BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
ブラックラグーンの作品内では実在の政党名などが出てくることがありまして、それらを踏襲することに問題があると思い変更致しました。
第三十二話 代役
### Ⅰ
若様が姿を消されてから、屋敷はひどく静かになった。
朝になれば料理長が厨房に立ち、庭師は花壇に水をやり、使用人たちはそれぞれの仕事に取りかかる。
何も変わっていない。
変わっていないはずだった。
それなのに、食堂へ足を運ぶたび、私は無意識に一つの席へ目を向けてしまう。
そこには、誰もいない。
若様が好んでお使いになっていた椅子。
いつもなら、私の姿を見つけると、あの方は顔を上げて微笑んでくださった。
「おはよう、ロベルタ」
たったそれだけの言葉が、どれほど私の心を満たしていたのか。
失って初めて、思い知らされた。
私は幾度となく若様のお部屋へ足を運んだ。
整えられた寝台。
机の上に置かれた読みかけの本。
窓際の椅子。
昨日までそこに人がいたことを示すものばかりが、残されている。
そのたびに、私は自分へ問いかけた。
なぜ、あの夜、若様があれほど思い詰めていらした理由を尋ねなかったのだろう。
なぜ、あの方の「ごめんね」という言葉に、もっと耳を傾けなかったのだろう。
答えは出なかった。
旦那様を亡くされた悲しみ。
新しい当主としての重責。
それらが若様を苦しめているのだと、私は考えていた。
時間が必要なのだろうと。
無理に踏み込むべきではないのだろうと。
そうして、私は待つことを選んだ。
その結果が、今だった。
「婦長様」
隣から聞こえた声に、私は顔を上げた。
「着きました」
ファビオラが車窓の向こうを指している。
MRVの事務所だった。
私は膝の上で握っていた手を開いた。
掌には、爪の跡が薄く残っていた。
「……参りましょう」
---
事務所の周囲には、武装した警備員が配置されていた。
正面入口だけではない。建物の側面にも人影があり、通りに停まる車両や歩行者へ絶えず視線を向けている。
十月の爆破事件から、まだそれほど日が経っていない。
あの日、旦那様をはじめ、多くの方々が命を奪われた。
事件の全容が明らかにならない以上、警戒が厳しくなるのも当然だった。
「ご用件は?」
入口の男に尋ねられ、私は名乗った。
「ラブレス家の者でございます。ラファエル・バルガス少佐に、お目通りをお願いしたく存じます」
男の表情が変わった。
「ラブレス家……?」
「はい」
男は同僚と短く言葉を交わした後、私たちを建物の中へ案内した。
通されたのは、二階の応接室だった。
壁には政治集会の写真が何枚か飾られている。
その一枚に、旦那様のお姿があった。
演壇の傍らで、バルガス少佐と肩を並べて笑っていらっしゃる。
私は思わず足を止めた。
旦那様。
若様は、まだ帰っていらっしゃいません。
あの方をお守りすると誓ったのに。
私は、何一つ――。
「婦長様……」
ファビオラが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫です」
そう答えて椅子に腰を下ろす。
だが、自分の声がひどく遠くから聞こえた。
ファビオラも隣に座った。
彼女の顔には疲労の色が濃い。
若様が姿を消されて以来、私と同じように、ほとんど休めていないのだろう。
「若様のこと……何かわかるでしょうか」
「……わかりません」
無責任な慰めは口にできなかった。
「ですが、少しでも手掛かりがあるのなら、確かめなければなりません」
ファビオラは小さく頷いた。
ほどなくして、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
扉が開く。
「お待たせして申し訳ない」
現れたのは、ラファエル・バルガス少佐だった。
私たちはすぐに立ち上がった。
「少佐。本日は突然お訪ねいたしました非礼、どうかお許しください」
「いや、構わないよ。ディエゴの家族なら、いつでも歓迎する」
少佐は穏やかに答え、私たちに着席を促した。
しかし、自身も椅子に腰を下ろそうとしたところで、不意に室内を見回す。
「ところで、ガルシア君は?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
少佐の表情が曇る。
「……何かあったのか?」
私は膝の上で両手を重ねた。
「若様が……行方不明になられました」
少佐の動きが止まった。
「何だって?」
私は、事の経緯を説明した。
旦那様の葬儀を終えてから、若様のご様子が少しずつ変わっていったこと。
眠れない夜が続き、食事も喉を通らなくなり、ついにはお倒れになったこと。
医師の診察を受け、ようやく回復の兆しが見え始めた矢先、何も告げずに屋敷から姿を消されたこと。
そして、残されていた手紙のこと。
ラブレス家の財産を整理し、屋敷まで売却して、使用人たちに新しい生活を用意するよう指示されていたこと。
その最後には、当主として、私に若様を捜さないよう命じる言葉まであった。
「……屋敷の壁に飾られていた、ラブレス家伝来のマスケット銃もなくなっておりました」
そこまで聞いた少佐は、深く息を吐いた。
両肘を膝につき、顔を両手で覆う。
「……なんてことだ」
声が震えていた。
「私は……」
何かを言いかけ、口を閉ざす。
その様子を見て、胸の奥が冷たくなった。
ただ驚いているのではない。
この方は、何かをご存じなのだ。
「少佐」
私は静かに呼びかけた。
「以前、若様とお二人でお話しになった際、一体何をお伝えになったのですか」
少佐は顔を上げなかった。
「若様のご様子が変わられたのは、あの日からです」
眠れぬ夜。
隠れて吐いていらしたこと。
日に日に痩せていく頬。
それでも私の前では、いつもどおりに微笑もうとなさったこと。
一つ一つを思い出すたび、胸が締めつけられた。
「お願いいたします」
私は深く頭を下げた。
「若様に何をお話しになったのか、どうかお聞かせください」
長い沈黙が流れた。
やがて少佐は立ち上がり、執務机へ向かった。
引き出しから一冊の書類綴りを取り出し、私たちの前へ戻ってくる。
「……ディエゴの事件について、我々は独自に調査を進めていた」
少佐は書類を開いた。
「大会当日の警備担当者、運営スタッフ、出入りした業者。関係者の名簿を一から洗い直したんだ」
並べられたのは、六枚の顔写真だった。
「事件後、連絡が取れなくなった人間がいた。経歴を調べると、提出された書類にも不自然な点がある」
少佐は一枚の写真を指で押さえた。
「その結果、六人の男が浮かび上がった」
私は写真を見つめた。
どの顔にも見覚えはない。
「彼らは全員、爆破事件当日のステージ警備を担当していた。そして、事件のおよそ二か月前まで、ベネズエラ軍の対外情報部に所属していたことが判明した」
「軍の情報部……」
「ああ。六人とも、ほぼ同じ時期に退職している」
少佐の指が、中央の写真へ移った。
「この男が、マルコス・ホセ・ヘルナンデス。元少佐で、六人の中心人物だ」
私は、その顔を記憶に刻みつけた。
少佐は続けて、別の写真を取り出した。
「これは事件の半年前、カラカスで撮影されたものだ。憲兵隊が別件の捜査をしていた際、偶然記録していた」
写真には、数人の男が写っていた。
右端に、先ほどのマルコスという男がいる。
そのすぐ隣、右から二番目には、端正な顔立ちの白人男性が立っていた。
周囲の男たちよりも、どこか落ち着いた佇まいをしている。
そのほかにも数人の白人男性が写っていたが、いずれも私には見覚えがなかった。
「この方々は?」
「身元はわかっていない。名前も国籍も所属も不明だ」
少佐は苦々しげに眉を寄せた。
「ただ、事件には六人の背後に指示者がいた疑いがあるが、この写真に写っている男たちが誰なのかは、依然として特定できていない」
私はもう一度、写真を見た。
何の変哲もない、街角の一場面。
そこに写る男たちが、旦那様の死に関わっているかもしれない。
そう考えると、胃の底が冷えた。
「……この六人の対外情報部の方々は、今どちらに?」
私が尋ねると、少佐はしばらく答えなかった。
「……全員、死んでいる」
「え?」
「つい最近、カラボソ郊外の運河でヘルナンデスの遺体が発見された。ほかの五人も、不審な死を遂げている」
六人全員が。
私は写真へ視線を落とした。
その一人一人の顔を追いながら、胸の奥で、嫌な予感が形を取り始めるのを感じた。
若様が姿を消された。
旦那様の死に関わった疑いのある六人が、相次いで命を落とした。
偶然。
そう考えたい。
そうであってほしい。
けれど、私は知っている。
若様が、どれほど聡明な方なのか。
どれほど強い意志を持っていらっしゃるのか。
そして、あの方が誰かを守ろうと決めたとき、どこまで自分を追い込んでしまわれるのか。
「……少佐」
唇が乾いていた。
「このことを、若様は……」
「ああ」
少佐は頷いた。
「六人の身元も、事件への関与が疑われていることも話した」
私は目を閉じた。
「……若様は、何と?」
「驚くほど落ち着いていたよ」
少佐は苦しげに笑った。
「父親を殺したかもしれない人間の名前を聞いているというのに、取り乱すことも、怒鳴ることもなかった。必要なことをいくつか確認して、静かに話を聞いていた」
若様。
私は心の中で、その名を呼んだ。
「……だが」
少佐の声が、さらに低くなった。
「ある話をした途端、様子が変わった」
私は顔を上げた。
「我々の調査では、あの六人が事件の前後に、特定の人物について執拗に情報を集めていたこともわかっていた」
「……どなたですか」
少佐は私を見た。
その目には、ためらいがあった。
「『フローレンシアの猟犬』だ」
息が止まった。
音が消えたように感じた。
窓の外では車が走り、廊下では人が行き交っているはずなのに、何も聞こえない。
ただ、その名前だけが、頭の中に残った。
フローレンシアの猟犬。
捨てたはずの名。
旦那様に拾い上げていただく以前、私が血と硝煙の中で生きていた頃の名。
何人殺したかも覚えていない。
命令に従い、銃を握り、人を殺すことだけを覚えていた。
あの頃の私に、人間らしい未来などあるはずがなかった。
けれど旦那様は、そんな私を受け入れてくださった。
そして若様は、私の過去を知ってなお、そばにいてくださった。
その名前が。
なぜ、今。
「……どこまで」
声が掠れた。
「どこまで、知られているのでしょうか」
「わからない」
少佐は首を横に振った。
「六人が現在の身元や居場所まで掴んでいたのか、それともまだ調べている段階だったのか。我々には確認できなかった」
私は両手を握り締めた。
爪が掌に食い込む。
痛みは、ほとんど感じなかった。
「……そのことを、若様に?」
「ああ」
少佐は目を伏せた。
「その名前を出した瞬間だった」
「……」
「ガルシア君の目が変わったんだ」
少佐は、あの日の光景を思い返すように言葉を選んだ。
「それまでは、父親の事件についてさえ、冷静に聞いていた。だが、その人物が調べられていると伝えた途端、身を乗り出してきた」
私の指先が震えた。
「誰が調べているのか。何を知っているのか。居場所は突き止められているのか。情報は誰かに渡ったのか……」
一つ一つの問いが、胸に突き刺さった。
「何度も確認された。私は、わからないと答えるしかなかった」
少佐の言葉が途切れた。
「……あの子は、ひどく怯えていた」
違う。
そう言いかけて、私は口を閉じた。
違わない。
若様は、恐れていらしたのだ。
私に危険が迫る事を。
あの夜のことが、鮮明に蘇った。
寝台に腰掛けた若様。
私に隣へ座るようおっしゃったこと。
いつもより少しだけ幼く見えたお顔。
そして、あの問い。
――ロベルタ。
――僕と一緒に、逃げてくれない?
胸の奥で、何かが崩れた。
ああ。
そうだったのですね。
若様。
あのとき、あなたは――。
私は、あの方の言葉を思い出していた。
屋敷も、財産も、使用人たちの暮らしも、心配する必要はないと。
みんなが困らないようにしてあるからと。
だから、一緒に来てほしいと。
私は、お断りした。
旦那様の遺されたものを守らなければならない。
ラブレス家を支えることこそが、自分の務めなのだと。
それが正しいことだと、信じていた。
けれど、若様は。
あの方は、家を捨ててでも私を連れ出そうとしていらしたのだ。
私を守るために。
それを、私は。
「……っ」
喉の奥から、奇妙な音が漏れた。
慌てて口元を押さえる。
息がうまく吸えない。
胸の内側を、見えない手で強く握り潰されているようだった。
「婦長様!」
ファビオラが身を乗り出した。
「大丈夫ですか!」
「……大丈夫、です」
嘘だった。
何も大丈夫ではなかった。
若様は、私に逃げてほしかった。
私を危険から遠ざけたかった。
けれど、私がそれを拒んだから。
だから、あの方は。
――ごめんね。
あの涙。
あの謝罪。
あれは、私に拒まれたことへの悲しみだけではなかったのだ。
私に告げられない何かを、すでに決めていらしたのではないか。
若様が姿を消された朝。
机の上に残されていた手紙。
そこに並んでいた、財産の整理と使用人たちの今後についての、あまりに周到な指示。
屋敷まで売り払い、私たち全員に新しい生活を用意しようとなさった理由。
若様を捜すなという、あの命令。
すべてが、一本の線でつながっていく。
あの方は、帰ってこられない場合のことまで考えていらしたのだ。
私たちを残して。
ご自分だけが。
「……どうして」
声が漏れた。
「どうして、そのような……」
私は、膝の上で拳を握り締めた。
腹の底から、熱いものが込み上げてくる。
悲しみではなかった。
怒りだった。
若様に対する怒り。
何も相談してくださらなかったことへの怒り。
私を置いて、一人で危険に向かわれたことへの怒り。
そして何より。
そんなことを決意させてしまった、自分自身への怒り。
私は何をしていた。
若様のそばで、何を見ていた。
眠れぬ夜を知っていた。
食事を召し上がれなくなったことも知っていた。
隠れて吐いていらしたことも。
お倒れになったことも。
すべて、知っていた。
それなのに。
私は、あの方が何を恐れていらっしゃるのか、一度として見抜けなかった。
かつて私は、人の気配を読むことに長けていた。
わずかな目線の動きから敵意を察し、呼吸の乱れから相手の動きを予測した。
命を奪うためなら、どれほど些細な兆候も見逃さなかった。
なのに。
世界で最も大切な方が、私の目の前で壊れていこうとしていたのに。
私は、何も見えていなかった。
「……ロベルタ」
少佐が、ためらいがちに呼びかけた。
「すまない。私があの子に話さなければ――」
「いいえ」
私は顔を上げた。
「少佐のせいではございません」
そう答えながら、胸の奥では別の声が叫んでいた。
私のせいだ。
私が、あの方を追い詰めた。
過去を捨てたつもりでいた。
旦那様に救われ、若様に愛され、私はもう人を殺さずに生きていけるのだと思っていた。
けれど、過去は消えていなかった。
私が殺した人間。
私が奪った命。
私が積み上げてきた罪。
それらは今も、私の背後に立っていたのだ。
そして、その報いが。
私ではなく。
若様に向かおうとしている。
私は奥歯を噛み締めた。
違う。
そんなことは、許されない。
私の罪は、私のものだ。
若様が背負う必要など、どこにもない。
まして、あの方の手を血で汚させるなど。
そんなことだけは。
絶対に。
「……少佐」
自分でも不思議なほど、静かな声が出た。
「若様について、何かわかりましたら、どのような些細なことでもお知らせください」
少佐は、私の顔を見つめた。
「ああ。約束する」
「お願いいたします」
私は深く頭を下げた。
そのとき、ファビオラが私の袖を掴んだ。
「婦長様……」
見れば、彼女は泣くのを必死に堪えていた。
「若様は……帰ってきてくださいますよね」
私はすぐには答えられなかった。
帰ってくる。
そう言ってやりたかった。
何の心配もいらないと。
若様は必ず帰っていらっしゃると。
けれど、あの手紙が頭から離れなかった。
あの方は、帰れない可能性を考えていらした。
だからこそ、私たちの暮らしを整えようとなさったのだ。
私はファビオラの手を取った。
冷たかった。
「……お迎えに参りましょう」
それだけを告げた。
「若様がお戻りにならないのであれば、私たちが、お迎えに参りましょう」
ファビオラは何度も頷いた。
私はその手を握ったまま、胸の内で誓った。
若様。
どうか。
どうか、まだ間に合ってください。
あなたがどれほど遠くへ行かれようとも。
どれほど私を拒もうとも。
必ず、お迎えに参ります。
ですから。
お願いです。
私のために、これ以上、何も失わないでください。
---
### Ⅱ
鼻歌が聞こえていた。
調子のよい、どこか懐かしげな旋律だった。
小さなキッチンには古い調理台と流し台があり、その傍らで一人の少年が炭の様子を確かめている。
ガルシア・ラブレス。
十五歳。
その年齢に似つかわしくないほど落ち着いた手つきで、彼は赤く染まり始めた炭を眺めていた。
少し離れた場所には、一人の男が拘束されている。
サイモン・ディケンズ陸軍大佐。
顔は腫れ、衣服には血が滲んでいた。両腕は鉄製の火鉢を抱え込むような姿勢で固定され、身体を動かそうとするたび、金属の擦れる音が鳴った。
男の呼吸は荒い。
それでも、ガルシアは振り返らなかった。
鼻歌をやめると、何かを思い出したように話し始める。
「そういえば、大佐」
返事はない。
「あなたは普段、漫画や映画、アニメなんかをご覧になりますか?」
炭が小さく爆ぜた。
「子供の頃、夢中になった作品の一つや二つ、ありませんでした?」
ガルシアは、相手の返答を待たずに続けた。
「僕はね、そういうのが好きだったんですよ」
少し笑う。
「物語を見ていると、つい考えてしまうんです。もし自分が、この世界に入れたら、って」
ディケンズが顔を上げた。
少年は気にも留めない。
「ほら、あるでしょう? どうしてそこでそんなことをするんだ、とか。僕だったらこうしたのに、とか」
手元の炭を確かめながら、言葉を重ねる。
「あと少し早く駆けつけていれば、あの人は死なずに済んだのに。あのとき別の言葉をかけていれば、あの子を救えたのに」
ふっと笑みを漏らした。
「誰だって、一度くらいは考えるんじゃないでしょうか」
その声は、あまりに穏やかだった。
まるで休日の午後、親しい相手と映画の感想でも語り合っているように。
「ところがね、大佐」
ガルシアは手を止めた。
「そんなに甘い話じゃないんですよ」
笑みは消えなかった。
「たった一人、登場人物が増えたくらいで、物語の本質を変えられるなんて。まったく馬鹿げた話です」
ディケンズの呼吸が荒くなる。
「自分なら救えた。自分なら、あんな結末にはさせなかった。……そんなの、外から眺めている人間の思い上がりでしかないんですよ」
ガルシアは、どこか楽しげに肩をすくめた。
「どれだけ先の展開を知っていたって、どれだけ頑張ったって、どうにもならないことがある」
その目が、わずかに遠くを見た。
「物語の中に入ってしまえば、結局は自分もただの駒の一つですからね」
しばらく、炭の爆ぜる音だけが続いた。
「盤上の駒が一つ増えたところで、盤そのものをひっくり返せるわけじゃない」
ガルシアは小さく息を吐いた。
「だから、考えたんですよ」
声の調子が、少しだけ明るくなる。
「もし物語に強制力があるのなら。どれだけ足掻いても、その場面で誰かが死ぬことを避けられないのなら」
赤く染まった炭を見つめた。
「結末そのものを変えようとするから、いけないんじゃないかって」
ディケンズは黙っていた。
「誰かが傷つく。誰かが血を流す。誰かが人を殺して、その報いを受ける」
ガルシアは微笑んだ。
「だったら、その役割だけを変えてしまえばいい」
炭が、ぱちりと音を立てる。
「ほかの誰かに、その役目を押し付けてしまえばいいんですよ」
そこまで言って、ガルシアは再び鼻歌を口ずさんだ。
ディケンズの顔が歪んだ。
「……何を」
声が掠れる。
「何をわけのわからねえことを言ってやがる、このクソガキ!」
ガルシアが振り向く。
「はい?」
「私が誰だか知っていて、こんな真似をしているんだろうな!」
少年は、何かを思い出したように頷いた。
「ああ、もちろんです」
そして、淀みなく答えた。
「NSA、アメリカ合衆国国家安全保障局。中央アメリカ政策分析特別担当官、兼特殊プログラム責任将校。サイモン・ディケンズ陸軍大佐」
ディケンズの目が見開かれた。
「……貴様、なぜそれを」
「調べましたから」
ガルシアは、あっさりと答えた。
「あなたのことを、少しばかり」
ディケンズは少年を睨みつけた。
「……一体、何が目的だ」
ガルシアはキッチンから歩き出した。
手には、炭を載せたフライパンがある。
「十月の爆破事件」
足音が近づく。
「あなたが命令を下したんですよね?」
ディケンズの表情が強張った。
「……まさか」
「マルコス・ホセ・ヘルナンデスさん。ご存じでしょう?」
少年は柔らかく微笑んだ。
「あなたの指示を受けて、あの日のステージ警備に紛れ込んだ六人のうちの一人です」
ディケンズの顔色が変わった。
「お前……」
「実行部隊の飼い犬はどちらに?」
ガルシアは何気ない調子で尋ねた。
ディケンズは口を閉ざした。
「……ああ、失礼」
少年は小さく笑った。
「実は、あなたの飼い犬たちのことも、よく知っているんですよ」
「……何?」
「グレイフォックス。そう呼ばれているんでしょう?」
ディケンズの目が、わずかに見開かれた。
「……貴様、なぜその名前を知っている」
「彼らが誰で、今どこにいるのかも把握しています」
ガルシアは楽しげに首を傾げた。
「ですが、僕が本当にお聞きしたいのは、別のことなんです」
フライパンを持ったまま、火鉢の前で足を止める。
「あなたはなぜ、マルコスたちに『フローレンシアの猟犬』――ロザリタ・チスネロスの情報を探らせたのですか?」
ディケンズの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
だが、ガルシアにはそれで十分だった。
「……何のことだ」
「とぼけないでくださいよ」
少年は、困ったように笑った。
「僕は、あなたが父を殺した理由を聞きに来たわけじゃありません」
火鉢の中に、赤く染まった炭が一つ落ちた。
「知りたいのは、彼女のことです」
また一つ。
鉄の内側で、炭が小さく音を立てた。
「人肌の温度であるうちにおっしゃっていただければ、私も手間が省けます」
ディケンズの顔が引きつった。
「この怒りポンチのクソガキめ……!」
男は歯を剥いた。
「俺に手をかければ、合衆国政府そのものを敵に回すことになるんだぞ!」
「望むところです」
即答だった。
あまりにもあっさりした返事に、ディケンズは言葉を失った。
ガルシアはフライパンを脇に置き、男の顔を覗き込んだ。
「さあ、大佐」
声は相変わらず柔らかい。
「お話を聞かせてください」
ディケンズはしばらく黙っていた。
やがて、諦めたように口を開いた。
「……MRVだ」
「はい?」
「我々は、あの組織の台頭を歓迎していない」
ガルシアは黙って聞いていた。
「奴らが勢力を拡大すれば、この国で築いてきた利害関係が崩れる。だから、妨害する必要があった」
「それで、十月の爆破事件を?」
「あれも、その一環だ」
ディケンズは唇を湿らせた。
「だが、一度の爆破で終わる話じゃない。今後も継続して圧力をかける必要がある。もっとも、こちらが表立って動くわけにはいかん」
「なるほど」
「だから、別の連中を使うことにした」
ガルシアの目が細くなった。
「……どなたです?」
「FARCだ」
短い沈黙。
ガルシアは、その名前を頭の中で繰り返した。
コロンビア革命軍。
かつて、ロザリタ・チスネロスが所属し、そして離反した武装ゲリラ組織。
「……続けてください」
「奴らに、MRVへの妨害工作を請け負わせる。そのための交渉を進めていた」
「交渉材料は?」
ディケンズが目を伏せた。
ガルシアは答えを急かさなかった。
「……ロザリタ・チスネロスだ」
その名前が、部屋の空気を変えた。
「FARCは以前からあの女を追っていた。懸賞金まで懸けてな。こちらが居場所を掴めば、それは十分な取引材料になる」
ガルシアは微笑んだままだった。
「それで、マルコスさんたちに調べさせたんですね」
「ああ」
「情報は、どこまで集まったんです?」
ディケンズは答えをためらった。
「大佐」
少年が優しく呼びかける。
「正確にお願いします」
ディケンズは目を閉じた。
「……全部だ」
ガルシアの表情は変わらない。
「全部、とは?」
「本名も、経歴も、今の居場所もだ」
「現在の居場所?」
「ベネズエラのラブレス家。ロベルタという名前で、女中として働いている」
静寂が落ちた。
「……その情報は」
ガルシアはゆっくり尋ねた。
「まだ、あなたの手元にあるんですか?」
ディケンズは首を横に振った。
「もう遅い」
「……」
「すでにFARCへ渡した。奴らは全部知っている。あの女が今、どこで、何をしているのかもな」
ガルシアは、しばらく何も言わなかった。
ロベルタ。
屋敷の廊下を歩く足音。
朝、部屋の扉を叩く声。
不器用なくせに、何でも一人で背負おうとする人。
自分のことより、いつも誰かの心配ばかりしている人。
彼女がようやく手に入れた、静かな暮らし。
それが、すでに敵の手の届く場所にある。
ガルシアは目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
そして、再び開いたときには、いつもの笑顔に戻っていた。
「そうですか」
ガルシアは静かに頷いた。
「情報提供、ありがとうございます」
ディケンズの顔に、わずかな安堵が浮かんだ。
だが、それも束の間だった。
ガルシアはキッチンへ戻ると、残っていた炭をすべて火鉢へ落とした。
「……おい。何をしている」
少年は答えなかった。
部屋の隅に置かれていた金属製の容器を手に取り、蓋を開ける。
鼻を刺すようなガソリンの臭いが漂った。
「……待て」
ディケンズの声が低くなった。
ガルシアは容器を傾けた。
透明な液体が床に流れ落ち、暗い染みを広げていく。
「貴様……何のつもりだ」
少年は鼻歌を口ずさみながら、床にガソリンを撒いていった。
ディケンズの顔が強張る。
「やめろ」
返事はない。
「やめろと言っている!」
男は身を捩った。
手錠が激しく鳴る。
だが、拘束はびくともしなかった。
目の前では、赤く熾った炭が静かに熱を放っている。
「……正気か、貴様」
ガルシアは容器を置き、入口へ向かった。
「待て!」
ディケンズの声が鋭く響いた。
「話は終わったはずだ! 知っていることはすべて話した!」
ガルシアは扉の前で振り返った。
「大佐」
その顔には、どこか申し訳なさそうな笑みが浮かんでいた。
「……ごめんなさい」
「……何?」
「今のあなたには、その役目を代わってくれる人が、誰もいないんです」
ディケンズは、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
だが、少年が扉に手を掛けた瞬間、その顔が恐怖に歪んだ。
「……待て」
扉が開く。
「待て! 戻れ!」
ディケンズが身を乗り出す。
手錠が甲高い音を立てた。
「このクソガキ! 戻れと言っている!」
ガルシアは廊下へ出た。
「……おい」
その声から、威圧するような響きが消えた。
「待ってくれ……」
扉が閉まり始める。
「……頼む。開けてくれ」
扉が閉まった。
直後、背後から絶叫が響いた。
「開けろ! 開けろぉっ!」
金属が激しく鳴り響く。
「誰か! 誰かいないのか! ここを開けろぉっ!」
ガルシアは振り返らなかった。
廊下を歩きながら、再び鼻歌を口ずさむ。
今度は、途中で音を外さなかった。
いつもご覧いただきありがとうございます。
この作品は自分が見たいものを自分で作ろうと思い書き始めました。
まさかここまで長編になるとは思ってなかったので、自分でも驚いています。
自分が見たくて始めたものなので、人からの評価などは全く気にしてませんでしたし、期待してませんでしたが、日々皆様からの評価や感想をいただく事がこんなにも嬉しい事なのかと改めて実感致しました。
あと一瞬だけランキングで15位なってびっくりしました。
今では、皆さまからの楽しく読ませてもらってますという一言が連載を続けていけている最大の理由になっております。
そろそろ物語も終盤に迫ってまいりましたが、もし宜しければ、最後までお付き合いください。