時間を少し巻き戻そう。
クローンが魔法の奇跡に手を伸ばそうとしているその頃のこと。
給仕の姿をした女は地下のマリーナで小型船を不正利用し、船を脱出しようとしていた。
「そこまでだ!」という安室の声に、ぴくりと肩を揺らせる。
お世辞にも美しい女とは言えない女だった。
卑屈な顔をした若い女は、そのまま眉間に皺を寄せてキッと安室を睨んだ。
「何の話ですか」
「そこの船は乗客の使用は禁止されていますよ」
「はぁ?そっちに関係なくないですか」
「酒井卓と恋愛関係にあった方ですよね」
女は無言だった。
違うと否定するのは簡単なはずだが、おそらく否定したくなかったのだろう。
安室が女の企みを鼻で笑った。
「愚かなことをしましたね。あの男が考えているのは実験のことだけで、あなたとの関係についても何の感慨もないですよ」
「は。嘘。たっ君は私のこと愛してるもん。だから託してくれた」
「このままではあなたも死ぬのに、結婚も何もあるんですか」
「死なないし。あんたらなーんにもわかってないじゃん」
けらけらと笑って、女は大袈裟に膝を打った。
「私のためにたっ君は解毒薬を渡してくれたの。これを飲んでおけば安心だって」
「そんなわけないですけどね」
「あんたらとは違うの。私の邪魔しないで」
安室はため息をついた。
「これだから嫌いなんだ。話が通じない」とブツブツ文句を言っている。
コナンは「女は」じゃないだろうなとちょっと訝しみつつ、聞こえなかった体で思考を切り替えた。
「お姉さん聞いて!それは毒薬じゃない!危険な寄生虫が中に入ってるんだ」
「は、この子何言ってんの」
「解毒薬なんて存在しない!駆虫薬の効かない凶悪な寄生虫だ!みんな死んでしまう前に協力して!」
「ウケる。何もわからないんならお父さんと一緒に居ればぁ?」
コナンの言葉を全く無視し、女は船に乗り込んで走り出そうとした。
「じゃあな。あんたらは死ぬけど、私はたっ君と一緒になる。これでラブラブ生活のはじまりってわけ」
「酒井卓がお前を愛すと思っているのか。第一、酒井卓は現在留置所だ」
「そこで華麗に私が助け出せばたっ君もラブラブになるよ。何にも分かってねー奴らはここで死ん……ブホェア!?!?」
埒が明かない。
コナンは安室との会話に気を取られている隙にやや強めのサッカーボールをお見舞いした。
年頃の女性にあてる威力ではなかったが、強めにしないと起き上がってきそうで怖かったのだ。
安室が「よくやった。本当によくやった」と力強くコナンを誉めている。
素早く気絶した女を探れば、懐にあった「解毒薬」とやらは無事だった。
すでに飲んだ形跡があるが、全部は摂取しなかったようだ。
眉唾だが、灰原に調べてもらう分には十分だろう。
ひとまず中間報告がてら阿笠空に電話をかける。
女を捕まえたとて根本解決には程遠いが、彼を安心させる材料ぐらにはなるはずだ。
最終的に阿笠空がどこまでやれるかにかかってくるからこそ、彼の負担はなるべく減らしておきたい。
通話が繋がると、食い気味に空が問いかけてきた。
『そっちはどうです!?』
「女は確保した!解毒剤とやらを渡されていたが、一人分だ」
『正直怪しいですね。そんな都合のいいものがあるとは思えない。幼生の発育促進剤ならまだしも』
「ああ。それは安室さんも同じ意見だ。ひとまず確保したから……待て!生まれる!安室さん離れて!!!」
不意の異変にコナンが叫んだ。
気絶した女の頭がグシャリという生々しい音を立てて歪み、顔面を何かが突き破ろうとしている。
あまりに早すぎる。
まだ最大で2時間程度しか経っていないのに。
まさか本当に発育促進剤だったのか。
安室がギリギリで体を逸らすのと、「ソレ」が生まれ落ちるのはほぼ同時だった、
女の頭を食い破った「ソレ」はコナンに向かって跳躍した。
咄嗟にコナンも体を伏せる。
スマホを落とした拍子に通話が終了して、そのままマリーナの床を滑って壁にあたる。
「ソレ」はニタニタと不気味な笑顔を浮かべていた。
サイズは猫ほどだろうか。
頭部は人に似ている。
禿げた頭蓋に、乱杭歯の生えた巨大な口。
こぼれ落ちそうな眼球はぎょろぎょろと忙しなくあたりを見回している。
ずらりと生えた人の手はムカデのよう。
肌色の胴体にトカゲに似た尻尾が生え、ぴちぴちと跳ねている。
それはカクカクと首を回して嗤った。
『めし。メシ食う。退け下っ端。そのメシ食う』
「喋った、だと………?」
『腹減った。お前らも欲しい?特別にやる』
とことことこ、と化け物は女の死骸に寄っていった。
震えて距離をとった降谷さんの前に、喰い破った顔の一部を置いて化け物はうむうむと頷く。
『やる。滋養にいい。そこまで美味くはない』
「僕たちも、食うのか」
『なんで?死んだ仲間しか食わない。滋養にいい。でも美味くない。お前も健康になる。食うべし』
悍ましい化け物はもぞもぞ女の死体を食い出した。
顔もない、無惨に破壊された死体がゴト、と音を立てて小型船から引き摺り下ろされる。
コナンはたまらず叫んだ。
「その人は被疑者死亡で送検される予定だから、食べないでくれる?」
『??????お前、こいつの仲間?』
「ッ、………」
『仲間を食われる、悲しい。仕方ない。食わないでおく。他になんか美味いもんよこせ』
ソレは非常に穏やかに頷き、女を離したようだった。
見た目を裏切る非常に理知的な生き物だった。
人を食うが思いやりがあり、凶悪な生態だが話がわかる。
コナンはどうにも声のかけ方がわからず、その場に立ち尽くした。
化け物がふと目を見開いてバタバタと足をざわめかせた。
『女王の気配を感じる!女王!近くにいる!お前、お前、知ってる!?』
「じょ、女王……?」
「コナン君、多分空君のことを言っているんだ。彼は幼生の生みの親で、生物学的にメスなんだろう。彼の言葉が僕らの脳で人間の言語に翻訳されているとして、意訳としてはぴったりだ」
「!なるほど、そういうことか!」
まるで化け物が人語を喋っているように錯覚していたが。
本当は脳に棲みつく幼生の働きで化け物の言葉が翻訳されているに過ぎない。
「それなら知ってるよ。でも今空君は忙しいかも」
『残念。女王忙しいのに会ったらメイワク。われわれはとても偉いので待つ』
と、そのタイミングで入り口から声が下。
「な、何だその化け物は…女の死体もあるぞ!!」
最悪のタイミングにコナンは歯噛みした。
そこにいたのは八代延太郎、八代グループ会長の姿であった。
なぜこんなところに。どうして。
「ひ、人殺し!化け物が!何なんだそれは!?」
「落ち着いてください、ソレを刺激しないで!」
「ええいうるさい!まさかワシを殺そうというのではなかろうな!」
現場が混乱に包まれた瞬間、小型船の一隻、八代会長が手をかけたソレが光をはなった。
次いで衝撃。爆発。
激しい爆風がコナンを吹き飛ばす。
思いっきりコナンは壁に叩きつけられそうになったが、素早く滑り込んだ化け物がクッションになって無事だった。
『なに!?なに!?小さい下っ端怪我ないか!?』
「たすけて…くれたの?」
『われわれは偉いので当然。でもなんか破裂した怖い。がくぶる』
改めて化け物はブルブル振動し始めた。
時間をおいて怖くなったらしい。
至近距離で爆破された延太郎氏は即死だったようだ。
説明できない死体が二つに増えてしまった。
安室が「チッ……この忙しいタイミングに!」と舌打ちした。
「心当たりがあるの?」
「まあね。半月前に八代グループに関わる殺人事件があってね。マークしていた奴がいたんだが。どうも動き出したらしい。この船を爆破する気だとか」
「それは……まずいね」
コナンは同意した。
もしこの船が爆破されてしまえば、感染者が海に投げ出され魚を通じて感染爆発が起きてしまう。
そうなれば日本のみならず、世界が危機に瀕するだろう。
他ならぬこの化け物のような、頭蓋より生まれ落ちる凶悪なものによって。
猫ほどのサイズの化け物が、するんと安室のジャケットの中に入り込んだ。
『難しい話してる。わかりやすく言え。下っ端のくせに生意気』
「うーん、仲間が殺されそうって言ってわかる?」
『なるほど!!!大事件!!!お前ら責任重大!』
化け物は目を剥いて喚き出した。
意外と感情豊かな化け物だ。
「ともかく、船を爆破される前に犯人を押さえよう」
「だね。船の命運は、空君に懸かってるんだから。僕らはせめて補佐ぐらいはしないとね」
そうして。
その少しばかり後に、幼生への死の指令が下った。
当然化け物も死ぬことになったが。
化け物は女王直接の命令を聞けて、少しだけ誇らしげに穏やかに逝ったのであった。
小さな仲間の奮闘に敬意を表して、安室とコナンはその小さな死骸をそっと荼毘に付した。
・主任のコメント
彼女はね、知性のかけらもないところが気に入ってたんだ。
だって興味深いじゃないか。
それでいて意外と計算高い。うむ。怪物の雛形という奴だね。