BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第五話 後継者
屋敷の匂いが、少し変わった。
廊下を歩いていて、ふとそう思った。
木材と塗料の匂い。
以前なら、この屋敷で嗅ぐことの少なかった匂いだ。
「坊ちゃま」
「ん?」
「そちらはお通りにならないでください」
踏み出しかけた足を止める。
ロベルタが指した先には、廊下を塞ぐように小さな札が置かれていた。
「塗料がまだ乾いておりません」
「あ、本当だ」
壁を見る。
長い年月でくすんでいた壁が、途中から綺麗に塗り直されている。
「危なかった」
「先ほどから札が置かれておりますが」
「見てなかった」
「存じております」
当然のように言われた。
「そういうところ、本当に容赦ないよな」
「事実を申し上げただけでございます」
最近、似たようなことをファビオラにも言われた気がする。
あの二人、やっぱり似ている。
仕方なく迂回しながら、改めて屋敷を見渡した。
変わったのは、この壁だけではない。
歩くたびに軋んでいた床板。
雨の日になると桶を並べていた天井。
傷んだ窓枠。
長年使われ、あちこちに傷の入っていた家具。
すべてを一度に新しくしたわけではない。
必要な場所から順番に。
少しずつ手が入っている。
以前なら、どれも後回しになっていた。
直したくても、そこへ回す金がなかったからだ。
「ずいぶん綺麗になったな」
「はい」
ロベルタも修繕された廊下へ目を向けた。
「旦那様も大変お喜びでございます」
「父上、喜んでるんだ」
「はい。先日も、屋敷に活気が戻ってきたと仰っておりました」
知らなかった。
父上は俺の前で、そういうことをあまり口にしない。
「俺には言わないのに」
「旦那様にも、照れがおありなのでしょう」
「父上が?」
想像してみる。
……分からない。
「意外だな」
「親子でございますね」
「どういう意味?」
「さあ」
ロベルタは微笑むだけで答えなかった。
絶対に何か含みがある。
まあ、いい。
もう一度、直された壁を見る。
ラブレス家は少しずつ立ち直っていた。
それ自体は、数字を見れば分かる。
投資から得られる利益。
農園の収益。
支出の改善。
父上から見せてもらえる資料にも、以前との違いははっきり現れている。
でも。
数字の上で金が増えることと、その金で壊れた壁が直ることは、同じようで少し違った。
金があれば、屋根を直せる。
農具を買い替えられる。
働いている人間へ、きちんと給金を払える。
当たり前の話だ。
けれど十一歳で投資を始めた頃の俺は、そこまで考えていただろうか。
たぶん。
考えていなかった。
あの頃の俺にとって、金はもっと単純だった。
ラブレス家を強くするための数字。
未来に備えるための力。
それだけだった。
「坊ちゃま?」
「ん?」
「参りましょう。旦那様がお待ちです」
「ああ」
ロベルタに促され、歩き出す。
塗り直された壁を横目に見ながら。
俺は少しだけ、数字の向こう側を見るようになっていた。
⸻
午後。
ファビオラとの鍛錬を終えた俺は、中庭へ続く回廊を歩いていた。
「……痛い」
肩を回す。
背中も痛い。
腕も痛い。
今日は受け身だけではなく、掴まれた腕を外す練習まで始まった。
受け身が上手くなってきたのはいい。
問題は、それを確認したファビオラが以前より遠慮なく俺を転がすようになったことだ。
成長しているはずなのに、なぜか痛みは増えている。
納得がいかない。
そんなことを考えながら歩いていると、中庭の隅から話し声が聞こえてきた。
何人かの使用人が木陰で休憩しているらしい。
「これで西側も終わりですな」
「ああ。あとは屋根だそうだ」
「今年中には終わるでしょう」
「ありがたい話だ」
足が止まった。
聞き耳を立てるつもりはなかった。
ただ、自分の家についての話だったから、少しだけ気になった。
「去年までは修繕どころじゃなかったからな」
「給金も今はきちんと出る」
「農園の方にも、また人を入れるそうですよ」
「そりゃ助かる」
穏やかな会話だった。
大げさに喜んでいるわけでもない。
誰かを褒め称えているわけでもない。
ただ、以前より暮らしやすくなった。
それを喜んでいる。
そのことが、妙に嬉しかった。
「旦那様も、少しは肩の荷が下りたでしょう」
「そうでしょうな」
年配らしい男の声が答える。
「それに、坊ちゃまもおられる」
――帰ろう。
反射的にそう思った。
本人のいないところで自分の話をされるのは困る。
だが、今動けば逆に気づかれそうだった。
「まだお若いでしょう」
「だからいいんですよ。この先がありますからな」
「最近は旦那様と仕事の話もされているとか」
「ええ。随分と勉強なさっているそうです」
やめてほしい。
直接褒められるのも苦手だが、これはこれで居心地が悪い。
「ラブレス家も、当分は安泰ですな」
その一言だけは。
少し違って聞こえた。
安泰。
彼らは知らない。
この家に何が起こるはずだったのか。
父上に、どんな未来が待っているのか。
だから当然のように、その先があると思っている。
昔の俺なら、その言葉を聞いて不安になったかもしれない。
でも。
今は違った。
屋敷は直り始めた。
農園も持ち直している。
父上は元気だ。
原作にはなかった変化が、すでにいくつも生まれている。
なら。
この人たちが言った未来を、本当に作ればいい。
「……頑張らないとな」
小さく呟いた。
そして今度こそ、気づかれないようにその場を離れた。
⸻
夕食は、いつも通り父上と二人だった。
ロベルタは席にはつかない。
俺にとっては家族同然でも、本人はラブレス家のメイドだ。
食事の間は俺たちの後ろに控え、必要に応じて給仕をする。
そういうところで、彼女は決して自分の立場を曖昧にしない。
「今日、工房の責任者と会ってきた」
食事の途中で父上が言った。
「例の工房ですか?」
「ああ」
「どうでした?」
「順調だ。今期は予想より利益が出るだろう」
「それは良かった」
最近、食卓で仕事の話をすることが増えた。
以前の父上なら、俺の前で家の経営について詳しく話すことはほとんどなかった。
今は違う。
どこが上手くいっているのか。
何が問題なのか。
時には、俺ならどう考えるかまで聞かれる。
いつからそうなったのかは分からない。
気がつけば、それが普通になっていた。
「それでだ、ガルシア」
父上がナイフを置いた。
「明後日は時間を空けておきなさい」
「何かあるんですか?」
「農園へ行く」
「視察ですか?」
「ああ」
父上は水を一口飲んだ。
「お前も来なさい」
少し驚いた。
「俺も?」
「嫌か?」
「いえ。行きます」
即答すると、父上は小さく頷いた。
「帳簿ばかり見ていても、分からんことがある」
その言葉に、昼間見たものを思い出した。
直された壁。
新しい床板。
そして、木陰で話していた使用人たち。
「働いている人間を見なさい。土地を見なさい。何に困っているのか、何を必要としているのか、自分の目で確かめろ」
「……はい」
返事をしてから、少し引っかかった。
父上は、ただ俺を視察へ連れていこうとしているわけではない。
何かを教えようとしている。
「父上」
「なんだ?」
「どうして俺も?」
父上は少しだけ考えた。
「お前はいずれ、この家を継ぐ」
手が止まった。
知っている。
そんなことは、生まれた時から決まっている。
俺はガルシア・フェルナンド・ラブレス。
この家の嫡子だ。
いつか父上の跡を継ぐ。
分かっていた。
それなのに。
父上本人から言われると、その言葉は思っていたより重かった。
「金の増やし方を覚えるのもいい」
父上は続けた。
「先を読むことも大切だ。お前には、そういうところがある」
少しだけ胸が痛む。
俺の場合、それは才能とは言い切れない。
知っているからだ。
この世界で、これから何が伸びるのか。
何が起こるのか。
少なくとも、元の物語や前世で知っていた範囲では。
「だが、それだけでは家は継げん」
父上の言葉で、意識を戻す。
「土地がある。そこで働く者がいる。この屋敷にも、大勢の人間がいる」
静かな声だった。
「ラブレスの名を継ぐというのは、財産を受け取ることではない」
父上が俺を見る。
「それらに責任を持つということだ」
責任。
その言葉が残った。
俺はずっと、ラブレス家を守ろうとしてきた。
父上を死なせない。
ロベルタを壊さない。
家を没落させない。
そのために金を増やそうとした。
知識を身につけた。
自分自身も鍛え始めた。
でも。
今日、木陰で話していた人たちは?
廊下を直していた職人は?
農園で働いている人たちは?
俺が顔も名前も知らない人間まで、この家と関わって生きている。
ラブレス家を守るというのは。
俺が思っていたより、ずっと大きな話なのかもしれない。
「難しい顔をするな」
父上の声で顔を上げた。
わずかに笑っている。
「今すぐ全部背負えと言っているわけではない」
「分かってます」
「本当か?」
「……たぶん」
父上が笑った。
後ろから、小さく息が漏れる音がした。
振り返る。
給仕をしていたロベルタが、何事もなかったような顔をしている。
「今、笑っただろ」
「いいえ」
「笑ったよ」
「お気のせいでございます」
絶対に笑った。
父上まで口元を緩めている。
味方がいない。
「だから、今のうちから見ておけ」
父上が話を戻した。
「知らないことを知ればいい。分からないことは聞けばいい」
「はい」
「失敗するなら、私がいるうちに失敗しろ」
その言葉に。
一瞬だけ、返事ができなかった。
――私がいるうちに。
父上に深い意味はない。
当然だ。
父親が後継者へ言う、ごく普通の言葉なのだと思う。
でも。
俺にとっては違った。
父上がいなくなる未来を、俺は知っている。
だからこそ。
「……はい」
ようやく答えた。
父上は、俺がなぜ一瞬黙ったのかまでは気づかなかったらしい。
そのまま食事を続けた。
⸻
食事も終わりかけた頃だった。
「そういえば、ガルシア」
「はい?」
「最近、妙なことも始めたそうだな」
嫌な予感がした。
「妙なこと?」
父上の視線が、俺の腕へ落ちる。
ファビオラに掴まれたところが、まだ少し赤い。
「護身術だったか?」
「…………」
ゆっくり後ろを見る。
ロベルタと目が合った。
「ロベルタ」
「はい、坊ちゃま」
「言った?」
「旦那様へのご報告は、私の務めでございます」
「言ったんだ」
「はい」
そこは認めるんだ。
父上が笑う。
「別に叱るつもりはない」
「そうなんですか?」
「ああ」
少し意外だった。
「自分の身を守る術を知っておくこと自体は悪くない」
「ほら」
思わずロベルタを見る。
「父上もこう言ってる」
「旦那様」
珍しくロベルタがすぐに反応した。
「坊ちゃまはまだお若いのです。お怪我をなされては――」
「分かっている」
父上が笑いながら制した。
「だから、無茶はするな」
今度は俺を見る。
「してません」
「今日も随分と投げられたそうじゃないか」
「…………」
またロベルタを見る。
「どこまで報告してるの?」
「必要なことはすべて」
恐ろしい。
プライバシーという概念はないのだろうか。
「まあ、いい」
父上は少し笑ってから、表情を和らげた。
「勉強も、家のことも、鍛錬も。最近のお前はよくやっている」
不意打ちだった。
何と返せばいいのか分からない。
「ただ、急ぎすぎるな」
父上は言った。
「お前は時々、何もかも今すぐ身につけなければならないと思っているように見える」
図星だった。
「……そう見えます?」
「ああ」
即答された。
後ろを見る。
ロベルタまで頷いている。
「ロベルタまで?」
「旦那様と同意見でございます」
どうやら、本当にそう見えているらしい。
父上は少しだけ目を細めた。
「頼もしくなったと思っている」
胸の奥が、わずかに熱くなった。
「だが、十四歳の息子に明日から家督を譲るつもりはない」
「それは俺も困ります」
思わず答えると、父上が笑った。
「だろう?」
「はい」
「なら、急ぐな」
そこで父上は言った。
「まだ私がいる」
また。
同じ言葉だった。
今度は、きちんと父上を見る。
父上は笑っていた。
何の不安もなく。
これから先も俺を育てていけると、当然のように思っている顔だった。
だから俺も。
「……はい、父上」
笑って答えた。
それ以外の答えを、俺は持っていなかった。
⸻
自室へ戻る途中。
修繕された廊下を歩いた。
新しく塗られた壁。
張り替えられた床。
磨かれた窓の向こうには、使用人棟の明かりが見える。
遠くから誰かの笑い声が聞こえた。
昼間の会話を思い出す。
――ラブレス家も、当分は安泰ですな。
俺はこれまで、ラブレス家を守ることばかり考えていた。
でも。
守った後は?
父上を救えたとして。
ロベルタを救えたとして。
原作で起こる悲劇を全部避けられたとして。
そこで人生が終わるわけではない。
明日もある。
来年もある。
その先も、この家で生きていく人たちがいる。
そして、いつか。
父上から俺へ渡されるものがある。
財産だけじゃない。
土地だけでもない。
ここにいる人間と。
その人たちの暮らしと。
積み重ねてきたラブレスという名前。
それを引き受ける。
「……後継者か」
小さく口にした。
以前なら、ただの設定だった。
ガルシア・ラブレスは、ラブレス家の跡取り息子。
『BLACK LAGOON』という物語の中では、それで十分だった。
けれど、ここはもう物語の向こう側ではない。
俺はこの屋敷で眠り。
父上と食事をし。
ロベルタに叱られ。
ファビオラに投げ飛ばされる。
使用人たちは働き、笑い、ここで生活している。
俺にとっても。
ここはもう、設定の中の《ラブレス家》ではなかった。
俺の家だ。
だから。
救うだけでは足りない。
いつか父上から受け取れるように。
その時に、恥ずかしくない人間になっていたい。
急がなくてもいい。
知らないことを知る。
できないことを覚える。
父上がそう言ってくれた。
――まだ私がいる。
その言葉だけが、胸の奥に残っている。
俺は立ち止まり、窓の外を見た。
屋敷には明かりが灯っている。
父上もいる。
ロベルタもいる。
ファビオラもいる。
今は、まだ。
全員ここにいる。
だからこそ。
この時間を、未来を変えるためだけに使うのではなく。
父上から受け取れるものを、一つでも多く受け取っておこう。
いつか本当に。
この家の後継者になる日のために。