BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十八話 葬儀
雨は、今日も降り続いている。
灰色の空から落ちる雨粒が教会の屋根を叩き、石畳を黒く染めていく。
その先に続くのは、人、人、人。
政界の要人、経済界の重鎮、そして町の人々。
立場も身分も異なる人々が、ディエゴ・ラブレスとの最後の別れを告げるため、教会へと足を運ぶ。
喪服に身を包んだ参列者の列は、まるで黒い川のように、通りの向こうまで延々と続いていた。
傘の下に沈む顔、顔、顔。
ときおり嗚咽が漏れ、誰かが故人の名を呟く。
今も雨は容赦なく降り注ぐ。けれど、この場所に満ちた悲しみを洗い流すには、あまりにも頼りない。
「ディエゴ様には、本当にお世話になりました」
「困っていた私たちに、真っ先に手を差し伸べてくださったのは、あの方でした」
「どうして、あんなに良い方が……」
弔問に訪れた人々は、口々に旦那様との思い出を語る。
涙を流す者。胸の前で十字を切り、静かに祈る者。
その一人ひとりの姿が、旦那様の人柄を何より雄弁に物語っていた。
私は教会の入口に立ち、彼らの言葉に耳を傾ける。
旦那様は、私にとっても特別な方だった。
血にまみれた過去を持つ私を受け入れ、人として生きる場所を与えてくださった恩人。
罪深いこの身に、もう一度、人を愛することを許してくださった方。
あの方がいなければ、今の私は存在しない。
それほどの恩を受けながら、私は旦那様をお守りできなかった。
目を閉じれば、穏やかに微笑む旦那様のお顔が浮かぶ。
あの笑顔を、もう二度と見ることは叶わない。
胸の奥から込み上げるものを、唇を噛んで押し殺す。
今は、泣いている場合ではない。
私には、まだお守りしなければならない方がいるのだから。
*
聖堂には、静かな祈りの声が響く。
祭壇の前に安置された旦那様の棺。その周囲では、蝋燭の炎が小さく揺れている。
司祭の言葉に耳を傾けながら、私は幾度となく棺へ視線を向けた。
どうしても、そこに旦那様が眠っておられるという事実を受け入れられない。
今にも棺が開き、いつもの穏やかな声で私を呼んでくださるのではないか。
そんな、あり得ないことさえ考えてしまう。
やがて葬儀のミサが終わり、司祭の了承を得て、若様が参列者の前へ進み出られた。
「本日は、父のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
落ち着いた声が、聖堂に響き渡る。
若様は、父との思い出を語り始めた。
幼い頃に教わったこと。何気ない日々の出来事。そして、今日この場に集まった人々への感謝。
飾り気のない、率直な言葉。
ときおり言葉を選ぶように間を置きながらも、その声が乱れることはない。
私は、若様から目を離せずにいた。
黒い喪服に身を包み、参列者たちに向き合うその姿。
まだ十五歳だというのに、なんと堂々としておられるのだろう。
その面影に、生前の旦那様のお姿が重なる。
「……なんと立派な若君だ」
近くから、囁く声が聞こえた。
「まだ十五歳だというのに、あれほど堂々としておられるとは」
「ディエゴ様も、さぞ誇らしいでしょうな」
「これなら、次代のラブレス家も安泰ですな」
別の男が、静かに相槌を打つ。
「ええ。あの若さで、あれほどの落ち着きと人望をお持ちとは。将来が楽しみですな」
「いずれは、お父上を超える大人物になられるかもしれません」
「ラブレス家とは、これからも末永く良いお付き合いをしていきたいものです」
誰もが若様の将来を称えている。
言葉そのものに、失礼なところはない。
けれど、その最後の一言が、妙に耳に残った。
旦那様の死を悼む声の中に、すでに次代のラブレス家を見据えた思惑が混じり始めている。
それが彼らの立場なのだろう。
誰かが亡くなっても、世の中は止まらない。
残された者たちは、否応なく次の時代へと押し出されていく。
私は再び、若様へ目を向けた。
立派な当主。
頼もしい後継者。
人々は、あの小さな肩にラブレス家の未来を見ている。
誇らしい。
けれど、どうしてだろう。
その期待が、今はひどく残酷なものに思える。
あの方は、まだ十五歳なのだ。
本来なら、父親の胸に顔を埋め、声を上げて泣いても許されるはずの少年。
それなのに、今は亡き父に代わり、人々の期待を一身に受け止めておられる。
若様は最後に、父への感謝と安らかな眠りを願う言葉を述べ、静かに挨拶を終えられた。
しばしの沈黙が、聖堂を包む。
私はただ、その背中を見つめていた。
*
埋葬の時刻を迎えても、雨は止まない。
墓地には黒い傘が幾重にも並び、灰色の空の下に静かな影を落としている。
旦那様の棺が墓穴の前へ運ばれ、司祭が最後の祈りを捧げる。
私は若様の傍らに立ち、その祈りに耳を傾けた。
若様は何も仰らない。
ただ、棺を見つめておられる。
やがて、棺がゆっくりと墓穴へ下ろされていく。
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
これが、本当のお別れなのだ。
もう二度と、旦那様のお声を聞くことはできない。
あの温かな眼差しも、穏やかな笑顔も、すべて失われてしまった。
どれほど祈っても、どれほど悔やんでも、失われた命は戻らない。
傘の柄を握る手に、思わず力がこもる。
守れなかった。
あれほどの恩を受けながら、私は何一つお返しできなかった。
かつて幾人もの命を奪ってきたこの手で、たった一人の恩人さえ守ることができなかったのだ。
ふと、隣に立つ若様へ目を向ける。
若様は、静かに墓穴を見つめておられた。
涙は見えない。
その表情からは、何を考えておられるのかも読み取れなかった。
何か、お声をかけなければ。
けれど、言葉が見つからない。
どのような慰めも、父親を失った悲しみを癒やすことなどできはしないのだから。
やがて祈りが終わり、埋葬が進められる。
土が、少しずつ棺を覆っていく。
そのたびに、旦那様が遠ざかっていくように思えた。
参列者たちは最後の祈りを捧げ、一人、また一人と墓前を離れていく。
若様に弔意を伝える者もいた。
そのたびに、若様は静かに礼を述べられる。
そして、最後の参列者が墓地を後にした。
*
雨音だけが、墓地に響いている。
若様は、旦那様の墓の前に立ち続けておられた。
私も、その傍らを離れることができない。
どれほどの時間が過ぎただろう。
不意に、若様が口を開かれた。
「ねえ、ロベルタ」
「……はい、若様」
「父さんは、悪いことをしたのかな」
胸が締めつけられる。
「いいえ。旦那様は、決してそのような方ではありませんでした」
「……そうだよね」
若様は墓石から目を離されない。
「父さんは、たくさんの人を助けてきた。今日だって、あんなに大勢の人が来てくれた」
「はい」
「なのに、どうして父さんが死ななきゃいけなかったんだろう」
答えられなかった。
若様の声は、驚くほど静かだ。
「悪いことをしていなくても、殺される。誰かを助けても、報われるとは限らない」
雨音が、二人の間に落ちる。
「……おかしな世界だね」
かつて私自身が身を置いていた世界。
善も悪も、正しさも祈りも、銃弾一発の前では何の意味も持たない世界。
私は、誰よりもその理不尽を知っているはずだった。
それなのに、若様にかける言葉が見つからない。
「父さんは、誰かを傷つけるために生きてきたわけじゃない。たくさんの人を助けて、みんなの幸せを願っていた」
「……はい」
「それなのに、こんな終わり方をするなんて」
若様は墓石を見つめたまま、言葉を続けられる。
「きっと、これからも同じようなことは起こるんだろうね。正しいことをしている人が傷ついて、悪意を持った人間が何事もなかったように生きていく」
しばしの沈黙。
「でも、僕は嫌だな」
「……若様?」
「僕の大切な人たちが、そんな理不尽な目に遭うのは、もう二度と見たくない」
若様が、ゆっくりとこちらを向かれた。
「だから、僕が守るよ」
その瞳には、迷いがない。
「僕の大切な人たちに降りかかる不条理も、悪意も。僕が必ず食い止める」
そして、少しだけ声を落とされる。
「……それでも誰かが傷つけようとするなら、その人には、ちゃんと報いを受けてもらう」
思わず、息を呑んだ。
怒鳴るでもなく、憎しみを露わにするでもない。
ただ、静かに告げられたその言葉には、容易には揺るがない意志が宿っている。
「若様……」
その先の言葉が出てこない。
若様は再び墓石へ目を向けられた。
やがて、何かを思い出したようにこちらを振り向かれる。
「もちろん、ロベルタのこともね」
「……私、ですか?」
「うん。僕にとって、ロベルタも大切な家族だから」
若様は、いつものように穏やかに微笑まれた。
「だから、僕が守るよ」
私は、何も言えなかった。
守らなければならないのは、私の方なのに。
旦那様から託された、この方を。
それなのに、若様は私を守ると仰る。
その優しさが、嬉しい。
そして、たまらなく切ない。
この方は、父親を失ったばかりなのだ。
それでもなお、自分以外の誰かを守ろうとなさっている。
私は、若様の傍らで傘を差し続ける。
せめて今だけは、この方の悲しみに寄り添っていたい。
若様は、それきり何も仰らなかった。
二人の前には、真新しい墓石が静かに佇んでいる。
雨は、まだ止まない。
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