灰原さんが寝かされた後は別室で待機である。
彼女のために湯を沸かしていると、所在なさげな阿笠博士がうろうろとクマのようにうろつき出した。
ギリギリ彼女が言った「警察には言わないで」という言葉が気になっているのだろう。
阿笠博士がすっかり眉をハの字に下げて私を見た。
「それで、誰なんじゃあの子は」
「組織幹部シェリーにそっくりですね。本名は宮野志保。薬学分野の主任です」
「な、なんじゃと!?」
「アポトキシン4869も半分は彼女の功績であったはずです。自ら毒薬をあおるとは、よほどの事情があったご様子」
私の言葉に、ますます阿笠博士は心配そうな顔になってしまった。
たしかあの場面で毒薬を飲んだ理由は自殺だったはずだ。
それを雨の中着の身着のまま逃げて、同じ境遇かも知れない工藤新一のところのみに一縷の望みをかける。
彼女はまだ18歳だったことを思えば、なかなかに壮絶な経緯である。
「なんにせよ、対応は阿笠博士がお願いします。僕では要らぬ心労をかけてしまいかねません」
「じゃが……」
困った様子の阿笠博士に、私は内心むむむと唸った。
まあ確かに、見た目は子供の私がいた方が場も和む気がしないでもないが。
私は冷静に言葉を紡いだ。
「組織でどの程度情報共有がされているか分かりませんが。僕は、組織の研究所で殺戮の限りを尽くして逃げ出した実験体です。どんな話が聞けるにせよ、場にいて空気が良くなるはずもない」
「………そうじゃな」
阿笠博士はしょぼしょぼの犬みたいに老け込んでしまった。
これでは、いつ襲われるかも分からんと思われても仕方ない。
そうでなくとも例の組織の気配の……なんだ……「ドクンッ!」って奴が感じられて落ち着かないかもしれないし。
ううん、あまり二人の負担になるようなら私は工藤邸を借りて一人暮らしに切り替えるべきか。
将来昴さんが来るまでの間でも、無害を示すことができれば万々歳だ。
私は沸かした湯で温かいタオルを作った。
彼女の手足を軽く清め、温めるためだ。
阿笠博士がしょぼしょぼのままタオルを受け取って「すまんのぉ」と言って灰原さんを寝かせた部屋へと向かっていく。
そんな落ち込まんといて……と心が痛くなる私である。
それからしばらく。
目を覚ました灰原さんと阿笠博士の話し声は、私の耳であればここからでも十分に聴くことができた。
もちろん、意図的に聞かないようにしていたが。
話は随分と長く続いているようだった。
彼女の辛い半生を思えば、誰にも言えなかった弱音を他人に初めて話せる環境を思えば。
話が長くなるのは幸運なことだったろう。
しかしそろそろお風呂が沸いた様子。
温かい湯に浸かれば気持ちも和らぐから、二人に伝えに行かねばなるまい。
本当は何か食事を持っていきたかったのだが、私が作ったものは食べてもらえないかもしれないからな。
先に風呂だけでも済ませてもらうとしよう。
トコトコわざと足音を響かせるが、二人が気づいた様子はない。
近づいたため灰原さんの声が大きくなる。
話はひと段落したようで、声は比較的リラックスしている様子だった。
扉の前でしばし待機。
灰原さんは私の服に着替え終わったらしい。
足音が聞こえてくる。
「この子供服どうしたの?小さい孫でもいるのかしら」
「いや……わしのところで預かっとる子が一人おってな。君を見つけたのもその子なんじゃ」
灰原さんが少しだけ考え込むような吐息を漏らした。
そして、いかにも眉間に皺を寄せているのがわかる声を出した。
「そんな環境に私みたいな組織の女を置いて良いのかしら。子供に悪影響が出るんじゃない?」
灰原さんの自嘲をはらんだ軽口に、沈黙が部屋に満ちる。
阿笠博士が遠慮がちに口を開く。
「実は、君の身の上はその子から少しばかり聞いておったんじゃ」
「……どういうこと?」
「あの子は組織の被害者で、幹部である君のことを知っておった」
「っ!!!」
灰原さんの息を呑む音が聞こえる。
ううむ、埒が明かないからこの辺りで声をかけるとしようか。
静かにノックをすれば、二人は不意に黙り込んだ。
そのまま「失礼します」と言って入室する。
空気があまりにも重い。
これやっぱ風呂伝えにくるのやめた方がよかったかな。
灰原さんは困惑と警戒を同量はらんだ顔で私を見ていた。
「ドクンッ!」にはなっていないから、私から組織の気配はしないのだろう。
彼女の組織レーダーは優秀だから、要らぬ心労をかけなくて何よりである。
「お風呂が沸きました。あなたも、冷えた体を温めた方がいいでしょう。翌日体調不良で動けなくては不便ですから」
「………」
「初めまして、僕はこの家でお世話になっている阿笠空といいます」
ぺこりと頭を下げれば、瞳が揺れて、判断を決めかねているような様子だった。
私は彼女の警戒心を刺激しないよう、冷静にゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが組織の幹部であることは、研究所で教育されていました」
「研究、所?貴方、アポトキシン4869を飲んだの。それとも…組織員の子供かしら」
彼女の言葉が隠しきれぬ憂いを帯びている。
罪に怯えている、と言ってもいいか。
「どちらも違います。貴方の研究所とは分野が違う。第七生物化学研究所と言えば伝わりますか」
一瞬記憶を辿ったようで。
次の瞬間、驚愕した顔で思わず彼女は後ずさっていた。
「外道の巣窟!でも最近何者かに潰されたわ……ジンが後片付けでボヤいていたから間違いないはず!」
「僕が潰しました。培養槽の管理が甘かった証拠ですね。研究者としては失格でしょう」
微笑んで私は穏やかに告げた。
灰原さんの目に明確な恐怖が浮かび、肩が細かく震え出した。
いや組織の被害者同士仲良くできるはず…なんだが……?
「なら、研究所の人員を一人残らず殺害した、監視カメラにも映らない殺戮者の正体は…」
「僕ですね。培養槽を出たことがバレて組織に追われたくありませんでしたし、研究の内容が外部に漏れて『兄弟達』のような実験物が生み出されないように。すべて、始末させていただきました」
これには結構苦労したのだ。
まずはこっそり備え付けの通信機器を処理する。
機密保持のため携帯端末は一箇所に集められていたので、それも破壊。
次に出入り口にトラップを設置して撤退。
クローン培養槽まで研究員数名を誘い込み、わざと悲鳴を垂れ流しにする。
私が同時に鳴らしたアラートによって、一斉に研究者達が逃げ出そうと出入り口に殺到。
トラップで一網打尽になる、という寸法だ。
もちろん細かな例外はたくさんあった。
生き残りを処理しなければならなかったし、スマホを隠し持ってたやつをなんとか始末する必要もあった。
ロッカーに隠れてる奴を見つける地道な作業とか。
加えて、無人のアジトでデータを消すのも難航した。
生体認証は死体で突破したが、パスワードそのほかはどうしようもないし。
さらに言えばこの場にいる研究員なら始末できても、休暇や出張などでいないことも考えられる。
そのために従業員名簿を抜き出し、パーソナルデータを取得。
死体と照合して手早く迅速にチェック、不在の人間を割り出し後で殺そうリストを作成したり。
本能は十分に満たされたが、もう二度とやりたくない激務であった。
灰原さんは震える己の身体を抱きしめ、一歩、また一歩と私から距離をとった。
「私を……殺すの?」
「いえ。貴方は別の部署で、クローンの情報を持ち得ません。殺す意味を見出せません」
恐怖の中に激情が見え隠れする。
灰原さんが思わずと言った調子で叫んだ。
「嘘よ!あんな所業をされておいて、組織に敵意を抱かないはずがないわ!」
「データを閲覧されていたんですか」
「っ!」
私の言葉にひっ、と小さな悲鳴が漏れる。
しまった、知るものは殺すとか言った後だったわ。
普通に聞いたつもりだったが、これじゃ普通に恫喝だ。
阿笠博士が私の隣で激しくオロオロしている。
慌ててフォローのために口を開く。
「データを持っていたとして、その所業を外道と評する感性があるのなら、僕が敵意を抱く理由はない」
「……嘘よ。あんなの、捕まえた蝶の羽と足をちぎって紐で括ってカマキリに繋いで遊ぶような、信じられない非人道性が。恨まれないはずがない。恨まれて当然なのよ」
その言葉はどこか、自分に言い聞かせているような響きが含まれていた。
ここからコナン君っていう正真正銘の被害者と会わせるのは酷ではなかろうかと思うなど。
とはいえ、罪を覆い隠すのが優しさなわけでもない。
もし真実を隠し盲た幸福を渡すつもりならば、その後の全責任を負わねば収支が釣り合わない。
そこまでの責任を私は持てない。
私は嘆息した。
このまま此処に居ても空気が悪くなるだけだろう。
一旦戦略的撤退とすることにして、私は捨て台詞を吐いて撤退した。
「貴方の罪は存じ上げませんが、あなたがその知識を悪用しない限り、僕に敵意はありません」
「それでは」と言って背を向ける。
これ、風呂のこと覚えててくれてるかな二人とも……。
私はそれだけが気がかりでありつつ、部屋を後にしたのだった。
・灰原さん
自分の罪がぐるぐるしてる。
あいつらは外道だったけど、その非生産性を指摘して縮小させたのは自分だったけど。
でも、毒薬を開発してた自分はいったいどれほどあいつらと違っただろう。
薄っぺらなリストに死亡とだけ書いて、その向こうに人生があることを見ないふりしてたのに。
・阿笠博士
しょぼぼぼぼぼん。