」
「……ずっと、ですか」
「はい。一度もお出になっておりません」
私は、もう一度扉を見た。
旦那様の棺がこの大広間に安置されたのは、夕方のことだった。
それから、もう何時間も経っている。
「……そうですか。ありがとうございます」
二人に礼を言い、扉へ近づいた。
取っ手に手をかけようとして、思いとどまる。
若様は、旦那様とお過ごしになっている。
今は、お邪魔しない方がよいのかもしれない。
けれど、あれから一度も大広間を出ていらっしゃらないという。
私はしばらく迷った末、静かに扉を叩いた。
「……若様。ロベルタでございます」
返事はなかった。
少し待ってから、もう一度お声をかける。
「失礼いたします」
私はゆっくりと扉を開けた。
広い室内には、いくつかの灯りがともされていた。
普段は客人たちの話し声や笑い声が響く大広間も、今夜はひっそりと静まり返っている。
中央には、旦那様の棺が安置されていた。
その少し離れたところに、一脚の椅子が置かれている。
若様は、そこに座っていらっしゃった。
背もたれに寄りかかることもなく、両手を膝の上に置き、棺を見つめておられた。
本も、書類もない。
何かをなさっている様子もなかった。
ただ、静かに座っていらっしゃった。
私は扉のところで足を止めた。
窓の外では、雨が降り続いていた。
時折、風に煽られた雨粒がガラスを叩き、その音が広い室内に響いてくる。
若様は、こちらに気づいていらっしゃらないようだった。
私は、しばらくそのお姿を見つめていた。
昼間、私を抱きしめてくださった若様。
何度謝っても、責めることなく、優しく背中を撫でてくださった若様。
その若様が今、旦那様の棺の前に座っていらっしゃる。
私は胸元で両手を重ねた。
「……若様」
ようやく、声をかけた。
若様がこちらを向かれた。
「ああ、ロベルタ」
いつもの声だった。
「どうしたの? まだ起きてたんだ」
「……はい。若様のことが、少々気になりまして」
「僕の?」
「はい。お部屋にいらっしゃらなかったものですから……」
若様は小さく微笑まれた。
「そっか。心配かけちゃったね。ごめんね」
「いえ、そのような……」
私は棺へ目を向けた。
「……若様。もう夜も更けております。そろそろ、お休みになられてはいかがでしょうか」
若様は一度、棺の方をご覧になった。
「……うん」
そして、私に向き直られた。
「でも、もう少しだけ、父さんと一緒にいたいんだ」
私は、すぐには返事ができなかった。
若様は、いつものように穏やかに続けられた。
「ロベルタこそ、今日は疲れたでしょ。ずっと大変だったんだから、ちゃんと休んでね」
「……若様」
「僕は大丈夫だよ」
その言葉を聞いたとき、昼間のことが思い出された。
大丈夫だよ、ロベルタ。
何度もそうおっしゃりながら、私の背中を叩いてくださった。
私は、胸の奥に込み上げるものを抑えた。
「……でしたら、私もこちらに控えております」
若様は首を横に振られた。
「ありがとう。でも、ロベルタには休んでほしいな」
「ですが……」
「明日からも、いろいろお願いすることがあると思うから」
そうおっしゃって、若様は微笑まれた。
「今日はもう、ゆっくりして」
私は、しばらく若様を見つめていた。
そのお顔に、涙はなかった。
声にも、普段と変わったところはない。
いつもと同じように、私のことを気遣ってくださる。
けれど、若様のすぐそばには、旦那様の棺があった。
私は目を伏せた。
「……かしこまりました」
深く頭を下げる。
「それでは、失礼いたします。何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
「うん。ありがとう、ロベルタ」
私はもう一度頭を下げ、扉へ向かった。
取っ手に手をかけ、最後に振り返った。
若様は、すでに棺へ向き直っていらっしゃった。
膝の上に両手を置き、静かに座っておられる。
窓を打つ雨音が、絶え間なく続いていた。
私はしばらく、そのお姿を見つめていた。
何か、お声をかけたかった。
けれど、何と申し上げればよいのか分からなかった。
結局、私は何も言わず、静かに扉を閉めた。
玄関ホールには、二人の使用人が控えていた。
「若様は、もうしばらくこちらにいらっしゃるそうです。何かございましたら、すぐに私へ知らせてください」
「かしこまりました、婦長様」
私は頷き、その場を離れた。
階段へ向かいながら、何度か足を止めそうになった。
若様は、もう少し旦那様と一緒にいたいとおっしゃった。
そのお時間を、邪魔してはならない。
そう思う一方で、あの広い部屋にお一人でいらっしゃる若様のお姿が、どうしても頭から離れなかった。
階段の手前で、私は振り返った。
大広間の扉は、ここからではもう見えない。
雨音だけが、屋敷の中に響いていた。