BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第四話 はじめの一歩
「――っ!」
足が浮いた。
そう気づいた時には、もう遅かった。
視界が反転し、次の瞬間には背中から芝生へ叩きつけられていた。
「……痛い」
青空が見える。
雲が流れている。
風も気持ちいい。
実に穏やかな昼下がりだった。
そんな平和な庭の片隅で、俺はさっきから一方的に投げ飛ばされている。
「坊ちゃま」
頭上から声が降ってきた。
「……なに?」
「弱いですね」
「知ってるよ」
「いえ」
ファビオラは少し考えてから、
「思っていた以上でした」
と言った。
俺は身体を起こした。
「それ、本人に言う?」
「現状を正しく把握することは大切です」
「正しいけどさ」
反論できないのが悔しい。
始めてから、まだ十分も経っていない。
その間、俺は一度もファビオラを倒せていない。
というより、まともに触れることすらできていなかった。
踏み込めば転がされる。
掴めば投げられる。
警戒して距離を取れば、今度は足を払われる。
勝負にすらなっていない。
「もう一度なさいますか?」
ファビオラが手を差し出した。
「もちろん」
その手を取って立ち上がる。
「少しは休まれてもよろしいかと」
「まだ始めたばっかりだろ」
「ですが」
ファビオラが俺の服を見る。
芝だらけだった。
「このままでは、ロベルタさんに見つかった時に言い逃れできませんよ」
「…………」
それは困る。
非常に困る。
「払えば大丈夫じゃない?」
「無理だと思います」
「即答するなよ」
「坊ちゃまも分かっていらっしゃるでしょう?」
分かっている。
ロベルタの目を誤魔化せるとは、俺も思っていない。
そもそも、こうしてファビオラに教わっていること自体、いつまで隠せるか怪しかった。
なぜ隠しているのか。
理由は簡単だ。
ロベルタに頼んで、断られたからだ。
⸻
数日前。
「ロベルタ」
「はい、坊ちゃま」
「俺にも護身術を教えてくれない?」
ロベルタの手が止まった。
その時、彼女は俺のシャツを畳んでいた。
顔を上げる。
「護身術、でございますか?」
「うん」
「なぜ急に?」
「急じゃないよ。前から考えてた」
これは本当だった。
ラブレス家の財政は、少しずつ改善している。
父上も俺の意見を聞いてくれるようになった。
原作とは違う未来へ向かっている。
だからこそ、次に考えた。
金と家だけでいいのか、と。
俺自身は?
原作でガルシア・ラブレスに何が起こるのか。
俺は知っている。
誘拐される。
武装した連中に連れ去られ、ロアナプラまで運ばれる。
もちろん、その未来そのものを起こさせるつもりはない。
だが、父上から教わったことがある。
結果を知っていることと、正しい判断ができることは別だ。
俺が未来を変えれば、当然その先も変わる。
知っている危険を避けた結果、知らない危険に出会う可能性だってある。
なら。
最低限、自分の身を守る方法くらいは覚えておいた方がいい。
「ファビオラにも教えてるだろ?」
そう言うと、ロベルタは少しだけ困った顔をした。
「確かに、基本的な護身の心得は教えておりますが」
基本的な。
俺は危うく笑いそうになった。
便利な言葉だ。
俺の知っているファビオラは、素手で武装した男を叩きのめす。
そして、そのファビオラを仕込んだのが目の前にいる女だ。
もちろん。
俺はそんなことを知らない。
――ということになっている。
俺が表向き知っているのは、ロベルタが人並み外れて力が強く、身体能力が高く、ファビオラに護身術を教えていることくらいだ。
それ以上は知らない。
少なくともロベルタは、そう思っている。
まさか俺が、《フローレンシアの猟犬》なんて名前まで知っているとは夢にも思わないだろう。
だから俺も、それを崩すつもりはなかった。
「だったら俺にも教えてよ」
「いけません」
「なんで?」
「坊ちゃまには必要ございません」
予想通りだった。
「ファビオラには必要で、俺には必要ない?」
「事情が違います」
「どう違うの?」
「ファビオラには、使用人として身につけておいた方が良いことがございます」
なるほど。
それらしい理由ではある。
「でも、護身術だろ?」
「はい」
「身を守る方法なら、覚えておいて損はないと思うけど」
「お怪我をなさいます」
「練習で?」
「練習でも、です」
「多少なら――」
「いけません」
駄目だ。
話が進まない。
「ロベルタ」
「はい」
「過保護って言われたことない?」
「ございません」
嘘だろ。
絶対あると思う。
「とにかく」
ロベルタは畳み終えたシャツを置いた。
「坊ちゃまが、そのようなことをなさる必要はございません」
口調は柔らかい。
だが、完全に決定事項として話している。
こうなったロベルタを説得するのは難しい。
「……分かった」
「ご理解いただけましたか?」
「うん」
俺は素直に頷いた。
ロベルタも安心したように微笑んだ。
嘘は言っていない。
ロベルタから習うのは諦めた。
だから。
翌日。
「ファビオラ」
「はい?」
「ちょっと頼みがあるんだけど」
別の先生を探した。
⸻
「坊ちゃま」
「なに?」
「今、悪い顔をされていました」
「気のせいだよ」
「ロベルタさんにもそう仰るおつもりですか?」
「……もう一回やろう」
話を逸らした。
ファビオラが呆れたように息を吐く。
それでも、俺の正面に立った。
「では、先ほど申し上げたことを意識してください」
「足だろ?」
「足だけではありません」
「多いな」
「坊ちゃまの場合は、直すところがたくさんございますので」
容赦がない。
構える。
さっきまでとは違って、すぐには動かなかった。
相手を見る。
ファビオラは小柄だ。
体格だけなら、圧倒されるような相手ではない。
だが実際に向かい合うと、隙がどこにあるのか全く分からなかった。
「力を入れすぎです」
「まだ動いてないけど?」
「立っているだけで分かります」
そこまで酷いのか。
「肩の力を抜いてください」
言われた通りにする。
「足をもう少し開いて」
動かす。
「開きすぎです」
戻す。
「戻しすぎです」
「難しいな」
「簡単でしたら、誰も鍛錬などいたしません」
正論だった。
ファビオラが近づき、俺の足の位置を直す。
「まずは立つことです」
「立つ?」
「はい」
肩を軽く押された。
身体が後ろへ流れる。
「今の坊ちゃまでは、少し強く押されただけでも姿勢を崩します」
「なるほど」
「もう一度」
足を置き直す。
重心を下げる。
今度はさっきより強く押された。
少し揺れたが、踏みとどまった。
「そうです」
たったそれだけだった。
相手を倒したわけでもない。
技を一つ覚えたわけでもない。
ただ、押されても立っていられた。
それでも。
「……面白いな」
思わず口から出た。
「面白いですか?」
「うん」
未来の知識は使えない。
どこに投資すれば儲かるのかを知っていても、ここでは何の役にも立たない。
知っているだけでは身体は動かない。
一回やって。
失敗して。
直して。
もう一度やる。
それで初めて、ほんの少しだけできるようになる。
「もう一回」
ファビオラが笑った。
「では今度は、私を掴んでみてください」
「分かった」
構える。
距離を見る。
さっきより力を抜く。
踏み込む。
腕を伸ばす。
ファビオラの肩へ手が届く。
――と思った。
次の瞬間。
腕を取られた。
身体が浮いた。
「うわっ!」
また空が見えた。
今度はさっきより綺麗に受け身が取れた。
それでも痛い。
「……やっぱり強いな」
「坊ちゃまが弱いのです」
「そこは少しくらい自分を褒めてもいいと思うよ」
ファビオラが笑った。
「では、両方ということで」
差し出された手を取る。
立ち上がったところで、ファビオラが俺の服についた芝を払ってくれた。
「しかし、本当に続けるおつもりなのですね」
「そのつもりだけど」
「どうしてです?」
手が止まる。
「ロベルタさんも仰っていたでしょう。坊ちゃまには必要ないと」
少し考えた。
どこまで話すか。
未来のことは言えない。
誘拐のことも。
ロベルタの過去も。
それでも、理由そのものを嘘にする必要はなかった。
「何かあった時に」
俺は自分の手を見る。
「何もできないのが嫌なんだ」
ファビオラは黙って聞いている。
「俺には守ってくれる人がいる。それは分かってる」
父上がいる。
ロベルタがいる。
ファビオラもいる。
屋敷には多くの人がいる。
恵まれていると思う。
「でも、いつでも誰かが隣にいるとは限らないだろ?」
実際。
原作ではそうだった。
たった一度。
ロベルタがそばにいなかった。
それだけで、ガルシアは連れ去られた。
「別に、誰かを倒せるようになりたいわけじゃない」
少なくとも今は。
「逃げられるなら逃げればいい。助けを呼べるなら呼べばいい。ただ、そのための時間くらい自分で作れるようになりたい」
ファビオラはしばらく俺を見ていた。
やがて小さく頷いた。
「分かりました」
「教えてくれる?」
「もう教えております」
「そうだった」
「ですが」
ファビオラの表情が少しだけ真面目になる。
「それなら、なおさら勘違いなさらないでください」
「何を?」
「少し技を覚えたからといって、強くなったと思わないことです」
予想していなかった言葉だった。
「危険な相手に出会った時、一番大切なのは勝つことではありません」
「逃げること?」
「はい」
即答だった。
「逃げられるなら逃げる。大声を出せるなら助けを呼ぶ。相手に隙ができたなら、それを使って離れる」
ファビオラが俺を見る。
「戦わなくて済むのでしたら、戦わないのが一番です」
なるほど。
俺は少し笑った。
「いい先生だな、ファビオラ」
「当然です」
胸を張った。
「ロベルタさんに教わりましたから」
その名前が出た瞬間、思わず笑いそうになった。
「……そっか」
「はい」
そうだろう。
それはよく知っている。
俺が知っているよりも遥かに多くのことを、ファビオラはロベルタから教わっているはずだ。
そして。
そのロベルタは、俺がそれをどこまで知っているのか知らない。
妙な関係だと思う。
でも今は、それでいい。
ロベルタが話したくないのなら、俺から暴く必要はない。
いつか本人が話してくれる時が来れば、その時に聞けばいい。
――原作通りなら。
その機会は、最悪の形で訪れるのだけれど。
「坊ちゃま」
「ん?」
「そろそろ戻られた方がよろしいのでは?」
ファビオラが屋敷を見る。
「ロベルタさんに見つかります」
「ああ……」
忘れていた。
自分の服を見る。
芝。
土。
汗。
これは無理だ。
「どうしよう」
「正直に謝られては?」
「ファビオラ」
「はい」
「君、俺と共犯だからね」
「私は坊ちゃまに頼まれただけです」
「売る気満々じゃん」
「事実を申し上げているだけです」
さっきからこの人は事実が好きすぎる。
その時だった。
「――何をなさっているのですか?」
背後から声がした。
俺とファビオラの動きが同時に止まった。
ゆっくり振り返る。
ロベルタが立っていた。
いつからいたのか分からない。
いつものメイド服。
いつもの眼鏡。
いつもの穏やかな表情。
ただし。
視線だけが、俺の服についた芝から、ファビオラへ移った。
そしてもう一度、俺へ戻る。
「坊ちゃま」
「……はい」
「ご説明いただけますね?」
逃げられない。
さっきファビオラから習ったばかりなのに。
「護身術を、少し」
「少し?」
「……少し多めに」
ロベルタがファビオラを見る。
「ファビオラ」
「はい」
背筋が伸びた。
「私がお教えしたことを?」
「基礎だけです」
「そうですか」
静かだった。
怒鳴らない。
だから怖い。
「ロベルタ」
俺が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「ファビオラを怒らないで」
「ですが――」
「俺が頼んだんだ」
ロベルタが黙る。
「俺が教えてほしいって言った。ファビオラは悪くない」
少しだけ沈黙が続いた。
やがてロベルタが息を吐いた。
「……お怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に」
ロベルタが近づいてくる。
腕を見る。
手を見る。
服を払う。
最後に顔まで確認する。
「背中は?」
「少し痛い」
「坊ちゃま」
「怪我じゃないって」
「確認いたします」
やっぱりそうなるか。
「部屋に戻ったらね」
「今です」
「ここで?」
「はい」
「ファビオラ」
助けを求める。
目を逸らされた。
裏切り者。
「それとファビオラ」
「……はい」
「後ほど、お話があります」
「はい……」
今度は明らかに声が小さかった。
俺は少しだけ申し訳なくなる。
それでも。
不思議と後悔はしていなかった。
投資を始めた時もそうだった。
最初から上手くいったわけじゃない。
父上に何度も説明して。
調べて。
学んで。
少しずつ信用してもらった。
これも同じだ。
いきなり強くなることなんてできない。
そもそも、ロベルタやファビオラのようになる必要もない。
俺が欲しいのは、たった一つ。
何かが起きた時。
ただ誰かが助けに来てくれるのを待つ以外の選択肢。
そのためなら。
今日一日で覚えられたことが、受け身と立ち方だけでも構わない。
一歩でいい。
未来を変えるために必要なのは、大きな何かだけじゃない。
できることを一つずつ増やしていく。
金を学んだ。
家を強くし始めた。
そして今日。
ようやく、自分自身についても始めた。
まだ何者にも勝てない。
ファビオラには手も足も出ない。
それでも。
これが、俺のはじめの一歩だった。