BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

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第三十三話

第三十三話 帰る場所

 

 夜明け前のラブレス邸は、静まり返っていた。

 

 ロベルタは廊下の突き当たりで足を止めた。

 

 目の前には、見慣れた扉がある。

 

 かつては毎朝、決まった時刻にこの扉を叩いた。

 

 返事がなければ、もう一度。

 

 それでも起きてこられなければ、そっと扉を開け、寝台の上で丸くなっている少年に声をかけたものだった。

 

 時には寝ぼけた若様に手を引かれ、もう少しだけ、と引き留められることもあった。

 

 あの頃は、それがいつまでも続くものだと思っていた。

 

 ロベルタは扉を開けた。

 

 室内は、整然としていた。

 

 机の上の書物も、窓際の鉢植えも、最後に若様がここで眠られた日からほとんど変わっていない。

 

 ただ、空気だけが違っていた。

 

 ロベルタは寝台に歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろした。

 

 白い枕に手を伸ばす。

 

 しばらく、その表面を撫でていた。

 

 やがて身を屈め、そこに顔を埋めた。

 

「……若様」

 

 目を閉じる。

 

 ほんのかすかに、懐かしい匂いがした。

 

 何度も抱きしめた、小さな身体の匂い。

 

 眠れない夜に背中をさすり、熱を出した日には額に触れ、朝になれば寝癖を直して差し上げた。

 

 その記憶と結びついた、何よりも大切な匂い。

 

 けれど。

 

「……薄く、なってしまいましたね」

 

 枕を抱き寄せた。

 

 日に日に、若様の匂いが消えていく。

 

 この部屋から。

 

 この寝台から。

 

 若様が確かにここにいらっしゃった、その証しが。

 

「……嫌です」

 

 誰に聞かせるでもなく、呟いた。

 

「そんなのは……嫌です、若様」

 

 枕に顔を押しつける。

 

 もう少し強く抱けば、もう一度あの匂いを感じられるのではないか。

 

 そんな馬鹿げた期待を抱いて、腕に力を込めた。

 

 当然、何も変わらなかった。

 

 ロベルタは長い間、そこから動けなかった。

 

 やがて扉の向こうから、控えめな声が聞こえた。

 

「……婦長様?」

 

 ファビオラだった。

 

 ロベルタは顔を上げ、乱れた枕を整えた。

 

「どうしました、ファビオラ」

 

「申し訳ありません。お部屋にいらっしゃると聞いたので……」

 

 扉が少し開く。

 

 ファビオラはロベルタの姿を見て、一瞬だけ言葉を止めた。

 

 しかし、何も尋ねなかった。

 

「衣装室のことで、少し妙な報告がありまして」

 

「衣装室?」

 

「メイド服が一式、なくなっているそうです」

 

 ロベルタは眉を寄せた。

 

「一式、ですか」

 

「はい。上着もスカートも、エプロンも。保管していたはずなのに、見当たらないそうで」

 

「洗濯物は確認しましたか」

 

「それも調べたそうです」

 

「……そうですか」

 

 不可解ではあった。

 

 だが、今のロベルタには、その意味を考えるだけの余裕がなかった。

 

「もう一度、屋敷の中を確認してください。誰かが移動させた可能性もあります」

 

「分かりました」

 

 ファビオラは頷いた。

 

 それから、少しためらうように口を開いた。

 

「婦長様……今日も、捜しに行かれるんですよね」

 

「ええ」

 

「私もご一緒します」

 

「……ありがとうございます」

 

 ファビオラが部屋を出たあと、ロベルタはもう一度、寝台を振り返った。

 

 若様がいなくなってから、屋敷の時間はどこか狂ってしまった。

 

 食事の支度をしても、呼びに行く相手がいない。

 

 廊下で物音がすれば、思わず振り返ってしまう。

 

 門が開く音を聞くたび、胸が跳ねる。

 

 そして、そのたびに失望する。

 

 捜索は続けていた。

 

 手掛かりがあると聞けば、どれほど遠くても足を運んだ。

 

 しかし、何一つ見つからなかった。

 

 六人の元軍人が死んだことだけが、確かな事実として残っている。

 

 旦那様の暗殺に関わった男たち。

 

 そして、かつてフローレンシアの猟犬と呼ばれた自分を探していた男たち。

 

 若様は、そのことを知っていた。

 

 あの夜、二人で逃げようとおっしゃった。

 

 自分は断った。

 

 すると若様は、泣きながら謝られた。

 

 なぜ、謝ったのですか。

 

 何を、謝る必要があったのですか。

 

 ロベルタは答えを求めるように、誰もいない寝台を見つめた。

 

 そして、もう一度だけ囁いた。

 

「……帰ってきてください、若様」

 

 その声は、朝の静寂に吸い込まれていった。

 

---

 

 

 ラファエル・バルガス少佐から連絡が入ったのは、その日の午後だった。

 

 若様に関係するかもしれない情報がある。

 

 電話口でそう告げられた瞬間、ロベルタは受話器を握りしめた。

 

 詳しい話は直接したいという。

 

 彼女はファビオラを伴い、すぐに事務所へ向かった。

 

 バルガスは二人を迎えると、余計な挨拶を省いて机の前へ案内した。

 

「来てくれてありがとう、ロベルタ」

 

「若様が見つかったのですか」

 

「……いや」

 

 その一言に、ロベルタの胸が沈んだ。

 

「だが、重要な情報が入った」

 

 バルガスは封筒から数枚の写真を取り出した。

 

 黒く焼けた木材。

 

 崩れ落ちた屋根。

 

 消火の跡が残る、小さな建物。

 

「カラカス郊外の、使われていない小屋だ。三週間ほど前、ここで火災があった」

 

 ロベルタは写真を見下ろした。

 

「中から、男性一人の遺体が発見されている」

 

「……火災事故ですか」

 

「状況から見て事故では無い。遺体はひどく損傷していたが、調査の結果、身元が判明した」

 

 バルガスは書類を一枚、机の上に置いた。

 

「サイモン・ディケンズ。アメリカ陸軍大佐だ」

 

「……ディケンズ?」

 

 初めて聞く名前だった。

 

「何者なのですか」

 

「ディエゴの暗殺に関与した疑いがある人物だ」

 

 ロベルタの表情が変わった。

 

 バルガスは別の封筒を開いた。

 

「以前、君に見せた写真を覚えているか?」

 

 机に置かれたのは、カラカスで撮影された集合写真だった。

 

 右端に、マルコス・ホセ・ヘルナンデス。

 

 その隣に、白人の男。

 

 バルガスは、その人物を指さした。

 

「右から二番目。こいつがディケンズだ」

 

 ロベルタは写真に目を落とした。

 

 以前は正体の分からなかった男。

 

 その男が、今は焼け跡から遺体となって発見されている。

 

「……この方が、旦那様の暗殺に」

 

「関与していた疑いが強い。だが、どこまで指示を出していたのか、現時点では確定していない」

 

 バルガスは椅子に深く腰掛けた。

 

「問題は、それだけじゃない」

 

 ロベルタは顔を上げた。

 

「六人の元軍人が相次いで死んだ。そして、彼らと接点のあったディケンズも死亡した」

 

「…………」

 

「その間、ガルシア君の行方は分からないままだ」

 

 バルガスは一度、言葉を切った。

 

「私は、彼が一連の事件に関わっている可能性が非常に高いと考えている」

 

 ロベルタの指先が冷たくなった。

 

「……証拠は、あるのですか」

 

「決定的なものはない」

 

 バルガスは即答した。

 

「だから、断定はしない。だが、無関係だと考えるには、あまりにも出来すぎている」

 

 ロベルタは黙っていた。

 

 違う、と言いたかった。

 

 若様はそんなことをなさらない。

 

 そう言い切りたかった。

 

 けれど、できなかった。

 

 あの夜の若様の顔が、脳裏に浮かんだ。

 

 一緒に逃げようとおっしゃった。

 

 自分が断ると、ひどく悲しそうに笑われた。

 

 そして、泣きながら謝った。

 

 あの謝罪の意味を、ロベルタはずっと考え続けていた。

 

 もしも。

 

 もしも、若様が。

 

 自分に向けられた危険を取り除くために、あの男たちを殺したのだとしたら。

 

 自分がかつて歩いた道を、今度は若様が歩いているのだとしたら。

 

「……そんなこと」

 

 唇が震えた。

 

 それだけは、嫌だった。

 

 若様の手が血に染まることも。

 

 誰かの命を奪った記憶を抱えて生きることも。

 

 何より、そのすべてが自分のためだったとしたら。

 

「……嫌です」

 

 声が漏れた。

 

 ファビオラが隣で息を呑んだ。

 

「婦長様……」

 

 ロベルタは机の端を握りしめた。

 

 自分は、かつて多くの命を奪った。

 

 その罪が消えることはない。

 

 だが、若様には関係のないことだった。

 

 若様だけは。

 

 あの方だけは、自分とは違う場所にいてほしかった。

 

 誰かを殺さなくても生きていける場所に。

 

 血の匂いなど知らず、笑っていられる場所に。

 

 それを守ることが、自分の役目だったはずなのに。

 

 ロベルタは目を閉じた。

 

 胸の奥から、吐き気にも似たものが込み上げてきた。

 

 若様。

 

 あなたは、いったいどこまで行ってしまわれたのですか。

 

---

 

 

「ロベルタ」

 

 バルガスが静かに呼びかけた。

 

「まだ、見てほしいものがある」

 

 ロベルタは顔を上げた。

 

 バルガスは机の上のモニターを操作した。

 

「火災が発生した日、カラカス市内の監視カメラが撮影した映像だ」

 

 画面に、街路が映し出された。

 

 車が通り過ぎる。

 

 歩道を人々が行き交う。

 

 画質は悪く、顔の判別も難しい。

 

「捜査当局は、ガルシア君らしき人物が映っていると見ている。ただし、本人だと断定するには不十分だ」

 

 ロベルタは画面を見つめた。

 

 そして。

 

 一人の少年が、映像の端に現れた。

 

 ほんの数秒。

 

 通りを歩き、角を曲がり、姿を消す。

 

「……あ」

 

 ロベルタの喉から、小さな声が漏れた。

 

 手が、無意識に画面へ伸びていた。

 

「……若様」

 

 バルガスが映像を止めた。

 

「分かるのか?」

 

「……もう一度」

 

「ロベルタ?」

 

「もう一度、見せてください」

 

 映像が巻き戻された。

 

 少年が現れる。

 

 歩く。

 

 角を曲がる。

 

 消える。

 

「……若様です」

 

 ロベルタは呟いた。

 

「間違いありません」

 

「だが、顔はほとんど映っていない。何か特徴が――」

 

「若様です」

 

 ロベルタは、はっきりと言った。

 

 なぜ分かるのか。

 

 そんなことは、自分にも説明できなかった。

 

 ただ、分かった。

 

 画面に映った瞬間、分かってしまった。

 

 あの方だ。

 

 どれほど遠くにいても、どれほど姿が不鮮明でも。

 

 自分が若様を見間違えることなど、あり得なかった。

 

「……間違い、ありません」

 

 声が震えた。

 

 ロベルタは画面に手を伸ばした。

 

 指先が、冷たいガラスに触れた。

 

 そこに若様はいなかった。

 

 ただ、数秒前の映像が静止しているだけだった。

 

「……生きて」

 

 言葉が途切れた。

 

「……生きて、いらっしゃる」

 

 胸の奥から、何かが込み上げてきた。

 

 安堵だった。

 

 悲しみだった。

 

 会いたさだった。

 

 そのどれともつかない感情が、喉を締めつけた。

 

 ファビオラが隣で小さく泣いていた。

 

「若様……」

 

 ロベルタは画面から目を離せなかった。

 

 ようやく見つけた。

 

 ほんの数秒。

 

 それでも、確かに若様を見つけた。

 

 今すぐ、あの通りへ行きたかった。

 

 映像の中へ飛び込み、少年の背中を追いかけたかった。

 

 しかし、あの日からすでに時間が経っている。

 

 今、若様がどこにいらっしゃるのかは分からない。

 

「……もう一つ、情報がある」

 

 バルガスの声が聞こえた。

 

 ロベルタは、ゆっくりと振り返った。

 

「ディケンズ大佐のアカウントを使って、航空券が購入されていた」

 

「……航空券?」

 

「ああ。ベネズエラからアメリカを経由して、タイへ向かうものだ。さらに、タイ国内のバスの乗車券も購入されている」

 

 バルガスは購入記録を差し出した。

 

「購入者は不明だ。ディケンズ本人とは考えにくいが、第三者がアカウントを利用したという証拠も、まだ十分ではない」

 

 ロベルタは記録を受け取った。

 

 そして、最後の行き先を見た。

 

 呼吸が止まった。

 

 ロアナプラ。

 

 かつて、若様が誘拐された街。

 

 自分が若様を取り戻すために、あらゆるものを敵に回して駆け抜けた街。

 

 あの街の名前が、再び目の前にあった。

 

「……ロアナプラ」

 

 バルガスが顔を上げた。

 

「知っているのか?」

 

「はい」

 

 ロベルタは記録を握りしめた。

 

「若様が、以前……連れ去られた場所です」

 

「そうか」

 

 バルガスは考え込んだ。

 

「だが、実際にその便に乗ったかどうかは分かっていない。バスについても同じだ」

 

「……承知しております」

 

「これだけで、ガルシア君がロアナプラへ向かったと決めつけることはできない」

 

「はい」

 

 ロベルタは静かに頷いた。

 

 それでも。

 

 行かなければならないと思った。

 

 なぜ若様が、あの街へ向かおうとなさったのか。

 

 何をしようとなさっているのか。

 

 何も分からない。

 

 けれど、あの街がどのような場所かは知っている。

 

 人の命が、あまりにも簡単に失われる街。

 

 善意も悪意も、銃声一つでかき消される街。

 

 そんな場所に、若様がお一人でいらっしゃるかもしれない。

 

「バルガス少佐」

 

 ロベルタは立ち上がった。

 

「この記録の写しを、いただけますか」

 

「……ロベルタ」

 

「私は、ロアナプラへ参ります」

 

 バルガスは何も言わなかった。

 

「若様がそこにいらっしゃるという保証はありません。それでも、今の私には、ほかに手掛かりがないのです」

 

「……分かった」

 

 しばらくして、バルガスは頷いた。

 

「用意しよう」

 

「ありがとうございます」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

 その隣で、ファビオラが立ち上がった。

 

「婦長様。私も行きます」

 

「ファビオラ」

 

「お願いです。私も、若様を捜させてください」

 

 その目には、涙が残っていた。

 

 けれど、迷いはなかった。

 

 ロベルタは静かに頷いた。

 

「……ええ。一緒に参りましょう」

 

---

 

 出発の日、ロベルタは鏡の前に立っていた。

 

 身につけているのは、メイド服ではなかった。

 

 飾り気のない、地味な私服。

 

 鏡に映る自分の姿には、どうにも馴染めなかった。

 

 しかし、これでよかった。

 

 ロアナプラでメイド服を着て歩けば、目立つ。

 

 あの街には、かつての自分を知る者がいる。

 

 顔を覚えている者は多くなくとも、メイド姿の女が現れたという噂なら、たちまち広がるだろう。

 

 その噂が若様の耳に入れば。

 

 若様は、また逃げてしまわれるかもしれない。

 

 今度こそ、それだけは避けなければならなかった。

 

「婦長様」

 

 ファビオラが部屋に入ってきた。

 

 彼女も私服だった。

 

「準備ができました」

 

「ありがとうございます」

 

「……何だか、変な感じですね」

 

 ファビオラは自分の服を見下ろし、苦笑した。

 

「ええ」

 

 ロベルタも小さく頷いた。

 

 玄関には、屋敷の使用人たちが集まっていた。

 

 皆、不安そうな顔をしていた。

 

 それでも、誰一人として引き留めようとはしなかった。

 

「ロベルタさん」

 

 一人の使用人が進み出た。

 

「若様を……どうか、よろしくお願いします」

 

「……はい」

 

 ロベルタは深く頭を下げた。

 

「必ず、お連れします」

 

 約束だった。

 

 誰に対してというより、自分自身に対する。

 

 若様の手紙には、屋敷を売り払い、皆に十分な補償を与えるよう記されていた。

 

 けれど、誰もそれを望まなかった。

 

 屋敷は、今もここにある。

 

 若様の部屋も、寝台も、机も。

 

 何一つ、手放していない。

 

 帰ってくる場所は、確かに残っている。

 

 それなのに。

 

 若様は、どうして帰ってきてくださらないのだろう。

 

 ロベルタは門の前で立ち止まった。

 

 振り返る。

 

 見慣れた屋敷が、朝の光の中に立っていた。

 

 旦那様が守ってこられた家。

 

 若様が生まれ育った家。

 

 そして、自分が初めて、人を殺す以外の生き方を知った場所。

 

 ロベルタは胸元に手を当てた。

 

 若様。

 

 私は、あなたを守りたいのです。

 

 あなたに守っていただくために、ここにいるのではありません。

 

 どうか、これ以上。

 

 これ以上、あなたが傷つく前に。

 

「……参りましょう、ファビオラ」

 

「はい、婦長様」

 

 二人は歩き出した。

 

 行き先は、ロアナプラ。

 

 かつて若様を取り戻した、あの街へ。

 

 もう一度、若様を迎えに行くために。

 

---

 

 

 ロアナプラ。

 

 ガルシア・ラブレスは、港から続く通りを歩いていた。

 

 潮の匂い。

 

 排気ガス。

 

 腐った果物の甘ったるい臭気。

 

 遠くから聞こえる怒鳴り声と、どこかで鳴り響く銃声。

 

 相変わらずの街だった。

 

 ガルシアは足を止め、通りの向こうにある店を見た。

 

 イエローフラッグ。

 

 以前、訪れたことのある酒場だった。

 

 扉を押し開ける。

 

 昼間だというのに、店内は薄暗い。

 

 酒と煙草の匂いが、むっと鼻をついた。

 

 カウンターの向こうでは、店主のバオがグラスを拭いていた。

 

「こんにちは」

 

 ガルシアが声をかけた。

 

「……あ?」

 

 バオは顔を上げた。

 

 少年を見て、眉をひそめる。

 

 数秒後、その目が見開かれた。

 

「……おいおい」

 

 グラスを置く。

 

「お前、あのときの坊主じゃねえか」

 

「お久しぶりです、バオさん」

 

 ガルシアは微笑んだ。

 

「覚えていてくださったんですね」

 

「忘れるかよ。あんな騒ぎを起こした連中を」

 

 バオは鼻を鳴らした。

 

「で? 今度は何だ。また誘拐でもされたのか?」

 

「いいえ。今回は自分の意思で来ました」

 

「……そうかい」

 

 バオは少年を見つめた。

 

 以前より、だいぶ背が伸びた。

 

 体格も良くなって顔つきも大人びている。

 

 それでも、あのときの少年に間違いなかった。

 

 危険な街に連れてこられたというのに、妙に人懐っこく、相手が誰であろうと臆することなく話しかけてきた少年。

 

 バオは、この奇妙な客を嫌いではなかった。

 

 もちろん、そんなことを本人に言うつもりはない。

 

「ったく。ここはガキの遊び場じゃねえんだぞ」

 

「分かっています」

 

「分かってねえから来るんだろうが」

 

 そう言いながら、バオは少年の顔を見た。

 

 そして、目が合った。

 

「…………」

 

 不意に、言葉が止まった。

 

 何かが違う。

 

 笑っている。

 

 確かに、あのときと同じように笑っている。

 

 だが、その目は。

 

 バオは、無意識にグラスを置いていた。

 

「……坊主」

 

「はい?」

 

「お前、何があった?」

 

 ガルシアは少しだけ首を傾げた。

 

「いろいろ、ありまして」

 

「…………」

 

「それより、バオさん。今日はお願いがあるんです」

 

 バオは眉をひそめた。

 

「お願い?」

 

「はい。何人か、紹介していただきたい方がいるんです」

 

「……誰だよ」

 

「情報に詳しい方と、腕のいいお医者さん。それから、武器を扱っている方です」

 

 バオは黙った。

 

「できれば、信用できる方だと助かります」

 

「……おい」

 

「はい?」

 

「情報屋に、闇医者に、武器商人だと?」

 

「はい」

 

 ガルシアは素直に頷いた。

 

「お前、そんな連中を集めて何をするつもりだ?」

 

 少年は少し考えるように視線を落とした。

 

 それから、顔を上げた。

 

「戦争に必要な人材を紹介してください」

 

 バオは一瞬、意味を理解できなかった。

 

「……何だと?」

 

「戦争に必要な人材です」

 

 ガルシアは丁寧に繰り返した。

 

 次の瞬間。

 

 カウンターが、激しい音を立てた。

 

「ふざけんじゃねえぞ、坊主ッ!!」

 

 バオが拳を叩きつけていた。

 

 店内の客が、一斉にこちらを振り返った。

 

「戦争だと!? てめえ、自分が何言ってんのか分かってんのか!!」

 

 ガルシアは黙っていた。

 

「情報屋だの武器屋だの、そんなもん集めりゃ戦争ができるとでも思ってんのか!?」

 

「…………」

 

「いいか、坊主! 戦争ってのはな、てめえが思ってるようなもんじゃねえんだよ!」

 

 バオの声は、怒りで震えていた。

 

「人が死ぬんだぞ! 昨日まで隣で笑ってた奴が、次の日にはくたばってんだ! そんなもんを、てめえみてえなガキが軽々しく口にするんじゃねえ!!」

 

 ガルシアは何も言わなかった。

 

「帰れ!」

 

 バオは怒鳴った。

 

「今すぐこの街から出ていけ! てめえの帰る場所へ帰れ!!」

 

 沈黙が落ちた。

 

 ガルシアは、しばらくバオを見つめていた。

 

 そして。

 

 笑みが消えた。

 

「……僕が」

 

 静かな声だった。

 

「伊達や酔狂で、こんなことを言っているとでも?」

 

 バオは息を呑んだ。

 

 少年の目が、まっすぐに自分を見ていた。

 

 怒鳴り返されたわけではない。

 

 脅されたわけでもない。

 

 ただ、見つめられただけだった。

 

 それなのに。

 

 背筋を、冷たいものが這い上がった。

 

 バオは戦場を知っていた。

 

 人間が恐怖に呑まれる瞬間も、憎しみに取り憑かれる瞬間も、幾度となく見てきた。

 

 そして、この街に来てからも、数え切れないほどの危険な人間と出会ってきた。

 

 だが、目の前の少年は、そのどれとも違っていた。

 

 底が見えなかった。

 

 怒りも、憎しみも、悲しみも。

 

 何もかもが混じり合ったような仄暗い光を放っていた。

 

 その奥に何があるのか、見当もつかなかった。

 

 ただ一つ、分かったことがある。

 

 この少年は、本気だ。

 

 戦争という言葉を、意味も知らずに口にしたのではない。

 

 その意味を知ったうえで、ここに立っている。

 

「…………」

 

 バオは言葉を失った。

 

 ほんの数秒だった。

 

 やがて。

 

「……ああ、すみません」

 

 ガルシアが、ふっと表情を緩めた。

 

 先ほどまでの気配が、嘘のように消えた。

 

「変なことを言ってしまいましたね」

 

 少し困ったように眉を下げる。

 

「……お願いしますよ、バオさん」

 

 少年は笑った。

 

「僕、ほかに頼れる人がいないんです」

 

 その顔を見た瞬間。

 

 バオの脳裏に、遠い昔の光景がよみがえった。

 

 ベトナム。

 

 むせ返るような湿気。

 

 泥に沈む軍靴。

 

 熱を持った銃身。

 

 遠くで鳴り続ける砲声。

 

 そして、若い戦友の顔。

 

 出撃前、そいつは笑っていた。

 

 怖いくせに、平気なふりをして。

 

 少し困ったように笑って。

 

 大丈夫だと言った。

 

 帰ったら酒を飲もうと、そんなくだらない約束までした。

 

 そして。

 

 帰ってこなかった。

 

「…………」

 

 バオは目を伏せた。

 

 戦争が終わっても、帰ってきた連中には居場所が必要だった。

 

 戦場のことを話せる場所。

 

 黙って酒を飲める場所。

 

 誰にも理解されない記憶を、同じ記憶を持つ者同士で分け合える場所。

 

 だから、この店を始めた。

 

 もう二度と、あんな顔を見たくなかった。

 

 あんな顔をした若者を、戦場へ送り出したくなかった。

 

 それなのに。

 

 目の前の少年は、まるであの日の戦友と同じ顔で笑っている。

 

「……くそったれ」

 

 バオは小さく吐き捨てた。

 

 長い沈黙のあと、カウンターの下へ手を伸ばした。

 

 取り出したのは、古びた手帳だった。

 

「……紹介だけだぞ」

 

 ガルシアが顔を上げた。

 

「え?」

 

「情報屋、闇医者、武器商人。三人とも教えてやる」

 

「……本当ですか?」

 

「ああ。ただし、そいつらが仕事を引き受けるかどうかは知らねえ。俺が保証するのは、紹介までだ」

 

 ガルシアの顔が明るくなった。

 

「ありがとうございます、バオさん!」

 

「勘違いすんじゃねえぞ」

 

 バオは手帳を開いた。

 

「俺はお前の戦争に手を貸すつもりはねえ。名前と居場所を教えるだけだ」

 

「はい。それで十分です」

 

 バオは紙に三人分の名前と連絡先を書きつけた。

 

 ペン先が止まる。

 

「……坊主」

 

「はい?」

 

 バオは顔を上げた。

 

「お前は、帰ってこいよ」

 

 ガルシアは目を瞬かせた。

 

「……え?」

 

「戦争ってのはな、始めるときには誰だって帰るつもりでいるんだ」

 

 バオは低い声で続けた。

 

「だが、帰ってこねえ奴がいる。必ずな」

 

 少年は黙って聞いていた。

 

「だから、お前は帰ってこい。何があってもだ」

 

 ガルシアは、しばらくバオを見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと目を伏せた。

 

 口元に、小さな笑みが浮かぶ。

 

 けれど、それは先ほどまでの笑顔とは違っていた。

 

 どこか寂しそうな。

 

 何かを諦めてしまったような。

 

 そんな笑顔だった。

 

「……帰れる場所があれば、よかったんですけどね」

 

「…………」

 

 バオは何も言えなかった。

 

 ガルシアはすぐに顔を上げた。

 

 いつもの柔らかな笑顔に戻っていた。

 

「それで、紹介していただける方々なんですが」

 

「……ああ」

 

 バオは書き終えた紙を破り、カウンターに置いた。

 

「ここに三人分、書いてある。俺の名前を出せば、少なくとも話くらいは聞くだろう」

 

「ありがとうございます」

 

 ガルシアは紙を受け取り、丁寧に折り畳んだ。

 

 そして、深々と頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました。バオさん」

 

 バオは何も答えなかった。

 

 少年が店を出ていく。

 

 扉が閉まる。

 

 しばらくして、店内にはいつもの喧騒が戻ってきた。

 

 誰かが酒を注文した。

 

 別の客がくだらない冗談を言い、笑い声が上がった。

 

 バオはカウンターの上に置かれたグラスを手に取った。

 

 だが、拭く気にはなれなかった。

 

 少年の最後の言葉が、耳から離れなかった。

 

 帰れる場所があれば、よかった。

 

 あんな顔で笑う人間を、バオは知っていた。

 

 戦場で。

 

 何度も。

 

 そして、そいつらの多くは帰ってこなかった。

 

「……馬鹿野郎が」

 

 バオは誰もいない入口に向かって呟いた。

 

 その声は、店の喧騒に紛れて消えた。




ロアナプラ新聞
 速報『忠犬ロベルタはクンカーだった!』
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ヨキですが、静かに生きたいだけなんです。(作者:千遇万歩)(原作:鋼の錬金術師)

目が覚めると、そこは『鋼の錬金術師』の世界。▼しかも憑依したのは、まさかのヨキだった。▼原作知識があるからこそ、危険な未来も知っている。▼だから決めた。▼静かに生きよう。▼だが、小さな選択は人を救い、人との出会いは運命を変えていく。▼これは、平穏を望んだ一人の男が、仲間と共に"もう一つの未来"を紡ぐ物語。


総合評価:1075/評価:7.08/連載:50話/更新日時:2026年10月16日(金) 00:00 小説情報

起きたら仁義なき転生、それから。(作者:函南)(原作:仁義なき戦い)

起きたら仁義なき戦いの世界にいた。そんな話。▼からの▼BLACK LAGOONに繋がり、二代目。


総合評価:4818/評価:8.52/連載:83話/更新日時:2026年10月17日(土) 13:47 小説情報

ブレイザー・ヴィリー(作者:ヤン・デ・レェ)(原作:BLACK LAGOON)

ひょんなことから『BLACK LAGOON』の世界に転生した男が、危険な女性たちと出逢い関係性を深めながら、悪党としても栄達する話。▼*pixiv様にも同時投稿しております。▼*pixivでリクエストを頂いて、現在進行形で執筆している二次創作です。主人公の名前、背景、外見などについては、リクエスト主様にご提出いただいた設定に基づいております。


総合評価:9205/評価:8.42/完結:9話/更新日時:2026年06月18日(木) 00:00 小説情報

「はじめの一歩」に女の私が転生する需要はあるの?一応、需要はあるらしい(作者:SUN'S)(原作:はじめの一歩)

彼女は転生者だ。▼バトル漫画の回復系超能力を選んだのに転生したのはボクシング漫画の金字塔「はじめの一歩」の世界だったので、とりあえず日記を書くことにしたらしい。▼ジェットプテラ様にファンアートを頂きました!▼すごく嬉しいです!!!!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼


総合評価:3858/評価:8.01/連載:139話/更新日時:2026年10月17日(土) 00:03 小説情報

『着せ恋』だと思った? 残念『呪術廻戦』でした!(32話から書き直します)(作者:自分のことを五条新菜と信じている(文字数)(原作:呪術廻戦)

俺の名前は五条 若菜!▼五条人形店で働く、しがない高校一年生さ!(コナン並感)▼※『着せ恋』主人公は、五条“新”菜。▼※運営さんからクロスオーバータグつけてね、って来たのでつきました。お騒がせしました。▼※おもしろくなかったので、当初プロットに戻してまた書き直します。宿儺は変わらず虎杖ボディのままで。あと、供養のためボツ案は残すのと、検討案だけ載せるかも。


総合評価:4081/評価:7.19/連載:35話/更新日時:2026年10月16日(金) 13:31 小説情報


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