BLACK LAGOON Maid's Salvation   作:AI太郎

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第八話

 

BLACK LAGOON

 

Maid’s Salvation

 

第八話 海の向こうへ

 

船の揺れには、いつの間にか慣れていた。

 

最初の数日は酷かった。

 

船酔いこそしなかったものの、まともに眠れない。狭い船室には小さな明かり取りしかなく、昼と夜の感覚さえ曖昧になる。

 

その中で、絶えず波に揺られ続ける。

 

想像していた以上に神経を削られた。

 

それでも一週間も経てば、揺れたまま本を読めるようになった。

 

二週間も経てば、食事中に船体が大きく傾いても気にならない。

 

人間というのは、案外しぶとい。

 

慣れたくもない環境に適応している自分を、褒めるべきなのか悲しむべきなのかは分からなかった。

 

俺は簡素な寝台に腰掛けたまま、読んでいた雑誌を閉じた。

 

古い経済誌だった。

 

この船に積まれていたものらしく、発行されたのは数年前。

 

情報としては古い。

 

それでも、何もないよりは遥かにましだった。

 

むしろ興味深い部分もある。

 

未来を知っている俺からすると、当時の専門家が何を予測し、何を見落としていたのかが分かる。

 

結果を知った上で予測を読むのは、なかなか面白い。

 

ただし。

 

今の俺に投資先を考える余裕があるかと聞かれれば、答えはない。

 

何しろ。

 

誘拐されている。

 

「起きてるか、坊主」

 

扉の向こうから声がした。

 

返事をする前に鍵が回る。

 

入ってきたのは、見張り役の男だった。

 

三十代半ばくらいだろうか。

 

頬から顎にかけて薄い傷がある。

 

名前は聞いていない。

 

向こうも名乗らなかった。

 

だから俺も聞かなかった。

 

この二週間で、一番顔を合わせている男だった。

 

男は食事の載ったトレーを机へ置く。

 

「飯だ」

 

「ありがとう」

 

「……おう」

 

最初の頃なら、それで終わっていた。

 

トレーを置く。

 

俺を見る。

 

扉を閉める。

 

鍵を掛ける。

 

それだけ。

 

今は少し違う。

 

男はすぐには出ていかず、壁に背中を預けた。

 

「もうすぐ着くらしいぞ」

 

雑誌を脇へ置く。

 

「そう」

 

「反応薄いな」

 

「今さら騒いでも船は戻らないだろ」

 

男が鼻を鳴らした。

 

「本当に変なガキだな」

 

「それ何回目?」

 

「知らねえよ」

 

俺も知らない。

 

数えるのは三日目くらいでやめた。

 

⸻

 

この二週間。

 

何度も考えた。

 

どうしてこうなったのか。

 

誘拐された理由ではない。

 

それは分かっている。

 

ラブレス家の持つ土地。

 

そこに絡む利権。

 

そして当主の一人息子。

 

俺を人質に取る理由なら、いくらでも考えられる。

 

問題は。

 

なぜ、誘拐されたのか。

 

俺は知っていた。

 

ガルシア・フェルナンド・ラブレスが誘拐されることを。

 

だから備えた。

 

外出時には必ず使用人を伴った。

 

一人で行動することも避けた。

 

父上にも警備について何度も話した。

 

家に余裕ができてからは、屋敷や農園の警備にも金を回した。

 

原作のガルシアより。

 

少なくとも、遥かに警戒していたはずだ。

 

そして。

 

それは無駄ではなかった。

 

実際、一度は防いだ。

 

屋敷の近くを探っていた不審な人間が見つかった。

 

父上が警備を増やし、出入りする人間も確認するようになった。

 

俺は少し安心した。

 

未来を知っている。

 

だから先に動ける。

 

そう思った。

 

その後だった。

 

相手は屋敷へ来なかった。

 

俺が外へ出る日を狙った。

 

しかも、原作で俺を攫った方法とは違った。

 

護衛と引き離され。

 

予定していた道を塞がれ。

 

逃げ道だと思った方へ追い込まれた。

 

後から考えれば、こちらの警戒を調べた上で組まれた手順だった。

 

護身術も役には立った。

 

最初に腕を掴まれた時は外せた。

 

距離も取れた。

 

ファビオラから教わった通り、大声も出した。

 

一人なら。

 

もしかすると逃げられたかもしれない。

 

でも。

 

一人ではなかった。

 

そこで終わった。

 

殴り合って勝てるはずもない。

 

まして相手が武器を持っていれば、なおさらだ。

 

俺が覚えたのは護身術であって、英雄になる方法ではない。

 

結果。

 

目を覚ました時には拘束されていた。

 

その後、何度か車を乗り換え。

 

船に乗せられ。

 

海を渡っている。

 

知っていた未来を避けようとした。

 

そのために行動した。

 

なのに。

 

結果だけを見れば。

 

俺は原作と同じように誘拐された。

 

それが、一番気持ち悪かった。

 

未来を変えられなかったのか。

 

それとも。

 

変えたから、別の道を通って同じ場所へ辿り着いたのか。

 

分からない。

 

何度考えても、答えは出なかった。

 

だから一度。

 

考えるのをやめた。

 

今の俺に分かることは一つだけ。

 

未来を知っているからといって。

 

未来を支配できるわけではない。

 

その程度だった。

 

⸻

 

誘拐犯たちとの関係も、最初とは随分変わった。

 

もちろん。

 

仲間になったわけではない。

 

俺は人質。

 

彼らは誘拐犯。

 

そこは一度も変わっていない。

 

最初の数日は、向こうも俺を警戒していた。

 

必要な時以外は部屋へ入ってこない。

 

食事を渡す。

 

水を渡す。

 

トイレへ連れていく。

 

それだけ。

 

俺も余計なことはしなかった。

 

泣かなかった。

 

喚かなかった。

 

脅しもしなかった。

 

「父上が黙っていないぞ」なんて言ったところで、彼らが俺を解放するわけでもない。

 

それに。

 

少なくとも今すぐ俺を傷つけるつもりがないことは、早い段階で分かった。

 

俺には商品としての価値がある。

 

傷をつける理由がない。

 

それでも警戒はした。

 

善人ではない。

 

俺を誘拐した犯罪者だ。

 

それは間違いない。

 

ただ。

 

犯罪者であることと。

 

朝から晩まで残虐な人間であることは、同じではなかった。

 

変化があったのは、三日目だったと思う。

 

食事を持ってきた男に、

 

「ありがとう」

 

と言った。

 

男が妙な顔をした。

 

「何?」

 

「いや……」

 

しばらく俺を見る。

 

「誘拐されて、誘拐した側に礼を言うガキは初めて見た」

 

「食事を運んでくれたことに礼を言っただけだよ」

 

「俺たちがお前を攫ったんだぞ」

 

「それとこれは別だろ」

 

男が黙った。

 

何かおかしなことを言っただろうか。

 

数秒後。

 

男が吹き出した。

 

「やっぱ変なガキだな」

 

結局、それだった。

 

その日から。

 

ほんの少しずつ会話が増えた。

 

年齢を聞かれた。

 

好きな食べ物を聞かれた。

 

勉強の話をした。

 

父上について聞かれた時だけは、少し答えに困った。

 

心配しているだろう。

 

間違いなく。

 

ロベルタは――。

 

考えないことにした。

 

考えると、胃が痛くなる。

 

俺の心配ではない。

 

この人たちの心配だ。

 

今頃どうなっているのか。

 

想像したくなかった。

 

⸻

 

ある晩。

 

食事を持ってきた別の男が、ポケットから何かを落とした。

 

古びた写真だった。

 

拾おうとして。

 

一瞬だけ見えた。

 

幼い女の子が写っている。

 

「はい」

 

拾って渡す。

 

「……悪いな」

 

それだけだった。

 

誰なのかは聞かなかった。

 

男も説明しなかった。

 

次の日。

 

俺の夕食に、小さな果物が一つ増えていた。

 

その男が持ってきた。

 

「これ?」

 

「余った」

 

明らかに嘘だった。

 

でも。

 

「ありがとう」

 

とだけ言った。

 

それでいいと思った。

 

彼らが何をしている人間なのか。

 

忘れたわけではない。

 

誘拐は犯罪だ。

 

俺を家族から引き離し、金や利権のために利用しようとしている。

 

肯定するつもりはない。

 

許すかどうかだって、まだ分からない。

 

それでも。

 

人間そのものを憎めるかと言われると。

 

俺には難しかった。

 

家族の写真を持っている男がいる。

 

故郷へ金を送っている男がいる。

 

仲間のくだらない冗談で笑う男がいる。

 

俺を誘拐したことと。

 

彼らにも彼らの生活があることは。

 

矛盾せず、同時に存在していた。

 

世界は。

 

思っていたより簡単に善人と悪人へ分けられない。

 

そんなことは前世でも知っていたつもりだった。

 

でも。

 

知識として知っているのと。

 

誘拐犯から果物を一つ貰って理解するのとでは。

 

少し違った。

 

⸻

 

船旅の終盤になると。

 

短い時間だけ、甲板へ出ることを許された。

 

もちろん見張り付き。

 

周囲は海。

 

逃げる場所なんてどこにもない。

 

それでも。

 

外の空気は気持ちよかった。

 

潮風が頬を撫でる。

 

頭上には、船室の小さな窓からでは見えなかった空が広がっている。

 

手すりに触れ。

 

しばらく海を眺める。

 

「家、恋しいか?」

 

隣にいた男が聞いた。

 

「うん」

 

素直に答えた。

 

「父上に会いたい」

 

「そうか」

 

「ロベルタにも」

 

「誰だ?」

 

「うちのメイド」

 

男がこちらを見る。

 

「メイド?」

 

「うん」

 

「……お坊ちゃんだな、お前」

 

「最初からそう言ってるだろ」

 

男が笑った。

 

俺も少し笑う。

 

「ファビオラにも会いたいな」

 

「そいつもメイドか?」

 

「うん」

 

「メイド二人かよ」

 

「別にいいだろ」

 

そんな話をしていると。

 

少しだけ。

 

屋敷の匂いを思い出した。

 

ロベルタが淹れる紅茶。

 

廊下の新しい塗料。

 

中庭の芝。

 

父上の執務室。

 

帰りたい。

 

当たり前だ。

 

でも。

 

その一方で。

 

俺は知っている。

 

この船がどこへ向かっているのかを。

 

⸻

 

そして今日。

 

船の中の空気が変わった。

 

これまで雑談をしていた男たちが、ほとんど喋らなくなった。

 

荷物を確認する。

 

武器を確認する。

 

短い言葉で指示を交わす。

 

二週間前。

 

俺を連れてきた時と同じ顔だった。

 

仕事をする人間の顔。

 

それを見て。

 

少しだけ寂しいと思った自分に気づく。

 

馬鹿だと思う。

 

彼らは最後まで誘拐犯だ。

 

俺は最後まで人質だ。

 

それは変わらない。

 

なのに。

 

嫌いにはなれなかった。

 

甲板へ出る。

 

海の向こうに陸地が見えていた。

 

隣には、いつもの頬に傷のある男がいた。

 

しばらく二人で海を眺める。

 

やがて。

 

男が言った。

 

「坊主」

 

「ん?」

 

「俺たちのこと、恨んでるか?」

 

少し考えた。

 

適当に答えることもできた。

 

でも。

 

最後くらい、正直でいいと思った。

 

「誘拐したことは怒ってるよ」

 

男が苦笑した。

 

「そりゃそうだ」

 

「父上も心配してるし。ロベルタなんて……」

 

そこで止める。

 

やっぱり想像したくない。

 

「だから、やったことは許せない」

 

「……ああ」

 

「でも」

 

海を見る。

 

「皆のことを嫌いかって言われたら、よく分からない」

 

男がこちらを見る。

 

「変かもしれないけど」

 

「変だよ」

 

即答された。

 

「酷いな」

 

「二週間前から言ってんだろ。お前は変なガキだ」

 

「知ってる」

 

男が笑った。

 

少し遅れて。

 

俺も笑った。

 

それで会話は終わった。

 

⸻

 

港が近づくにつれて、景色がはっきりしてくる。

 

クレーン。

 

倉庫。

 

積み上げられたコンテナ。

 

貨物船。

 

港湾労働者。

 

聞き慣れない言葉が飛び交っている。

 

俺は手すりを握った。

 

とうとう来た。

 

ロアナプラ。

 

前世では画面越しに何度も見た街。

 

今世では。

 

できるなら一生近づきたくなかった街。

 

「…………」

 

なのに。

 

心臓が速い。

 

怖いからだけではない。

 

そのことを認めるのは、少し嫌だった。

 

視線を港へ走らせる。

 

そして。

 

止まった。

 

一隻の船が見えた。

 

古びた船体。

 

特徴的な形。

 

俺は目を細める。

 

まさか。

 

いや。

 

見間違えるはずがない。

 

魚雷艇。

 

ラグーン号。

 

息を呑んだ。

 

本当にある。

 

当たり前だ。

 

ロベルタがいる。

 

父上がいる。

 

俺自身がガルシア・ラブレスとして生きている。

 

なら。

 

彼らだっている。

 

それでも。

 

実際に目の前にすると、話は違った。

 

ダッチ。

 

ベニー。

 

ロック。

 

そして。

 

レヴィ。

 

どこかにいる。

 

この街に。

 

俺が前世で知っていた人間たちが。

 

「どうした?」

 

隣の男が聞いた。

 

「……いや」

 

首を振る。

 

「何でもない」

 

未来は変わった。

 

父上は生きている。

 

ラブレス家の財政も、原作とは違う。

 

俺は十四歳になった。

 

護身術まで始めた。

 

いくつも変えた。

 

それなのに。

 

俺は誘拐され。

 

海を渡り。

 

そして今。

 

ラグーン号を見ている。

 

偶然なのか。

 

何かの因果なのか。

 

それとも。

 

本当に「運命」なんてものがあるのか。

 

分からない。

 

ただ。

 

一つだけ確かなことがある。

 

俺が知っている物語と。

 

俺が生きている現実が。

 

もう一度、ここで重なった。

 

船体が岸壁へ寄っていく。

 

船員たちの声が飛ぶ。

 

ロープが投げられる。

 

接岸の衝撃が足元から伝わってきた。

 

二週間続いた航海が終わる。

 

俺は港の向こうを見た。

 

怖い。

 

帰りたい。

 

父上に会いたい。

 

ロベルタにも会いたい。

 

それは間違いなく本心だった。

 

それでも。

 

胸の奥のどこかで。

 

別の感情まで動いている。

 

前世で何度も見た場所へ。

 

これから足を踏み入れる。

 

その事実に。

 

ほんの少しだけ。

 

胸が高鳴っていた。

 

「……ほんまにあるんや」

 

誰にも聞こえない声で呟く。

 

ラグーン号を見ながら。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

そして。

 

ロアナプラへ足を踏み入れた。

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