人は、自らより優れたものを前にした時、しばしばそれを才能と呼ぶ。
それは便利な言葉であった。生まれつき、天賦、神の贈り物。そう名づけてしまえば、そこに至るまでの過程を問わずに済む。どれほどの時間を費やしたのか。どれほどの退屈に耐えたのか。どれほどの痛みに慣れ、どれほどの孤独を日常の一部として処理したのか。そうしたものを、才能という一語は、実に容易く覆い隠す。
ジェンティルドンナは、確かに才能あるウマ娘であった。
骨格、筋肉、心肺機能、踏み込みの強度、姿勢制御、瞬間的な加速における反応速度。いずれを取っても、彼女は同世代の水準を明瞭に超えていた。ひとつひとつを分析すれば、競走に必要な要素がことごとく高い水準で揃っている。総合力という言葉が、むしろ貧弱に聞こえるほどであった。
しかし、それをもって彼女をただの天才と呼ぶならば、それはあまりにも観察が粗い。
彼女の強さは、与えられたものだけで成立しているわけではなかった。
朝、目覚める時刻は決まっている。
摂取する食事の量、栄養、順番もほとんど狂わない。
筋肉に刺激を入れる時間、走り込みの量、休息の取り方、ストレッチの角度、身体に残る違和感の確認。
すべてが、彼女の中では秩序立てられていた。
他者から見れば、それは禁欲的で、いささか常軌を逸した生活に映ることもある。だがジェンティルドンナにとって、それは特段に苦しいものではなかった。必要なことを必要なだけ積み上げる。勝利に不要な不確定要素を削ぎ落とす。肉体を精緻に鍛え、精神を鈍らせず、勝つための準備を怠らない。
それは彼女にとって、礼節に近かった。
強き者は、強くあるべきである。
勝つ者は、勝つに足るだけの準備をしているべきである。
そうでなければ、敗れた者に対しても失礼であろう。
ただし、彼女にはひとつだけ欠けているものがあった。
切磋琢磨である。
周囲に相手がいなかった、という言い方は単純に過ぎるかもしれない。彼女とて競走をしてこなかったわけではない。模擬レースも、併走も、課題練習も、必要な経験は積んでいる。走れば相手はいた。隣には誰かがいた。後方にも前方にも、脚音はあった。
けれど、それは彼女の内側を揺さぶるものではなかった。
他者に負けたくない。
誰かに追いつきたい。
あの背を越えたい。
抜かれたくない。
もう一度並びたい。
そうした感情が、彼女の根を深く張らせることはなかった。
彼女の成長は、他者との摩擦ではなく、自分の肉体との対話によって行われてきた。昨日の己を今日の己が上回る。設定した負荷を達成し、より高い負荷へ移る。身体が応じれば前へ進み、応じなければ原因を探る。
そこに情熱がなかったわけではない。
むしろ、情熱はあった。
ただ、それは熱狂ではなかった。
静かに燃える炉のようなものだった。高温で、安定しており、近づく者を容易く寄せつけない。彼女の強さは、そういう種類のものだった。
トレセン学園においても、ジェンティルドンナという名は、早くから一種の重みを持っていた。
廊下を歩けば視線を集める。
トレーニング場に姿を見せれば、会話の音量がわずかに落ちる。
彼女が準備運動を始めれば、同じグラウンドにいる者たちの動きまでどこか硬くなる。
恐れられている、というのとは少し違う。
見る者の多くは、彼女に憧れ、期待し、同時に距離を置いた。あまりに整ったもの、あまりに完成度の高いものに対して、人は容易に近づけない。美術館の彫像に話しかける者がいないように、あるいは、よく研がれた刃物を無造作には握らないように。
彼女は、それを当然のこととして受け入れていた。
人には、それぞれ相応の距離がある。
近づくに足る者は近づけばよい。
そうでない者は、遠くから見ていればよい。
残酷なほど自然に、彼女はそう考えていた。
その日の午前、彼女は第三トラックで短めの追い切りを終えたところであった。
空は薄く晴れていた。雲は高く、風は乾いている。芝は朝露を失い始め、踏み込めばわずかに反発が返る。走るには悪くない。むしろ良い。だが、良いからといって必要以上に走る理由はなかった。
ジェンティルドンナは息を整えながら、手袋を外した。呼吸の乱れは少ない。脚に残る張りも想定の範囲内。左後肢の踏み込みに、ごくわずかな重さがある。負荷の入り方を考えれば異常ではないが、午後の補強運動では注意が必要だろう。
彼女は、そう判断する。
「今日もすごかったねえ」
のんびりとした声が、脇から投げられた。
ジェンティルドンナは視線だけを向ける。
そこにいたのは、彼女の担当トレーナーであった。
背丈は平均的。姿勢も、特段に威圧感があるわけではない。顔つきには緊張の色が残りやすく、黙って立っていればいささか頼りなく見えることすらあった。学園のトレーナーには、熱血漢もいれば、理論家もいれば、勝負師然とした者もいる。そうした分類で言えば、彼はどこにも収まりが悪かった。
ただ、目だけは妙だった。
鈍くはない。
むしろ、よく見ている。
しかし、その見方が少しずれている。
タイムを見る。フォームを見る。身体の使い方を見る。そこまでは普通である。ところが彼は、そこからさらに、本人すらまだ言葉にしていない何かまで覗き込もうとするところがあった。
それが不快かと問われれば、必ずしもそうではない。
ただし、苛立たしい。
ジェンティルドンナはタオルで首筋を押さえながら言った。
「感想がそれだけでしたら、ずいぶんと安いお仕事ですこと」
「いやあ、安くはないんだよ。僕はこれでも、けっこう真面目に見ているつもりなんだけど」
「でしたら、真面目な言葉をお使いになったらいかが?」
「たとえば?」
「ラップ、脚色、接地、心肺、筋疲労。見るべきものはいくらでもありますわ」
「うん。どれも良かった」
「……」
「特に最後の二ハロン、まだ余裕があったね。あれ以上伸ばせるかどうかを試す段階ではないけど、君が加速したいと思えば加速できる状態だった。左後肢は、ほんの少しだけ重そうだったかな。午後に確認しよう」
ジェンティルドンナは、わずかに眉を動かした。
見えてはいる。
やはり、この男はただの愚鈍ではない。だが、その観察の精度に反して、普段の言葉があまりにも締まらない。そこが彼女には不可解であった。
「見えているのでしたら、最初からそうおっしゃればよろしいのに」
「それはそうなんだけどね」
トレーナーは手元の記録用紙を軽く叩いた。
「でも、数字の話は後でもできるから」
「では、今するべき話とは?」
「味の話かな」
風が、少し止まったように感じられた。
もちろん実際に止まったわけではない。周囲では他のウマ娘たちが練習を続けている。蹄鉄が地面を叩く音も、指導の声も、遠くの笑い声もあった。ただ、ジェンティルドンナの意識から、それらが一瞬だけ遠のいたのである。
「味」
「うん」
「わたくしの走りについて、味覚の話をなさっているの?」
「走りというより、レースの話かな」
ジェンティルドンナは、タオルを畳む手を止めた。
その沈黙をどう受け取ったのか、トレーナーは少し困ったように笑う。
「変なことを言っている自覚はあるよ」
「自覚があるのなら、改善なさいませ」
「でも大事なことなんだ」
彼の声は、軽いままであった。
けれど、その奥に奇妙な硬さがあった。冗談で済ませるつもりのない者の声である。
「君は、勝つために必要なことをよく知っている。身体も強い。鍛え方も間違っていない。自分を律する力もある。たぶん、同世代の中でもかなり早い段階で、勝利に必要な輪郭を掴んでいる」
「当然ですわ」
「そうだね。当然と言えるところが、君のすごいところだと思う」
トレーナーはそこで一度、トラックの方を見た。
数人のウマ娘が、軽めの併走に入っている。先頭の子は、まだフォームが乱れやすい。二番手の子は、相手に合わせすぎている。三番手の子は、少し怖がって外へ逃げた。
ジェンティルドンナも同じものを見た。
練習としては悪くない。だが、勝負にはならない。
「けれど、レースは勝利だけでは形作れない」
トレーナーが言った。
ジェンティルドンナは、今度こそ正面から彼を見た。
「勝利だけでは、ない?」
「うん」
「レースにおいて、勝利以外に何が必要だと?」
「必要、というと少し違うかな。勝つために必ずしも必要ではないものもある。だけど、それがなければ、レースに惹きつけられる理由がわからない」
「惹きつけられる理由?」
「ウマ娘は、どうして走るんだろう」
問いは、あまりにも素朴であった。
だからこそ、ジェンティルドンナは即答しかけて、ほんのわずかに言葉を止めた。
勝つため。
強さを証明するため。
己の価値を示すため。
いくらでも答えはある。
だが、トレーナーの問いは、どうもそういう答えを求めていないようであった。
「ずいぶんと抽象的なお話ですのね」
「抽象的に聞こえるかもしれない。でも、かなり具体的な話だよ。たとえば、ゲートに入る前の匂い。歓声が身体に当たる感じ。隣に並んだ子の呼吸。残り二百で前が開いた時の、一瞬だけ世界が広がる感じ」
彼は淡々と続けた。
「差された時の痛み。届かなかった時の悔しさ。届くかもしれないと思った時の怖さ。勝った時、身体の奥で何かが弾ける感じ。負けたのに、もう一度走りたいと思ってしまう不思議さ」
「……」
「そういうものを、僕は便宜上、味と呼んでいる」
ジェンティルドンナは、ゆっくりと息を吐いた。
なるほど、奇妙な男である。
レースをそのように語る者がいること自体は知っている。夢、憧れ、歓声、感動。そうした言葉は、学園の至るところに満ちていた。ポスターにも、映像にも、入学案内にも、先輩たちの言葉にもある。
だが、それらは彼女にとって、装飾に近かった。
勝負の本質を彩るための布。あるいは、観客が好んで消費する物語。もちろん、それを否定するつもりはない。観客が夢を見るのも、周囲が感動を語るのも、レース文化の一部であろう。
しかし、走る側の本質は別にある。
勝つか。
負けるか。
少なくとも、ジェンティルドンナはそう考えていた。
「トレーナーさん」
「うん」
「あなたのおっしゃることは、観客席の言葉ですわ」
トレーナーは、少しだけ目を瞬かせた。
「観客席?」
「ええ。歓声、匂い、夢、悔しさ、感動。いかにも観客がお好きそうな言葉ですこと。けれど、ターフに立つ者に必要なのは、そのような甘やかな感傷ではありません。求められるのは、勝利です」
「勝利は大事だ」
「大事なのではありません。勝利こそが結果ですわ」
「うん」
「結果のない走りに、意味はありません」
そう言い切る彼女の声音には、迷いがなかった。
冷淡というより、清潔であった。
余分なものを削ぎ落とした考え方は、ともすれば残酷なほど澄んでいる。彼女は誰かを貶めるために言っているのではない。敗者を嘲笑するためでもない。ただ、勝負における最終的な基準を述べているだけである。
トレーナーは否定しなかった。
「そうだね。レースは順位が出る。勝者と敗者が生まれる。それはごまかせない」
「でしたら」
「でも、意味は結果だけで決まるのかな」
ジェンティルドンナの目が細くなる。
「負け惜しみを肯定なさるの?」
「負け惜しみも、時には大事かもしれないよ」
「まあ」
彼女は微笑んだ。
笑みだけを見れば優雅であったが、そこに含まれる温度は低い。
「敗者の弁を大事になさるトレーナーですのね」
「敗者の弁を聞けない勝者は、案外もろいものだよ」
「わたくしがもろいと?」
「今はまだ、わからない」
その返答は、彼女の予想よりも率直だった。
媚びるでもない。挑発するでもない。彼は本当に、まだわからないものとして彼女を見ていた。
ジェンティルドンナは、その態度が気に入らなかった。
多くの者は、彼女を見る時、すでに評価を終えている。強い。恐ろしい。美しい。完成されている。勝つだろう。頂点に立つだろう。そういう視線には慣れていたし、それが自分に向けられることも当然だと思っていた。
だが、この男は違う。
彼女の強さを認めている。能力も見えている。勝つ可能性も理解している。にもかかわらず、まだ何かを保留している。
まるで、ジェンティルドンナというウマ娘が、まだ開封されていない箱であるかのように。
「失礼な方」
「よく言われる」
「でしょうね」
「ただ、君はたぶん、まだレースを味わっていない」
その言葉に、彼女の指先がわずかに動いた。
「わたくしは、すでに何度も走っていますわ」
「うん。走っている」
「勝っています」
「勝っている」
「では、それ以上に何が?」
「味わうこと」
同じ言葉を繰り返され、ジェンティルドンナはしばらく黙った。
怒るほどではない。
だが、聞き流すには不快である。
この男は、彼女の勝利を否定しているわけではない。だからこそ厄介だった。単なる侮辱であれば、切り捨てれば済む。無能の戯言であれば、無視すればよい。
しかし、彼は見えている。
だから、彼の奇妙な言葉は、完全な無価値として処理しきれない。
ジェンティルドンナは視線を外し、遠くのトラックを見た。
併走していたウマ娘たちは、最後の直線に入っていた。先頭の子のフォームが乱れる。二番手の子が並びかける。三番手の子は、やはり外へ逃げた。それでも、最後の数十メートルだけ、三人の表情が変わった。
苦しげで、必死で、どこか愚直である。
勝敗は明らかだった。
先頭の子がわずかに粘り、二番手は届かない。三番手は遅れる。
ただの練習である。
大したタイムでもない。
評価すべき点はあるが、取り立てて騒ぐほどではない。
それなのに、走り終えた三人は、しばらく笑っていた。
肩で息をしながら、何かを言い合っている。悔しがる者がいる。悔しがりながら、なぜか楽しそうでもある。先頭で入った子は胸を張り、二番手の子は次は負けないとでも言ったのか、拳を突き出した。
ジェンティルドンナには、その光景が少し遠く見えた。
「……ああいうものを、味と?」
「その一部だね」
「ずいぶんと安い味ですこと」
「安いものほど、忘れられないこともある」
「庶民的なご趣味ですわね」
「否定はしないよ」
トレーナーは笑った。
ジェンティルドンナは、その笑みを横目で見る。
彼は彼女を恐れていない。少なくとも、恐れを理由に言葉を曲げてはいない。そこは評価してよかった。だが、それと彼の理屈を受け入れるかどうかは別である。
「仮に、あなたのおっしゃる“味”とやらが存在するとしましょう」
「うん」
「それは勝利に寄与するものですの?」
「場合による」
「曖昧ですわね」
「曖昧なものだからね」
「勝負に曖昧なものを持ち込むのは、危険です」
「でも、勝負は曖昧なものだらけだよ」
トレーナーは記録用紙を閉じた。
「体調、天候、馬場、展開、相手の仕掛け、観客の熱、本人の気持ち。どれだけ準備しても、レース当日には必ず揺らぎがある。数字で扱えるものもあれば、扱えないものもある」
「その揺らぎを、準備によって減らすのでしょう」
「そう。君はそれがとても上手い」
「当然です」
「でも、減らしきれない揺らぎと出会った時、どうするか。そこには、味を知っているかどうかが関わると思う」
ジェンティルドンナは、彼の言葉を反芻した。
揺らぎ。
減らしきれないもの。
彼女はそれを好まなかった。
不確定要素は、勝利を濁らせる。ならば削るべきである。己の肉体を律し、準備を整え、想定を積み重ねることで、可能な限り偶然の入り込む余地を狭める。
それが勝つということではないのか。
しかし、トレーナーは言うのだ。
削りきれないものがある、と。
そして、それを扱うには、勝利とは別の感覚が要るのだと。
「あなたは」
彼女は静かに言った。
「わたくしが、いつかその揺らぎに足を取られるとお考えなのね」
「可能性はある」
「随分とはっきりおっしゃいますのね」
「君に曖昧な慰めを言っても、あまり意味がなさそうだから」
「賢明ですこと」
ジェンティルドンナは、手袋を片方ずつ整えた。
それから、トレーナーに向き直る。
「では、あなたはわたくしに何をさせたいのです」
「走ってほしい」
「走っていますわ」
「もっと大きな場所で」
トレーナーはそう言い、手元の資料を一枚取り出した。
そこに記されていた文字を見て、ジェンティルドンナは目を細める。
桜花賞。
春の仁川。
クラシック三冠路線、その最初の一冠。
同世代のウマ娘たちが集い、初めてそれぞれの才覚と覚悟を大観衆の前に晒す舞台。
GⅠ。
ジェンティルドンナにとって、初めて挑む大舞台であった。
「桜花賞に出る」
トレーナーは言った。
「そこで君に、レースの味を知ってほしい」
ジェンティルドンナは、しばらく資料を見つめていた。
出走そのものに異論はない。
彼女の能力を考えれば、当然向かうべき舞台である。
だが、トレーナーの言い方が気に入らなかった。
「桜花賞は、わたくしが勝つための舞台ですわ」
「うん」
「味見の場ではありません」
「勝つために走ればいい」
「当然です」
「その上で、味わってほしい」
彼の声音は、相変わらず穏やかだった。
しかし、そこには先ほどより明確な意志があった。
「GⅠは違うよ。練習とも、条件戦とも、重賞とも違う。あそこには、たくさんのものが集まる。勝ちたい子だけじゃない。届きたい子、証明したい子、忘れられない子、奪い返したい子、初めて夢を見る子。そういうものが全部、百秒にも満たない時間に押し込まれる」
「詩人ですの?」
「違うと思う」
「では、もう少し実務的にお話しなさい」
「実務的に言うなら、桜花賞は君に必要だ。能力を示すためだけじゃない。君がこれから先、もっと大きなものと戦うために」
「同世代相手の一冠が、わたくしに何を教えると?」
「君以外のウマ娘も、本気で勝ちに来るということ」
ジェンティルドンナの表情から、わずかに笑みが消えた。
「そんなこと、知っていますわ」
「知識としてはね」
「……」
「でも、身体で知るのはたぶん初めてになる」
彼は資料を畳んだ。
「君は強い。だから、相手の本気を相手の本気として受け取る前に、勝ててしまうことがある。走れば届く。押せば退く。伸びれば離れる。そういう経験が、君を作ってきた」
「それの何が悪いのです」
「悪くない。強さだよ」
「でしたら」
「でも、桜花賞では、相手も退かない」
その言葉は、不思議と静かに響いた。
遠くのトラックで、誰かがスタート練習をしている。ゲートの音。踏み出す音。指導の声。
ジェンティルドンナは、それらを聞きながら、彼の次の言葉を待った。
「君と同じように、勝利を望む子がいる。君とは違う理由で、どうしても勝ちたい子がいる。能力では劣っていても、レースの中で変わる子がいる。勝負の百秒に、自分のすべてを置いてくる子がいる」
「精神論ですわね」
「精神論だけじゃ勝てない」
「その通りです」
「でも、精神を置いてきた子には、数字だけでは測れない瞬間がある」
ジェンティルドンナは、無言で彼を見た。
この男はまた、曖昧なことを言う。
だが、完全に切り捨てるには、言葉の芯が妙に硬い。
「君には、その瞬間を知ってほしい」
「そして、負けろと?」
「勝ってほしい」
即答であった。
ジェンティルドンナは、少しだけ目を見開く。
「そこは揺らぎませんのね」
「揺らがないよ。担当だからね」
「あなたの担当論は、なかなか都合がよろしいのね」
「かもしれない」
「わたくしにレースの味を知れと言いながら、勝てとも言う」
「うん」
「欲張りですこと」
「君ならできると思っている」
その言葉は、称賛というよりも、信頼に近かった。
ジェンティルドンナは、それを好ましいとも、不愉快とも決めかねた。
期待されることには慣れている。勝つだろうと言われることも、頂点に立つだろうと言われることも、彼女にとっては珍しくない。だが、この男の期待は少し違う。
勝つことだけを期待しているのではない。
勝ちながら、何かを知ることを期待している。
まことに面倒な期待である。
「よろしいですわ」
ジェンティルドンナは言った。
「桜花賞、出て差し上げます」
「うん」
「ただし、勘違いなさらないことです。わたくしは味見をしに行くのではありません。勝ちに行くのです」
「もちろん」
「そして勝った後、あなたのおっしゃる“味”とやらがどこにあったのか、きっちり説明していただきます」
「説明できるかなあ」
「できないものをわたくしに求めたのですか?」
「いや、努力するよ」
「努力では足りません。達成なさい」
「達成します」
「よろしい」
ジェンティルドンナは踵を返した。
その背筋は真っ直ぐで、歩幅に迷いはなかった。夕暮れの光を受けた彼女の姿は、やはりよく磨かれた彫像のように美しかった。強く、硬く、完成されている。
けれど、その歩みにほんのわずかな変化があったことに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
彼女は、初めて勝利以外のものを意識しながら、勝利の舞台へ向かおうとしていた。
好奇心と呼ぶには高慢であった。
不安と呼ぶには、あまりに強かった。
期待と呼ぶには、まだ冷たすぎた。
だが確かに、何かが始まっていた。
ジェンティルドンナという強すぎるウマ娘が、レースを屈服させるだけではなく、レースそのものを知ろうとする物語。
その最初の舞台は、桜の名を冠するGⅠである。
まだ彼女は知らない。
百秒にも満たない時間の中に、どれほど濃密な熱が詰め込まれているのか。
自分以外のウマ娘たちが、どれほどの感情を脚に乗せてくるのか。
勝ってなお、胸の内に何かが残る日が来ることを。
二着のウマ娘の走りに、どうしようもなく目を奪われる日が来ることを。
触れたいものを、自分の強さで壊してしまうかもしれないと怯える日が来ることを。
まだ、何も知らない。
だからこそ、彼女は行く。
味わうために。
聴くために。
見つけるために。
そしていつか、夢を見るために。
桜花賞。
それはジェンティルドンナにとって、初めてのGⅠであった。
そして、彼女が初めてレースの味を知るための、最初の食卓であった。