西多摩市にある国立東京微生物研究所が襲撃された。
犯人は七人組の武装グループで、危険性の高い細菌を持って逃亡したという。
これはまさに「天空の難破船」の始まりである。
それは感染すれば致死率80%の細菌で、通称「殺人バクテリア」としてTVは騒ぎ立てていた。
怖い話だ。
犯人グループが去り際に爆破したから、もうもうと煙の立つ研究所の映像はセンセーショナルに取り上げられている。
専門家によれば爆発の威力は大きかったから細菌は燃え尽きたとのことだが。
それでも近隣住民の不安は大きいらしく、あらゆる専門機関が「大丈夫なのか」という問い合わせでパンク寸前らしい。
不安の声が個人医院である新出先生のところにまで入っていることからも、そのパニックが窺い知れた。
バイオテロということで、おそらく公安も今頃上を下への大騒ぎだろう。
本当は報道規制を敷きたかったのだろうが、赤いシャム猫の側からネットに情報を流しちゃったからな。
今日も朝からこのニュースで持ちきりで、私はテレビをぼんやりと見て口を開いた。
「僕の幼生とどっちが厄介ですかね。でも、幼生のほうが多分致死率高いし機能もたくさんある。上位互換に違いありませんね」
「殺人バクテリアと張り合わないの。ほら、紅茶持って来たわよ。カフェインレス」
灰原さんがため息をついて私の前にコップを置いた。
カフェインダメな生き物は多いから、念のため私もカフェインの類は避けている。
何回か間違って飲んだが平気だったので、気にしなくていいとは思うが。
氷入りの冷たいグラスがカランと私の前で揺れている。
ちなみに最近暑くなって来たが、蚊に対する対策はバッチリだ。
私の血液を吸った蚊は、当然幼生に感染する。
流石にそのまま放っておくわけにはいかないので、常に死亡命令を出しっぱなしにしているのだ。
蚊への感染だとすぐさま幼生は定着するので、蚊もろとも中の幼生には死んでもらうというわけだ。
万が一人間への感染が起きても、これなら感染数秒で命令に被曝するので宿主の命を守りながら幼生のみを殺すことができる。
デメリットは私が疲れることぐらい。
破格の安さだ。
私が四六時中大音量で叫び続けるだけで危険性を大幅に下げることができる。
私は頬杖をついて、だらんと机に寄りかかった。
「しかし、恐ろしいですね。子供に対して感染力が高いとか」
「こんなに早くに発症して死亡率が高いと、大規模パンデミックは起きにくいでしょうけど……大都市のど真ん中で放たれれば厄介なことになるわね」
私はうーんと眉を顰めた。
原作において、犯人グループは実際には細菌を盗まなかったようだが。
ここでもそうであるとは限らない。
もし細菌による被害が出れば、私にはどうしようもない。
「幼生、うまく治療薬として再利用できるといいのですが。幼生が僕の免疫系統を賄っていますし、例えば免疫疾患の人のために役立てられれば随分便利になります」
「そうね。貴方の免疫機構はかなり神秘的だわ。当初想定されたシャットダウンもほぼ無く、完全に健康体として機能している。医療の観点で見れば宝の山に等しい」
フッと笑って、灰原さんは私の頭を優しく撫でた。
そこには溢れんばかりの慈愛が宿っている。
「でも、そのために貴方が身を捧げる必要はないわ。研究病棟で監禁されかねないもの」
「それは辛いですね。はは、いよいよ命乞いするしか無くなった時にアピールポイントにさせていただきます」
「貴方は私たちが守る。そうはならないから安心しなさい」
穏やかな言葉の奥に、彼女の危ういまでの決意がドス黒く光を帯びる。
肉体が声を潜めて囁いた。
『彼女、僕達のために身を捧げる気ですよ。その命も、生涯すらも』
わかってる。
私は瞳を伏せた。
灰原さんには、罪を伴侶に一人朽ちていってほしくはない。
だが私が何を言ったところで通るものでもない。
長く穏やかな日々が彼女の心を解すのを、じっと待つしかないだろう。
ルパンのところへ逃げる時にはきちんと説明して、一人で私を庇って身を投げないよう注意せねばなるまいよ。
まったく、難しい限りである。
こんなにも忙しいのに、仕事が手につかない。
風見裕也は無意識に嘆息していた。
赤いシャム猫が起こそうとしているバイオテロの影響は甚大だった。
例えばラッシュ時の地下鉄で、満員のイベント会場で、ありとあらゆる雑踏で。
その小さな試験管の封を開けてぶちまけるだけで、彼らのテロは成り立つのだ。
それがどれほど防ぎ難いことか、風見は気が遠くなるような思いであった。
「………」
ぎし、と背もたれに体重を預ける。
未だ川品埠頭でのことは整理しきれていなかった。
薄暗いプレハブの名で、ぼうと幽鬼の如く佇む上司の姿が思い出される。
「あの子が、降谷さんのクローン……」
製造されて、まだ四年だという。
彼は四歳なのだ。
その体は遺伝子的にも外科的にもくちゃくちゃに弄られて、ほぼ人間としての原型を留めていない。
脳にはチップが埋め込まれ、たったの一言で彼は精神を弄ばれる。
非人道的もここまで来れば表彰ものだ。
あらゆる人権と倫理に喧嘩を売っていると言っていい。
兵器として運用されることが前提となった、人の敵たる危険な生態が彼である。
だがその精神は無垢で、植え付けられた記憶を元に純粋に善を尊ぶ心を育んでいた。
「…………はぁ」
どんなB級映画だこれは?
どのような結末になっても恨まない、と彼は言っていたが。
つまり彼は風見にこう言っていたのだ。
始末されても恨まない、と。
まだ四歳の子供が、分不相応な体と理性を与えられて自分の命を諦めている。
それが非道でないなら一体何が非道なのか。
「風見さん、どうしました?」
「……資料は完成したのか」
「はい!ばっちりです!風見さんはどうしたんです?なんかため息ついて」
公安部の新入りが風見を覗き込んで首を傾げている。
仕事は早いがややおっちょこちょいな男で、風見は彼の教育係であった。
「いや、なんでもない。それで、どうだった?」
「盗まれた細菌のデータまとめときましたよ。見れば見るほど怖いですね。飛沫感染で、発症したらほぼ助からない。絶対に我々の手で防がないと」
「…………ああ」
もっと怖い病を風見は知っている。
彼の生物兵器としての性能は、風見の想像の埒外だった。
感染すれば治療法は存在せず、頭蓋を破り開かれて死亡する。
そうして出て来た怪物は人を喰らい、殺し、人の声を真似て獲物を狩る。
経口感染、血液感染で増え、それは群れをなして人々を脅かすことだろう。
絶対に我々の手で防がなければならない。
生かしてはおけない生物である。
まるで迷子のような、上司の揺れる瞳を思い出す。
「お前はどうしたらいいと思う、風見」と。
そのように問いかけていた。
追い詰められて何も考えられなくなって、もしかしたら上司も困り果てていたのかもしれない。
でもだからって、上司ほど頭の良くない風見ではできることなんて限られる。
カラカラの口でなんと答えたんだったか。
「でき、るだけ、情報を集めましょう。彼の危険性が低いと分かれば、彼の管理が容易にできると分かれば、ともすれば別の選択肢が取れるかもしれません」
そんなふうに、当たり障りない逃避を口にしたはずだ。
上司の無機質な瞳が翳り、平坦な言葉が出た。
「ああ、そうだな」と。
調べれば調べるほどに殺すしか道がないと、思い知るしかないのだと、言葉にせずに語っていた。
阿笠宙は警察官に憧れていると言っていたっけか。
彼は上司の記憶が一部あるのだという。
降谷零は正義感のある人間だ。
ならばその記憶を垣間見て、幼い心がその正義に憧れるのは自然な形だ。
あの短い邂逅の間、彼は風見を労っていた。
どこまで理解して労っていたのかは、定かではない。
上司の記憶があるということは、自分のことも知っていたのかもしれない。
知った上で、他人の記憶が植え付けられているだけに過ぎないと知らないふりをするしかなかったのかもしれない。
全て、単なる想像だ。
風見は立ち上がって息をついた。
「コーヒー買ってくる。お前はシャム猫の過去の動向を報告できるよう準備しておいてくれ、会議は30分後だ」
「了解しました!」
立ち上がると、ふらりとめまいのようなものを覚えた。寝不足かもしれない。
上司は明らかに追い詰められていた。
自分の似姿を始末しなくてはならない状況に、公安にすら隠しながらただ答えの出ない問いに向き合わねばならなかったからだ。
なら、多忙な上司の初めてのSOSに応えたい。
あの子をなんとか生かす道を探るべきだ。
そのように気合を入れて、パチンと頬を両手で打った。
それがいかに困難か。
恐ろしいほどに優秀な降谷零という男が立ち尽くすほどの難問だと理解した上で、風見は拳を握りしめた。
・幼生
感染したら治療法は一つだけ。
「休眠しろ」あるいは「死ね」と感染から1時間以内にクイーンに命令してもらうことだけ。
そうしなければ、数時間で頭蓋割って手足が出てくる。
手足の顔は宿主似になる。
遺伝子情報の補完のため、優先的に宿主の死体とその血族を狙う。
・風見さん
なぜ調べれば調べるほど始末しなければならない理由が増えるのか(白目)