BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第38話「暴力教会」
ロアナプラで神を信じる人間は、大きく分けて二種類いる。
本当に神の救いを信じている馬鹿と、神の名前が商売になることを知っている利口者だ。
エダはもちろん後者だった。
リップオフ教会。
表向きは神に仕える修道女たちの住まい。その実態は、銃火器から弾薬まで幅広く取り扱う武器商人の拠点である。
神の御名のもとに銃を売り、その売上で教会を維持する。
なかなか合理的な信仰だ。
もっとも、最近は神様も景気が悪いらしい。
「エダ」
奥の部屋からヨランダの声がした。
「へいへい。今度は何だい、婆さん」
「ちょっとこっちへ来な」
「客か? だったら適当に売っといてくれよ。あたしは今、神様と大事な話をしてんだ」
「寝言は寝てからお言い」
「だから寝てたんだって」
エダは長椅子から身体を起こし、面倒くさそうに奥の部屋へ向かった。
そして、扉を開けたところで足を止めた。
「……あ?」
ヨランダの向かいに、少年が座っていた。
十五歳くらいだろうか。
整った服装に、きちんと揃えられた膝。背筋を伸ばした姿勢からも、相当に裕福な家庭で育ったことが窺える。
少年はエダに気づくと、すぐに立ち上がった。
「こんにちは。お邪魔しています」
丁寧に頭を下げる。
エダはヨランダへ顔を向けた。
「……おい婆さん。とうとう託児所まで始めたのか?」
「口を慎みな」
「じゃあ日曜学校か? 悪いけど、あたしはガキに聖書を教えられるほど清い人生送ってねえぞ」
「そいつは知ってるよ」
ヨランダは平然と答えた。
「こちらの坊やが、しばらく教会に泊まりたいそうでね」
「は?」
「それに、ずいぶんと気前のいい寄付をしてくれた」
エダは眉を上げた。
ヨランダがわざわざそう言うのなら、相当な額なのだろう。
「で、あたしに何しろって?」
「数日間、面倒を見てやりな。それと、よく見ておくんだよ」
最後の一言に、エダはわずかに目を細めた。
「……へえ」
「ガルシアと申します」
少年が口を開いた。
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「ああ。あたしはエダだ」
「エダさんですね」
「シスター・エダ、だ。こう見えても神に仕える身なんでね」
「失礼しました。シスター・エダ」
少年は素直に言い直した。
エダは鼻を鳴らした。
(……なんだ、この坊ちゃん)
ここはロアナプラだ。
その中でも、この教会は決して普通の場所ではない。
それなのに、少年はまるで親戚の家に招かれたような顔をしている。
「まあ、座りな」
ヨランダがティーポットを持ち上げた。
テーブルには白地に花柄の描かれたカップが並んでいる。
ガルシアはそれを見ると、ぱっと顔を明るくした。
「あ、ワイルドストロベリーですね」
「ほう。分かるのかい?」
「はい。ウェッジウッドですよね。母がこういう食器を好きだったんです」
少年は懐かしそうにカップを眺めた。
「とても綺麗ですね」
「ふふ。そうかい」
ヨランダが紅茶を注ぐ。
ガルシアはカップを手に取り、香りを確かめてから一口飲んだ。
「……美味しい」
心底嬉しそうな声だった。
「フォートナム&メイソンのロイヤルブレンドでしょうか?」
「よく知ってるねえ」
「以前、いただいたことがあるんです。でも、こんなに美味しく淹れていただいたのは初めてかもしれません」
「おやおや。嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「本当ですよ。ありがとうございます、シスター・ヨランダ」
エダは黙って二人を眺めていた。
(……おいおい)
この教会で、茶器の銘柄を当て、紅茶の香りを楽しみ、老修道女と優雅に談笑している。
異様な光景だった。
いや。
正確には、少年の振る舞い自体は何一つ異様ではない。
礼儀正しく、育ちがよく、他人への敬意を忘れない。
それだけだ。
(だから気味が悪ィんだよ)
普通の金持ちの坊ちゃんがロアナプラに放り込まれたら、まず怯える。
街の事情を知っている人間なら、この教会の連中に対して警戒する。
だが、この少年にはそのどちらもなかった。
何も知らないのか。
それとも、知った上で平然としているのか。
エダには判断がつかなかった。
ただ一つ確かなのは、こんな場所でこんなに自然に振る舞える子供など、まともではないということだった。
---
翌朝。
「シスター・エダ、おはようございます!」
礼拝堂に響いた明るい声に、エダは顔をしかめた。
「……朝っぱらから元気だねえ、坊や」
「はい。よく眠れました」
「そいつは結構。あたしは二日酔いで死にそうだよ」
「お水、持ってきましょうか?」
「……ああ。頼むわ」
少年はすぐに水を取りに行った。
それからというもの、ガルシアは午前中になると教会の仕事を積極的に手伝うようになった。
床を掃き、机を拭き、荷物を運ぶ。
頼まれれば嫌な顔一つせず、頼まれなくても自分にできることを探している。
「坊や、そいつは重いぞ」
「大丈夫です。これくらいなら……あっ」
荷物を抱え直した少年が、よろめいた。
エダは慌てて箱を支える。
「だから言ったろうが」
「す、すみません」
「ったく。張り切りすぎなんだよ」
「でも、泊めていただいているんですから、何かお手伝いしたくて」
「寄付は払ったんだろ?」
「それとこれとは別ですよ」
そう言って笑う。
(……変なガキだぜ)
午後になると、少年は一人で外へ出かけた。
そして夕方には戻ってくる。
それが数日続いた。
「よう、坊や」
ある日の夕方、帰ってきたガルシアをエダが呼び止めた。
「今日もお出かけかい?」
「はい。少し街を見て回っていました」
「へえ。こんな街に観光名所なんざあったか?」
「いろいろと興味深いところがありますよ」
「死体置き場とか?」
「それは……あまり見たくないですね」
少年は困ったように笑った。
「じゃあ女か? お前、さては女でも作ったな?」
「ええっ!?」
「おいおい、図星かよ」
「違いますよ! そんなことしてません!」
「ははは! 冗談だよ、冗談」
エダは笑いながら煙草に火をつけた。
「で、実際のところ、何してんだ?」
「人に会ったり、街を見て回ったりしています」
「誰に?」
「いろいろな方です。皆さん、親切にしてくださいますよ」
「……へえ」
エダは煙を吐いた。
それ以上、少年は話さなかった。
嘘をついているようには見えない。
だが、何も答えていないのと同じだった。
(言葉を選んでやがるな)
ガルシアは頭の悪い子供ではない。
むしろ、かなり賢い。
それでも、普段の言動から計算高さを感じることは少なかった。
朝は機嫌よく掃除を手伝い、ヨランダに褒められれば嬉しそうに笑う。
エダが重い荷物を運んでいれば、頼まれなくても手を貸す。
疲れていれば気遣う。
そのどれもが、芝居には見えなかった。
(悪いガキじゃねえ)
それは分かる。
(あの優しさも、礼儀正しさも、本物だ)
だが。
(……だから余計に分かんねえんだよ)
そんな少年が、どうしてこの街にいる。
どうして、わざわざこの教会を選んだ。
そして、毎日のように誰と会っている。
エダは煙草を灰皿に押しつけた。
(気味の悪ィ坊ちゃんだぜ)
---
数日後の夜。
「よう、坊や。暇か?」
礼拝堂の椅子に座って本を読んでいたガルシアが顔を上げた。
「はい。今日はもう用事もありませんけど」
「だったら、ちょいと遊ばねえか?」
エダはポケットからトランプを取り出した。
「トランプですか?」
「ああ。ポーカーはできるか?」
「はい! 家族と何度か遊んだことがあります」
「そいつは結構。じゃあ、あたしの相手をしてくれよ」
「喜んで!」
数分後。
エダは、自分の判断を少し後悔していた。
「……坊や」
「はい?」
「お前、本当にポーカーやったことあんのか?」
「ありますよ?」
「じゃあ、なんでそんなに下手なんだよ」
「ええっ!?」
少年は心底驚いた顔をした。
エダは額を押さえた。
カードを配る。
ガルシアが手札を見る。
顔が明るくなる。
(いい手だな)
次の勝負。
手札を見る。
肩を落とす。
(今度はクズ手か)
あまりにも分かりやすい。
「レイズ」
「えっ!? あ、あの……」
「どうした、坊や?」
「い、いえ! 僕も……」
「降りるんだな?」
「……はい」
「はっはっは!」
エダは腹を抱えて笑った。
「お前、顔に出すぎなんだよ!」
「そんなにですか!?」
「カード見るたびに実況してくれてんだぜ? 勝てるわけねえだろ!」
「うう……」
ガルシアは本気で悔しそうだった。
「もう一回お願いします!」
「いいぜ。何回でも付き合ってやるよ」
再びカードを配る。
そして再び、エダが勝った。
「……また負けました」
「才能ねえなあ、お前」
「そんなことないと思うんですけど……」
「いや、ある意味才能だぜ。ここまで分かりやすい奴、初めて見た」
エダは笑いながらカードを集めた。
(……ったく)
こうしていると、ただの子供だ。
賢そうな顔をしていても、遊びになれば感情が丸出しになる。
負ければ悔しがり、勝てそうになれば嬉しそうにする。
それが妙に可笑しかった。
「シスター・エダは、本当にお上手ですね」
「当然だろ。こちとら人生の半分を賭け事に費やしてんだ」
「それは……あまり自慢できることじゃないような」
「うるせえ。修道女に説教すんじゃねえよ」
「すみません。あはは」
エダは次のカードを配った。
「それにしても、シスター・エダって観察力がすごいですね」
「ん?」
「僕が何を考えているか、全部分かってしまうみたいです」
「お前が分かりやすすぎるだけだよ」
「そうでしょうか。人の表情や仕草から考えを読み取るのって、結構難しいと思うんですけど」
「慣れだよ、慣れ」
「そういうものなんですね」
ガルシアは感心したように頷いた。
「この街で暮らしていると、いろいろな人を見る機会がありそうですし」
「そりゃあな。善人からクソ野郎まで、よりどりみどりだ」
「外国から来た方も多いですよね」
「この街じゃ国籍なんざ飾りみてえなもんだ」
「確かに。いろいろな国の人がいますね」
少年はカードを眺めながら言った。
「それだけ多くの国の人が集まっていると、犯罪組織以外にも、いろいろな人が出入りしているんでしょうね」
「……例えば?」
「商人とか、外交関係の方とか」
「外交官がこんな街に何しに来るんだよ」
「表立って来るとは限らないでしょう?」
エダの指が、ほんの一瞬止まった。
だが、少年は気づいた様子もなく手札を並べ直している。
「大きな国ほど、海外の情勢には敏感でしょうし」
「へえ。坊やは政治にも興味があるのか?」
「少しだけです。新聞や本で読むくらいですけど」
「感心なこった。あたしがお前くらいの頃は、もっと楽しいこと考えてたぜ」
「どんなことですか?」
「そいつは神様にも言えねえな」
「ふふっ」
ガルシアは笑った。
エダも笑みを返した。
しかし、頭の中では別のことを考えていた。
(……何の話だ、こいつ)
単なる雑談。
そう片づけることもできる。
だが、先ほどから話題の運び方が妙に滑らかだった。
「アメリカなんかは、特にそうですよね」
少年が言った。
「世界中に関心を持っているでしょうから」
「まあ、そうだろうな」
「軍隊だけじゃなくて、情報を集める人たちも必要でしょうし」
「……坊や」
「はい?」
「お前、何が言いてえんだ?」
ガルシアは不思議そうに首を傾げた。
「いえ、特に何かを言いたいわけではありませんけど……」
「そうかい」
エダは笑った。
だが、その笑みは先ほどより薄かった。
ガルシアは手札を見た。
「あっ」
ぱっと顔が明るくなる。
(……いい手が来たらしいな)
エダはそれを見ながら、内心で舌打ちした。
子供らしい反応。
そこには何の計算も感じられない。
なのに、会話だけが妙な方向へ進んでいる。
「でも、シスター・エダみたいな方なら、そういうお仕事も向いていそうですね」
「……あ?」
「観察力がありますし、人と話すのもお上手ですから」
「おいおい。修道女を辞めろってのか?」
「そんなつもりじゃありませんよ」
ガルシアは笑った。
「ただ、情報を扱うお仕事って、そういう能力が必要なのかなと思って」
エダはカードを伏せた。
「……坊や」
「はい?」
「お前、さっきから妙なことばっかり聞くじゃねえか」
「そうですか?」
「そうだよ」
エダは少年の顔を見据えた。
「何か知りてえことでもあんのか?」
ガルシアは少し考えるように目を伏せた。
そして、穏やかな声で答えた。
「そうですね。もし、そういうお仕事をしている方に相談できるなら、とても助かることがあるんです」
「……ほう」
「もちろん、教会のお仕事とは関係のないお話です」
「そいつは残念だな。あたしはただの修道女だぜ?」
「はい。そうおっしゃると思いました」
ガルシアは微笑んだ。
「ですから、こうして遠回しにお話ししていたんです」
一瞬。
礼拝堂から音が消えたように感じた。
エダは少年を見た。
ガルシアもエダを見ていた。
先ほどまでと変わらない、穏やかな表情。
だが、その言葉が意味することは一つだった。
(……こいつ)
エダの中で、数日間の違和感が一つにつながった。
金。
宿泊。
毎日の外出。
そして、今の会話。
(最初から知ってやがったのか)
「……てめえ」
次の瞬間。
エダの足が跳ね上がった。
「がっ――!」
椅子に座っていたガルシアの腹に、強烈な蹴りが突き刺さる。
少年の身体が椅子ごと後方へ倒れた。
床に背中を打ちつけたガルシアが、声にならない声を漏らす。
エダはすでに動いていた。
倒れた少年に馬乗りになり、片膝で腕を押さえつける。
右手には拳銃。
黒い銃口が、少年の眉間に押し当てられた。
「……誰に聞いた?」
声が違った。
先ほどまでの軽薄なシスターは、どこにもいない。
「……っ、は……」
「聞こえなかったかい?」
エダが銃口を押しつける。
「誰に、あたしのことを聞いた?」
ガルシアは答えなかった。
いや、答えられなかった。
口を開けている。
だが、息が吸えていない。
「……つ、は……っ」
「答えろ、クソガキ」
少年の顔が苦痛に歪む。
必死に息を吸おうとしているが、うまくいかないらしい。
「……ま……」
「あ?」
「……まっ……て……」
「何を待つんだよ」
「……い、息……」
ガルシアは喉を押さえようとしたが、エダに押さえつけられて身体を起こせなかった。
「……息を……させて……ください……」
エダは舌打ちした。
「ったく。手間かけさせやがって」
それでも銃は下ろさなかった。
しばらくして、ガルシアがようやく大きく息を吸った。
激しく咳き込み、涙の滲んだ目でエダを見上げる。
「……っ、はあ……はあ……」
「さて。そろそろ答えてもらおうか」
エダは銃口を額に押しつけ直した。
「てめえ、何者だ。誰の差し金でここへ来た?」
「……僕は……」
「くだらねえ嘘をついたら、次は口が利けなくなるぜ」
ガルシアは荒い呼吸を繰り返した。
「……お願いです。まず……話を……」
「話?」
「……取引を……したいんです」
エダは目を細めた。
「取引だと?」
「はい……」
「お前、自分の立場が分かってんのか?」
少年は答えず、呼吸を整えようとしていた。
エダは冷たく笑った。
「神様にでも祈るか?」
ガルシアは苦しそうに顔を上げた。
「……今、ロアナプラに……」
それでも、ガルシアは震える唇を開いた。
「アメリカの特殊部隊……グレイフォックスが潜伏していることは、ご存じですか?」
エダの目が細くなった。
「……何だって?」
「昨年十月、ベネズエラで起きた爆破テロのことは……?」
エダは答えない。
「あの事件には……グレイフォックスが関与しています」
「……」
「そして、その部隊が今、ロアナプラにいるんです」
エダはガルシアを見下ろしたまま、動かなかった。
「……続けな」
「彼らの目的は……ゴールデントライアングルにあるケシ畑と、麻薬の製造拠点を叩くことです」
「……」
「もし、その作戦が実行されれば……ロアナプラも、ただでは済まないでしょう」
しばらく沈黙が続いた。
やがてエダが、口元を歪めた。
「……なあ、坊や」
「……はい」
「ヨハネ伝第五章で、イエスが何て言ったか知ってるか?」
「……いえ」
「『厄介事を持ち込むな、このクソガキが』だ」
銃口が額に食い込んだ。
ガルシアは顔をしかめた。
「……ですが、ここは教会ですよね?」
「神様は今いねえよ」
エダは冷たく笑った。
「休暇を取って、ベガスに行ってら」
引き金にかかった指が、わずかに動いた。
「さあ、坊や。今度こそ答えな。誰に聞いた?」
ガルシアは喉を鳴らした。
答えを待つエダの目の前で、少年は何度か浅く呼吸した。
「……しかし」
「あ?」
「今の状況は……あなたにとっても、あなたの上司にとっても、決して愉快なものではないでしょう」
エダの表情が変わった。
「……何の話だい?」
「グレイフォックスの作戦です」
「……」
「彼らが作戦を成功させれば、手柄を得るのは彼らを動かした人間です。あなた方ではありません」
エダは何も言わない。
「それに……作戦の結果、この街の勢力均衡が崩れれば、リップオフ教会も無傷では済まないはずです」
「……坊や」
エダが顔を近づけた。
「ずいぶんと、あたしらの事情に詳しいじゃないか」
「……」
「その上、今度はうちの商売まで心配してくれるって?」
「心配しているのは……私自身の目的にも関わるからです」
「だったら、その目的とやらを言ってみな」
ガルシアは息を整えた。
「私には……その状況を変える力があります」
エダの眉が動く。
「……ほう?」
「私が動けば、被害を受けるのは外から来た厄介者と、コロンビア・マフィアだけです」
「……」
「それ以外の方々には、被害が及ばないようにします」
エダが鼻で笑った。
「ハッ。ずいぶん都合のいい話じゃないか」
「……」
「アメリカの特殊部隊とコロンビアのマフィアを相手に、あんた一人で何ができるってんだ?」
「一人ではありません」
「……何?」
「この件については、すでにホテル・モスクワの了承を得ています」
エダの目つきが変わった。
「……ホテル・モスクワ?」
「はい。バラライカさんには、お話を通してあります」
「……」
「疑わしいのでしたら、確認していただいて構いません」
エダは黙った。
拳銃を握る手には、依然として力が込められている。
「……おいおい」
やがて、低い声が漏れた。
「アメリカの特殊部隊に、コロンビアのマフィア。おまけにホテル・モスクワまで出てくるとはね」
エダがゆっくりと顔を近づけた。
「坊や。あんた、自分が何をしようとしてるか分かってんのかい?」
「……はい」
「だったら教えてくれよ」
銃口が再び額を押した。
「そんな連中を巻き込んで、いったい何を企んでやがる?」
ガルシアはエダの目を見た。
腹部の痛みは消えていないらしい。
呼吸は浅く、指先も小さく震えていた。
それでも、視線だけは逸らさなかった。
「……私が望んでいることは、一つだけです」
「……言ってみな」
「私の大切な人たちを、守ることです」
エダはしばらく、その顔を見つめていた。
「……ハッ」
乾いた笑いが漏れた。
「大層な話を並べた挙げ句、最後は家族愛かい?」
ガルシアは黙っていた。
「いいか、坊や。あたしが知りたいのは、あんたの立派な動機じゃねえ」
エダの目から、笑みが消えた。
「どうやってそれを実現するつもりなのか、だ」
ガルシアは小さく息を吸った。
「……では、お話しします」
エダはまだ、銃を下ろさなかった。
だが、今度は口を挟まなかった。
「まず、グレイフォックスの拠点を確認したいんです」
「……拠点?」
「はい。私の持っている情報が、現在も正しいとは限りません。彼らがどこを拠点にして、どう動いているのか。その裏を取っていただきたいんです」
「おいおい。今度はあたしに軍の連中を調べろって?」
「お願いします」
「ずいぶん簡単に言ってくれるじゃないか。相手はアメリカの特殊部隊だぜ?」
「分かっています」
「いいや、分かってねえよ。あんたが言ってるのは、同じ国の連中の尻を探れって話だ」
ガルシアは唇を結んだ。
エダはその顔を眺めた。
「……それだけか?」
「いいえ」
「まだあんのかよ」
「もし必要になった場合、ゴールデントライアングルまでの移動手段と、現地で必要になる物資を手配していただきたいんです」
エダは数秒間、少年を見下ろした。
「……は?」
「交通手段と、物資です」
「聞こえてるよ。耳は悪くねえ」
エダは呆れたように笑った。
「お前、まさか自分で行くつもりか?」
「そうなるかもしれません」
「かもしれません?」
「はい」
「……おい、坊や」
エダは銃を持つ手をわずかに引いた。
「お前、自分で何言ってるか分かってんのか? 行くかどうかも決まってねえ場所への足と荷物を、先に用意しろって?」
「そうです」
「そいつはまた、随分と気前のいいお願いだな」
「現時点では、必要になるかどうかも分かりません」
ガルシアは苦しそうに息をついた。
「でも、必要になってから準備を始めたのでは、間に合わないかもしれません」
エダは黙った。
「私は、これから何が起こるのか、すべて分かっているわけではありません」
その言葉に、エダは少しだけ目を細めた。
「……へえ。さっきまで何でも知ってるような口ぶりだったじゃねえか」
「そんなことはありません」
「そうかい?」
「だから、確かめたいんです。情報も、状況も」
ガルシアの声はまだ震えていた。
「そして、必要になったときに動けるようにしておきたいんです」
エダはしばらく考えた。
少なくとも、少年はグレイフォックスの作戦を阻止するための道筋を、すでに一つに決めているわけではないらしい。
現在地を確認し、必要な手段を確保する。
言っていること自体は筋が通っている。
だが、それを頼む相手が問題だった。
「……つまり何かい」
エダは言った。
「あたしらに情報を集めさせて、必要になったら足も用意させる。お前はその結果を見て、動くかどうか決めるってわけか」
「はい」
「その間、あたしらには何の見返りがある?」
「グレイフォックスの作戦によって生じる不利益を、避ける機会があります」
「そいつは見返りじゃねえ。お前の言い分だ」
「……そうですね」
「認めるのかよ」
「はい。ですが、私が提示できるものは、今のところそれだけです」
エダは乾いた笑いを漏らした。
「まったく。ポーカーじゃああんなに下手くそなくせに、こっちじゃ随分と図々しいじゃないか」
「……すみません」
「褒めてねえよ」
エダはようやく少年の上から身体をどけた。
ガルシアは横向きになって咳き込み、腹を押さえながら起き上がった。
エダは銃をしまわず、椅子に腰を下ろした。
「座りな」
「……はい」
ガルシアは倒れた椅子を起こそうとして、顔をしかめた。
「……っ」
「ったく。無理すんな」
エダは足先で椅子を引き寄せ、少年の前に戻した。
「ありがとうございます……」
「礼はいい。まだ何も決まっちゃいねえんだからな」
少年が座るのを待ち、エダは煙草を取り出した。
「一つ聞くぜ。お前、あたしらが断ったらどうするつもりだ?」
「別の方法を考えます」
「ほう。あてはあんのか?」
「……十分とは言えません」
「正直で結構」
エダは火をつけた。
「だが、正直だから信用できるってわけでもねえ」
「分かっています」
「いいや。分かってねえな」
エダは煙を吐いた。
「お前はあたしの正体を知ってる。軍の作戦も知ってる。おまけにホテル・モスクワの名前まで出した。こいつはもう、ガキの相談事じゃ済まねえんだよ」
ガルシアは静かに頷いた。
「……はい」
「だから、ここから先はあたし一人じゃ決められねえ」
「承知しています」
「上に確認する。それまでは、どこにも話を持っていくな」
「分かりました」
エダは煙草をくわえ直した。
「それと、勘違いすんなよ。あたしが話を聞いたからって、あんたの味方になったわけじゃねえ」
「……はい」
「特に、あたしのことを誰から聞いたのか。そいつはまだ答えてもらってねえからな」
少年の顔が強張った。
エダは笑った。
「安心しな。今夜はもう蹴らねえよ」
「……ありがとうございます」
「だから礼を言うなっての」
エダは天井を見上げた。
まったく。
とんでもない夜になったものだ。
---
翌日。
エダは朝から機嫌が悪かった。
理由は明白だった。
昨夜、上に話を通したからだ。
ガルシアから聞いた情報と要求を伝えた。
グレイフォックス。
ベネズエラの爆破事件。
ゴールデントライアングル。
そして、ホテル・モスクワ。
当然ながら、相手もすぐに首を縦には振らなかった。
エダ自身、少年の話を丸ごと信用しているわけではない。
だからこそ、確認が必要だった。
それでも、話を握り潰してよい内容ではなかった。
少なくとも、こちらの知らないところで誰かが大きな仕事を進め、その余波を自分たちが被る可能性はある。
それは愉快な話ではない。
「……クソッ」
エダは煙草を揉み消した。
昨夜から何本目か、数える気にもならなかった。
そこへ、控えめなノックが響いた。
「シスター・エダ?」
「……何だい、坊や」
扉が開く。
ガルシアが顔を覗かせた。
「おはようございます」
「おう」
「朝のお掃除、終わりました」
「そいつはご苦労さん」
「何か、ほかにお手伝いできることはありますか?」
エダは少年を見た。
「……お前なあ」
「はい?」
「昨日の今日で、よくそんな普通の顔してられるな」
ガルシアは少し困ったように笑った。
「……まだ、お腹は痛いですけど」
「そいつは悪かったね」
「いえ。僕も、驚かせてしまいましたから」
「驚かせた?」
エダは思わず吹き出した。
「ははっ! お前、あれを驚かせたで済ませるのかよ」
「……ほかに、どう言えばいいのか分からなくて」
「ったく。変なガキだぜ」
ガルシアは申し訳なさそうに頭を下げた。
エダはその姿を眺めた。
昨夜、あれほど怯えていた少年だ。
痛みも恐怖も、演技ではなかった。
それなのに、今朝はまた掃除をしている。
いつもと同じように。
(……分かんねえな)
エダは椅子から立ち上がった。
「今日はもういい。適当に休んどきな」
「でも……」
「いいから。そいつも仕事だ」
「……分かりました」
少年は素直に頷いた。
---
その日の午後、エダはガルシアを呼び出した。
昨日とは違う、小さな部屋だった。
テーブルの上には灰皿と電話が置かれている。
「座りな」
「はい」
ガルシアが腰を下ろす。
エダは向かいの椅子に座り、しばらく少年の顔を眺めた。
「……まず、結論から言うぜ」
ガルシアの背筋が伸びた。
「上から返事が来た」
「……はい」
「条件付きで、あんたの要求を受ける」
ガルシアが目を見開いた。
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、何でも好き勝手に使っていいって意味じゃねえぞ」
「はい!」
「グレイフォックスの拠点については、こちらで情報を確認する。確認できた内容のうち、必要なものをお前に渡す」
「ありがとうございます」
「それから、ゴールデントライアングルへの移動と物資の件だが」
エダは煙草を取り出した。
「必要になった場合は、こちらで手配する。ただし、具体的な行き先と必要なものは、その時点で詰める。何も決まってねえ段階で飛行機を一機、お前専用に空けとくわけにはいかねえからな」
「もちろんです」
「それと、あたしらが表に出ることはない。そこは絶対条件だ」
「承知しています」
「……ずいぶん素直だな」
「無理なお願いを聞いていただいているのは、こちらですから」
エダは煙を吐いた。
「ま、分かってるならいいさ」
ガルシアは膝の上で両手を握った。
その表情には、隠しようのない安堵が浮かんでいた。
(……こいつも、顔に出るんだよなあ)
エダは昨夜のポーカーを思い出した。
大きな役が揃ったときと、まるで同じ顔だった。
「ただし、坊や」
「はい?」
「一つ覚えときな。あたしらは慈善団体じゃねえ。昨日の話が嘘だったり、こっちに損害を押しつけるような真似をしたりすりゃ、約束はそこで終わりだ」
ガルシアは真剣な顔で頷いた。
「分かっています」
「本当に分かってんだろうな?」
「はい。ありがとうございます」
「……また礼かよ」
エダは苦笑した。
「まったく。こっちが調子狂っちまうぜ」
---
「それで、今後の連絡はどうしますか?」
ガルシアが尋ねた。
エダは机の引き出しから紙を取り出した。
「連絡用の番号だ」
紙に数字を書き、少年の前へ滑らせる。
「この番号にかけな。あたしに取り次がせるための名前も、そこに書いてある」
ガルシアは紙を手に取った。
「ありがとうございます」
「で、こっちから連絡するときはどうすりゃいい?」
「申し訳ありません。実は、次の滞在先がまだ決まっていないんです」
「……は?」
エダは呆れたように眉を上げた。
「お前、宿も決めずにここを出ていくつもりか?」
「はい。これから探そうと思っています」
「……ったく。つくづく妙な坊ちゃんだねえ」
ガルシアは困ったように笑った。
「滞在先が決まり次第、こちらの番号に連絡します。その際に、連絡先もお伝えします」
「分かった。ただし、あんまり遅くなるんじゃねえぞ。こっちも仕事なんだからな」
「はい。必ず連絡します」
エダは煙草をくわえ直した。
「……よし。じゃあ、それで決まりだ」
ガルシアは丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
エダは頬杖をついた。
「……なあ、坊や」
「はい?」
「一つだけ、聞いていいか?」
「何でしょう?」
「お前、本当に何者なんだ?」
ガルシアは少しだけ目を伏せた。
そして、困ったように笑った。
「……ただの、家族を守りたい人間ですよ」
エダは鼻で笑った。
「そいつを信じろって?」
「……難しいですよね」
「当たり前だろ」
エダは煙草を揉み消した。
「まあいいさ。どうせ、いずれ分かることもあるだろうしな」
ガルシアは何も答えなかった。
---
翌朝。
ガルシアは荷物をまとめ、ヨランダの部屋を訪れた。
エダも呼ばれていた。
「お世話になりました」
少年は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「もう行くのかい?」
ヨランダが尋ねた。
「はい。そろそろ次の用事がありますので」
「そうかい。少しはゆっくりできたかね?」
「はい。とても楽しかったです」
ガルシアは嬉しそうに笑った。
「シスター・ヨランダのお茶も、本当に美味しかったです」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいねえ」
「また、いただきに来てもいいでしょうか?」
「もちろんさ。いつでもおいで」
「ありがとうございます!」
エダは横でそのやり取りを眺めていた。
(……いつでも、ねえ)
ヨランダが何を考えているかは分からない。
だが、少なくともあの少年を気に入っていることは確かだった。
「それでは、シスター・エダ」
ガルシアがこちらを向いた。
「数日間、ありがとうございました」
「ああ」
「いろいろと、ご迷惑をおかけしました」
「そいつは本当だな」
「……すみません」
「ははっ。冗談だよ」
エダは笑った。
「まあ、身体には気をつけな。ここはロアナプラだ。いい子にしてたって、神様が守ってくれるとは限らねえからな」
「はい。気をつけます」
ガルシアは微笑んだ。
「シスター・エダも、お元気で」
「ああ。またな、坊や」
少年は最後にもう一度頭を下げ、教会を出ていった。
扉が閉まる。
エダはしばらく、その扉を眺めていた。
「……妙な坊やだったねえ」
ヨランダが言った。
「だな」
「ずいぶんと礼儀正しい子だったよ」
「そいつは間違いねえ」
「お前さんも、少しは見習ったらどうだい?」
「勘弁してくれよ。あたしがあんなに行儀よくなったら、神様だって気味悪がるぜ」
ヨランダは小さく笑った。
エダも笑った。
だが、少年が出ていった扉から、なかなか目を離せなかった。
---
礼拝堂に戻ると、数日前のトランプがまだ棚の上に置かれていた。
エダは何となく、それを手に取った。
カードを切る。
一枚めくる。
ハートのクイーン。
「……ったく」
思わず笑いが漏れた。
あの少年は、ポーカーでは本当にどうしようもなかった。
いい手が来れば笑い、悪い手が来れば落ち込む。
ブラフを仕掛ければ、すぐに顔に出る。
騙そうとすることすら、ろくにできない。
それなのに。
CIAの工作員を相手に、命を賭けた取引を持ちかけた。
しかも、その前にホテル・モスクワまで動かしているという。
「……どんな教育受けたら、あんなガキが出来上がるんだよ」
エダは煙草をくわえた。
火をつけ、大きく吸い込む。
数日間、一緒に過ごした。
仕事を手伝う姿も見た。
ヨランダと楽しそうに紅茶を飲む姿も見た。
カードに負けて本気で悔しがる姿も見た。
そのどれもが、偽物には思えなかった。
あの少年は、確かに優しい。
礼儀正しく、人を気遣う。
そして、年相応に笑い、悔しがる。
(……だからって)
エダは煙を吐いた。
(何もかも信用できるって話じゃねえんだよな)
むしろ、逆だった。
あの優しさが本物だからこそ、分からない。
あんな少年が、どうしてここまで危険な橋を渡ろうとするのか。
何を守るために、そこまでするのか。
エダはテーブルの上にカードを放り投げた。
「……気味の悪ィ坊ちゃんだぜ」
礼拝堂に、その声だけが響いた。
神様は何も答えなかった。
もっとも、エダも最初から期待していない。
彼女は煙草をくわえたまま、天井を見上げた。
あの少年がこの街に何をもたらすのか。
その答えは、まだ分からなかった。
おまけ回「ロアナプラの聖人」
――もしも、ガルシアが神父になったら。
ロアナプラには、神を信じない人間が多い。
当然だろう。
神が本当にいるのなら、こんな街を放っておくはずがない。
少なくとも、エダはそう考えていた。
もっとも、神様が実在するかどうかは大した問題ではない。
銃は売れるし、酒は美味い。
神様が留守でも、商売は回る。
だからこそ、あの日の出来事は、エダにとって青天の霹靂だった。
「神父になろうと思います」
「ぶふっ!」
エダが口に含んでいた酒を盛大に吹き出した。
「……何だって?」
「神父です」
ガルシアは真剣だった。
「いろいろ考えて、これまでの自分の行いを悔い改めることにしたんです。これからは神様に仕えて、人々のために生きようと思います」
エダは少年を見た。
それからヨランダを見た。
「……婆さん」
「何だい」
「この坊や、頭でも打ったのか?」
「失礼ですよ、シスター・エダ」
「じゃあ、何か変なモン食ったか?」
「食べてません!」
「……婆さん。重症だぜ」
ヨランダは紅茶を一口飲んだ。
「それで、どうしてうちなんだい?」
「以前お世話になりましたし、皆さん、とても親切にしてくださいましたから」
「ほう」
「それに、シスター・ヨランダの紅茶も美味しいですし」
「おや。嬉しいことを言ってくれるねえ」
「婆さん! 紅茶で聖職者を採用すんな!」
エダの抗議を無視し、ヨランダは少年を見つめた。
「教会の仕事は楽じゃないよ」
「覚悟しています」
「掃除も洗濯もある」
「得意です」
「帳簿の管理も必要だ」
「お任せください」
「外国との取引は?」
「英語とスペイン語なら話せます」
「資金繰りは?」
「財務諸表を拝見できれば、改善案を考えられると思います」
ヨランダは満足そうに頷いた。
「採用だね」
「ありがとうございます!」
「待て待て待て!」
エダが立ち上がった。
「今の面接、神父じゃなくて経理担当の面接だったろ!」
「教会を維持するのも大切な務めさ」
「うちの売上の大半は武器だろうが!」
ガルシアの笑顔が固まった。
「……武器?」
ヨランダがエダを睨んだ。
「余計なことを言うんじゃないよ」
「いや、今さらだろ!」
こうして、正式な聖職者になるための手続きはひとまず棚上げにされたまま、ガルシアはリップオフ教会で神父としての生活を始めた。
ロアナプラでは、細かいことを気にする人間から先に死ぬ。
*
翌日。
「ガルシア様」
教会の扉を開けたロベルタは、黒い聖職者風の服を着た少年を見て足を止めた。
「……そのお召し物は?」
「神父の服です」
「…………」
「僕、これからここで働くことにしたんです」
ロベルタは数秒間、目を閉じた。
そして、静かに頷いた。
「承知いたしました」
「え?」
「ガルシア様が神に仕える道をお選びになったのでしたら、私もお供いたします」
「いや、ロベルタまで神父になる必要は……」
「ご安心ください。私は修道女になります」
「ええっ!?」
「シスター・ロベルタとして、ガルシア様にお仕えいたします」
エダが腹を抱えた。
「ぶはははは! おいおい、修道女が増えちまったよ!」
ロベルタは微笑んだ。
「何か問題でも?」
「……いや、まったくねえ」
「そうですか」
「ただ、一つだけ聞いていいか?」
「何でしょう?」
「その修道服の下、何丁隠してる?」
「女性にそのようなことを尋ねるのは、感心いたしませんね」
「隠してんじゃねえか!」
かくして、シスター・ロベルタが誕生した。
なお、エダは彼女のことを陰で「歩く最後の審判」と呼ぶようになった。
*
ガルシアは、実によく働いた。
朝は誰よりも早く起き、礼拝堂を掃除する。
庭の手入れをし、洗濯物を干し、壊れた椅子を修理する。
帳簿を整理し、支出を見直し、滞っていた事務仕事まで片づけた。
しかも、ヨランダの紅茶の好みを覚え、毎朝きちんと用意する。
「……素晴らしいねえ」
ヨランダは上機嫌だった。
「ガルシアが来てから、教会が見違えるようだよ」
「ありがとうございます」
「エダにも少しは見習ってほしいもんだね」
「おい、あたしだって働いてるだろ!」
「酒を飲むことを仕事とは言わないよ」
「営業だよ、営業!」
ただ、ガルシアには一つ困った仕事があった。
夜になると、エダが酔い潰れるのである。
「……うぃー……」
長椅子の上で大の字になったエダ。
床には空き瓶。
テーブルには吸い殻。
「……シスター・エダ」
ガルシアは困ったように笑った。
「またこんなところで寝て……」
「……うるせえぞ、坊主……」
「風邪をひきますよ。お部屋に行きましょう」
少年はエダの肩を支え、どうにか立たせた。
「……酒……」
「もう十分飲みましたよ」
「……神父のくせに……ケチくせえ……」
「神父だから止めているんです」
どうにか寝室へ運び、靴を脱がせ、毛布をかける。
それから礼拝堂に戻って後片づけ。
翌朝には、また掃除から始まる。
それが一週間続いた。
八日目の夜。
「……うぃー……」
またしても酔い潰れたエダ。
ガルシアが起こそうとした、そのとき。
「ガルシア様」
ロベルタが現れた。
「そのような仕事は、私にお任せください」
「でも、ロベルタ……」
「明日も早いのでしょう? どうかお休みください」
「……ありがとうございます」
ロベルタはエダの襟首を掴んだ。
「……んあ?」
エダが目を開ける。
「おい……何すんだ……」
「寝室までお連れします」
ずるずるずる。
「おい! 待て! 足! 足が階段に当たってんだよ!」
「お気になさらず」
「気にするわ! てめえ、もう少し丁寧に運べ!」
「では、ご自分でお歩きください」
「……無理」
「でしたら、お静かに」
ずるずるずる。
「ロベルタ、優しくしてあげてくださいね!」
「もちろんでございます、ガルシア様」
どすん。
「痛ってえ!」
「……ロベルタ?」
「何でもございません」
以来、エダの搬送はシスター・ロベルタの担当になった。
エダの飲酒量は、少しだけ減った。
*
ガルシアの仕事は、教会の中だけでは終わらなかった。
午後になると街へ出かけ、路地裏に座り込んでいる人々に声をかけた。
「こんにちは。お腹は空いていませんか?」
「……あ?」
「よかったら、どうぞ」
差し出されたパンを見て、浮浪者の男は顔をしかめた。
「……毒でも入ってんのか?」
「入ってませんよ」
「じゃあ何が目的だ?」
「困っている人がいたら、助けたいだけです」
「……気持ち悪ィガキだな」
そう言いながら、男はパンを受け取った。
翌日もガルシアは来た。
その翌日も。
パンを渡し、水を分け、話を聞いた。
男はかつて港で働いていたという。
怪我をして仕事を失い、酒に溺れ、住む場所までなくしたらしい。
「……どうせ、もう誰も雇ってくれねえよ」
「探してみましょう」
「簡単に言うな」
「簡単ではないと思います。でも、探さなければ見つかりませんから」
少年は実際に探した。
港の商人に話を聞き、倉庫の仕事を紹介してもらい、寝泊まりできる場所も探した。
数週間後。
男は再び働き始めた。
「……神父さん」
「はい?」
「……ありがとな」
ガルシアは嬉しそうに笑った。
「よかったですね!」
男は顔を背けた。
「……ちくしょう」
その目には、涙が浮かんでいた。
*
やがて、ガルシアは娼婦たちの間でも有名になった。
最初の出会いは、路地裏だった。
「ねえ、坊や」
派手な化粧をした女が声をかけた。
「こんなところで何してんの?」
「困っている方がいないか、見て回っているんです」
「へえ。じゃあ、お姉さんの相手でもしてくれる?」
「はい。何かお困りですか?」
「……え?」
「お話なら、いくらでも聞きますよ」
女は目を丸くした。
「……あんた、あたしが何の仕事してるか分かってる?」
「はい」
「じゃあ、何の相手をしてほしいかも?」
「……お話ではないんですか?」
数秒の沈黙。
そして。
「あははははは!」
女は腹を抱えて笑った。
「最高! あんた最高だわ!」
「えっ!? 何かおかしいことを言いましたか?」
「いや、いいの! そのままでいて!」
女は笑いながら、少年の肩を叩いた。
それから、少しずつ話すようになった。
借金のこと。
故郷のこと。
帰りたくても帰れない事情。
ガルシアは黙って聞いた。
説教もしなかった。
軽蔑もしなかった。
ただ、必要なところで質問をし、一緒に考えた。
「……ねえ、神父様」
「はい?」
「あたしみたいな女でも、教会に行っていいの?」
「もちろんです」
「……本当に?」
「はい。どなたでも歓迎しますよ」
女はしばらく少年を見つめた。
「……そっか」
翌日。
その女が教会を訪れた。
さらに翌日。
別の女を連れてきた。
一週間後には五人。
二週間後には十人。
そして、ある日の午後。
「……おい、坊や」
エダが礼拝堂を覗くと、ガルシアが十数人の娼婦に囲まれていた。
「神父様、今日も可愛いわねえ」
「その服、すっごく似合ってる!」
「ねえ、彼女とかいるの?」
「えっ?」
「好きな人は?」
「え、ええと……」
「いるんだ!」
「顔真っ赤!」
「かわいいー!」
ガルシアは完全に翻弄されていた。
エダは額を押さえた。
「……何だよ、これ」
そこへロベルタが現れた。
「シスター・エダ」
「……ああ」
「これは、どういう状況でしょうか?」
「……神父様が大人気なんだよ」
ロベルタは微笑んだ。
「それは素晴らしいことですね」
「……そうだな」
「ただし」
ロベルタの目が細くなった。
「少々、距離が近すぎる方々がいらっしゃるようですが」
「……おい、ロベルタ」
「何でしょう?」
「銃は抜くなよ」
「……何のことでしょうか?」
「頼むから抜くなよ!」
その日から、ロベルタは相談会に同席するようになった。
娼婦たちは彼女を「怖い方のシスター」と呼んだ。
エダは「酔っ払いの方のシスター」と呼ばれた。
本人は納得していなかった。
*
娼婦たちの間で、一つの噂が広まった。
リップオフ教会には、若くて綺麗な顔をした神父がいる。
純粋で、優しくて、誰の話でも真剣に聞いてくれる。
しかも、その説教が妙に心に響くという。
「……説教?」
酒場でその話を聞いた男が、鼻で笑った。
「くだらねえ。神様なんざ、この街じゃとっくに死んでるだろ」
「でもさ、あの神父様、変なこと言わないんだよ」
娼婦の一人が答えた。
「罪人だから地獄に落ちるとか、そんなこと一言も言わないの」
「じゃあ何を言うんだ?」
「自分の罪から逃げるな、って」
男はグラスを止めた。
「……そいつは、随分と厳しい神父だな」
「そうかもね」
女は笑った。
「でも、あたしは嫌いじゃないよ」
数日後。
その男は教会の前に立っていた。
「……ちっ」
帰ろうとした。
だが、扉が開いた。
「あ、こんにちは!」
ガルシアだった。
「……あ?」
「よかったら、中へどうぞ」
「……俺は祈りに来たわけじゃねえぞ」
「構いませんよ」
「……は?」
「お話だけでも、歓迎します」
男は少年を見た。
「……変なガキだな」
「よく言われます」
ガルシアは笑った。
男は鼻を鳴らした。
「……じゃあ、ちょっとだけだ」
その男は、かつてある組織に所属していた。
何人も殺した。
何度も撃たれた。
仲間を失い、敵を殺し、また仲間を失った。
そして、ある日突然、すべてが嫌になった。
「……もう疲れたんだよ」
男は俯いた。
「毎日毎日、誰かを殺すか、誰かに殺されるか。そればっかりだ」
ガルシアは黙って聞いていた。
「……なあ、神父さん」
「はい」
「俺みてえな人間でも、やり直せると思うか?」
ガルシアは少し考えた。
「簡単ではないと思います」
男は苦笑した。
「……だろうな」
「これまでしてきたことが、なくなるわけではありませんから」
「……ああ」
「でも、これから誰かを傷つけずに生きることは、できると思います」
男は顔を上げた。
「……それだけか?」
「はい」
「神様が許してくれるとか、言わねえのか?」
「神様のお考えを、僕が勝手に決めることはできません」
ガルシアは微笑んだ。
「でも、あなたがこれからどう生きるかは、あなた自身で決められます」
男はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……参ったな」
翌週。
男は再び教会を訪れた。
今度は、かつての仲間を一人連れて。
さらに翌週。
三人になった。
そして、また一人。
また一人。
教会には、かつて銃を握っていた男たちが集まり始めた。
*
最初、ミサは週に一度だった。
しかし、人が増えた。
娼婦。
浮浪者。
元ごろつき。
港湾労働者。
借金を抱えた商人。
家族を失った者。
帰る場所のない者。
週末だけでは収まりきらなくなり、ガルシアは毎日ミサを行うようになった。
礼拝堂は、連日満員だった。
ある日の午後。
エダは壁にもたれ、目の前の光景を眺めていた。
最前列には娼婦たち。
その後ろには港湾労働者や浮浪者。
最後列には、腕に刺青を入れた男たちが並んでいる。
普段なら、同じ部屋にいるだけで喧嘩が始まりそうな連中だ。
それが全員、静かにガルシアの話を待っていた。
「……皆さん」
ガルシアが聖書を閉じた。
「今日は、罪の赦しについてお話ししたいと思います」
礼拝堂が静かになった。
「皆さんは、神様に赦してほしいことがありますか?」
何人かが顔を伏せた。
「僕には、あります」
エダは少年を見た。
「……でも、最近、こんなことを考えるんです」
ガルシアは少し言葉を探した。
「僕たちは、いったい誰に赦してほしいのでしょうか」
誰も答えない。
「神様でしょうか。それとも、自分自身でしょうか」
少年はゆっくりと礼拝堂を見渡した。
「もし、僕が誰かの大切な人を傷つけたとします」
「その人には、家族がいて、友達がいて、帰る場所があったかもしれません」
「明日、誰かと食事をしていたかもしれない。来年、子供が生まれていたかもしれない。十年後には、孫を抱いていたかもしれない」
ガルシアは一度、言葉を切った。
「でも、僕がその人を殺してしまったら、その未来はすべて失われます」
最後列の男たちの表情が変わった。
「そんな僕が教会に来て、神様に祈ったとします」
ガルシアは両手を組んだ。
「『神様、どうか僕を赦してください』」
静かな声だった。
「そして、もし神様が僕を赦してくださったとしても……」
少年は顔を上げた。
「それで、僕が奪ってしまったものは戻ってくるのでしょうか」
誰も口を開かなかった。
「戻ってきません」
ガルシアははっきりと言った。
「僕がどれだけ泣いても、どれだけ後悔しても、どれだけ祈っても、失われたものは戻ってこないんです」
礼拝堂の空気が重くなる。
「だから僕は、神様に赦していただくことと、罪の責任がなくなることは、別なのだと思います」
エダは煙草をくわえかけて、やめた。
「……では、僕たちはどうすればいいのでしょうか」
ガルシアは少し俯いた。
「僕も、ずっと考えていました」
「過去を変えられないのなら、何をしても無駄なのではないか」
「一度取り返しのつかないことをしてしまった人間には、もう誰かを幸せにする資格なんてないのではないか」
その声は、説教というより、告白に近かった。
「でも、あるとき気づいたんです」
ガルシアは顔を上げた。
「それは、少しだけ自分勝手な考え方なのかもしれない、と」
後列の男が眉をひそめた。
「……自分勝手?」
ガルシアは頷いた。
「はい」
「だって、自分が赦されないからといって、これから助けられるはずの人を見捨てていい理由にはならないからです」
男は黙った。
「僕がどれだけ罪深い人間だったとしても、目の前でお腹を空かせている人がいたら、パンを分けることはできます」
「寒さに震えている人がいたら、毛布を渡すことはできます」
「誰かが苦しんでいたら、その話を聞くことだってできます」
ガルシアは静かに続けた。
「その人たちにとって大切なのは、僕が立派な人間かどうかではありません」
「今、助けが必要だということです」
礼拝堂の隅で、一人の男が顔を上げた。
かつて港で働き、路上で暮らしていた男だった。
「だから、僕は思うんです」
ガルシアは胸元の十字架に触れた。
「悔い改めるというのは、罪を忘れることでも、赦されたと安心することでもない」
「自分が犯した罪を、これからの人生から切り離さないことなのだと」
少年は、ゆっくりと人々を見渡した。
「誰かを殴ったことがある人は、その痛みを知っています」
「誰かを脅したことがある人は、人がどんな顔で怯えるのかを知っています」
「誰かを見捨てたことがある人は、助けを求めても誰も来てくれないことが、どれほど恐ろしいかを知っているかもしれません」
最後列の男たちが、黙って少年を見つめていた。
「その記憶を、なかったことにしてはいけないと思うんです」
「でも、その記憶を、もう一度誰かを傷つけるために使う必要もありません」
ガルシアは微笑んだ。
「人を怯えさせる方法を知っているなら、今度はその人が安心できるようにしてあげてください」
「人の痛みを知っているなら、今度はその痛みに気づいてあげてください」
「そして、誰かを傷つけた自分が嫌いなら……」
少年は一度、息を吸った。
「せめて、明日の自分には、同じことをさせないであげてください」
静寂が続いた。
「僕は、皆さんに立派な人間になってほしいとは思いません」
「過去を忘れて、笑顔で生きてくださいとも言いません」
「赦してもらえない人もいると思います」
「一生、償いきれないこともあると思います」
ガルシアは、最後列の男たちを見た。
「それでも、生きている限り、僕たちには選べることがあります」
「今日、誰かを傷つけるか。それとも、傷つけずに済ませるか」
「誰かの苦しみを見過ごすか。それとも、立ち止まるか」
「それは、過去の罪とは別に、今ここで選べることです」
少年は聖書を胸に抱えた。
「そして、もし皆さんが、これから誰かを助けようとするのなら……」
少しだけ、声が震えた。
「僕も、一緒に歩かせてください」
「僕だって、まだ立派な人間ではありません」
「きっと、これからも間違えます」
「だから、皆さんに教えながら、僕自身も学んでいきたいんです」
ガルシアは深く頭を下げた。
「どうか、一緒に悔い改めていきましょう」
しばらく、誰も動かなかった。
拍手も起こらない。
ただ、礼拝堂のあちこちで、誰かが小さく鼻をすすっていた。
最後列の男が、ゆっくりと立ち上がった。
「……神父さん」
「はい」
「……俺は、人を殺したことがある」
礼拝堂が静まり返った。
「一人じゃねえ。何人もだ」
ガルシアは黙っていた。
「……そんな俺でも、明日から違う生き方をしていいのか?」
少年は男を見つめた。
「……はい」
そして、少しだけ言葉を足した。
「ただ、あなたが傷つけた人たちのことを、忘れないでください」
男は俯いた。
「……ああ」
「そして、できることなら、今度は誰かが生きて帰れるように、力を使ってあげてください」
男は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと椅子に座った。
エダは壁にもたれたまま、その光景を眺めていた。
(……おいおい)
罪を赦すと言っているわけではない。
過去を忘れろと言っているわけでもない。
それどころか、背負って生きろと言っている。
その上で、他人を助けろと。
(……随分と厳しい神様じゃねえか)
エダはガルシアを見た。
あの少年は、誰かを救うために自分が何かを得ようとはしていない。
それでも、救えなかった人間のことを忘れずにいるのだろう。
そんな顔をしていた。
(……ったく)
エダは小さく笑った。
(説教されちまったのは、あたしの方かもしれねえな)
*
変化は、少しずつ現れた。
まず、教会に通うごろつきたちが、喧嘩を控えるようになった。
「……おい、てめえ!」
「何だよ!」
路地裏で二人の男が睨み合う。
一人が拳を握った。
だが、次の瞬間。
「……あ」
「……何だよ」
「……今日、神父さんに言われたんだった」
「何を?」
「怒ったときほど、相手の話を聞けって」
「……」
「……」
二人はしばらく黙った。
「……で、お前、何に怒ってんだ?」
「……お前が俺の酒を飲んだからだよ」
「……ああ」
「……」
「……悪かった」
「……おう」
二人は酒場へ戻った。
近くで見ていた男が呟いた。
「……気持ち悪ィ」
次に、娼婦たちの間でも変化が起きた。
借金の相談。
住居の相談。
別の仕事を探す相談。
ガルシアは一人で抱え込まず、街の商人や職人たちに協力を求めた。
文字を読めない者には読み書きを教えた。
計算が苦手な者には算数を教えた。
仕事を辞めたい者には、できる範囲で新しい働き口を探した。
もちろん、すべてがうまくいったわけではない。
借金が消えるわけでもなければ、犯罪組織が慈善団体になるわけでもない。
それでも、教会を訪れる人々の中には、少しずつ生活を立て直す者が現れた。
そして、街の空気が変わり始めた。
*
ホテル・モスクワ。
バラライカは報告書を眺めていた。
「……何だ、これは」
部下が答えた。
「最近の市内の状況です」
「……銃撃事件が減っている?」
「はい」
「抗争も?」
「減少しています」
「……理由は?」
部下は一瞬、言い淀んだ。
「……教会です」
「教会?」
「リップオフ教会に、若い神父が現れまして……」
バラライカの指が止まった。
「……ガルシアか?」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
そして、バラライカは小さく笑った。
「……あの坊や」
報告書を机に置く。
「今度は何を始めたんだ?」
*
三合会。
張は煙草をくわえながら、部下の話を聞いていた。
「……つまり、最近は揉め事が減ってるってわけか」
「はい」
「いいことじゃねえか」
「ただ……」
「何だ?」
「原因が、リップオフ教会の神父らしいんです」
張は煙草を止めた。
「……神父?」
「はい。若い少年で……」
張は天井を見上げた。
「……おいおい」
やがて、苦笑した。
「ロアナプラで神様が仕事を始めたってか?」
*
ラグーン商会。
「……でさ」
レヴィが酒瓶を片手に言った。
「最近、街が妙に静かじゃねえか?」
ロックが頷いた。
「確かに。前より銃声を聞く機会が減った気がするね」
「気味悪ィんだよ」
「平和なのはいいことじゃないか」
「この街で平和なんざ、何かの前触れに決まってんだろ」
ベニーが端末を見ながら口を挟んだ。
「実際、暴力事件は減ってるみたいだよ」
「……は?」
「特に、教会に通っている連中の間でね」
レヴィはしばらく黙った。
そして。
「……あの坊ちゃんか?」
ロックが笑った。
「たぶんね」
レヴィは酒を飲んだ。
「……ったく」
そして、呟いた。
「銃でどうにもならねえ街を、説教でどうにかしやがったのかよ」
*
数か月後。
リップオフ教会は、ロアナプラでも指折りの賑やかな場所になっていた。
毎日、人が訪れる。
相談をする。
祈る。
食事を分け合う。
仕事を探す。
新しい生活を始める。
そして、ガルシアは相変わらず誰よりもよく働いた。
「神父様!」
「はい!」
「今日の相談、まだ受け付けてる?」
「もちろんです!」
「ガルシア様」
ロベルタが現れた。
「そろそろお食事の時間でございます」
「あ、もうそんな時間ですか」
「本日は朝から何も召し上がっておりません」
「……すみません」
「どうか、ご自愛くださいませ」
「はい。ありがとうございます」
その様子を眺めながら、ヨランダは満足そうに紅茶を飲んでいた。
「……いい子だねえ」
「……そうだな」
エダが答えた。
「働き者で、礼儀正しくて、頭もいい」
「……ああ」
「その上、教会の評判まで上げてくれた」
「……だな」
「寄付も増えたよ」
エダの目が動いた。
「……へえ?」
「それも、ずいぶんとね」
「……マジか?」
「大真面目さ」
ヨランダは微笑んだ。
「武器を売らなくても、教会を維持できそうなくらいにはね」
エダは固まった。
「…………」
「どうしたんだい?」
「……婆さん」
「何だい」
「……うち、武器屋だったよな?」
「そうだねえ」
「……神父が来てから、銃より説教の方が儲かってねえか?」
「そうかもしれないねえ」
「……」
エダは天井を見上げた。
「……神様」
生まれて初めて、心の底から疑問が湧いた。
「……あんた、今までどこにいやがったんだ?」
返事はない。
その代わり、礼拝堂からガルシアの声が聞こえた。
「皆さん、今日も来てくださってありがとうございます!」
大勢の人々が拍手する。
娼婦たちが歓声を上げる。
元ごろつきたちが笑う。
浮浪者だった男が、隣の老人に席を譲る。
ロベルタが静かに見守り、ヨランダが満足そうに微笑む。
エダはしばらく、その光景を眺めていた。
そして、煙草をくわえた。
「……ったく」
小さく笑う。
「……とんでもねえ神父様だぜ」
ロアナプラ。
犯罪と欲望と暴力に満ちた街。
そんな街の治安が、今、目に見えて改善していた。
理由は単純だった。
一人の少年が、本気で人を救おうとしたからだ。
そして、その少年が働いている場所は――
よりによって、リップオフ教会だった。
おしまい