BLACK LAGOON Maid's Salvation 作:AI太郎
第七話 休日
街へ出る機会は、それほど多くない。
別に外出を禁じられているわけではない。
ただ、ラブレス家は名家だ。
以前ほどの勢いを失っていた時期があったとはいえ、その名前まで失われたわけではない。当主の一人息子ともなれば、思いつきで一人ふらりと出歩く、というわけにもいかなかった。
だから今日は、久しぶりの休日だった。
勉強もない。
父上から渡された資料もない。
ファビオラとの鍛錬も、俺の強い希望によって休みにしてもらった。
たまには何もしない日があっていい。
父上にもそう言われた。
もっとも。
本当に何もしないつもりはなかった。
馬車が街の中心部で止まった。
扉が開くより先に、ロベルタが動く。
先に馬車を降り、何気ない仕草で周囲へ視線を走らせる。
通行人。
店先。
路地。
行き交う馬車。
一通り確認してから、こちらへ向き直った。
「どうぞ、坊ちゃま」
手が差し出される。
「自分で降りられるよ」
「存じております」
「じゃあ、この手は?」
「念のためでございます」
「何の?」
「坊ちゃまが転ばれませんように」
「転ばないって」
ロベルタは何も言わなかった。
ただ静かに俺を見る。
「…………」
「訓練と馬車から降りるのは違うだろ」
「私は何も申し上げておりません」
「言ってるようなもんだよ」
後ろから小さな笑い声がした。
振り返る。
ファビオラだった。
「何?」
「いえ、何も」
絶対笑ってる。
結局。
「……ありがとう」
ロベルタの手を取って馬車を降りる。
「どういたしまして」
心なしか満足そうなのが腹立たしい。
⸻
街は賑わっていた。
露店には野菜や果物が並び、商人たちの声が飛び交う。
荷物を積んだ車がゆっくり通り過ぎ、その脇を子供たちが駆け抜けていく。焼いた肉の匂いに、香辛料と果物の甘い香りが混ざっていた。
「坊ちゃま」
「ん?」
「前をご覧ください」
「あ、ごめん」
危うく人とぶつかりそうになった。
「珍しいものでもございましたか?」
「いや。別に」
特に何かを見ていたわけではない。
ただ、こうして街を歩いているだけで楽しかった。
この世界で目を覚ましたばかりの頃は、何を見ても妙な感覚があった。
前世で知っていた世界。
画面の向こう側にしかなかったはずの場所。
けれど、十年以上もここで生きていると、そんな感覚も随分薄くなった。
果物を売る人がいる。
値段を交渉している客がいる。
走り回る子供を母親が叱っている。
誰も彼も、自分とは関係のないところで普通に生活している。
当然のことなのに。
昔の俺には、それが少し不思議だった。
今はもう違う。
ここが俺の暮らしている場所だ。
それだけだった。
「楽しそうですね」
隣を歩いていたファビオラが言った。
「そう見える?」
「はい」
「まあ、楽しいよ」
休日らしい休日なんて久しぶりだ。
何より今日は、ちゃんと目的もある。
「それで坊ちゃま、どちらへ?」
「まずは、こっち」
二人を連れて歩き出した。
⸻
最初に入ったのは、革製品を扱う店だった。
鞄。
靴。
ベルト。
手袋。
職人の作った品が棚いっぱいに並んでいる。
「何かお探しですか?」
ロベルタが尋ねる。
「ちょっとね」
手袋の棚を見る。
何組か手に取って、革の厚みを確かめる。
柔らかすぎる。
これは硬い。
こっちは悪くない。
「坊ちゃまが手袋を?」
ファビオラが横から覗き込んできた。
「まあね」
「何にお使いになるのです?」
「秘密」
「秘密ですか?」
怪訝そうな顔をしている。
そのまま探していると、一組の手袋が目に留まった。
派手な装飾はない。
革は柔らかいが、掌の部分はしっかり補強されている。縫製も丁寧で、指も動かしやすそうだった。
これならいい。
「これ、見せてもらえますか?」
店員から受け取り、もう一度確かめる。
大きさもたぶん問題ない。
「これにします」
「かしこまりました」
店員が包み始める。
横を見る。
ファビオラはまだ分かっていないらしい。
少し面白かった。
⸻
次に入った店では、ロベルタが足を止めた。
銀細工を扱う店だった。
「坊ちゃま?」
「なに?」
「こちらで何を?」
「買い物」
「それは存じておりますが」
店内には指輪やブローチ、ネックレスが並んでいる。
確かに、普段の俺が買いに来るようなものではない。
「装飾品をお求めなのですか?」
「うん」
「坊ちゃまがお使いになるので?」
「違うよ」
ロベルタが首を傾げた。
俺は少し笑って、店員に声をかける。
「すみません。この前見せてもらったもの、まだありますか?」
今日初めて見つけた店ではない。
以前、父上と街へ出た時に偶然見つけていた。
その時は買わなかった。
どうせなら、自分で選んで渡したかったからだ。
店員が奥へ下がり、小さな箱を持って戻ってきた。
蓋が開く。
銀のロケットペンダント。
華美な装飾はない。
縁に細かな意匠が施されているだけの、落ち着いたものだった。
開けば、中には小さな写真を収められる。
初めて見た時から思っていた。
ロベルタには、こういうものの方が似合う。
派手な宝石より。
静かで。
上品で。
長く使えるもの。
「やっぱり、これにします」
「ありがとうございます」
店員が箱を閉じる。
ちらりとロベルタを見る。
何か考えているようだった。
でも。
まだ気づいていない。
俺は何も言わなかった。
⸻
帰りの馬車では、ファビオラが街で買った菓子を食べていた。
「美味しい?」
「はい。坊ちゃまも召し上がりますか?」
「もらう」
一つ受け取る。
口に入れる。
甘い。
向かいに座るロベルタは、買った荷物へ時折視線を向けている。
「何?」
「いえ」
「気になる?」
「坊ちゃまのお買い物について詮索するつもりはございません」
「気になってるんだ」
「…………」
否定しない。
「帰ったら分かるよ」
そう言うと、ロベルタはますます不思議そうな顔をした。
一方、ファビオラは何かに気づいたらしい。
俺と荷物を交互に見る。
目が合った。
何も言うな。
そういう意味を込めて見返す。
ファビオラが小さく笑った。
たぶん伝わった。
⸻
屋敷へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
中庭に長い影が伸びている。
「ロベルタ」
屋敷へ入ろうとする彼女を呼び止める。
「はい?」
「ファビオラも」
「私もですか?」
二人がこちらを向く。
さっきまで何ともなかったのに。
いざ渡すとなると、妙に緊張する。
父上に投資の話をする時より緊張している気がする。
「えっと……」
何から言えばいいんだ。
考えた末に。
普通に渡すことにした。
「ファビオラ。これ」
小さな箱を差し出す。
「私に?」
「うん」
「開けてもよろしいですか?」
「もちろん」
蓋を開ける。
中の革手袋を見て、ファビオラが目を丸くした。
「これ……」
「いつも訓練に付き合ってもらってるから」
ファビオラが手袋を取り出す。
「このために探していたのですか?」
「掌、結構傷んでただろ」
ファビオラが自分の手を見る。
小さな傷。
硬くなった皮膚。
鍛錬だけでできたものではないだろう。
「俺が使うにはサイズも合わないし」
「……そういうことでしたか」
ようやく理解したらしい。
手を通す。
指を曲げて、開く。
何度か確かめてから、こちらを見た。
「ぴったりです」
「よかった」
「ありがとうございます、坊ちゃま」
いつもの元気な調子より、少し静かな声だった。
喜んでくれたなら、それでいい。
そして。
もう一つ。
「ロベルタ」
「はい」
小さな箱を取り出す。
「これ」
差し出した。
ロベルタはすぐには受け取らなかった。
箱と俺を交互に見る。
「……私に、でございますか?」
「うん」
「ですが――」
「いいから」
半ば押しつけるように、両手へ渡す。
「開けてみて」
ロベルタがゆっくりと蓋を開いた。
夕陽を受けて。
銀が淡く光る。
その瞬間。
ロベルタの動きが止まった。
「…………」
本当に止まった。
「ロベルタ?」
返事がない。
横を見ると、ファビオラが何とも言えない顔でそっと視線を逸らしていた。
しばらくして。
ようやくロベルタの唇が動いた。
「……こちらを、私に?」
「そうだよ」
「なぜ……」
「なぜって」
逆に聞かれて困った。
そんなに大した理由があるわけじゃない。
「いつもありがとうって」
ロベルタが俺を見る。
「ずっと世話になってるし」
朝起こしてもらう。
食事を用意してもらう。
予定を管理してもらう。
体調を見てもらう。
怪我をすれば手当てされる。
夜更かしをすれば叱られる。
小さい頃からずっとそうだ。
それだけじゃないことも。
俺は知っている。
ロベルタが、どれほどガルシア・ラブレスを大切にしているのか。
俺が知っていることを、彼女は知らない。
だから、それについては何も言えない。
でも。
感謝するのに、そんな事情は必要なかった。
「俺があげたかっただけ」
それでいい。
「それに、似合うと思ったから」
ロベルタは何も答えなかった。
視線を落とす。
指先が、銀の縁へそっと触れた。
「……坊ちゃま」
「うん?」
「私は……」
そこで言葉が止まる。
珍しい。
ロベルタが何を言えばいいのか分からなくなっている。
「嫌だった?」
「いえ!」
思った以上に大きな声が返ってきた。
俺が驚く。
ファビオラも驚く。
そして、声を出した本人まで少し驚いた顔をしていた。
「……申し訳ございません」
「いや、いいけど」
思わず笑ってしまった。
ロベルタは少しだけ困ったように目を伏せる。
それから。
もう一度、ペンダントを見た。
「ありがとうございます、坊ちゃま」
いつもと同じ丁寧な言葉だった。
けれど。
声だけが、少し違った。
「大切にいたします」
「うん」
「必ず」
「そんなに気を遣わなくていいよ」
「いいえ」
ロベルタが顔を上げた。
「大切にいたします」
二回言った。
これは何を言っても駄目そうだ。
「じゃあ、なくさないようにね」
「なくしません」
即答だった。
「絶対?」
「絶対に、でございます」
横でファビオラが吹き出した。
「ロベルタさんなら、お風呂に入る時まで着けていそうですね」
「それは外します」
「そこは外すんだ」
「当然でございます」
三人で笑った。
大した一日ではなかった。
街へ出て。
店を回って。
少し買い物をして。
帰ってきた。
ただそれだけの休日だった。
それでも。
ロベルタはしばらく、手の中のロケットを眺めていた。
何度も。
確かめるように。
銀の表面を指先でそっと撫でている。
その横顔を見ていると。
俺まで嬉しくなった。
「ロベルタ」
「はい?」
「今度、何か写真入れようか」
ロベルタの指が止まった。
「写真、でございますか?」
「ロケットなんだから。何も入ってないと寂しいだろ」
「それは……」
少し考えている。
「何がいい?」
そう聞くと。
ロベルタは、しばらく答えなかった。
やがて。
いつもの穏やかな微笑みを浮かべる。
「それでは、坊ちゃまのお写真を」
「俺?」
「はい」
「自分の写真を入れたペンダントをプレゼントするの、なんか恥ずかしくない?」
「私は一向に構いません」
「俺が構うんだけど」
ファビオラがまた笑った。
ロベルタまで笑っている。
俺も結局、笑ってしまった。
まあ。
それでもいいか。
今日くらいは。
何の心配もせずに。
ただ二人が笑っているのを見ていれば。
それで十分だった。