BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第三十一話 残されたもの
若様がいなくなって、屋敷から時計の音が消えたように思えた。
もちろん、時計は動いている。大広間の柱時計も、廊下に掛けられた小さな時計も、いつもと変わらず時を刻んでいるはずだ。
それなのに、耳に入ってくるのは人の足音ばかりだった。
「裏門にもお姿はありません!」
「馬小屋は確認したのか!」
「今、厩務員が調べています!」
開け放たれた扉の向こうを使用人たちが行き交う。庭師は仕事着のまま屋敷へ駆け込み、門番は夜間の出入りを何度も尋ねられていた。
皆が若様を捜している。
つい昨日まで、この屋敷には穏やかな時間が戻りつつあった。
若様は少しずつ食事を召し上がるようになり、夜も以前より長く眠れるようになっていた。まだ顔色は優れなかったものの、私が差し出すお茶に笑顔を見せてくださることも増えていた。
その若様が、いない。
寝台には誰もおらず、窓は閉ざされたまま。持ち出された衣類はわずかで、旅支度らしいものも見当たらない。
そして、大広間の壁からは、ラブレス家に代々伝わるマスケット銃が消えていた。
私は空になった壁の前に立ち尽くしていた。
あの銃を最後に手入れしたのは、いつだっただろう。
旦那様は古い品を大切になさる方だった。若様もまた、その銃に刻まれた家紋を指でなぞりながら、よく由来を尋ねておられた。
護身のためなら、もっと扱いやすい銃がある。
あえてあのマスケット銃を持ち出された理由。
それを考えるたび、胸の底に冷たいものが沈んでいく。
「婦長様」
振り返ると、ファビオラが立っていた。
普段はきちんと結われている髪が少し乱れ、額には汗が浮かんでいる。
「庭の隅まで調べました。でも……」
私は首を横に振った。
「分かりました。ありがとう、ファビオラ」
「若様は……」
その先を言えず、彼女は唇を噛んだ。
私にも答えられない。
昨夜、若様は私の肩に顔を埋めて泣いておられた。
一緒に逃げようとおっしゃった。
私は、その願いに応えられなかった。
旦那様が遺された家を守り、若様がその名を継いでいくこと。それこそが、私たちの進むべき道だと信じていたからだ。
だが今、若様は家を出てしまわれた。
私の知らないところへ。
「ファビオラ。もう一度、若様のお部屋を調べてください。今度は持ち物を中心に。何がなくなっているか、できるだけ正確に」
「はい」
「私は執務室を確認します」
ファビオラは頷き、足早に階段を上がっていった。
私は大広間を後にする。
旦那様が使われ、今は若様が引き継がれた執務室。
そこに何かが残されているのではないか。
そう考えたのは、若様が几帳面なお方だからだった。
外出の際には行き先を伝え、予定が変われば必ず知らせてくださる。幼い頃から、私たちを無用に心配させることを嫌われた。
何も告げずに姿を消すなど、若様らしくない。
だからこそ、何かあるはずだと思った。
何か、私たちに伝えようとなさったことが。
*
執務室には、まだ若様の気配が残っていた。
机の端には、飲みかけの水差し。整えられた書類の横には、使い慣れた万年筆が置かれている。
窓から差し込む朝日が、机の表面を斜めに照らしていた。
私はまず書類を確かめた。
農園の収支報告、取引先からの通知、屋敷の修繕に関する見積書。いずれも日常の業務に関わるものばかりで、若様の行方を示すものは見当たらない。
机の引き出しに手をかける。
一段目には筆記具と印章。
二段目には契約書の控え。
最後の引き出しを開いたところで、手が止まった。
中には厚い革表紙の書類綴りと、いくつもの封筒が収められている。
その一番上に、白い封筒があった。
宛名は短い。
『ロベルタへ』
見慣れた筆跡。
私はしばらく、それを見つめていた。
封筒を手に取ると、紙の端が指先に触れる。
若様がこれを書かれたのは、いつなのだろう。
お身体を悪くされる前か。
それとも、私が寝台の傍らで見守っていた、あの夜の後か。
封を切る。
中には数枚の便箋が収められていた。
『ロベルタへ。
何も言わずにいなくなって、ごめんなさい。
きっと、すごく心配をかけていると思います。怒っているかもしれません。
それでも、どうしても直接は言えませんでした。
顔を見たら、きっと言えなくなってしまうから。』
私は便箋を持つ手に力を込めた。
直接は言えなかった。
その一文が、胸に刺さる。
『まず、今まで本当にありがとう。
小さい頃から、ロベルタはずっと僕のそばにいてくれたね。
病気のときも、怪我をしたときも、僕がわがままを言ったときも。
父さんが忙しい日には、ロベルタが僕の話を聞いてくれました。
僕が今まで幸せに暮らしてこられたのは、父さんと、ロベルタと、この家のみんなのおかげです。
ファビオラにも、ありがとうと伝えてください。
いつも明るくしてくれて、本当に嬉しかった。
料理長の作る料理も大好きでした。
庭師のみんなにも、門番のみんなにも、長い間お世話になった人たちにも。
僕は、みんなに感謝しています。』
そこで一度、読むのをやめた。
便箋を胸元へ引き寄せる。
ありがとう。
そんな言葉を残して、どこへ行かれたのですか。
これからも、何度だって言ってくださればよいではありませんか。
私たちは、明日も明後日も、あなた様のお傍にいるつもりだったのですから。
私は息を整え、続きを読む。
『机の引き出しに、財産関係の書類をまとめてあります。
ラブレス家の資産と、僕個人の資産を、できる限り整理しました。
預金、現金、株式、債券、不動産、事業への出資、それから細かな権利関係まで、一覧にしてあります。
必要な証書や通帳、カード類の所在も記載しました。
弁護士や会計士には、相談できるようにしてあります。
僕が未成年だから、すぐには進められない手続きもあると思います。その場合の対応についても、担当者に確認してください。』
私は革表紙の書類綴りを開いた。
最初の頁には、資産目録という見出し。
その下に並ぶのは、金融機関の名称、口座、保有資産、評価額。
頁をめくるたびに、細かな数字と注記が現れる。
若様がご自身で築かれた財産は、以前から相当な規模に達していた。旦那様から受け継がれた資産を合わせれば、その額はさらに膨らむ。
だが、私が驚いたのは金額ではない。
書類の隅々にまで、若様の手が入っている。
どの資産を売却するのか。
どの債務を先に精算するのか。
売却に時間がかかる不動産は、誰に査定を依頼するのか。
費用の見込み、担当者の連絡先、必要な書類。
それらが、誰にでも分かるように整理されていた。
次の頁を開く。
私はそこで、目を疑った。
ラブレス家の邸宅。
その所在地が、処分予定資産の欄に記されていた。
「……え?」
声が漏れた。
もう一度、確認する。
間違いではない。
この屋敷そのものが、売却対象になっている。
私は椅子の背に手をついた。
旦那様が守り、若様が受け継がれた家。
私たちが長い年月を過ごしてきた場所。
それさえも、若様は手放そうとなさっている。
頁をめくる指が、少しずつ速くなった。
使用人への補償に関する項目。
そこには、一人ひとりの名前が並んでいた。
勤続年数、給与、今後必要となる生活費。
退職に伴う補償だけではない。住まいや医療費、年齢によっては老後の生活まで考慮されている。
長年勤めた者には、働かずとも穏やかに暮らしていけるほどの資金。
若い使用人には、新しい仕事に就くまでの生活費と、必要な教育や職業訓練に使える費用。
家族のいる者については、その扶養状況まで反映されていた。
さらに、別の項目がある。
『新生活支援』
私は目を通した。
帰る家のある者には、移転費用。
故郷へ戻る者には、交通費と当面の生活資金。
そして、家族や身寄りのない者には、新たな住居を探すための支援。
不動産業者の名称と、担当者の名前。
紹介を依頼する際の連絡先。
希望する地域や住居の条件を伝えるための書式まで用意されている。
契約に必要な費用も、別途確保されていた。
若様は、誰一人として行き場を失わないように考えておられた。
屋敷がなくなった後のことまで。
私たちが、それぞれの生活を始めるための準備。
その細やかさが、かえって恐ろしかった。
若様は、戻ってこられるつもりがないのではないか。
そんな考えが頭をよぎり、私は慌てて打ち消した。
違う。
まだ、そうと決まったわけではない。
けれど、次の頁に記された名前を見たとき、私は再び言葉を失った。
『ロザリタ・チスネロス』
私の本名だった。
その横に記された金額を、すぐには理解できなかった。
桁を数える。
もう一度、数える。
生涯をかけても使い切れないほどの財産。
さらに、安定した収入を得られる資産まで割り当てられている。
私は書類から目を離した。
昨夜の若様の声が、耳の奥に蘇る。
『僕は、ロベルタに幸せになってほしいんだ』
私のために。
私自身の人生を生きてほしいと。
そうおっしゃった若様。
その願いが、こんな形で目の前に置かれている。
私は唇を噛んだ。
違います。
若様。
私の幸せは、こんな数字では測れません。
私は手紙へ戻った。
最後の頁には、改まった筆跡で、短い文章が記されていた。
『最後に、これはラブレス家当主としての命令です。
ロベルタには、僕が残した財産の整理と、使用人全員への補償を一任します。
屋敷を含む資産の処分を進め、みんなが新しい生活を始められるよう、責任を持って手続きを完了させてください。
特に、家族や身寄りのない人たちが住まいに困ることのないよう、十分に気を配ってほしいと思います。
必要な書類と相談先は、できる限り用意しました。
そして、何があっても、僕を捜すことをこれらの仕事より優先しないでください。
僕のことが心配でも、まず、みんなの生活を守ってください。
これはお願いではなく、当主としての命令です。
ガルシア・フェルナンド・ラブレス』
私は最後の一行を見つめた。
ガルシア・フェルナンド・ラブレス。
若様の署名。
何度も見てきたその文字が、今はひどく遠く感じられる。
命令。
当主としての命令。
若様は、私が命令に背けないことをご存じだ。
旦那様に仕え、そのご子息に仕える。
それが、私の生き方だった。
だからこそ、若様はこのような形を選ばれたのだろう。
私を屋敷に縛りつけるために。
ご自身を捜しに来させないために。
しかも、その理由が使用人たちの生活保障である以上、私は簡単には拒めない。
若様は、私のことをよくご存じだ。
誰よりも。
そして、その優しさを利用なさった。
「……若様」
声が震える。
「どうして……」
私は手紙を机に置いた。
もう一度、資産目録へ目を向ける。
屋敷の売却。
使用人たちの退職。
新しい住居。
そして、私への莫大な財産。
すべてが整っている。
私たちが、若様のいない世界で生きていくための準備。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥から怒りが噴き上がった。
「……ふざけないでください」
私は机の端を握りしめた。
「こんなものを残して……!」
若様は、私に何をさせたいのですか。
お金を受け取り、この家を売り払い、何事もなかったように暮らせと。
あなた様がどこで何をしておられるのかも知らずに。
ご無事かどうかさえ分からないまま。
「……私が、それで納得するとでも……!」
拳が机を打った。
鈍い衝撃が腕を伝う。
書類が跳ね、万年筆が床へ転がった。
「私は!」
思わず声を荒らげる。
「私は、あなた様のお傍にいたいと申し上げたではありませんか!」
昨夜、若様は泣いておられた。
私も、泣いた。
互いの気持ちを確かめたはずだった。
なのに、どうして。
「……私を置いていかないでください……」
怒りに任せて握った拳が、今度は震え始める。
私は机に両手をついた。
涙が書類の上に落ちる。
拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「婦長様!」
扉が開く。
ファビオラが飛び込んできた。
「今の音は……!」
その後ろには料理長と数人の使用人。
さらに廊下の向こうから、人々が集まってくる気配がした。
私は顔を上げた。
「……若様からです」
「え……?」
ファビオラが目を見開く。
「若様が、手紙を残しておられました」
その一言で、室内の空気が変わった。
*
執務室には、大勢の使用人が集まっていた。
全員が入れる広さではない。扉の外にも人が立ち、廊下の奥から様子を窺っている者もいる。
私は手紙と書類の内容を説明した。
若様が、屋敷を含む財産を処分しようとなさっていること。
使用人全員に十分な補償を用意し、新しい生活のための支援まで手配しておられること。
そして、私にその手続きを完了させるよう、当主として命じられたこと。
話し終えても、しばらく誰も口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、料理長だった。
「……何をお考えなんだ、若様は」
普段は穏やかな男の声に、抑えきれない怒りが滲んでいる。
「我々に金を渡して、それで済むとお思いなのか」
「料理長……」
「旦那様が亡くなられて、まだ間もないというのに……今度は若様まで……!」
言葉を詰まらせ、彼は顔を伏せた。
その傍らで、年配の使用人が口を開く。
「私は、若様が生まれる前からこの屋敷におります」
小柄な女性だった。
長い年月をこの家で過ごし、若様が幼い頃には、よく遊び相手にもなっていた。
「若様が初めて歩かれた日のことも覚えています。旦那様が、あんなに嬉しそうなお顔をなさったのは……」
声が途切れる。
女性は目元を押さえた。
「その若様が、私どものためにこんなものを残して……どこへ行かれたのかも分からないなんて……」
誰かがすすり泣いた。
別の使用人が、怒ったように言う。
「新しい家なんて、いりませんよ」
若い庭師だった。
「俺は、この家で働けることが嬉しかったんです。旦那様にも、若様にも、よくしていただいた。なのに、こんな……」
「そうだ」
門番の一人が頷く。
「金の心配なんぞ、今はどうでもいい。若様が無事に帰ってこられるかどうか、それだけだ」
「でも、若様は皆さんの生活を……」
私が言いかけると、料理長が首を横に振った。
「分かっています。若様が、我々のことを大切に思ってくださっているのは」
彼は机の上の書類を見つめた。
「ここまでしていただいて、分からないはずがありません」
そして、顔を上げる。
「だからこそ、腹が立つんです」
私は息を呑んだ。
「我々が若様をどれほど大切に思っているか、あの方は分かっておられない」
誰も否定しなかった。
料理長は続ける。
「屋敷を売るなら、それでも構いません。仕事を辞めろとおっしゃるなら、従うこともできましょう」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、ご自身の命を危険にさらしてまで、我々の将来を案じていただく必要などありません」
静かな声だった。
だからこそ、その言葉は重かった。
私は書類へ目を落とした。
若様が用意された補償。
新しい住まい。
それらは、確かに使用人たちを守るためのものだ。
けれど、ここにいる誰一人として、若様を失うことと引き換えにそれを受け取ろうとはしていない。
「ロベルタ様」
料理長が私を呼んだ。
「どうか、若様を捜しに行ってください」
「ですが、若様の命令が……」
「我々のことなら、心配いりません」
年配の使用人が一歩前へ出た。
「屋敷は、私たちで守ります」
「売却の手続きも、今は進めません」
「若様が帰ってこられたら、そのとき改めてお話ししましょう」
次々に声が上がる。
皆の顔には、悲しみと怒りがあった。
しかし、それ以上に強いものが宿っている。
若様を待つという、揺るぎない意思。
「若様が帰ってこられる場所を、なくすわけにはいきませんから」
その言葉に、私は顔を上げた。
料理長が、かすかに笑っていた。
「この屋敷は、若様のお帰りを待つ場所です」
胸の奥が熱くなる。
私は、若様を守ることばかり考えていた。
旦那様から託された、大切なご子息。
その命を守るのは、私の役目だと。
けれど、若様を愛しているのは私だけではない。
ここにいる誰もが、あの方の帰りを待っている。
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「必ず、若様をお連れして戻ります」
「婦長様!」
ファビオラが前へ出た。
目は真っ赤に腫れている。
「私も行きます!」
「ファビオラ……」
「お願いです。私も、若様を捜したいんです」
「危険なことになるかもしれません」
「分かっています」
彼女は即座に答えた。
「でも、若様がどこかで苦しんでいるかもしれないのに、私だけここで待っているなんて……できません」
小さな手が、胸元で握られる。
「私だって、若様を守りたいんです」
私はその顔を見つめた。
幼い頃から若様を慕い、いつも傍らで笑っていた少女。
今、その目には涙だけでなく、確かな決意がある。
「……分かりました」
ファビオラが息を呑む。
「一緒に行きましょう」
「……はい!」
彼女は何度も頷いた。
私は集まった使用人たちを見渡す。
「皆さん。屋敷のことを、お願いいたします」
「お任せください」
料理長が胸を張った。
「若様のお部屋も、そのままにしておきます」
「いつ帰ってこられても、困らないように」
「料理も、腕を磨いておきますよ。若様には、まだ食べていただきたいものが山ほどありますから」
かすかな笑いが起こる。
涙を拭いながら笑う者もいた。
私はその光景を、忘れまいと思った。
若様。
あなた様が守ろうとなさった方々は、こんなにもあなた様を愛しておられます。
どうか、それを忘れないでください。
*
最初に訪ねたのは、若様が書類に記しておられた法律事務所だった。
初老の弁護士は、私が差し出した書類を一枚ずつ確認し、深く眉を寄せた。
「……確かに、ラブレス家の財産整理に関する相談は受けております」
「若様は、何かお話しになっておられませんでしたか」
「どのようなことでしょう」
「行き先です。あるいは、最近お会いになった際、何か変わったご様子は……」
弁護士は困惑した表情を浮かべた。
「申し訳ありませんが、私には何も」
私は膝の上で手を握りしめた。
「若様が屋敷を出られることも?」
「初耳です」
彼は書類を揃えながら続ける。
「財産の処分については、以前からいくつかご相談を受けていました。ただ、具体的な実行には法的な確認が必要ですし、ガルシア様はまだ未成年でいらっしゃいます」
「……はい」
「ですから、これらの書類が揃っているからといって、すべてを直ちに進められるわけではありません。今後の手続きについては、慎重に検討する必要があります」
私は頷いた。
その説明は理解できる。
しかし、今知りたいのは財産のことではない。
「若様が、どなたかを訪ねるとおっしゃったことは?」
「いいえ」
「何か、特別な依頼を?」
「財産関係の確認以外には、承っておりません」
結局、若様の行方につながる情報は得られなかった。
次に訪ねたのは、会計士だった。
彼もまた、若様が財産の整理を進めておられたことは知っていた。
だが、失踪については何も聞いていないという。
金融機関の担当者も同様だった。
資産の移動や売却に関する問い合わせはあったものの、若様がどこへ向かわれたのかを示す話は出ていない。
さらに、書類に記された不動産業者を訪ねた。
若様は、使用人たちの新居探しについて、事前に相談をなさっていたらしい。
担当者は、私たちを応接室へ通すと、用意されていた資料を見せてくれた。
住居を探す際の条件。
地域ごとの相場。
紹介可能な物件の種類。
家族のいない者が一人で暮らす場合の注意点まで、丁寧にまとめられている。
「ガルシア様は、ずいぶん熱心にご相談されていました」
担当者が言った。
「特に、ご高齢の方や身寄りのない方については、生活に不便のない場所を探してほしいと」
私は資料を見つめた。
「……若様は、何かほかにお話しになっておられませんでしたか」
「ほかに、ですか?」
「ご自身の今後について、何か……」
担当者は少し考えた後、首を横に振った。
「いいえ。ご使用人の皆様のことばかりでした」
その言葉に、私は目を伏せた。
若様。
どうして、そこまで。
私たちのことを考えてくださるのなら、どうかご自身のことも。
どうか、ご自身の命も大切になさってください。
そう申し上げたいのに、若様はここにおられない。
私たちは礼を述べ、事務所を後にした。
*
数日が過ぎた。
朝から晩まで、私たちは若様の足取りを追い続けた。
書類に記された人物を訪ね、電話をかけ、わずかな可能性にもすがった。
しかし、どこへ行っても答えは同じだった。
財産についての相談は受けている。
書類の準備についても、説明できる範囲はある。
けれど、若様がどこへ向かわれたのかは知らない。
若様は、行き先につながる手がかりを残しておられなかった。
意図的に。
私が捜しに来ることを、予想しておられたのだろう。
だからこそ、あれほど細かな書類を用意しながら、ご自身の行方については何も記さなかった。
私はその事実を思うたび、胸が締めつけられた。
若様は、私たちから逃げようとしておられる。
それも、ただの家出ではない。
帰ってこられない可能性まで考えたうえで。
夕暮れの街を歩きながら、ファビオラが小さく呟いた。
「……婦長様」
「はい」
「若様、ちゃんとご飯を食べているでしょうか」
私は答えられなかった。
「まだ、お身体も完全には治っていなかったのに……」
ファビオラは俯いた。
「夜は、眠れているんでしょうか」
その問いに、私は足を止めた。
若様は、つい先日まで眠れずに苦しんでおられた。
食事も受けつけず、何度も嘔吐を繰り返して。
ようやく回復の兆しが見えたばかりだったのに。
今頃、どこで何をしておられるのか。
誰かに追われてはいないだろうか。
お怪我は。
病気は。
考え始めれば、恐ろしい想像ばかりが浮かんでくる。
「……婦長様?」
ファビオラが私を見上げる。
私はその顔を見つめながら、ふと、ある人物のことを思い出した。
旦那様の親友。
若様が失踪される数日前にお会いになった人物。
あの日、執務室で二人きりになり、長い時間お話をなさっていた。
「……バルガス少佐」
思わず、その名が口をついた。
「え?」
「バルガス少佐です」
ファビオラが目を見開く。
「旦那様のお友達の……?」
「はい」
私は記憶を辿った。
あの日、若様は私に席を外すようおっしゃった。
私を気遣ってくださったのだと思っていた。
けれど、何をお話しになったのかは知らない。
若様はその後、目に見えてお疲れになり、食事も喉を通らなくなっていった。
もちろん、偶然かもしれない。
旦那様を失われた悲しみや、当主としての重責が原因だったのかもしれない。
それでも。
ほかに、頼れる手がかりはない。
「……少佐なら、何かご存じかもしれません」
ファビオラが私を見つめる。
「若様のことを、ですか?」
「分かりません。ですが、若様が失踪される直前に、直接お話をなさった方です」
私は顔を上げた。
夕日が街並みを赤く染めている。
「……行きましょう、ファビオラ」
「はい!」
「バルガス少佐のもとへ」
ファビオラは力強く頷いた。
私たちは歩き始める。
若様。
どうか、ご無事で。
必ず、お迎えに参ります。
今度こそ。
何があっても、あなた様をお一人にはいたしません。
*
男は、三つ目の交差点を曲がったところで違和感を覚えた。
夕方の街は人通りが多い。
仕事帰りの会社員、買い物袋を提げた女、店先で談笑する若者たち。
その中に紛れるようにして、一人の少年が歩いている。
年の頃は十五、六歳といったところか。
目立つ服装ではない。
歩き方にも、取り立てて不自然なところは見当たらない。
それでも、男は気づいていた。
先ほどから、何度も同じ顔を見かける。
一度目は偶然だと思った。
二度目は、少し気になった。
三度目となれば、話は別だ。
男は歩調を緩め、店のショーウインドーに目を向けるふりをした。
ガラスに映る人影。
少年は一定の距離を保ったまま、こちらへ近づいてくる。
男は再び歩き始めた。
角を曲がる。
少し速度を上げる。
人混みを縫うように進み、道路の反対側へ渡る。
数十歩進んだところで、背後を確かめた。
いる。
少年は、まだそこにいた。
「……くそっ」
男は小さく舌打ちした。
何者だ。
警察か。
軍の人間か。
それとも、かつての仕事に関係する誰かか。
男には、思い当たる節がいくつもある。
それだけのことをしてきた。
だからこそ、尾行されるという事態には敏感だった。
少年一人というのも気に入らない。
あまりにも若い。
だが、だからといって油断するほど、男は愚かではなかった。
男は上着の内側から携帯電話を取り出した。
短縮番号を押す。
耳に当てる。
呼び出し音が続く。
一回。
二回。
三回。
応答はない。
「……出ろよ」
男は通話を切り、次の番号を押した。
こちらも出ない。
三人目。
四人目。
いずれも、呼び出し音が虚しく続くばかり。
男の額に汗が滲んだ。
おかしい。
一人や二人ならともかく、全員が電話に出ないなど。
男は立ち止まりかけ、すぐに歩き続けた。
背後を振り返る。
少年は、まだいる。
近づきすぎず、離れすぎず。
こちらが何度進路を変えても、その距離はほとんど変わらない。
男は最後の番号を押した。
メンデス。
頼む。
出てくれ。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
男は唇を噛んだ。
そして。
通話がつながった。
「メンデス!」
思わず声が大きくなる。
「メンデス、俺だ! 今、何者かに尾行されている!」
返事はない。
「おい、聞こえているのか!」
男は足を速めた。
「妙なガキだ。さっきからずっと俺の後をつけている。お前、今どこに――」
『残念ですが』
男の足が止まった。
電話の向こうから聞こえたのは、メンデスの声ではない。
若い男の声。
いや。
少年の声だった。
『メンデスさんは、この電話には出られません』
男は眉をひそめた。
「……誰だ?」
返事はない。
「おい。お前、何者だ!」
電話の向こうで、かすかに街の雑踏が聞こえる。
車の走行音。
遠くの話し声。
そして、どこかで鳴った短いクラクション。
男は息を止めた。
同じ音が、背後から聞こえた。
ゆっくりと振り返る。
数歩先に、少年が立っている。
その右手には、携帯電話。
耳に当てられたそれを、少年は静かに下ろした。
男の手の中で、通話が切れる。
「……お前……」
少年は答えない。
男をまっすぐ見つめている。
年若い顔立ち。
整った服装。
どこにでもいそうな、育ちのよい少年。
だが、その目だけが違っていた。
男は反射的に周囲を見回した。
逃げ道。
人通り。
車の流れ。
近くにいる警官の姿。
少年は動かない。
ただ、男の反応を静かに眺めている。
「……メンデスはどうした」
男が低く尋ねる。
少年は、わずかに首を傾けた。
「メンデスさんだけではありません」
そう言って、左手に持っていたものを持ち上げる。
次の瞬間。
硬いものが、男の足元へ放り投げられた。
石畳にぶつかり、乾いた音を立てる。
一台。
二台。
三台。
四台。
五台。
男は、それらを見下ろした。
携帯電話だった。
どれも、見覚えがある。
一台には、傷のついた黒いケース。
もう一台には、角の欠けた灰色の外装。
見間違えるはずがない。
仲間たちが使っていたものだ。
男の喉が鳴った。
「……お前……」
声が掠れる。
「……一体、何者だ……?」
少年は、その問いには答えなかった。
代わりに、足元の携帯電話へ一度だけ目を向ける。
そして、男を見据えた。
「ほかの五人にも、お話を伺ったんですが……」
穏やかな声だった。
まるで、道を尋ねるかのように。
「どうやら、こちらの知りたい情報をお持ちなのは――」
少年は言葉を切った。
男は、息をすることさえ忘れていた。
街の喧騒が、遠ざかっていく。
少年の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「あなた、お一人のようですね」