BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第二十九話 新たなる門出
旦那様をお見送りして、七度目の朝を迎える。
開け放たれた窓から、庭の草木の香りが漂ってくる。厨房では食器の触れ合う音が響き、廊下を行き交う使用人たちの足取りにも、ようやく以前の慌ただしさが戻りつつある。
いつもの朝。
そう思えたのは、食堂の前を通りかかるまでのこと。
長い食卓の奥には、今日も空席が一つ。
あの席から「おはよう、ロベルタ」と声がかかることは、もうない。
私はしばらく立ち尽くし、それから食卓へ歩み寄る。椅子の背に触れると、磨き上げられた木の感触が指先に伝わってきた。
旦那様は、いつもここで朝の新聞を読んでおられた。
珈琲をお持ちすれば必ず礼をおっしゃり、若様が寝坊なされば、困ったように笑って私へ目配せをされる。
ありふれた、穏やかな朝。
あの頃は、それが永遠に続くものと信じていた。
「……婦長様?」
背後から声がする。
振り向くと、ファビオラが立っている。両手には、今朝使う食器を載せた盆。
「どうかなさったんですか?」
「いいえ。何でもありませんよ」
そう答えると、彼女は私の視線を追い、食卓の奥へ目を向ける。
「あ……」
小さな声を漏らし、口を閉ざす。
やがて私の隣へ並ぶと、同じ椅子を見つめながら呟いた。
「……まだ、変な感じがしますね」
「ええ」
「今にも旦那様が入ってこられそうで……」
ファビオラはそこで言葉を切り、盆を抱え直す。
私はそっと彼女の肩に手を置いた。
「朝食の準備を続けましょう。若様がお待ちになります」
「……はい!」
精いっぱい明るく返事をする彼女に微笑みかけ、私は食堂を後にする。
旦那様の不在は、屋敷の至るところに残っている。
書斎に並ぶ蔵書。庭に植えられた花々。廊下に飾られた家族の写真。
何もかもが以前と変わらないからこそ、そこにいらっしゃるはずの方がいないことを思い知らされる。
けれど、悲しみに暮れてばかりはいられない。
この屋敷には、まだお守りすべき方がいらっしゃるのだから。
────────
若様は、以前にも増してお忙しい日々を送っておられる。
朝食を終えると執務室へ向かい、管理人から領地の報告を受け、取引先から届いた書簡に目を通す。時には遠方から訪ねてくる客人の応対もなさる。
机の上には書類が積み重なり、ようやく一つ片づいたと思えば、また新しい束が運び込まれる。
旦那様がどれほど多くの仕事を担っておられたのか、改めて思い知らされる光景だ。
「……これ、全部父さんがやってたの?」
ある日の午後。
書類の山を前に、若様が思わず声を漏らされた。
傍らの管理人が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「はい。無論、私どもで処理できる案件もございますが、最終的なご判断を仰ぐものも多く……」
「そっか。父さん、すごいなあ」
若様は感心したように書類を眺め、それから一枚を手に取られる。
「じゃあ、まずはこれから教えてもらってもいい?」
「もちろんでございます」
「ありがとう。まだ分からないことばっかりだけど、よろしくお願いします」
そう言って笑われると、管理人の強張った表情も自然と和らいでいく。
若様は、ご自身の未熟さを隠そうとなさらない。
分からないことは尋ね、助言には素直に耳を傾ける。時には判断に迷うこともあるが、決して仕事を投げ出されない。
そのお姿は、私にとって何より誇らしい。
けれど同時に、胸の奥が痛むこともある。
まだ十五歳。
本来なら、父君の庇護のもとで、もっと自由に過ごしていてもよいお年頃なのに。
「ロベルタ」
書類から顔を上げた若様が、こちらをご覧になる。
「はい、若様」
「今日の午後、みんなに集まってもらえるかな」
「皆、と申しますと?」
「この屋敷で働いてくれている人たち、全員に。少し話しておきたいことがあるんだ」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
「ありがとう」
いつもの柔らかな笑顔。
私は一礼し、執務室を後にする。
────────
午後の広間には、屋敷の使用人たちが顔を揃えている。
料理人、庭師、管理人、掃除係。
普段はそれぞれの持ち場で働く者たちが、仕事の手を止め、一堂に会するのは久しぶりのことだ。
誰もが、これから若様が何をお話しになるのか気にかけている。
無理もない。
旦那様を失ったラブレス家は、今、大きな転換点に立っている。
新たな当主は、まだ十五歳。
この先、屋敷がどうなっていくのか。不安を抱く者がいても不思議ではない。
やがて、広間の扉が開く。
若様が姿を現されると、ざわめきが静まった。
私は自然と背筋を伸ばす。
若様は皆の前に立ち、一人ひとりの顔を確かめるように見渡された。
「みんな、忙しいところ集まってくれてありがとう」
穏やかな声が、広間に響く。
「今日は、どうしても伝えておきたいことがあって」
若様は一度、息を整えられた。
「まず、父さんのことなんだけど……」
その言葉に、何人かが顔を伏せる。
「今まで父さんを支えてくれて、本当にありがとう」
若様は深く頭を下げられた。
誰もが息を呑む。
「父さんは、よくみんなの話をしてたんだ。うちには頼りになる人たちがたくさんいるって。自分は本当に恵まれているんだって」
懐かしそうに微笑まれる。
「父さんがあんなに忙しくても、いつも笑っていられたのは、きっとみんなのおかげだったと思う」
私は唇を結ぶ。
旦那様は、使用人を決して道具のようには扱われなかった。
一人ひとりの名前を覚え、体調を気遣い、家族に祝い事があれば共に喜ばれる。
そのお人柄に、どれほど多くの者が救われてきただろう。
「父さんがいなくなって、これからは僕がこの家を預かることになった」
若様の声が、少しだけ真剣なものに変わる。
「でも、僕はまだ十五歳だし、分からないこともたくさんある。父さんみたいに、何でもできるわけじゃない」
困ったような笑みを浮かべられる。
「正直、ちゃんとやっていけるのか、不安になることもあるんだ」
広間は静まり返っている。
その告白は、決して弱々しくは聞こえない。
むしろ、若様がどれほど真剣に、ご自身の立場と向き合っておられるのかを感じさせる。
「だけど、この家を守りたい」
その一言には、確かな力があった。
「父さんが大切にしてきたものを、僕も大切にしたいんだ」
若様は、ゆっくりと私たちを見渡される。
「父さんは、みんなのことを家族だと思ってた」
そして、微笑まれた。
「僕も、そう思ってるよ」
胸の奥で、何かが震える。
「みんなは、僕にとって大切な家族なんだ」
ああ。
若様。
「だから、これからも一緒にいてほしい。僕だけじゃ、きっと何もできないから」
若様は、もう一度深く頭を下げられる。
「未熟な当主だけど、どうか力を貸してください」
誰も動けない。
当主として命じるのではない。
ご自身の未熟さを認め、私たちを必要としてくださっている。
それが、どれほど嬉しいことか。
「その代わり、僕も約束する」
若様が顔を上げられる。
「父さんみたいに立派になれるかは分からないけど、精いっぱい頑張る。みんなが安心して暮らせるように、この家を守っていくよ」
背筋を、震えが駆け抜ける。
私は、この方を知っている。
幼い頃からお仕えし、その成長を間近で見守ってきた。
優しく、聡明で、時には年相応のいたずらをなさる、愛らしい若様。
けれど今、目の前に立っておられるのは、それだけではない。
ディエゴ・ラブレスの意志を受け継ぎ、新たな当主として歩み始めた、一人の人間。
この方に、お仕えしたい。
胸の底から、そう思う。
「……若様」
最初に声を上げたのは、長年ラブレス家に仕えてきた管理人だ。
その目には涙が浮かんでいる。
「私どもに、どうかそのように頭をお下げにならないでください」
管理人は一歩進み出ると、深々と腰を折る。
「旦那様には、言葉では尽くせぬほどのご恩がございます。そして今、若様にも、これほど温かいお言葉をいただきました」
声が震える。
「どうか、これからもお仕えさせてくださいませ」
それを合図に、使用人たちが次々と頭を下げる。
隣ではファビオラが、両手で目元を押さえている。
私も深く一礼した。
視界が滲む。
けれど、それは悲しみの涙ではない。
旦那様に救われたあの日から、私はラブレス家にお仕えすることを生きる理由としてきた。
旦那様への恩義を返すため。
あの方が大切にされたものを守るため。
それは今も変わらない。
しかし、今この胸にあるものは、それだけではない。
私は、ガルシア様ご自身にお仕えしたいのだ。
誰かに命じられたからでも、旦那様のご遺志だからでもない。
私自身が、この方のために生きたいと願っている。
若様。
どうか、私をお傍に置いてくださいませ。
あなた様がどのような道を歩まれようとも、私はその道をお支えいたします。
そして。
胸の奥に、静かな決意が生まれる。
その新たなる門出に、怨敵の首を供えなければ。
旦那様の命を奪い、若様から父君を奪った者たち。
その罪を、私は決して許さない。
いまだ正体すら分からぬ相手ではある。
だが、必ず見つけ出す。
この方の未来に、あのような悲劇を二度と持ち込ませぬために。
顔を上げると、若様は使用人たちに囲まれ、少し照れくさそうに笑っておられる。
その笑顔が、ひどく眩しい。
────────
それから、さらに三週間。
季節が移ろうように、屋敷の空気も少しずつ変わっていく。
旦那様の不在が埋まることはない。
それでも、若様を中心に、新しい日常が形を成し始めている。
執務室からは管理人と若様の話し声が聞こえ、食卓には再び笑い声が戻るようになった。
ファビオラが失敗をして、若様が笑いながら庇われることもある。
そんな何気ない光景に、私は何度も救われる。
この家は、まだ生きている。
旦那様が残してくださったものは、確かに受け継がれているのだ。
そんなある日の午後、一人の来客があった。
ウゴ・チャベス中佐。
旦那様と親交が深く、政治活動を共にしてこられた方である。
あの忌まわしい式典で襲撃を受けたMVRの関係者でもあり、事件以来、組織の立て直しや調査に追われていたと聞いている。
中佐の到着予定をお伝えすると、若様は執務を中断し、私とともに玄関へ向かわれた。
やがて、一台の車が屋敷の前に停まる。
車から降りてこられた中佐は、以前お会いしたときよりも、幾分お疲れのように見える。
「チャベス中佐。お久しぶりです」
若様が一歩進み出て、丁寧に頭を下げられる。
「ガルシア君……久しぶりだな」
中佐は若様のお姿をしばらく見つめ、差し出された手を握られた。
「ディエゴのことは、本当に残念だった。心からお悔やみを申し上げる」
「ありがとうございます。父も、中佐にそう言っていただければ喜ぶと思います」
「もっと早く訪ねるべきだったんだが、事件の後始末に追われてしまってね。すまない」
「いえ。中佐も大変な状況にいらっしゃることは承知しております。どうかお気になさらないでください」
若様は穏やかに微笑まれた。
「お疲れでしょう。どうぞ中へお入りください」
「ありがとう。お言葉に甘えよう」
若様が自ら中佐を執務室へご案内され、私はその後ろに続く。
お茶をお出しすると、中佐は静かに礼を述べられた。
「ありがとう、ロベルタ」
「恐れ入ります」
中佐は茶器に手を伸ばす前に、執務室をゆっくりと見渡される。
書棚、窓際の椅子、机の上に置かれた写真立て。
その視線が、旦那様のお写真の上で止まる。
「……ここに来ると、今でもディエゴがあの机に座っているような気がするよ」
「私も、時々そう思います」
若様が静かに答えられる。
中佐は寂しそうに笑う。
「彼とは、ずいぶん意見を戦わせたものだ。互いに譲らないことも多かったが……最後には、いつも笑って握手をしていた」
「父らしいですね」
「ああ。本当に、あいつらしい」
しばらくの間、旦那様の思い出話が続く。
中佐が昔の出来事を語られるたび、若様は懐かしそうに耳を傾けておられる。
私もまた、旦那様の知らなかった一面を伺うことができ、胸が温かくなるのを感じる。
しかし、やがて中佐は茶器を置かれた。
先ほどまでの柔らかな表情が、少しずつ引き締まっていく。
「……さて、ガルシア君」
「はい」
「今日は、君のお父上の事件についても話しておきたいことがある」
その言葉に、私の指先がわずかに強張る。
事件について。
旦那様の命を奪った、あの忌まわしい事件。
何か、手掛かりが見つかったのだろうか。
思わず中佐を見つめる。
しかし、そのとき。
「ロベルタ」
若様が私を呼ばれた。
「はい、若様」
「悪いんだけど、少し席を外してくれるかな」
そのお言葉に、私はすぐに若様のお考えを察する。
旦那様の事件について、私には聞かせたくないのだろう。
若様は、私が再びあの世界へ戻ることを恐れておられる。
かつて、フローレンシアの猟犬と呼ばれた私。
血と硝煙にまみれ、数え切れぬ命を奪ってきた私を、旦那様は救い出してくださった。
そして今、若様もまた、私をそこへ戻すまいとしてくださっている。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ああ、若様。
このような私を、そこまで大切に思ってくださるのですか。
旦那様を失い、ご自身も深い悲しみの中におられるというのに。
それでもなお、私の身を案じてくださる。
誰かに必要とされること。
大切にされること。
かつての私には、望むことすら許されないと思っていたものを、若様は惜しげもなく与えてくださる。
胸がいっぱいになる。
嬉しい。
ただ、嬉しい。
「……かしこまりました、若様」
私は深く頭を下げる。
「ありがとう、ロベルタ」
若様はいつものように、優しく微笑まれた。
その笑顔を拝見するだけで、心が満たされていく。
けれど。
旦那様の仇を、このまま野放しにしておくわけにはいかない。
若様が私を案じてくださるお気持ちは、痛いほど分かる。
だからこそ、そのお心を煩わせたくはなかった。
若様のお耳に入れず、何とか別のところから手掛かりを得られないものだろうか。
中佐のもとを訪ねるわけにはいくまい。
ならば、ほかに何か――。
「何かございましたら、いつでもお呼びくださいませ」
私はもう一度一礼し、静かに執務室を後にする。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、胸に残る温もりをそっと噛みしめる。
若様。
どうか、ご安心ください。
私は決して、あなた様をお悲しませしたくはございません。
そのためにも、私がすべきことを。
私にしかできないことを、見つけなければ。
────────
ロベルタが退室すると、執務室には二人だけが残された。
チャベスは閉じられた扉に目を向け、しばらく沈黙していた。
やがて、小さく息を吐く。
「……正直、二人きりになれて助かったよ」
ガルシアが顔を上げる。
「どういうことですか?」
「あのメイドがいる前では、少々話しにくいことがあってね」
「……それは、どういうことですか?」
チャベスはガルシアをまっすぐに見つめる。
「事件だけでは無く、彼女自身の話もある。」
一拍の沈黙。
そして、静かにその名を告げた。
「ロザリタ・チスネロスのね」