BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

6 / 33
第六話

第六話 守るべき方

 

ロベルタ・シスネロスには、一つだけ困っていることがあった。

 

最近、ガルシア坊ちゃまが少々頑張りすぎる。

 

それ以外については、何の不満もない。

 

むしろ――誇らしかった。

 

昔からそうだった。

 

聡明で、心優しく、身分を理由に使用人を見下すこともない。

 

それだけでも、仕える者としては十分すぎるほど恵まれている。

 

けれど、ここ数年。

 

坊ちゃまは少しずつ変わった。

 

そして、その変化がこの屋敷そのものまで変え始めている。

 

「旦那様、お茶をお持ちいたしました」

 

「ありがとう。そこへ置いてくれ」

 

「はい」

 

執務室の机へカップを置く。

 

ディエゴ・ラブレスは、積み上げられた書類に目を通していた。

 

仕事の量は以前より増えている。

 

農園の立て直し。

 

新しい取引先。

 

工房への出資。

 

屋敷の修繕。

 

人員の補充。

 

それでも、不思議なことに以前ほど疲れては見えなかった。

 

少なくとも。

 

資金繰りの書類を前に、長い時間黙り込んでいた頃とは違う。

 

「ロベルタ」

 

「はい」

 

「ガルシアは?」

 

「先ほど、お部屋へ経済誌をお持ちいたしました」

 

ディエゴの手が止まった。

 

「……またか」

 

呆れたような声だった。

 

だが、その口元には微かな笑みがある。

 

「はい」

 

「今日は朝から勉強していただろう」

 

「午前中は語学と歴史を。その後、旦那様からお預かりした資料にも目を通しておられました」

 

「それで午後は経済誌か」

 

「左様でございます」

 

ディエゴが椅子の背にもたれた。

 

「十四歳が読むものじゃないな」

 

「私も、そのように申し上げたことがございます」

 

「聞かなかっただろう?」

 

「はい」

 

今度は二人とも笑った。

 

こういうところは、よく似ている。

 

一度すると決めたら、なかなか曲げない。

 

ロベルタは、ディエゴのカップへ視線を落とした。

 

「旦那様」

 

「なんだ?」

 

「昨日も遅くまでお仕事をなさっておられましたね」

 

「ガルシアにも同じことを言われたよ」

 

「では、私から申し上げる必要はございませんね」

 

「……お前たちは時々、妙なところで手を組むな」

 

「旦那様のお身体を案じているだけでございます」

 

ディエゴは苦笑して、再び書類を手に取った。

 

ロベルタは一礼して、執務室を出る。

 

廊下では、二人の使用人が新しい家具を運んでいた。

 

窓の向こうでは職人が屋根を修繕している。

 

遠くから、農園へ向かう車の音が聞こえた。

 

以前より、人の出入りが増えた。

 

屋敷の中で交わされる会話も増えた。

 

給金の遅れを気にする声は、もう聞かない。

 

使用人たちの表情も明るくなった。

 

もちろん。

 

すべてが坊ちゃま一人の力ではない。

 

実際に家を立て直しているのは旦那様だ。

 

交渉をし、判断を下し、責任を負っている。

 

けれど、その最初のきっかけのいくつかを坊ちゃまが持ち込んだことを、ロベルタは知っている。

 

最初は、小さな提案だった。

 

それが一つ。

 

また一つ。

 

少しずつ形になった。

 

そして最近では、旦那様の方から坊ちゃまへ意見を求めることもある。

 

昨夜の食卓で交わされた会話を、ロベルタは思い出した。

 

――お前はいずれ、この家を継ぐ。

 

旦那様が、坊ちゃまを後継者として育て始めている。

 

そのことが。

 

ロベルタには、何より嬉しかった。

 

⸻

 

「痛っ!」

 

中庭から聞こえた声に、ロベルタの足が止まった。

 

目を閉じる。

 

またですか。

 

窓辺へ向かい、外を見る。

 

予想通りだった。

 

芝生の上にガルシアが転がっている。

 

その前にはファビオラ。

 

「…………」

 

ロベルタは無言で眼鏡の位置を直した。

 

最近。

 

非常に気になっている光景だった。

 

坊ちゃまが立ち上がる。

 

何かをファビオラに言っている。

 

ここからでは聞こえない。

 

もう一度構える。

 

ファビオラが動く。

 

坊ちゃまの腕を取る。

 

身体が崩れる。

 

そして。

 

また転がった。

 

ロベルタの眉がわずかに動いた。

 

やはり。

 

納得できない。

 

旦那様が許可された以上、使用人である自分が禁じることはできない。

 

それは理解している。

 

坊ちゃま本人が望んでいることも。

 

ファビオラには、決して無理をさせないよう言い含めてある。

 

それでも。

 

必要だとは思えなかった。

 

ガルシア・ラブレスが、誰かと殴り合う必要などない。

 

危険な場所へ赴く必要もない。

 

暴力を振るう人間と対峙する必要など、なおさらなかった。

 

そのようなものから最も遠い場所にいてほしい。

 

ロベルタは、そう願っている。

 

坊ちゃまは知らなくていい。

 

人間の身体がどれほど簡単に壊れるのか。

 

武器を持った人間が何をするのか。

 

暴力に慣れた者が、どんな目で相手を見るのか。

 

知らないままでいい。

 

そんなものを知らずに生きられるのなら。

 

その方がいい。

 

――少なくとも、この方だけは。

 

芝生の上で、ガルシアがまた立ち上がった。

 

額の汗を腕で拭う。

 

服には土がついている。

 

ファビオラが何かを尋ねたらしい。

 

坊ちゃまが頷いた。

 

そしてまた構えた。

 

「…………」

 

どうして、そこまでするのだろう。

 

転ばされても。

 

痛い思いをしても。

 

やめようとしない。

 

昔からそうだった。

 

柔らかな物腰とは裏腹に、一度決めたことについては驚くほど頑固だ。

 

誰に似たのか。

 

考えるまでもない。

 

「……旦那様でございますね」

 

小さく呟く。

 

困った親子だ。

 

けれど。

 

ほんの少しだけ。

 

ロベルタの口元が緩んだ。

 

⸻

 

夕方。

 

「坊ちゃま」

 

「ん?」

 

「そのまま廊下を歩かないでください」

 

ガルシアが自分の姿を見る。

 

シャツには土。

 

ズボンには芝。

 

髪まで少し乱れている。

 

「そんなに汚れてる?」

 

「はい」

 

「着替えれば――」

 

「まず、お風呂へ」

 

「でも、まだ読みかけの――」

 

「お風呂へ」

 

ガルシアが黙った。

 

数秒。

 

「……はい」

 

素直に浴室へ向かう。

 

その背中を見送りながら、ロベルタは小さく息を吐いた。

 

こういうところは、まだ年相応である。

 

少し安心した。

 

最近の坊ちゃまを見ていると、時折そのことを忘れそうになる。

 

十四歳。

 

まだ、十四歳なのだ。

 

何もかも背負う必要などない。

 

旦那様もいる。

 

自分もいる。

 

だから。

 

もっと頼ってくださればいい。

 

そう思う。

 

⸻

 

夜。

 

屋敷が静まり始めた頃。

 

ロベルタは最後の戸締まりを確認していた。

 

廊下を進み。

 

ふと、一つの扉の前で足を止める。

 

明かりが漏れている。

 

ガルシアの部屋だった。

 

時計を見る。

 

眉が寄った。

 

ノックする。

 

「坊ちゃま」

 

「どうぞ」

 

扉を開ける。

 

やはり。

 

机に向かっていた。

 

風呂上がりの髪は乾いているが、寝間着姿で、手には本がある。

 

机の上にも何冊か積まれていた。

 

「まだ起きておられたのですか?」

 

「うん。ちょっとだけ」

 

「その『ちょっと』は、何分ほど前からでしょうか」

 

「……覚えてない」

 

ロベルタは時計を見た。

 

それからガルシアを見る。

 

「お休みください」

 

「あと少し」

 

「いけません」

 

「ここまで読んだら」

 

「いけません」

 

「あと五ページ」

 

「明日も、その五ページはそこにございます」

 

正論だったらしい。

 

ガルシアが困った顔をした。

 

ロベルタは本へ手を伸ばす。

 

ガルシアが僅かに抵抗する。

 

「ロベルタ」

 

「はい」

 

「本当に五ページだけ」

 

「坊ちゃま」

 

名前ではなく。

 

ただ呼んだ。

 

ガルシアは数秒こちらを見た後、諦めて本を差し出した。

 

「……分かったよ」

 

「ありがとうございます」

 

本を受け取り、栞が挟まれていることを確認して机へ置く。

 

ガルシアがベッドへ向かった。

 

そこでロベルタは、机の上に広げられた紙に気づいた。

 

数字が並んでいる。

 

企業名。

 

市場規模。

 

利益率。

 

見慣れない専門用語。

 

ロベルタには、そのすべてを理解することはできない。

 

けれど。

 

余白に書かれた文字なら読めた。

 

農園。

 

雇用。

 

修繕。

 

設備。

 

いくつもの項目。

 

その横に数字が書かれている。

 

ロベルタはしばらく、それを見ていた。

 

「ロベルタ?」

 

声に顔を上げる。

 

ベッドに入ったガルシアが、こちらを見ている。

 

「どうしたの?」

 

「……いえ」

 

首を振った。

 

「何でもございません」

 

ガルシアは時折、不思議なほど先のことを考えている。

 

旦那様もそう言っていた。

 

何かに追われているように見えることさえある。

 

理由は分からない。

 

聞いても、きっと笑って誤魔化すだろう。

 

それでも。

 

一つだけ分かる。

 

この方は、自分のためだけにこれほどのことをしているのではない。

 

それが。

 

ロベルタには誇らしかった。

 

「ロベルタ」

 

「はい」

 

「まだ何かある?」

 

「ございません」

 

「じゃあ、おやすみ」

 

「はい。おやすみなさいませ、坊ちゃま」

 

「おやすみ、ロベルタ」

 

ガルシアが微笑む。

 

その顔を見て。

 

まただ、とロベルタは思った。

 

昔から。

 

この方は自分を見る時だけ、時折、不思議な目をする。

 

敬意とも違う。

 

使用人へ向ける親愛とも、少し違う。

 

何か、とても大切なものを見るような。

 

失いたくないものを確かめるような。

 

そんな目。

 

理由は分からない。

 

自分はただの使用人だ。

 

旦那様に拾われ。

 

ラブレス家に仕えることを許された女にすぎない。

 

過去を知られれば。

 

その手が何をしてきたのかを知られれば。

 

同じ目で見てもらえるとは限らない。

 

だからこそ。

 

あの目を向けられるたびに、胸の奥がわずかに痛む。

 

それでも。

 

嬉しかった。

 

「……良い夢を」

 

小さく告げる。

 

明かりを落とし、部屋を出た。

 

扉を静かに閉める。

 

廊下には誰もいない。

 

ロベルタはしばらく、その場に立っていた。

 

坊ちゃまは、知らなくていい。

 

自分がどんな場所にいたのか。

 

何をしてきたのか。

 

この手が、どれほど汚れているのか。

 

必要になることなど、二度となければいい。

 

だが。

 

もし。

 

この家へ害意を持つ者が現れたなら。

 

坊ちゃまへ、その手を伸ばす者が現れたなら。

 

その時だけは。

 

この手が汚れていることにも、意味がある。

 

ガルシア・フェルナンド・ラブレスは。

 

自分とは違う。

 

暴力から遠い場所で。

 

人を信じ。

 

人を慈しみ。

 

そのまま生きるべき方だ。

 

ならば。

 

その場所まで暴力が届かないようにするのが、自分の役目だ。

 

守る。

 

何からでも。

 

誰からでも。

 

そのために必要なら。

 

かつて捨てたはずのものを、もう一度この手に取ることさえ厭わない。

 

ロベルタは静かに歩き出した。

 

この時の彼女にとって。

 

それは決意というほど大仰なものですらなかった。

 

もっと単純で。

 

もっと当たり前のことだった。

 

――坊ちゃまは、守られるべき方なのだから。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。