BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第三十話 諸刃の愛
最初に気づいたのは、ほんの些細な変化だった。
「おはよう、ロベルタ」
いつものように食堂へお越しになった若様は、私の顔を見るなり、柔らかな笑みを浮かべられた。
「おはようございます、若様」
椅子を引きながら、私はそのお顔を確かめる。
目の下に、うっすらと影がある。
「昨夜は、よくお休みになれましたか?」
「うん。まあまあかな」
若様は何でもないことのように答え、席に着かれた。
「少々、お疲れのようにお見受けいたしますが」
「そんなにひどい顔してる?」
「いいえ。ただ、少しお顔の色が……」
「そっか。気をつけないとね」
そう言って笑われるものだから、それ以上は申し上げにくい。
食卓には、料理長が腕を振るった朝食が並んでいる。焼きたてのパンに卵料理、果物を添えたヨーグルト。若様のお好きなものばかりだ。
ところが、今朝はなかなか手が進まない。
パンを少しちぎり、卵を二口ほど召し上がったところで、若様は窓の外へ目を向けられた。
「……若様?」
「え?」
「お食事が、あまり進んでおられませんが」
「ああ……」
皿に視線を戻し、若様は困ったように笑われる。
「今日は、あんまりお腹が空いてなくて」
「お加減でも?」
「違うよ。大丈夫」
「ですが……」
「本当に平気だから」
そうおっしゃって、もう一口だけパンを召し上がる。
結局、朝食の半分以上が皿に残った。
旦那様がお亡くなりになってから、まだ一月ほど。
十五歳の若様には、あまりにも多くのことが降りかかっている。
悲しみに暮れる暇さえ与えられず、家督を継ぎ、使用人たちの生活を案じ、旦那様が残された仕事に目を通す毎日。疲れが出ない方がおかしい。
私は食器を下げながら、せめて昼食は召し上がりやすいものを用意していただこうと考えた。
このときは、まだ。
それほど深刻なことだとは思っていなかった。
---
若様の食欲が戻らないまま、数日が過ぎた。
朝食を残される日が続き、昼食も半分ほどで箸を置かれる。夕食の席では私やファビオラに気を遣ってか、いつもどおり会話をなさるものの、料理に手を伸ばす回数は明らかに減っていた。
それだけではない。
執務室へお茶をお持ちすると、窓の外をじっと見つめておられることがある。
「若様」
返事がない。
「……若様?」
「あ、ごめん。何?」
「お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、ロベルタ」
差し出されたカップを受け取り、若様は微笑まれる。
けれど、視線はすぐに窓の向こうへ戻ってしまう。
そこには、いつもと変わらぬ庭が広がっているだけ。
何をご覧になっているのだろう。
「何か、お考え事でございますか?」
「……うん。ちょっとね」
「お仕事のことでしょうか」
「まあ……そんなところかな」
曖昧なお返事だった。
机には帳簿や契約書が積まれ、旦那様のご存命中には見かけなかった書類まで並んでいる。
私はその山を見つめ、そっと息をつく。
若様は賢明なお方だ。
旦那様も生前、その聡明さを誇らしく思っておられた。
けれど、どれほど優れた才をお持ちでも、十五歳の少年であることに変わりはない。
「若様。少し、お休みになられてはいかがでしょう」
「ありがとう。でも、もう少しだけ」
「昨日も、そうおっしゃっておられました」
「……そうだっけ?」
「はい」
若様は気まずそうに笑われた。
「ロベルタには敵わないな」
そんなことはない。
本当に敵わないのは、私の方だ。
無理をなさらないでほしいと、何度お願いしても、若様は私たちを安心させるように笑ってしまわれる。
その笑顔を見るたび、私は言葉を飲み込んでしまうのだから。
---
「婦長様」
廊下でファビオラに呼び止められたのは、その日の午後だった。
「少し、お時間よろしいでしょうか」
「どうしました?」
ファビオラは周囲を見回し、声を落とす。
「若様のことなんですけど……」
その表情だけで、何を案じているのか察しがついた。
「今日のお昼も、ほとんど召し上がらなくて。料理長も心配しているんです」
「そうですか……」
「お好きな料理を用意してもらったんですけど、あまり変わらなくて」
ファビオラは唇を結ぶ。
「若様、どこか悪いんでしょうか」
「お疲れが溜まっておられるのでしょう。旦那様のこともございましたし……」
「でも、あんなに食べるのがお好きだったのに」
その言葉に、私は返事ができなかった。
以前の若様は、食卓で新しい料理が出るたび、目を輝かせておられた。
料理長に作り方を尋ねたり、気に入った料理を翌日も頼まれたり。
食事の時間は、若様にとって小さな楽しみの一つだったはず。
「……今夜、もう一度お話ししてみます」
「お願いします、婦長様」
ファビオラは深く頭を下げた。
私は彼女の肩に手を置く。
「あなたも、あまり思い詰めないように」
「……はい」
そう答える彼女の目には、不安が残っていた。
私も、同じだった。
---
夕食の席で、私は思い切って若様にお尋ねした。
「若様。ここ数日、お食事があまり進んでおられませんね」
「……うん」
若様は手元の皿を見つめられる。
「ごめんね。せっかく作ってもらってるのに」
「そのようなことを申し上げているのではございません」
「分かってるよ」
「お身体の具合はいかがでしょう。吐き気や、お腹の痛みなどはございませんか?」
「……別に、ないよ」
一拍置いてからの返事。
私はそのわずかな間が気になった。
「本当でございますか?」
「うん。ただ、ちょっと疲れてるだけだと思う」
「でしたら、なおさら休養が必要です」
「……そうだね」
若様は小さく頷かれた。
しばらく黙っていたかと思うと、不意に顔を上げられる。
「ロベルタ」
「はい」
「……心配かけて、ごめんね」
そのお声が、ひどく弱々しく聞こえた。
「若様……」
「ちゃんと食べるようにするから」
私はすぐに答えられなかった。
食事を召し上がっていただきたい。
それは本心だ。
けれど、若様のお顔を見ていると、何か違うことをお願いしてしまったような気がしてならない。
「……どうか、ご無理だけはなさらないでくださいませ」
「うん」
若様は微笑まれた。
翌日から、食事を残されることはなくなった。
---
最初は、安心していた。
朝食も昼食も、時間をかけながら最後まで召し上がる。夕食には料理長へお礼までおっしゃるようになり、ファビオラも嬉しそうにしていた。
ただ、一つだけ変わったことがある。
若様は食事が終わると、すぐに席を立たれるようになった。
「ごちそうさま。今日もおいしかったよ」
「若様、お茶はいかがでしょう」
「ごめん。今日はもういいや」
「お仕事に戻られるのですか?」
「ううん。部屋で少し休むよ」
それだけ言って、食堂を後にされる。
以前は、食後のお茶を楽しみながら、他愛のない話をするのが常だった。
庭に咲いた花のこと。
ファビオラの失敗談。
旦那様が若様に教えてくださった昔話。
何でもない時間が、私は好きだった。
若様も、そうだと思っていた。
だから、少し寂しくはあったけれど、お疲れなのだろうと自分に言い聞かせた。
あの夜までは。
夕食を終えられてから、まだ十分ほどしか経っていなかった。
私は温かいお茶をお持ちしようと、若様のお部屋へ向かう。
扉を叩いても、返事がない。
「若様?」
もう一度呼びかける。
やはり、返事はなかった。
眠ってしまわれたのだろうか。
私は盆を脇の台に置き、静かに扉を開ける。
「失礼いたします」
寝室には、誰もいない。
隣の洗面室から、水の流れる音が聞こえた。
「若様?」
近づいた、そのとき。
「……っ、う……!」
息を詰まらせるような声がした。
続いて、何かを吐き出す音。
私は扉を開けた。
「若様!」
便器の前に膝をつき、若様が身体を折り曲げておられる。
背中が大きく波打ち、苦しそうな咳が続く。
私はすぐに駆け寄り、その身体を支えた。
「若様、私でございます。大丈夫でございますか!」
返事をなさる余裕はない。
細い肩が震え、喉の奥から苦しげな音が漏れる。
私は背中をさすりながら、ただ呼吸が落ち着くのを待つしかなかった。
やがて、若様の身体から力が抜ける。
「……ロベルタ……」
「はい。ここにおります」
額には冷たい汗が浮かび、唇は血の気を失っている。
私は濡らした布で口元を拭い、水を少しずつお飲みいただいた。
若様は抵抗なさらない。
ただ、ぐったりと私に身体を預けておられる。
「……いつからでございますか」
自分の声が震えている。
「……え?」
「このようなことが、いつから続いていたのです?」
若様は目を伏せられた。
「……何日か、前から」
「何日も……?」
返す言葉が見つからない。
毎日、食事を残さず召し上がってくださっていた。
安心していた。
その陰で、若様はずっと苦しんでおられたのか。
「どうして……教えてくださらなかったのです」
責めるつもりなど、少しもなかった。
けれど、若様は私の顔を見るなり、泣きそうな表情になられた。
「……ごめんね」
「若様」
「……ごめん……ロベルタ……」
目から涙がこぼれる。
「……ごめんね……」
私はその身体を抱き寄せた。
「もう、よろしいのです」
「……ごめん……」
「謝らないでくださいませ。お願いですから」
若様は私の服を掴み、幼い子供のように身を寄せてこられる。
こんなにも、お痩せになっていたのか。
腕の中の身体が、以前よりずっと軽く感じられる。
「……若様」
私はその背中を撫で続けた。
「もう、ご無理をなさらないでください。私たちの前でまで、頑張らなくてよいのです」
若様は答えない。
ただ何度も謝りながら、私の胸元に顔を埋めておられる。
私はその小さな背中を、いつまでも撫で続けた。
---
翌朝、医師を呼ぶことを若様は渋られた。
「本当に、大丈夫だから」
「いいえ。診ていただきます」
「ロベルタ……」
「こればかりは、お聞き入れくださいませ」
珍しく強い口調になった私を見て、若様は困ったように笑われた。
「……分かったよ」
そのお返事に、ようやく胸を撫で下ろす。
しかし、医師が到着するより先に、事態は悪化した。
午前中、執務室で書類を確認しておられた若様が、突然お倒れになったのである。
異変に気づいたのはファビオラだった。
「婦長様!」
廊下に響いた悲鳴を聞き、私は駆け出した。
「若様が……若様が!」
執務室へ飛び込む。
若様は机の脇に倒れ、目を閉じておられた。
「若様!」
すぐに呼吸を確かめる。
息はある。
けれど、お顔は青白く、呼びかけにもすぐには反応なさらない。
「ファビオラ、医師へ連絡を! 急いで!」
「は、はい!」
私は若様の傍らに膝をつき、頭と身体を支える。
「若様……お目を開けてくださいませ」
何度もお呼びするうちに、まぶたがわずかに動いた。
「……ロベルタ……?」
「はい。私でございます」
「……あれ……?」
若様は状況が分からないご様子で、ぼんやりと私を見上げられた。
「大丈夫でございます。今、お医者様をお呼びしております」
「……ごめ……」
「謝らないでください」
私は若様の手を握る。
「今は、何もお考えにならなくてよろしいのです」
その手は、ひどく冷たかった。
---
診察を終えた医師は、私とファビオラを別室へ呼んだ。
「かなり消耗していますね」
机に置かれた診療鞄を閉じながら、医師は眉をひそめる。
「十分な食事が取れていないうえ、睡眠も不足しているようです。嘔吐も続いていたとのことですから、脱水や栄養状態にも注意が必要です」
「命に関わるのでしょうか」
私の問いに、医師は慎重に首を振った。
「現時点で直ちにそう判断する状態ではありません。ただし、放置してよい状態でもありません」
「原因は……」
「強い精神的負担が関係している可能性は高いでしょう。お父上を亡くされたばかりで、仕事も増えたと伺っています」
私は唇を噛む。
「もちろん、嘔吐が続くようなら身体的な原因も改めて調べる必要があります。まずは水分と食事を少しずつ取り、十分に休ませてください」
「眠れていないことについては、どうすれば……」
「短期間に限って睡眠を助ける薬を処方します。年齢も考慮し、経過を確認しながら使いましょう。ご本人の判断で増やしたり、ほかの薬と併用したりしないように」
私は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
医師が帰られたあと、ファビオラは廊下で泣き出してしまった。
「私……若様があんなになるまで、何も……」
「ファビオラ」
「もっと早く気づいてたら……」
私は彼女の肩に手を置く。
「今は、若様に元気になっていただくことを考えましょう」
そう言いながら、自分自身にも同じ言葉を言い聞かせる。
後悔している暇などない。
若様をお守りしなければ。
今度こそ。
---
それからの一週間、屋敷の生活は若様を中心に回った。
執務室に積まれていた書類は、急ぎのものを除いてすべて片づける。
屋敷の管理については、長年仕えてきた使用人たちと相談し、若様のご負担にならないよう手配した。
食事は少量ずつ。
料理長には、若様のお好きなものを中心に、胃に負担の少ない料理をお願いした。
ファビオラは毎食の様子を細かく記録し、少しでも召し上がってくださると、まるで自分のことのように喜んだ。
私は服薬と休養の時間を確かめ、夜中にも何度か寝室の様子を見に行った。
最初の二日ほどは、若様もなかなかお休みになれなかった。
眠っておられると思って寝室を覗くと、暗がりの中で目を開けておられる。
「若様?」
「……あ、ロベルタ」
「眠れませんか?」
「うん……ちょっと」
私は寝台の傍らに椅子を寄せる。
「少し、お傍におりましょうか」
「……いいの?」
「もちろんでございます」
そう申し上げると、若様は安心したように微笑まれた。
「ありがとう」
私は毛布を整え、若様が目を閉じられるまで静かに見守る。
時には、旦那様が若様の幼い頃によく読んで聞かせておられた本を手に取った。
「……懐かしいね、それ」
「覚えておいででしたか」
「うん。父さん、同じところでいつも笑うんだ」
「ええ。私も覚えております」
若様は小さく笑われた。
そのお顔を見るたび、胸の奥にあった不安が少しだけ和らぐ。
三日目には、朝食のスープを残さず召し上がった。
五日目には、料理長の焼いたパンをもう一切れ欲しいとおっしゃった。
「本当ですか、若様!」
ファビオラは嬉しさのあまり、危うく皿を落としかけた。
「そんなに驚かなくても」
若様が笑われる。
「だって、だって……!」
目に涙を浮かべるファビオラに、若様は困ったように微笑まれた。
「心配かけたね」
「はい……本当に、心配しました……」
「ごめん」
「もう、謝らないでください!」
思わず強い口調になったファビオラを見て、若様が目を丸くする。
私は思わず微笑んだ。
「若様。今回は、ファビオラの申すとおりでございます」
「……二人とも、厳しいなあ」
そうおっしゃる声には、久しぶりに明るさが戻っていた。
一週間が過ぎる頃には、目の下の隈も薄くなり、お顔の色も幾分よくなられた。
まだ完全に回復されたわけではない。
それでも、少しずつ元の若様に戻ってくださっている。
私はそう信じていた。
---
その日の夕食は、久しぶりに穏やかなものだった。
若様は料理長の用意した食事をゆっくりと召し上がり、食後にはお茶も楽しまれた。
「そういえば、庭の花が咲いてたね」
「はい。今朝、ファビオラが見つけたのでございます」
「きれいだったなあ。父さんも好きだったよね、あの花」
「ええ」
若様は窓の外に目を向けられた。
一瞬だけ、寂しそうなお顔になる。
けれど、すぐにこちらへ振り向かれた。
「明日、少し庭を歩いてもいい?」
「お医者様からは、無理のない範囲であればと伺っております」
「じゃあ、ロベルタも一緒に来てくれる?」
「喜んで」
「ファビオラもね」
「もちろんです!」
ファビオラが勢いよく頷く。
若様は楽しそうに笑われた。
その笑顔を見ながら、私は久しぶりに心から安堵していた。
このまま、少しずつ元気になってくださればよい。
お仕事も、屋敷のことも、焦る必要などない。
旦那様を失った悲しみは、簡単には消えないだろう。
それでも、私たちは一緒に生きていける。
若様を支え、ファビオラと笑い合い、旦那様の思い出を大切にしながら。
いつか、若様が心から穏やかに笑える日が来る。
私はその日を、何年でも待つつもりだった。
---
夜も更けた頃、私は若様のお部屋へ伺った。
就寝前のお薬と水をお持ちし、お身体の具合を確かめるためである。
「失礼いたします、若様」
「どうぞ」
若様は寝台に腰かけ、本を開いておられた。
「まだお読みになっていたのですか」
「うん。でも、そろそろ寝ようと思ってた」
私は薬と水をお渡しする。
若様が服用されるのを見届け、空になった杯を受け取った。
「では、今夜もゆっくりお休みくださいませ」
「……ロベルタ」
扉へ向かいかけた私を、若様が呼び止められる。
「はい?」
「……もう少しだけ、ここにいてくれる?」
「もちろんでございます」
私は杯を置き、寝台の傍らへ戻った。
若様は少し迷うように視線を落とされる。
「……隣、座ってもらってもいい?」
「はい」
腰を下ろすと、若様はそっと身体を寄せてこられた。
そして、私の肩に頭を預けられる。
幼い頃には、よくこうして甘えてくださった。
けれど、最近はすっかり背も伸び、以前ほど無邪気に寄りかかられることもなくなっていた。
「……お疲れになりましたか?」
「ううん」
若様は小さく首を振られる。
「……なんか、こうしてたいなって」
「左様でございますか」
私は微笑み、その髪を撫でた。
若様は目を閉じられる。
しばらく、静かな時間が流れた。
窓の外では、虫の声が聞こえる。
寝室の灯りは柔らかく、若様の髪が指先に触れるたび、懐かしい気持ちになった。
「……ロベルタ」
「はい」
「僕ね……」
若様はそこで言葉を切られた。
私は続きを待つ。
「……ずっと、考えてたんだ」
「何を、でございますか?」
「……ロベルタのこと」
思いがけないお言葉に、私は少し驚く。
「私のことでございますか?」
「うん」
若様は私の肩に額を寄せられた。
「……なんて言ったらいいのかな」
「ゆっくりで結構でございますよ」
「……うん」
また、沈黙が訪れる。
若様は何度か口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んでおられるようだった。
やがて、小さな声が聞こえた。
「……愛してるよ、ロベルタ」
髪を撫でていた手が止まる。
「……若様?」
「……愛してる」
若様は顔を上げられない。
「ずっと……言いたかったんだと思う。でも、どう言えばいいのか……」
「若様……」
「ロベルタってさ……昔から、ずっと僕のこと見ててくれたよね」
「はい。それはもちろんでございます」
「僕が小さい頃、転んだり、熱を出したりすると……いつも一番に来てくれた」
懐かしい記憶が蘇る。
幼い若様は、どんなに小さなお怪我でも、私に見せに来られたものだ。
「僕が何か隠してても、ロベルタにはすぐばれちゃうし」
「若様は、昔からお顔に出やすい方でいらっしゃいましたから」
「……今も?」
「少しだけ」
若様が小さく笑われる。
「そっか……」
その笑い声は、すぐに消えた。
「……でも、ロベルタも分かりやすいよ」
「私が、でございますか?」
「うん。僕が怪我すると、すごく怖い顔になるでしょ」
「それは、心配でございますから」
「知ってる」
若様は少しだけ顔を上げられた。
「でも、僕が大丈夫って言うと……今度は泣きそうな顔で笑うんだ」
「……そのようなお顔をしておりましたか」
「してたよ」
私は少し恥ずかしくなり、目を伏せる。
「それに、ロベルタって……料理、苦手でしょ」
「……面目ございません」
「違う、そういう意味じゃなくて……!」
若様は慌てて首を振られる。
「ごめん。なんか、うまく言えない」
「いいえ。お気になさらず」
「……僕ね、そういうのも全部、覚えてるんだ」
若様は再び私の肩に頭を預けられた。
「僕のために、慣れないことも一生懸命やってくれて……失敗すると、すごく落ち込んじゃって」
私は何も言えなかった。
「……でもさ」
若様の声が、少し変わる。
「ロベルタって、いつも自分のことは後回しにするよね」
「……若様?」
「僕が怪我したら、自分が怪我したみたいに心配するし……父さんが忙しかったときも、ずっと無理してたでしょ」
「それは、私の務めでございますから」
「……うん。いつも、そう言うんだ」
若様は寂しそうに笑われた。
「僕たちが笑ってたら、ロベルタも嬉しそうに笑う。僕たちが困ってたら、自分のことなんか忘れて、一生懸命になってくれる」
「……はい」
「でも……ロベルタは?」
「私、でございますか?」
「ロベルタが辛いときは、誰が助けてくれるの?」
私は答えられない。
「ロベルタが泣きたいときは……誰が、そばにいてくれるの?」
若様の指が、私の服を掴む。
「……僕、ずっと、それが気になってて」
「若様……」
「だから……」
若様は息を吸われた。
「……僕が、ロベルタを……」
言葉が途切れる。
肩に、温かなものが落ちた。
「……幸せにしたいんだ」
私は息を呑む。
「ロベルタが僕たちにしてくれたみたいに……いや、それ以上に……」
若様は何度も言葉を探される。
「僕のためじゃなくてもいいんだ。父さんのためでも、この家のためでもなくて……」
声が震える。
「……ロベルタが、ロベルタのために笑ってくれたら……僕、それが一番嬉しい」
「……若様」
「だって……僕、ロベルタが笑ってるところ、好きだから……」
若様は顔を伏せられた。
「……本当に、好きなんだ」
その肩が、小さく震え始める。
「……愛してるよ……ロベルタ……」
私は若様を抱き寄せた。
こんなにも。
こんなにも、私のことを考えてくださっていたのか。
私は旦那様に救われ、この屋敷で働くことを許されてから、ただお二人のお役に立ちたいと願ってきた。
それこそが、自分に与えられた幸福だと思っていた。
けれど若様は、私自身の幸せを願ってくださる。
私が誰かのために生きることではなく。
私自身が、心から笑うことを。
「……私も、愛しております。若様」
自然と、言葉がこぼれた。
若様が顔を上げられる。
涙に濡れた瞳が、私を見つめていた。
「……本当?」
「はい。心から」
私はその頬に触れ、涙を拭う。
「若様は、私にとって何より大切なお方でございます」
若様の表情が、わずかに和らぐ。
けれど、私はその先の言葉を口にすることをためらった。
この方の優しさに、ただ甘えてしまってよいのだろうか。
私の過去を知ったうえで、それでも愛しているとおっしゃってくださる。
だからこそ、なおさら。
「……ですが、若様」
「……うん?」
「私は、そのお気持ちにお応えする資格がございません」
若様の瞳が揺れる。
「……どうして?」
私はゆっくりと息を吸った。
「私の過去を、ご存じでしょう」
若様は黙っておられる。
「かつて私は、フローレンシアの猟犬と呼ばれておりました」
その名を口にするだけで、古い記憶が胸をよぎる。
血の臭い。
銃声。
自分の手で奪ってきた命。
どれほど時が経とうとも、消えることのない罪。
「私は、多くの人を殺めてまいりました。取り返しのつかないことを、数え切れぬほど……」
若様は私の言葉を遮らない。
「そのような私を、旦那様は救ってくださいました。居場所を与え、人として生きる道を示してくださったのです」
私は若様の手を包み込む。
「ですが、過去が消えたわけではございません」
「……うん」
「もし私の素性が世間に知られるようなことがあれば、若様のお立場はもちろん、ラブレス家そのものに不利益をもたらしかねません」
旦那様が守り続けてこられたもの。
若様がこれから背負っていかれるもの。
それらを、私の過去によって傷つけるわけにはいかない。
「若様には、もっと広い世界をご覧になっていただきたいのです」
私は若様の髪を撫でる。
「多くの方と出会い、たくさんの喜びを知り、まばゆい光の中を歩んでいただきたい」
若様の手が、私の指を握り返す。
「旦那様がそう願っておられたように、私も心から願っております」
「……ロベルタ」
「その未来に、私の過去という影を落としたくはございません」
若様は俯かれた。
私はその沈黙を、静かに受け止める。
やがて。
「……じゃあさ」
若様が、ぽつりと呟かれた。
「はい?」
「……二人で、逃げちゃおうか」
私は瞬きをした。
「……若様?」
「誰も、僕たちのことを知らないところに」
若様は私の肩に頭を戻される。
「海の近くでもいいし……山の中でもいい。小さな家を借りてさ」
「若様……」
「屋敷のみんなには、ちゃんとお金を残すよ。困らないように、全部手配して……」
私は思わず若様のお顔を見た。
その口調は、決して戯れだけのものではなかった。
「お金なら、十分あるから。二人で暮らしていくくらい、何も困らないよ」
「ですが……」
「朝はゆっくり起きて、一緒にご飯を食べて……」
若様は少しだけ笑われる。
「料理は僕が作るよ。ロベルタに任せたら、ちょっと心配だし」
「……まあ、若様」
思わず苦笑する。
若様も小さく笑われた。
けれど、その笑顔はすぐに消える。
「……誰も、ロベルタの昔のことなんか知らなくて」
私の服を掴む手に、力がこもる。
「誰にも、何も言われなくて……」
若様は言葉を探される。
「ロベルタが、何も心配しなくてよくて……」
声が震え始めた。
「僕も……ただ、ロベルタと一緒にいられて……」
私は息を呑む。
「……そういう暮らし、してみたいなって……」
若様の目から、また涙がこぼれた。
「……ねえ、ロベルタ」
「……はい」
「僕と……一緒に来てくれない?」
私は答えられなかった。
この方と、二人で。
誰も知らない土地で、静かに暮らす。
朝になれば、同じ食卓を囲み、他愛のない話をする。
若様がお出かけになるときには、私も隣を歩く。
夕暮れには、一緒に家へ帰る。
そんな日々を想像してしまう。
どれほど、幸せだろう。
私の過去を知らない人々に囲まれ、ただこの方と笑って暮らせたなら。
それは、私がかつて夢見ることさえ許されないと思っていた幸福だった。
「……若様」
私は若様の手を握り直す。
「そのようにおっしゃっていただけること、本当に嬉しゅうございます」
若様が顔を上げられる。
「ですが……それは、なりません」
その瞳に浮かんだものを、私は忘れられないだろう。
悲しみとも、諦めともつかない表情。
けれど、若様は何もおっしゃらなかった。
「若様は、ラブレス家のご当主でいらっしゃいます」
私は静かに続ける。
「旦那様が残されたものを、今度は若様がお守りにならなければ」
「……うん」
「そして私は、その若様をお支えするために、ここにおります」
若様は俯かれた。
「……分かってる」
かすかな声。
「分かってるんだけど……」
その先は、言葉にならなかった。
私は若様を抱き寄せる。
「逃げる必要などございませんよ」
「……ロベルタ」
「私は、ここで十分に幸せなのです」
若様の背中を撫でながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「若様がお元気でいてくださること。こうして、お傍にいられること。それだけで、私には十分すぎるほどの幸福でございます」
若様は何もおっしゃらない。
ただ、私の胸元に顔を埋められた。
「……ごめんね」
小さな声。
「……ごめん……ロベルタ……」
「謝らないでくださいませ」
「……ごめんね……」
若様の肩が震える。
私はその身体を強く抱きしめた。
「若様。私は、いつまでもお傍におります」
「……うん……」
「若様がどのような道をお選びになろうとも、私の想いは変わりません」
若様は私の服をぎゅっと握りしめられた。
「愛しております。ガルシア様」
そのお名前を口にすると、若様の嗚咽が少しだけ大きくなった。
私は何も尋ねない。
旦那様を失われてから、若様はずっと無理をしてこられた。
ご自身の悲しみを押し殺し、当主としての務めを果たそうと、必死に頑張ってこられたのだ。
今夜くらいは、何も背負わずに泣いていただきたい。
十五歳の少年として、誰かに甘えてくださってよい。
私はその髪を撫で続ける。
やがて若様の呼吸が落ち着き、私の肩に預けられた重みが少しずつ増していった。
「……若様?」
お返事はない。
どうやら、お眠りになったらしい。
私はそっと身体を支え、寝台に横になっていただいた。
毛布をかけ、お顔にかかった髪を整える。
若様の目元には、涙の跡が残っていた。
私は濡らした布でそれを拭い、しばらく寝顔を見つめた。
お休みになっているときの若様は、年相応の少年に見える。
普段はあまりにも大人びておられるから、つい忘れそうになる。
この方は、まだ十五歳なのだ。
「……おやすみなさいませ、若様」
私は小さく囁いた。
灯りを落とし、静かに寝室を後にする。
廊下へ出ると、夜の空気が少し冷たく感じられた。
私は扉の前で立ち止まり、胸に手を当てる。
若様が、私を愛しているとおっしゃった。
私自身の幸せを願ってくださった。
そして、二人で逃げようと。
そのお言葉を思い返すだけで、胸の奥が熱くなる。
叶えて差し上げることはできない。
けれど、あのように思っていただけたことが、どれほど嬉しかったか。
いつか、若様にも分かっていただけるだろうか。
私がどれほど、あなた様を愛しているのか。
どれほど、その幸福を願っているのか。
私はもう一度、閉じた扉を見つめた。
明日は、若様と庭を歩こう。
ファビオラも一緒に。
咲き始めた花をご覧になれば、きっとまた笑ってくださる。
そんな穏やかな明日を思い描きながら、私は自室へ戻った。
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翌朝。
いつもの時刻に、私は若様の寝室を訪れた。
朝食の準備はすでに整っている。
料理長は若様のお好きな果物を用意していた。
「おはようございます、若様」
扉を叩く。
返事はない。
まだお休みなのだろうか。
昨夜はずいぶんお泣きになった。
もう少し眠らせて差し上げた方がよいかもしれない。
そう思いながらも、朝の服薬とお身体の具合を確かめる必要がある。
「失礼いたします」
私は静かに扉を開けた。
寝室には、朝の光が差し込んでいる。
カーテンがわずかに揺れ、窓辺に柔らかな影を落としていた。
寝台へ目を向ける。
「……若様?」
誰もいない。
毛布はきれいに整えられ、枕も元の位置に戻されている。
私は一瞬、若様がすでにお目覚めになり、庭へ出られたのかと思った。
「若様?」
洗面室を確かめる。
お姿はない。
書斎にも、隣の居間にも。
私は廊下へ出た。
「ファビオラ!」
ほどなく、階下から返事が聞こえる。
「はい、婦長様!」
「若様をご覧になりませんでしたか?」
「え? まだお休みじゃないんですか?」
「お部屋におられないのです」
ファビオラは不思議そうに首を傾げた。
「お庭でしょうか?」
「……そうかもしれません」
そう答えながら、胸の奥に小さな不安が生まれる。
若様は、まだ療養中でいらっしゃる。
お一人で遠くへ出かけられるとは考えにくい。
私たちは手分けして屋敷を探した。
食堂。
書斎。
図書室。
庭園。
旦那様が生前よく過ごしておられた部屋。
どこにも、若様のお姿はない。
使用人たちにも尋ねたが、誰もお見かけしていないという。
「婦長様……」
ファビオラの声が震える。
「若様、どこにもいらっしゃいません」
私は答えられなかった。
胸の奥で、嫌な予感が膨らんでいく。
「ほかの者にも確認してください。若様をお見かけした者がいないか、すぐに」
「はい!」
それから間もなく、屋敷は騒然となった。
使用人たちが手分けして各部屋を調べ、庭師は敷地の隅々まで足を運ぶ。厩舎や倉庫、普段は使わない客間に至るまで、若様のお姿を求めて人が行き交う。
「若様!」
「ガルシア様、いらっしゃいませんか!」
あちらこちらから呼びかける声が聞こえる。
しかし、どこからも返事はない。
玄関では、外出された形跡がないか確認が始まっている。門番にも尋ねたが、若様がお通りになったところを見た者はいないという。
「婦長様、どうしましょう……」
ファビオラの声は震えている。
私は彼女の肩に手を置いた。
「落ち着いてください。まだ敷地の外へ出られたと決まったわけではありません」
そう言いながら、自分の心臓が早鐘を打っているのを感じる。
若様はまだ療養中の身。
お一人で、いったいどちらへ。
昨夜、あれほど穏やかにお休みになっていたのに。
そのときだった。
「ロベルタ様!」
廊下の向こうから、一人の使用人が駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
「どうしました?」
「それが……大広間の、壁に飾ってある銃が……!」
息を切らし、言葉が続かない。
「銃?」
「ラブレス家に伝わる、あのマスケット銃です!」
背筋に冷たいものが走る。
「……何ですって?」
「なくなっているんです! 今朝、掃除に入った者が気づいて……!」
私は返事もせず、駆け出した。
「婦長様\!?」
ファビオラの声が背後から追いかけてくる。
廊下を抜け、大広間へ向かう。
壁には、歴代の当主たちが大切にしてきた品々が飾られている。
私は真っ先に、あの場所を見た。
そして。
足が止まった。
「……あ……」
そこにあるはずのものが、ない。
ラブレス家に代々伝わるマスケット銃。
旦那様が大切にしておられた、あの銃が。
壁から、姿を消している。
私はゆっくりと近づいた。
何度見ても、そこは空のまま。
「……そんな……」
指先が震える。
昨夜の言葉が、耳の奥に蘇る。
『僕と……一緒に来てくれない?』
『……ごめんね、ロベルタ……』
あの涙。
あの謝罪。
あれは、いったい。
「婦長様!」
追いついたファビオラが、私の隣で立ち止まる。
「どうしたんですか……?」
私は答えられない。
ただ、銃があったはずの場所を見つめ続ける。
知っている。
私は、この意味を知っている。
かつて自分が何者であったか。
何を手に取り、何のために戦場へ向かったか。
誰よりもよく知っている。
「……若様……」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
どうして。
どうして、あの銃を。
私は昨夜、若様に何と申し上げた。
いつまでもお傍におりますと。
どのような道をお選びになろうとも、想いは変わらないと。
それなのに。
私は、若様が何を抱えておられるのか、何一つ分かっていなかったのではないか。
「……婦長様?」
ファビオラが私の腕に触れる。
その手が震えていた。
私はようやく、彼女の方を向く。
「ファビオラ」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「……若様を、捜します」
「は、はい……!」
私はもう一度、空になった壁を見る。
旦那様。
あなた様が、あれほど大切に守ってこられた若様が。
私を救ってくださった、あなた様のご子息が。
まさか。
私と同じ道を。
「……若様……!」
名前を呼んでも、返事はない。
昨夜、私の腕の中で泣いておられた少年は、もうこの屋敷にはいない。
私は震える手を、強く握りしめた。